プロローグ
薄暗いジメジメとした一室で一日のほとんどを過ごす、それが親子にとっての日常だった。
窓はあるが背を伸ばしても届かないほどの高い場所にある。天気が荒れればそこから容赦なく風雨が吹きすさび、ボロを着た母が寒くならないようにとぎゅうと抱いてくれた。
食事は一日に二度、目も合わせてくれない給仕が作業のように運んでは一定時間後に食器を取りにきた。食器に乗っているのは大抵が硬いパンとスープだった。それから夕方ごろ、また別の者が室内に入って排泄物を片付けていく。体を清めるのは三日に一度くらい、その時だけ親子は部屋の外に出ることを許されたのだった。
そんな薄暗い部屋で、母は与えられたわずかな本を使って文字の読み書きを教えてくれた。また自身が知り得ることの全てを授けようとも努めた。
子どもは熱心に母の話を聞き、やがて自身の名前がオリヴァーであることを知った。それからこの屋敷がとある貴族のものだということも。
けれども、オリヴァーにとっては、貴族とかいう地位や身分はどうでもよかった。
自分には母がいればいい。美しく優しい母親だ。そしてそんな母は事あるごとにオリヴァーに向かって真剣なまなざしで同じことを言った。
「あなたには特別な力があるわ」
その意味はわからない。
だが毎日のように言い聞かせられたので、もしかすると何か特別な意味があったのかもしれない。しかしその真意を知る前に、オリヴァーは見知らぬ男によって部屋から連れ出された。
その日はまだ日も上らない真夜中だった。
普段は消しているはずのランタンに火が灯っていた。そのためにぼんやりと目が覚めた時にもしっかり母の顔が見えた。その安心感からか、あるいはまだ完全に目覚めていなかったせいか、「彼についていって」の言葉に素直に応じた。応じてしまったのだ。
最後に見た母はやはりいつもと同じボロを着ていた。
布の端切れを繋ぎ合わせたみたいな、ところどころ虫食いの跡やカビが生えたような、そんな服。しかし母はそれでもなお美しかった。外に住まう人々に憧れはしたものの、母の美しさには敵わないと確信していた。母はそんな顔で微笑みながらオリヴァーを見つめ、
「さようなら」
それが母の最後の言葉だった。
何もわからぬまま、オリヴァーは部屋から連れ出されて屋敷の外に停まっていた馬車に入れられた。馬車が動き始めたところでようやく空が白み始め、男はオリヴァーの向かいに座って深々と頭を下げた。
「これからあなたをとある村に連れていきます。そこで私と共に暮らすのです」
なぜ。母は。一緒じゃないのか。
おそらく半狂乱だったと思う。泣き叫んでいたかもしれない。母から引き離されたのはそれが初めてだったのだ。しかし男はわずかに困ったような顔をしてオリヴァーを見つめ、
「残念ながらあなたの母君は助かりません。あなたを屋敷から連れ出すだけで精一杯でした」
言い終える頃にはとても苦しそうな顔で目を伏せた。
「申し遅れました。私は、リューディア様――あなたの母君からあなたを助けるように仰せつかりました、ユゼック・ベルメールと申します」
その時オリヴァーは初めて自身の母親の名前を知ったのだった。




