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公私混同シリーズ

溺愛宰相様の公私混同が止まりません!

作者: ちーた
掲載日:2026/06/09


「君のために、王都の石畳改修を三ヵ年計画で提出済みだ」

「……昨日、私が腰が痛いと言っただけですよね?」


これは、宰相補佐官であるソフィ・アルノーが、冷酷宰相エリオット・グランディエの公私混同を止める物語である。



======



「宰相様、こちらの臨時予算の稟議書ですが、何かご存知でしょうか。」


 宰相補佐官であるソフィ・アルノーは、環境課の課長が執務室に持ってきた、見知らぬ計画の稟議書――王都内主要道路石畳改修 三ヵ年計画 特別予算申請書。添付資料含めて計二十七枚。臨時の書類とは思えない程、体裁が整った書類を、宰相に渡した。


「ああ、王都内の石畳改修のものだろ。環境課は仕事が早いな。不備はないだろうか。特になければ、明日の会議で承認を得る。」


「仕事が早いな、ではありません。この計画はどこから来たのでしょうか。早すぎて、私の方では把握しておりませんが。」


「これは、昨日私の方から環境課の方に相談をして、馬車交通の多い主要道路の石畳を敷き直す計画の立案と見積もりをお願いしておいた。」


 彼は話しながらも、書類をめくり、目を通していく。私も目を通したが、見積の数字は細かいし、運送ギルドからの要望書も添付されており、不足のない内容で、昨日今日で作ったということが信じられない出来である。


「確かに石畳の老朽化が進んでおり、高低差や欠陥部による怪我や事故が起きているので、改修するのはよい考えだと思います。ですが、どうして臨時予算申請なのでしょうか。このような計画はまず事前調査を十全に行い、工程や工期を最適化させるべきですが。」


「だが、そうなると改修の開始が早くても1年後になり、君の腰が悪化するではないか。」


「……」


 宰相横の書記官のかみ殺した笑い声が執務室に響く。


 一瞬、聞き捨てならない箇所があった。そして、稟議書を持ってきた、環境課課長の方をひとにらみする。表情を変えず、思いっきり目を逸らされる。やってるな。


 かねてから要望の多かった石畳改修を、ここぞとばかりに徹夜で予算案と施工工程表をあげてきたのだろう。そして、この課長は稟議を通すために、私に助け舟を出すようなことはしない。


 しょうがないので、横の書記官をにらみつけたら、また下を向いて笑い始めた。


「運送ギルドの方にも、馬車のスプリングの改良の通達と開発費補助金の申請書を渡したが、こちらは時間がかかりそうだ……。」


 そんな無言の応酬を無視して、この宰相様が言葉を続ける。スプリングの改良…、そういうことではない。大きなため息をひとつつき、目の前の上司をにらみつけた。


「宰相様。」


「なんだい。」


「あなたは、私的な理由で、王都の石畳を修繕しようというのでしょうか。」


「私的な理由って。君のためではないか、ソフィ。」


「エリオット様。つまり、あなた様は、私のために臨時の国家予算を申請するというのでしょうか。」


「でも、馬車による腰痛に悩んでいるのは、君だけでは……。」


「でも、臨時なのは、私のためですよね。」


「その点に関しては、そうだね。」


 この宰相様は悪気もなく認めた。この反省ゼロの常習犯め。昨日、腰が痛いと呟いただけで、なぜ翌日には国家規模の公共事業計画書が出来上がっているのだろう。 しかも恐ろしいことに、内容自体は極めてまともで、物流効率や事故率低下の観点からも有益だった。 だからこそ、(たち)が悪い。

「却下です。」


「え。あくまできっかけは君だけど、これは公共の福祉に……。」


「そうですね。立派な公共事業です。だから、来年度の予算会議に間に合うように、通常の手順を踏んで、進めさせて頂きます。」


「せめて、王城の門から出た大通りだけでも。」


「必要ありません。」


「じゃあ、君の腰痛は。」


「もしこのようなことをするのであれば、国家施策と私個人の健康問題の癒着案件として、調査部に監査の依頼を回しますが――。」


「相変わらず、手厳しいね。わかった。」


「承知して頂けたなら、幸いです。」


 私は、ほっと胸をなで下ろした。宰相の手元から稟議書を回収し、環境課課長に戻し、退出を促す。

 王国貴族たちから「冷酷宰相」と恐れられる、エリオット・グランディエは、この国随一の実務家である。彼が厄介なのは、私情で始めた案件であっても、最終的にはきちんと国家利益へ着地させてしまうところだ。だからこそ、周囲は止めないし、あまつさえ便乗しようとする。もちろん、本人は一切反省していない。


