5:村長の家にて(後編)
北の土地を治め、この王国と並ぶほどの領土を持つ大国。
それが数日のうちに血の海の地獄になったと、魔王侵攻を語る言葉はそう伝えている。そして当時の人間たちは魔王の力になす術もなく国を放棄し、現在はわずかに生き残った人間が魔人の奴隷となって暮らしているようだ。
しかし魔王侵攻が起こったのは一度だけで――何度もあれば人間は全滅したかもしれないが――、以降は国が滅ぶ程度の大規模なものは起きていない。だからこそ人間側は魔王に関する情報を一切つかめずにいた。魔王は侵攻直後に死んだという噂や、あるいは尊き神の力によって封印されたのだという話まである。けれども魔王自身の亡きがらは見つかっておらず、また別の魔王が出現する可能性も否めない。
だからこそ「勇者」が求められるのだ。
どうかかつての故郷を取り戻せる者を、その果ての魔王を滅ぼせる力を、と。
「やけに詳しいな」
「両親がミディール教の熱心な信者だったので」
恥ずかしげに女性が言う。オリヴァーはなるほど、とまた水を飲みながら小さくうなずいた。
「じゃあ、アロイジウスが一番すごいんですか」
「どうでしょう。確かに最大の英雄とされているのはアロイジウスですが、初代勇者のミディール、三代目のレイア、それ以降の勇者たちもちろん偉大な功績を残しています」
勇者に関してはやけに饒舌だ。皿を並べながら少し早口に語る女性に、バルトは酒をちびちびと飲みながらわずかにつまらなさそうな顔をしている。しかしオリヴァーにとっては何もかもが新鮮で興味深いものだった。
「たとえばアロイジウスの子孫のハーヴィッドだって――」
そこまで言い終えて、はっとした顔で女性が目を見開いた。それから恥ずかしそうに頬を赤らめて、
「やだ。すみません、ミディール教の布教の癖が抜けなくて」
「いえいえ。俺は楽しいのでいいですけど、ほら……」
バルトへと女性の視線を誘導する。バルトはすでにコップの酒を空にして新しく注いでいるところだった。
女性の視線に気づいたらしいバルトはわざとらしく丁寧に酒瓶をテーブルに置いた。
「難しい話はやめだ! 村人だけで精一杯なんだ、名前なんて覚えらんねえよ。それよりもメシにしようぜ」
バルトの一声で会話が途切れ、女性が口をつぐんで粛々と食事を準備していく。手伝うと言ったオリヴァーの提案は「ゆっくりしていて」という言葉で断られてしまった。
やがてテーブルに並べられたのは干し肉とパン、それから幾分かの野菜で出来たスープだ。オリヴァーも普段から食べている一般的な食事である。ただ味はオリヴァーが作るよりも随分と薄めだ。どうやら街ではこれが普通の味付けらしい。
それを誰よりも早く食べ終えたバルトは、「そういやオリヴァー」と食後の酒を飲みながら上機嫌に語りかけた。
「どうせ一人なんだろ? 今日は泊まっていけよ」
「でも悪いですし、今日は帰ります。ごちそうさまでした」
やや強引に言ってからチラと彼女の方を見やる。食器の片付けをしている後ろ姿はやはり村のどの女性よりも随分と華奢だった。
いったいどこでどんなふうに出会ったのか。バルトは女性との馴れ初めを話してくれない。
街に出かけた彼が仕事以外に立ち寄る場所といえば酒場しかない。本人が常日頃からそう言っているのだから間違いないのだろう。ならば酒場で働いていた女性だろうか。だが彼女が酒を飲んでいる場面は一度も見たことがないし、酒の銘柄にも詳しくなさそうだった。
しかしそんな疑問もすぐに掻き消え、オリヴァーは村長と女性に何度か礼を言って家を出た。
すでに太陽は沈みきり、代わりに月が上っていた。雲一つない快晴の夜空には無数の星が瞬いている。
月明かりはあるもののほとんど暗闇で、オリヴァーは用意していたランプに火をつけた。取っ手つきの皿に油を張っただけのものだが、村の中を移動する分にはこれで充分だ。
外には誰もいない。そもそも夜が更けてから外に出る者はほとんどおらず、あったとしてもオリヴァーのように自宅へ帰るほんのわずかな道だけだ。たとえ結界が張ってあると言っても暗闇が危険なのは変わらない。オリヴァーは左右の家から談笑の声が漏れ出ているのを聞きながら帰路を急いだ。
家は村の端にあった。十年前、空き家だったのを当時の村長が安値で売ってくれたものだ。
そして家のドアを開けようとして、オリヴァーはふと疑問を覚えてその場に立ち止まった。
(――あれ。あの女の人の名前、なんだったっけ)
もちろん聞いた覚えがある。先ほどだって女性の名前を出して話していたはずだ。しかし思い出せない。まるで頭の中にモヤが掛かったかのようだ。あと少し。もう一歩でわかりそうなのに、どうしても出てこない。
不思議だ。そういうこともあるのだろうか。そう考えるうちに、オリヴァーはふと何事もなかったかのように家に入った。
造りは村長家とさほど変わらない。ランプの灯りに照らされた場所だけがぼんやりと見えて、まるで自分だけが暗闇の中にぽつりと浮かんでいるようだ。
鞘に収められた長剣が二つ、並んで部屋の隅に立てかけられている。
一つはユゼックのもの。もう一つはユゼックがオリヴァーのためにと買ってくれた中古の剣だ。ただユゼックが研いでくれたのでそれなりに切れ味がある。やがて護衛者になるオリヴァーの命を守ってくれるであろう武器だ。
ふと嫌な予感がした。
小さな虫が背中を這うような、輪郭のない獣の前に立っているような、なんとも言いようのない気味の悪さだ。そんな自身の思考を振り払うように、オリヴァーは急いで暖炉の火をつけて、それからテーブルの上に置いていたランプの火を吹き消した。




