7:別れ
たちまち目がくらむほどの光が飛び込んでくる。
朝日にしては異様なほどに強い陽射しだ。どうやら雲ひとつない快晴らしい。
オリヴァーは周囲を窺いながらゆっくりと外に出た。
周りには誰もいない。遠くの方から微かに叫び声は聞こえるが、こちらに向かってくる様子はなかった。ただドアを開けた瞬間から鉄錆の臭いがしている。まるで村全体を囲んでいるようだ。
(これは……血?)
オリヴァーの考えは、しかし突然響いてきた潰れたような叫び声に掻き消された。
はっとして後ろを振り向く。子どもくらいの大きさをした化け物が棍棒を振り回しながらこちらへ迫ってくるのが見えた。棍棒の先にはべっとりと血がついている。
ゴブリンだ。
土色の肌に腰にボロ布を巻いただけの粗末な格好。ボロ布を留めている紐も布を細く裂いたもので、そこにはどこからか奪ってきたらしい短剣が差してあった。
「ちっ!」
舌打ちすると同時にユゼックが前に立ち、ただ走ってくるだけのゴブリンへと剣を振る。
「ギャッ!」
ろくな防御も取らず、胴を横なぎにされたゴブリンは血を噴き出しながら倒れた。
強烈な血の臭いが鼻をつく。
むせ返るような臭いだ。突然の非日常に頭がくらくらし、何も食べていないはずの腹から不快感が込み上げてくる。だが慣れなければ。ゴブリンが死んだくらいでいちいちショックを受けていたら生き残れない。そもそもこのゴブリンも何人かの村人を殺したのかも知れないのだ。
「……」
昨日まで楽しそうに笑っていたはずだ。
貧しいが平和だった。おおらかな村長に倣うように、みんなが常に笑顔で、幸も不幸もわけ合ってきた。そんな人たちが死んでいる。子どもも大人も関係なく。無差別に。
ぎりぎりと音が鳴るほどに強く剣を握った。それからオリヴァーは剣を水平に保つと、手元も見ずに鞘を抜き払い、空っぽのそれを後ろ手に放り投げた。剣を振るには鞘は邪魔だ。もうこの先必要ない。
「教えた通りに。落ち着いて、剣を振る。そうすればゴブリンはあなたの敵ではない」
ユゼックの言葉にオリヴァーは強くうなずいた。確かに、今のゴブリンの動きは普段のユゼックと比べれば随分と鈍いものだった。比べるまでもない。焦らずに対処すれば充分に勝てるだろう。
きっと逃げ切れる。しかもユゼックもいてくれるのだし。そう結論づけたオリヴァーに、「では」とユゼックは村の北側へと体を向けた。
「私は魔人のもとへ向かいます。まだ逃げ損ねた村人がいる」
「いや、え……」
一緒に逃げるんじゃないのか。真っ先に浮かんだ言葉がそれで、次いで「待ってくれ」とただすがるような言葉だけがもれた。
昨日のユゼックの言葉が正しいなら、魔人は魔法が使える者でようやく抵抗できる存在だ。魔法も使えない彼が向かったところでなんの意味もない。しかしユゼックは少しの恐怖も滲ませず、ただオリヴァーに対して清々しい表情を向けていた。
「オリヴァー様は村を出て真っすぐに。街へと向かってください。体力の続く限り止まらず走り続けるのです」
「じゃ、じゃあ、一緒に逃げよう」
「いいえ」
ユゼックが首を振る。それから彼は少しだけ困ったような顔を向けた。
「ここから先はお一人で向かうのです」
まるで従者が主人に対してそうするかのように、ユゼックは剣を体の横に持ったまま深々と頭を下げる。一方でオリヴァーは彼の言葉を頭の中で何度も繰り返し、「いや」とどっちつかずの返事をした。
この状況でそんなことを言われるとどうしても最悪の想像をしてしまう。つまりユゼックは命を投げ捨てる覚悟でここに残るつもりなのだ。
なんとか説得しようと思考を巡らせる反面、オリヴァーは半ば諦めたように義父を見た。もうどうあっても彼を説得できない。その事実が痛いほどにオリヴァーを突いていた。
「……、わかった」
本当は理解できない。しかしここに居続けたら危険なのは誰でもわかることだ。血の臭いはずっと流れているし、悲鳴だって止んでいない。敵はすぐ近くにいる。逃げるべきなのだ。一人でも多く、今すぐに。
「ありがとうございます」
自身の覚悟を汲み取ってくれたことへの感謝だろうか、清々しい口調でユゼックが言う。けれどもオリヴァーは視線を合わせられなかった。そうすると本当に足が動かなくなりそうだった。
じりじりと足を引きずるようにして後ろを振り向く。そうして完全に背を向けた瞬間、ユゼックの優しい声音が背中に降りかかった。
「どうか誇り高く自由に生きてください。あなたは私よりも遥かに才能がある。きっと伝説の勇者のようになれるでしょう」
――さあ。
とん、と、強い声が背中を押す。それを合図にオリヴァーは走り出して、しかし数十歩もしないうちに立ち止まった。
別れの言葉がまだだ。何を言うべきなのかわからない。そうだとしても何かを伝えなければならない。
後ろを振り返る。義父の背中がやけに小さく見えた。
「と――っ」
なぜか言葉が出てこなかった。
義父。養父。育ての親。今まではユゼックのことをそんな風に言っていた。ユゼック自身もそれで満足しているようだった。しかし、そもそもオリヴァーには父親は一人しかいなかったのだ。
「っ、父さん!」
叫んだ。胸の中いっぱいに溜め込んだ息を吐き出すように、あるいは十年分の思いをこの一言に集めたように。
そんな声が届いたのか、オリヴァーの父親は剣を握り直し、それから軽く後ろを振り返った。
「ああ、逃げなさいオリヴァー」
今までに聞いたことのないほど朗らかで明るい声音に、オリヴァーは父親に背中を向けて走り出した。