「代わりに、何か出来ることはないだろうか。湿布薬の開発や腰痛防止の座席開発なんかも検討したのだけれども。」


「お気持ち、大変有り難いのですが、全て私個人には必要ありません。」


「え……。」


 表情は大して変わっていないが、明らかにしょんぼりとしている。可哀そうな気がして、妥協案を出してみる。


「そんなに心配してくださるのならば、アガタにマッサージをしてもらうために、いつもより早めに退勤することをお許し下さい。」


「もちろん。では、今から早馬で…。」


「エリオット様、もう一つお願いがあります。もう私のために動かないで下さい。」


 何か言っている宰相をガン無視して、思いっきり踵を返し、自分の机に戻った。書記官のクスクス声が背後から聞こえた。



======



 予告通り、いつもより1時間早く退勤し、アガタからマッサージを受け、腰の痛みが和らいだところで、旦那様が帰宅した。時刻はすでに深夜に近い。


「今帰ったよ、ソフィ。」


 足音から、すごい速さでこちらに向かっていることが分かる。私も身だしなみを確認した後、廊下に出て、旦那様を迎えに向かった。


「あ、ソフィ。ただいま。今、帰ったよ。会いたかった。」


 思いっきり、抱き寄せられ、頬に口づけを落とされる。


「おかえりなさいませ、エリオット様。先に帰らせて頂き、ありがとうございました。」


「硬すぎる!」


「おかげで、腰の調子がよくなりました。」


 ソフィ・アルノーは、宰相エリオットの補佐官でもあり、婚約者でもある。いつもならば、そろってこの時間に帰宅するところを、ひと足先に出てきた、というだけである。


 執務室では、仕事中ということで、基本的には触れあうこともなく、淡白に接しているが、自宅ではそういうわけではない。


 エリオットは、日中の反動なのか、愛情を表現することを躊躇わない。かくいう私も、家の中では、基本的にその愛情を受け止めるようにしている。表現の仕方に差はあれど、私だって、自分なりにエリオット様に好意を抱いているのだ。


 長めの抱擁が終わり、各自の寝室に入り、就寝準備が済むと、ここから就寝前の読書時間。


 私が自室のソファで横たわりながら本を読んでいると、ノックが聞こえ、ガウンに着替えたエリオットがそっと入ってくる。そして、無言のままこちらを足を向けて横たわり、手にしていた本を開いた。


 ほとんどのものが寝静まる真夜中、私たちは半刻ほど読書を楽しんだ。ソファ脇のランプが、私たち二人を包むように淡く照らしている。ページをめくる音だけが、ゆっくりと夜の中へ溶けていった。


 こうして同じ場所で、それぞれ本を読む。ただそれだけの時間だが、すり減った何かが埋められていく気がした。


 時間になると、お決まりの言葉がささやかれる。


「今日はこちらに来ないかい。」


 そして、私は毎日同じように返事をする。


「明日がありますから。」


「わかった。おやすみなさい。また明日。」


 軽い口づけを交わし、彼は二つの寝室を隔てる扉から、名残惜しそうに出ていった。


「冷酷宰相」にあくびをさせるわけにはいかない。私は、もう一度小さな声で「おやすみなさい」といって、眠りについた。



======


 

「早速、本題に入る。今年をもって、カレード領の水害被害支援金を打ち切る。」


「どうして…。支援金はあと2年頂けるはずでは。」


 エリオットの前に、座っていた中年のカレード伯爵が、焦って立ち上がる。彼の領地は3年前、大きな洪水で5つの村が流されていた。寝耳に水なのか、動揺の色が隠せていない。


「確かに、そうだったな。」


「被害にあった村々の復興はまだ完了しておりません。荒れた田畑の回復にはまだ年月がかかります。どうかもう一度、再考して頂けないでしょうか。」


「断る。」


「理由は…。」


「心当たりはないのか。誠に残念だ、カレード伯。詳しい説明はアルノーから受けるように。」


 エリオットの前で、固まっているカレード伯の肩を叩き、執務室の隅にある、応接スペースへの移動を促した。エリオットは、もう次の書類を取り出し、目を通し始めている。


 私にとっては、1日に何回か行われるこの流れだが、目の前のカレード伯にとっては、衝撃的だったようだ。落ち着いてもらうために、お茶出しをお願いする。


「落ち着きましたか。」


「お願いだ。この支援金は我々に…。」


「それでは、説明に入らせて頂きます。こちらの資料をご覧ください。」


 水害後のカレード領のデータと監査部からの調査報告の概要を手渡す。


「ほら、見てみろ。収穫量は増加しているが、水害前と比べれば、まだ6割程度だ。復興は完了していない。」


 カレード伯が、収穫量の書かれた紙を叩きながら、こちらに訴えかけてくる。


「確かに、元の収穫量まで回復するためには、あと2年はかかると予想されます。」


 私の言葉に満足したのか、鬼の首を取ったかのような顔でこちらに鼻を鳴らし、部屋の奥の宰相の方に視線を向ける。しかし、エリオットが顔を上げることはなかった。


「しかし、こちらをご覧下さい。オークションの売り上げがここ数年急速に伸びています。さらに、鉱山の新規発掘も始まりましたね。素晴らしいことです。税収も増加しているのではないでしょうか。」


 カレード伯の顔色がだんだん悪くなっていく。さっきまで、挑戦的にこちらを睨んでいた彼の視線は、今は部屋の隅をなぞっていた。


「支援にも様々な形がありますので、こちらから用途は措定しておりません。なので、そちらの領地での使用方法を咎めることはありません。」


 カレード伯がこちらを見た。なんとも情けない顔をしている。


 特筆することがないこの男が横領していないことは、調査部の報告に上がっている。しかし、その先である程度まとまった額が抜かれており、個人の懐と新規事業の元手として使用されていたことが判明している。税収を管理し、鉱山開発の認可を出している以上、それを伯爵が全く知らないというのは、無理な話である。ただ、農村の復興は計画通りに進んでいるからと、目をつぶっていたのだろう。


「残りの復興は、領地内の資金で事足りるはずなので、こちらからの支援金は打ち切らせて頂きます。引き続き、効率的な領地運営をお願い致します。それでは、お帰りはこちらからどうぞ。」


 そういって、後ろに控えていた近衛兵に誘導を促した。


「そろそろお昼ですが、どうしましょうか、宰相様。」


 私は、部屋の奥に呼びかけた。


「宰相様。」


 隣の書記官が、エリオットに呼びかける。


「すまない。では、昼食としよう。再開は30分後だ。」



======



 午後の就業中に、予定のない来訪があった。騎士団付きの文官である。


「アルノー様、お迎えに参りました。」


 相手の口ぶりからしてみても、これは事前に組まれたスケジュールだということがわかるが、心当たりが全くない。


「向かう前に、これからの流れを説明して頂いてもよろしいでしょうか。」


 万が一の場合、こちらが分かっていないことを悟られないように尋ねた。


「はい。これから騎士団の練習場に移動し、着替えを済ませたあと、退官した元騎士の指導のもと、30分間トレーニングをして頂きます。といっても、初回なので、まずは筋肉量の把握などから始まると思いますが。」


「お迎えに頂いたところ、申し訳ないですが、所用を済ましてから向かいますので、10分後に練習場ということで、よろしいでしょうか。」


「職務なので困ります。それでは、部屋の前で待っておりますので、ご用事が済んだら、お送りします。」


 文官とはいえ、騎士団所属。よくも悪くも融通がきかない。彼が退出したことを確認し、この件の犯人の方に振り向いた。


「宰相様。私の方で、聞き取りを進めておきますね。では、いったんこちらにお願いします。」


 これから起こることを予測した書記官が、無駄に気を効かせて、宰相の来訪者を応接スペースの方へと誘導する。


「ほどほどに。」


 すれ違い様に、小さな声で呟かれたので、そちらを向くと、片手で口を覆っている。それが火に油を注いだ。


「宰相様。練習場でのトレーニングとは一体何なのでしょうか?」


「もちろん、君の腰痛対策だよ。医務局によれば、筋力の低下が腰痛の要因のひとつらしい。1日30分程度の運動でそれが改善するらしい。」


「それだけのために、騎士団を動員したんですか。」


 昨日の石畳の次は、これか。一体この人、私の腰痛のために、はいくつ仕掛けたのだろうか。


「もちろんそうではない。文官の運動不足による健康被害は多いと医務局から証言をもらっている。よって、まずは君に被験体になってもらい、プログラムを固め次第、王宮全体に希望者を募り、大々的に行う。」


「福利厚生の一環だと。」


「また、退官した騎士たちの雇用増加にもつながる。」


 非のない完璧な論理武装だった。人を理論で叩き斬る冷酷宰相は、自分の守備にも抜け目がない。


「分かりました。でも、エリオット様。それならば私である必要性はないですよね。」


「効率的なプログラムにするためにも、改善点の分析が出来る人物でないといけない上に、企画者が責任をもって、経過観察をしなければいけないだろ。」


「エリオット様、…。」


 言いたいことはいっぱいあるが、次いで出せる言葉はなかった。


「いってらっしゃい。ソフィ。1週間後にトレーニングの報告書、楽しみに待っているね。」


 執務中には珍しい笑顔で送り出されてしまった。胃が痛い。もちろん、それが悟られないように、私は執務室を出た。



======



 エリオット様と婚約してから、私は王宮内の移動が億劫になっていた。それなのに、毎日、王宮の反対側にある騎士団の練習場まで移動しなければならないなんて、気が重い。


 さらに、この付き添い文官。私を女性扱いしているからか、歩速を緩めて先導してくれている。ここは競歩一択なのに、焦ったい。


 と、思っていたら、早速手前から刺客がやってきた。農業課課長だった。


「アルノー様、おでかけですか?少しご一緒に歩いても?」


「いえ、急いでいるので。」


「大丈夫です、すぐに終わりますから。パンはお好きですか?」

「はい。」


 農業課課長の話が唐突に始まった。振り切りたいのに、騎士団文官のせいで、相手につけ入る隙を与えてしまっている。


「最近、パンの値段が上がったことはご存知で?」


「一応、報告は受けています。」

「お菓子やケーキの値段も上がったんですよ。お茶の時間の楽しみが減るなんて、嘆かわしいと思いませんか。」


「だから、何なんですか?」


「運動の後の甘いものは至福の時ですよ。それでは、私は。」


 農業課課長は、元来た方へと去っていった。どうして、彼は私がトレーニングすることを知っているのだろうか。私ですら数分前に知ったばかりだというのに。心当たりがありすぎて、咎める気にもならない。この分だと、腰痛もすでに周知の事実だろう。前を向くと、向こうの柱の影から誰かの腕が見え隠れしている。徽章(きしょう)からすると、貿易課だろうか。


 冷酷宰相エリオットをこちらの意向では動かせない。それは、王宮勤めの者全員が知っている常識だった。


 そこに現れた、例外。

 それが私だった。


 私の発言で、宰相が動く。これが更新された王宮の常識である。だから、各部署のお偉いさん達が、宰相を動かそうと、私に働きかけてくる。


 最初は、稟議書や伝言といった直接的なアプローチが多かったが、中途半端なものを宰相の前に出すことは出来ないので、結局正規ルートを通すのと変わらない。最近、そのことに気づいて来たのか、手を変え品を変え、間接的に私に働きかけようとしてくる。


 さっきの農業課課長も、小麦の減税案を優先的に扱って欲しくて、私がエリオットに「最近、ケーキが高くて困るわ」というのを狙った発言だろう。


 もちろん、そんな安直な罠に引っかかる気はないが、こちらはエリオットの暴走で困っているのだから、勘弁してほしい。


 ひとまず、私は柱の裏の貿易課の職員に背を向けて、歩き続けた。



======



「もう一度、今回の視察の確認をしてもよろしいでしょうか。」


「湯治効果の調査方法の検討と温泉地の熱水利用の視察だ。」


「それって――。」


「さらに、温泉地の活性化モデルの検討もしたい。」


「分かりました。でも、それって医務局や環境課、もしくはその領主の仕事ではないでしょうか。私たちが直接必要はあるのでしょうか。しかも、他の予定を動かしてまで、急遽入れる必要が。」


「あるだろう?」


 この笑顔は反則である。ごり押しのための笑顔。ここで反論すればいいのだろうけど、私だけに向けられる「冷酷宰相」の笑顔を無下にすることは出来ない。そして、向こうもそれを分かって使ってくるから、やっぱり(たち)が悪い。


「では、この馬車はどういうことでしょうか?」


「悪くないだろう?運送ギルドが開発した新型のサスペンションが搭載してある。今回の視察で問題なければ、使用認可を出すつもりだ。」


「では、このクッションは?」


「これは衝撃吸収率に特化したクッションだが、これはあまり効果がないな。」


「他に、私が指摘していない点はありますか。」


「そうだね。君のコルセットについてかな。」


「!?」


「今までコルセットは腰から胸部にかけての線を補正するためのものだったが、君がしているものは、腰の固定と姿勢の補助を主目的としたものになっている。」


「......」


「大丈夫。これは、公にはしていない。個人的にアガタに頼んだことだ。」


 問題はそこじゃない。この人の「私のため」の想像力はどこにまで及んでいるのだろう。ここまでくると、彼の思考が私の周りに張りめぐらされている気がしてならない。


「着け心地はどうだろう?」


「悪くはないです。」


「よかった、前回の遠出の時は今の時点ですでに辛そうだったから、改善されているね。」


 赤くなった顔を隠すように、私は今回の視察の関連資料に目を通し始めた。温泉地はここから3時間はかかるため、馬車の中で通常業務を進める。



 今回の視察は急ごしらえとはいえ、関連部署から1、2名参加しており、護衛も含めると、まあまあな規模になる。しかし、休憩時間もエリオットが目を光らせているため、王宮の様な変なアプローチはない。その分――。


「宰相様、ベルナールはどこに行ったかご存知ですか。探しにいかないと。」


 私は、時間になっても休憩から戻ってこない書記官の姿を探していた。


「彼なら、医務局に事前に確認してほしいことがあったから、お願いした。」


 これも、初犯ではない。


「エリオット様。」


「なんだい、ソフィ。婚約者と二人っきりになれて、嬉しくないのかい?」


「それは、嬉しいですけど―― でも、今は業務中です。」


「そうだね。でも、私はやるべきことを終わらせてしまった。なので、少し休みたいので、肩を貸してくれないか。」


「……」


 私の返事を待たずに、向かい側から隣に移り、頭を私の肩に乗せる。流石に出会った時みたいにドキドキはしないが、仕事にプライベートを持ち込むことの罪悪感でドキドキする。


「手前の街に着いたら、起こしてくれ。」


 そうして、しばらくすると寝息を立て始めた。付き合い始めてからわかったことは、この冷酷宰相は、意外と業務中に目を盗んで、こういうことをしてくる。冷酷はどこにいったんだろう。

 そして、聡い書記官のベルナールは気づいるだろうが、どういうわけか、始めから見て見ぬふりをしている。むしろ、今回みたいに協力的だ。彼とエリオットの間に何か取引でもあったのだろうか。


 コンコン。御者からの合図で目を覚ました。私もうたた寝をしていたみたいだ。気づけば、私がエリオットの肩を借りていた。見上げると、エリオットと目が合う。そのまま彼の手が私の髪を軽くすいた。


「この馬車の乗り心地は悪くないね。心地よい揺れが眠気を誘う。」


 僅かに、からかいの色が含まれた声色から、機嫌のよさがにじみ出ている。


「失礼しました。重かったですか。職務中の居眠りは禁止事項です。次からは、きちんと起こしてください。」


「この馬車を採用するならば、その法の改正を検討しなければならないな。」


「また、そうやって法律を私用で変えようとする。」


「法律は国民の暮らしを豊かにするためのものだ。その国民のなかに、君もふくまれる。」


「何万人のなかの一人です。私の事情で変えてはいけません。」


「君はあくまできっかけだよ。それとも、君はそんなに特別なのかい?」


「悪ふざけがすぎますよ。ほら、街が見えてきました。」


 勝ち誇った顔の宰相様に、降車の準備を促した。



======



 湯治の効果計測という名目で、夜には温泉に入ることになった。特に露天風呂には、自宅の湯船にはない開放感がある。すると、視察団にいた別の女性も入ってきた。


「宰相補佐官のアルノー様ですよね。私、農業課のサラ・ルグランと申します。ご一緒失礼します。」


 肩書にふれてきた以上、私は警戒の色を強めた。


「ここは随分とのどかな所ですね。特に目立った問題もないから、思わず視察だということも忘れてしまいそうになりますわね。」


「今回の目的は、問題のある地域の視察ではないですから。熱水の熱を利用した温室栽培はいかがでしたか。」


「とても興味深かったですわ。季節はずれの野菜や果物が楽しめるなんて、なんだか夢のようでした。これらは嗜好品としていい値になりそうです。ただ小麦などの食料の生産には、つながらなそうです。」


 世間話っぽい彼女の発言のなかには、たくさんの小さな棘が含まれていた。いつもの間接的なアプローチにしては攻撃的だ。


「そうですね。」


「アルノー様は小麦の価格高騰についてどう思われますか?」


「それは補佐官としての見解を尋ねているのでしょうか?それとも私個人の見解でしょうか?」


「どちらでも構いません。」


 下手に刺激をしないように、当たり障りのない返答を返す。


「個人的には、あまり喜ばしいことではないと思いますが…。」


「ですよね。アルノー様もそう思いますよね。」


 彼女が距離を詰めてきた。ややこしくなる前に離れようと思い、立ち上がる。


「少々、長湯をしてしまったようなので、お先に失礼します。」


「お待ちください。」


 ちょうど湯船から出たところ、腕をぐっと引っ張られた。その拍子にバランスを崩し、大きな音を立てて、湯船の中に倒れこんでしまった。


 あまりの突然のことで、水を飲み込んでしまった上に、温泉の成分で底がすべり、なかなか体勢を立て直すことが出来ない。


「大丈夫ですかっ」と女性の近衛兵が焦って、駆けつけてきた。その彼女の手を借りて、体勢を立て直し、湯船から顔を出した。


「すみませんでした。」


 浴場を走り去る、サラの後ろ姿が見えた。


「ゴホッゴホッ…。すべって落ちただけですので、ご心配なく。」


 大事(おおごと)にしないように、動揺の色を抑え、湯船から出た。それでも、近衛の女性は介抱を申し出てくれる。全く大袈裟なと断りつつ、私は浴場を後にした。



======



 予定通り1泊2日の視察が終わり、私たちは通常業務に戻った。

 と、思っていたが、そうではなかった。


 出勤すると、エリオットに呼ばれた。


「ソフィ・アルノー。本日付で宰相補佐官の任を解き、財務課の特別顧問を命ずる。」


 突然の解任。頭の中が真っ白になる。私たちが婚約を結んだのは、宰相補佐官の任命後だ。つまり、縁故採用ではなく、この地位は自分の能力で勝ち取ったものであり、自分の仕事を誇りに思っている。それをこんな形で奪われるのは、納得がいかない。


「理由を教えてください。納得がいきません。」


「君が補佐官を続けることは、リスクが高すぎる。」


「一昨日の浴場のことでしょうか。」


「それだけではない。説明は以上だ。今すぐ、財務課に移動を。財務課課長が君を待っている。」


 こうなると、「冷酷宰相」が言葉を足すことはない。それは私が一番よく知っている。これまでそれをフォローしてきたのは私だった。しかし、その補佐官を解任された私に説明してくれる人はいない。私はエリオットを睨むと、最低限の物だけをひっつかみ、扉の前に立った。


「今まで大変お世話になりました。」


 自分でもビックリするような大きな声で挨拶を済ませ、宰相執務室を出た。



======



 その夜、財務課に移った私は、いつもよりも数時間早く帰宅したものの、居ても立っても居られず、意味もなく屋敷のなかをウロウロとさまよっていた。早くゴールしたいのに、手がかりがなく、ひたすら迷路の中を何時間もさまよっているような感覚に襲われた。


 そこにエリオットが帰ってきた。


「ただいま、ソフィ。会いたかった。財務課はどうだった?」


「初日ですので、現行の業務内容の把握で終わりました。」


「そうか。それはよかった。」


 そして、抱き寄せられて、軽く口づけされる。いつもと変わらない。


「エリオット様、何か私に仰りたいことはありませんか?」


「何だろう。特にないな。」


 そのまま、私の肩をポンと叩くと、自室に下がってしまった。


 いつも通りのやり取りなのに、私は背筋が凍った。


 てっきり、解任の理由を説明してくれると思っていた。しかし、冷静に考えてみれば、エリオットの性格を考えれば、追加の説明などないことは分かりきったことだ。


 エリオットは賢い。複数の資料から状況を読み込み、最適解を見出し、それを適当な人物に指示として与えることができる。そして、驚くべきはその処理速度である。迷うことなく最短経路を通って、解に到達する。


 しかし、エリオット自身はそれがどのくらい特殊な能力なのかを正確に把握していない。それが彼を「冷酷」とさせている原因に他ならない。相手の理解力にあわせて説明せず、自分基準で結論のみを伝えるので、ものによれば「不条理な判断」を押し付けた形になってしまう。そう、今回のように。


 だが、エリオットの判断は不条理なのではない。ただ、彼は結論に至るまでの過程を省略しすぎるのだ。 私の補佐官としての一番の仕事は、この判断を相手に理解できるように説明することだった。


 今日一日、私は温泉地での視察を事細かに思い出し、解任の理由を探していた。確かに、サラに引っ張られて転倒はしたが、あれは突発的な事故であり、口論したわけではないし、私に非はない。なのに、何をどう考えれば解任にたどり着くのか――。


 エリオットの考えがさっぱり分からない。

 そして、エリオットは私が理解していないことに気がついていない。


 もし、ここでさらに説明を求めたら、どうなるのだろう。それこそ、自分の理解力のなさを露呈させ、見苦しいだけだ。もう少し、自分で考えてみるしかない。今日の一日で何十回とたどり着いた結論を自分に言い聞かせる。


 気づけば、私は自分の寝室でいつも通り本を開いていた。そして、読書に励む。しかし、何ページか進んだところで、知らない人物がべらべらと見知らぬ状況に対する見解を述べていて、今日の読み始めのページに戻った。


 そうしている間に、いつも通りに、エリオットがソファに横たわる。珍しく本から顔を上げて彼の方を見ると、彼はいとおしそうに私の方を見つめていた。また寒気がした。


「私は、君とこうやって過ごせることがすごく幸せだ。手放したくない。」


 彼は私の髪を掬い、口元に持っていった。


 思わず私はソファから立ち上がり、逃げるようにベッドに駆け寄った。


「すみません。今日はもう寝ます。」


 私は、エリオットに背を向けたまま告げた。


「そうだね。職場が変わって疲れたんだろう。おやすみなさい。また明日。」


 また明日、何なの。全く読めないエリオットは、ただの「冷酷宰相」だった。



 ======



 1週間経った。


 財務課の仕事にはもう慣れた。仕事内容は以前と比べると単純なものが多く、空いた時間を作っては、解任理由を調べていた。財務課課長もベルナールも何も知らなかった。事故の目撃者である近衛兵にも話を聞いたが、ありのままの事実を報告しているだけだった。この事故を解任まで発展させる理由が見つからない。


 解任理由を探しているはずなのに、気づけばエリオットそのものが分からなくなっていた。


 その結果、ここ数日は、なぜ解任されたか、ではなく、なぜこの「冷酷宰相」は私を愛しているのか、ということばかり考えている。


 私が宰相補佐官に任命されたのは3年前だった。弱小貴族で、後ろ盾がほとんどない私は平の文官からのスタートだったが、高い事務処理能力を買われ、季節が変わるごとに辞令が出され、うなぎ登りで出世していった。そして、たどり着いたのが宰相補佐官だった。


 この仕事は、やりがいしかなかった。各部署にいる時は分からなかった、エリオットの考えを、同じ資料を読み込んでいることで理解することができた。そして、彼がおざなりにしていた説明を私が担うことで、不条理な判断が、合理的な指示になる。


 足りない部分が補われ、歯車がかみ合い、王宮という大きな機械が上手く動き始めた。こここそ自分が収まるべき場所だったんだ。そんな充足感があった。


 そんなある日、エリオットに求婚された。そして、辞令を受けるように、申し出を受け入れ、婚約に至った。


 しかし、エリオットにとって、私という歯車は代替可能な歯車に過ぎなかったらしい。残念の一言では言い表せない気持ちが、まだ私のなかで渦巻いている。とはいえ、私生活では態度が全く変わらないので、彼のなかに私が入るべき場所は残されているらしいが、それが全くつかめない。今の私はどこともかみ合わないまま、空回りしている気がした。



 この1週間で、エリオットを見失ったのは私だけではなかったようだ。


 私が解任されてから、財務課に訪れる人が激増した。むしろ、王宮関係者は宰相執務室を出ると、迷わず財務課に訪れるようになっていた。


「宰相様に○○といわれたのですけれど、どうしてでしょうか。」


「○○という指示を受けたのですが、具体的にはどういうことでしょうか。」


 私の後任がいないというのもあるが、解任された補佐官に泣きついてこないでほしい。しかし、王宮の業務が滞ることはいただけないので、私が把握している限りで答えられるものは答える。すると、前以上に感謝される。その対応をしている間だけは、余計なことを考えずに済んだ。やっぱり、私は必要なんじゃないか。


「宰相室にはいつ戻られるのですか。」


「どうして異動されてしまったのですか。」


 こうした質問が私の傷をえぐる。それは宰相に言ってくれ。私だって聞きたい。さらに何を深読みしたのか、「ご結婚間近なんですか」なんてものもあった。


 極めつけはベルナールだ。


 さすがに彼が私に説明を求めることはないが、昼食になると、「聞いてくれよ」と私のところに愚痴を言いにやってくる。今までの人生で、こういう性格のせいで、人の愚痴をこぼされるようなことはなかったが、情報収集の一環として、適当に相槌を打ちながらベルナールの話を聞く。


 私が着任して以降、全て説明を私に丸投げしていたせいか、私の着任前よりも言葉足らずになっているらしい。そのせいで、「冷酷宰相」どころか、「残酷宰相」になりつつあるらしい。それを止められないベルナールは、日に日に疲労の色が濃くなっていた。


「僕の方から、ソフィを戻してほしいとお願いしたんだ。そうしたら、こっちの方が彼女にとってはいいんだっていうんだよ。だから、どうしてですかって聞いたんだ。すると、リスクの軽減だそうだ。ははは。王宮の運営より優先すべきリスクって、国王関係以外に何があるんだろう。もしかして、ソフィは国王とつながっていたりしたの。」


「何それ。冗談にしては面白くないわよ。よっぽど疲れているのね。」


「冗談じゃない方がよかったよ。それならば納得できるから。何なんだよ、その“リスク”って。はぁ。やっぱり僕には宰相様は理解できないな。」


「......私もよ。」


 もう誰も彼のことを理解していない。

 一体エリオットは何を考えているのだろう。


======



 翌日、宰相室に財務課課長が駆け込んできた。


「どうされましたか。」


 書記官のベルナールが声をかける。ベテランの財務課課長は運動不足が祟っているのか、肩で息をしていた。腰痛持ち以外にもあのトレーニングは行うべきかもしれない。それにしても財務課がここまで取り乱す緊急事態とは何があっただろうか。現在、課が抱えている主な業務をリストアップしていく。


「アルノー、アルノーが辞表を提出しました。」


 私は思わず、立ち上がっていた。何百回と彼の言葉を精査する。しかし、それが意味することは、ひとつしかない。


「どういうことだ。理由は聞いているのか。」


「分かりません。私たちの寝耳に水で。」


「今、ソフィは?」


「荷物をまとめております。」


「どうして、止めないんだ。」


 気づけば私は走り出していた。鍛錬以外で走ったのはいつぶりだろうか。階段を降りると、目的の財務課があった。


「ソフィ、ソフィ・アルノー!」


 入り口には、身支度が済んだソフィが部屋を出ようとしていた。


「どうしたんです、宰相様?」


「それはこっちが聞きたい。理由を説明しろ。」


「理由がお分かりでないんですか。」


「……」


「よくお考え下さい。私は自宅へと戻りますので。」


 そうして、私の横をすり抜けていった。彼女の予想外の返答に、反応が遅れ、後ろを振り向いた頃には、彼女はもう手の届かない場所にいた。



 しばらく、財務課の前で佇んでいると、私の大きな声を聞いたのか、様々な部署から何人もの人が廊下に出てきた。財務課課長が恐る恐る私に声をかけてくる。


「宰相様の方で、心当たりはございませんか?」


「特にない。そちらこそ、どうだ。彼女の勤務態度に変わったところは……」


「宰相様、本当に分かっていないのですか。」


 後から駆けつけたベルナールが、驚いたように、私の言葉を遮った。


「宰相様、不躾ながら進言いたします。ソフィの決断は、私たちにとって、少なくとも僕には理解できるものです。しかし、あなたにとっては分からない。でも、いつもは違います。あなたにとっては当然の結論も、他のものにとってはそうではないのです。」


 その場にいる全員がうなずいている。そこでやっと自分を取り巻く職員たちが、自分とは同じ考えでないことに気がついた。彼らは皆、ソフィが辞表を出した理由が分かるというのか…。


「そうだったのか。でも、どうして誰もいってくれなかったのだ?」


「それは……」


 輪の中の誰かが口を開いた。


「なぜって、ソフィがいたからです。」


 他の誰かが言葉を継いでゆく。


「今だって、みんな宰相室を出た後、ソフィに聞きに行っていたのです。」


「だから、ソフィがいなくなったら……」


 最後にベルナールが、そのバトンを受け取った。


「宰相様、これは国家の危機です。早く事態を収拾して下さい。」


「でも、ソフィはもう出ていってしまった。」


「何言っているんですか。家にいるんでしょ。このまま追いかけていって、ソフィと話すんですよ。」


「エリオット、夫婦喧嘩は、早く謝るに限るぞ。」


 気づけば、職員たちは左右に分かれ、国王陛下が立っていた。


「陛下!」


「国家の危機と聞こえたから、来てみれば。ほら、急いで帰れ。」


「承知いたしました。」


 一礼してから、私はソフィの待つ自宅へと駆け出した。それを職員たちが静かに見送った。




 ======




 自宅に到着し、ソフィのいる彼女の部屋に向かった。扉を叩くと、返事があった。


「どうぞ。」


 彼女はソファに座っていた。いつもと変わらぬ様子の彼女にほっとしつつ、私は彼女の前に跪き、彼女に許しを乞うた。


「ソフィ、すまない。」


「どうされましたか。」


「辞表を出したと聞いた。」


「はい。王宮に私の仕事はもうないみたいなので。」


 すごく冷たい声だった。突き離すような言い方から、自分がどれほど彼女を理解していなかったかを思い知った。


「そんなことはない。」


「あります。」


「ソフィ、お願いだ。私の話を聞いてほしい」


 そして、彼女の隣に腰掛けた。


「私は間違っていた。言葉が足りなかった。私には君が必要なんだ。」


「でも、あなたは私を首にしたじゃないですか。」


「それは、君に危険が及んだから……。」


 報告を受けた時の衝撃が頭をよぎる。近衛兵は事件性はないと言っていたが、事件性になる可能性があったことは否めない。


「あれは事故ですよ。」


「でも、多くの人が君にアプローチをかけていた。いつの日か、君に危害を加える奴が現れるかもしれない。それが起こってからじゃ遅すぎる。」


「でも、私を解任するほどのリスクですか?」


「それほどのリスクだ。君の代わりはいないんだよ。」


「でも、そのせいで王宮が。」


「そのことを先ほどベルナールから聞いて、知った。」


「......」


「財務課に移ってから、君がやってくれていたことも。」


「......」


「王宮にとって、君は必要な存在なんだ。」


「でも、あなたにとってはそうじゃなかった。」


「仕事上ではそうじゃない、と思っていた。でも、それは間違いだったらしい。私が思っていた以上に、君に依存していたようだ。今の私は、君ありきで仕事をしてしまっていたらしい。」


 先ほど知った事実が重くのしかかる。気づかぬうちに、私は彼女に依存していたことになる。


「そんなことはないですが。でも、頼りにされるのなら、私は嬉しいです。」


「そうなのか。知らなかった。もっと、君が思っていることを教えてくれ。」


「どうして、私を解任したのですか。」


「それは、……。」


 言葉に詰まった。それは自分勝手な理由だった。また公私混同だと叱られてもおかしくはない。


「それは、君を危険から遠ざけたかった。」


「だったら、護衛を増やせばすむ話ではないですか。」


「いや、君をその危険な状態になるまで放置していた私から遠ざけたかったんだ。未だに私は自分を許せない。」


「そんな。」


「君は自分を過小評価しすぎだ。宰相補佐官は誰でもなれる。でも、私の隣に立てるのは君しかいない。」


「エリオット様……。」


 ソフィの声はいつの間にか、いつもの優しいものに戻っていたが、私の声は小さく、わずかに震えていた。


「君は、宰相ではなく“エリオット・グランディエ”を見てくれる、たった一人の人間だから。」



======



 噂通りソフィ・アルノーは優秀だった。いや、予想以上だった。


 宰相補佐官になって1週間、これまでの補佐官以上の働きをしていた。スケジュール調整や書類の精査だけでなく、私の発言に対して、的確で適度な補足をしてくれる。今までは、この場では来訪者たちが私の通告を感情的に受け止め、後日手紙などで認識のすり合わせが行わていた。しかし、今では来訪者たちは、この場で理解して退室するようになったため、後日の認識調整も激減し、執務効率は劇的に向上した。



 ある日の会議後、退出者を見送りながら、ソフィは書類の整理を始めていた。


「宰相様、ひとつ質問をよろしいでしょうか。」


「構わない。」


「先ほどの、南部の洪水被害についてです。どうして石の堤防ではなく、松を植林した土手になさったのでしょうか。それでは、同じ程度の大雨が降った際に、防ぎきれないのではないでしょうか。」


「確かに、石の堤防を築く方法もある。だが、長い目で見れば土手の方が利が大きい。木が根付けば、根によって土手が強化される。……」


 彼女は質問をはさみつつも、話を聞き、理解したようだった。


「自然を完全に制することはできない。だからこそ、災害を防ぐのではなく、被害を防ごうとしなければいけない。そして、ひとつの施策に依存してはいけない。もし堤防に亀裂が入ったらどうするんだ。」


 これが私の基本的な考え方だった。人によっては些細な違いに映るかもしれないが、考えの根本が違う。彼女ならば、理解してくれるだろうと思い、この機会に共有した。



「意外でした。効率や費用などが判断の基準だと思っていたので。」


「もちろん、そこも検討した上でだ。」


「宰相様は、意外と小心者なんですね。」


 ソフィは少しからかうように言った。賞賛以外の言葉をもらい慣れていない私には、新鮮な評価だった。


「悪いか。」


「いいえ、悪いことではないと思います。」


「どういうことだ。」


「だって、それだけ守りたいものが大切ってことじゃないですか。いいことですよ。」


「……」


 いつからか、私は自分自身について考えることをやめていた。


 必要なのは判断であり、結果であり、国家運営だ。そこに「私」という人間は不要だった。周りの評価も私の下した「判断」を私として見ていた。


 だが、彼女は違った。


 ソフィは、私の下した判断だけではなく、その先にいる「私」という存在を見ていた。今なら分かる。私は、彼女の瞳を通して、久しぶりに自分という人間を認識したのだ。



======



 国を支える貴族として教育されてきた私にとって、「好きだ」という言葉は信用ならないものだった。だから、彼女に、彼女のことを好きな私を見てもらうために、努力したつもりだ。でも、それはいつしか自己満足になっていたのかもしれない。


「私は、君が隣にいてくれることが当たり前になっていた。」


「……」


「だから、失うかもしれないと思った瞬間、怖くなった。すまなかった。」


 願わくば、許してほしい、そんな気持ちを込めて、頭を下げた。


「もういいんです。私はいつも公私混同するなとあなたを叱っていましたよね。でも、公私混同していたのは私の方でした。夫としてのあなたをきちんと見ていなかった。あなたは見ていてくれていたのに…。」


 宰相としての私。夫としての私。分けるべきなのだろう。だが、その境界は未だによく分からない。


「そろそろ、王宮へ戻らなければいけないな。王にお叱りを受けてしまう。」


「......」


「ここに送り出してくださったんだ。ベルナールや他の職員たちと一緒に。」


「もしかして、このことって王宮中が知っていたりしますか。」


「全員というわけではないだろうがな。「国家の危機」だそうだ。」


「はあ。」


「何か、対策案でも作ろうか、アルノー補佐官。」


 私は、宰相としてソフィに話しかけた。


「えっ。」


「君の辞表は受理されていない。その前に、辞令だ。宰相補佐官でいいな。」


「はい。」


「就任にあたって、何か要望はないか。」


「私のために対策案を出すのは控えてください。」


「それは難しい。」


「即答しないでください。」


「だが、今後はもう少し目立たない形を検討しよう。」


「検討、ですか。」


「ああ。これまでは少々やりすぎた。」


「少々ではありません。」


「しかし、君といると次々と思いつくんだ。仕方がないだろう。」


 そうして、2人そろって王宮に向かった。



======



「詳しい説明はアルノーから聞くように。」


「どうぞ、こちらに。」


 宰相室ではいつもの光景がくり返されていた。 あの後、私は即日、宰相補佐官に再任命された。そして財務課の方に報告に行ったら、拍手で迎えられ、こっちが口を開く前に、再就任の祝辞をもらった。やっぱり、エリオットと私の間に何があったのかは、筒抜けみたいだ。


 また、私に対する過剰な接触について、宰相命令で調査が行われた。 そして、『アルノー様 データ集』があると聞いた時は耳を疑った。そこには、私の好き嫌いや毎日の動向などが記録されていた。


 全て焼き払うようにお願いしたが、エリオットが「今後の再発防止のための資料だ」と、もっともらしい理由をつけて、手に入れていた。


 あの本がどこに保管されているのかは知らないが、資料室にないことだけは確かだ。



「宰相様、こちらの宰相室付きの文官の増員とは、どういうことでしょうか。」


「そのままだが。」


「宰相様。説明お願いします。」


「すまない。ベルナールやアルノーの業務が増加しているので、増員したい。それに、視察中や休暇中に宰相室が空になるのはよくない。」


「それはいい考えですね。ぜひお願いします。」


 顔色が良くなってきたベルナールが、珍しく賛同してきた。


「でもそれって、視察や休暇を増やしたいからということですね。」


「確かに、そう解釈も出来るな。」


「もう少し上手く隠して下さい。」


「お前以外には、バレないだろう。なあ、ベルナール。」


「僕にとっては、理由はどうであれ、いいと思います。」


 私はつい癖で出そうになった言葉を飲み込んだ。


「まあ、今回はこちらで上手く隠しておきます。」


「ありがとう、アルノー。頼りにしているよ。」


 次の書類をめくる。

 『西部一帯の温泉地視察計画案』


 ……エリオット様。


 どうやら、国家規模の公私混同はまだまだ続くらしい。



読んでいただき、ありがとうございました。連載バージョンの『宰相様、国家レベルの溺愛はいりません!』に「おまけ」があるので、よろしければどうぞ!

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