第9話 あなたの魂
ちち、という小鳥の声。
目隠し布の隙間から木漏れ日が差し込んでくる。
「……ん」
薄く開いたエンディの目に最初に映ったのは空いた皿だった。なんだこれは、とぼんやりと考えているうちに、昨日のことを思い出す。
アウロニスを雨のなかに置いたまま、エンディはベッドにふらふらと歩み寄り、顔面からぼすりと落ちたのだ。なにも考えたくなかったし、動きたくなかった。そしてそのまま、朝を迎えた。
皿は、夜中に置かれたものだ。黒パンに具材が挟まったものが載っていた。寝ぼけながらそれを摘み、旨い、と思った記憶がある。ミャオフがあまり使わない香辛料が効いていた。卵を茹でてつぶした具材も初めて口にした。
「……ミャオフ……また料理上手に……もう、あたしの手の届かないところへ行ってしまったのだな……」
ベッドの上にあぐらをかき、欠伸と背伸びを同時に行いながら、エンディは過去に自らが厨房で引き起こした数々の惨事を思い起こしている。
と、厨房からかちゃかちゃと食器の音。
昨日、彼女は担当である皿洗いをしないで夜を迎え、いまに至るまでそのままだ。ミャオフが洗ってくれているのだろう。さすがに同居人としての自らの振る舞いに疑義を感じた彼女は、がしがしと寝癖のついた後ろ髪を揉みながらベッドを降りた。
二日酔いもすっかり醒めている。窓布を開け、雨上がりにきらきらしている眩しい日差しで寝室を満たす。
「おはよ……お」
ふたたびの欠伸を交えながら厨房に入ると、振り向いた顔はふたつあった。
「あ、おはようお師匠ぉ」
「おはようございます」
エンディが硬直したのは三を数える間のほどで、次の瞬間には食卓の上にあった刺し匙を三本取り上げ、指の間に収めて振りかぶっていた。ミャオフは彼女のその動作を直前で予期して五歩ぶんほど跳び退り、まな板で顔面を防御している。
「わああ待って待って、ちょっと待って」
両手に皿を掲げ、水場のまえで降参の姿勢をとっているのはアウロニスだ。その胸から膝を覆っている黒の前掛けはエンディのお気に入りのものだったが、今は気づいていない。
「……なにをしている」
右の刺し匙を振りかざしたまま、左手に肉切り刃を取り上げたエンディの地を這うような低い声は、アウロニスに言葉の選択を誤らせることとなった。
「……皿、洗、い……?」
刺し匙のひとつは鋭い風切り音とともに彼の脇の下を通過し、背後の洗い桶に突き立った。まだ二つある。肉切りもある。ここにアウロニスの命運は極まった。
救ったのは、火口にかけていた鍋の盛大な吹きこぼれの音である。
「にぅああ」
「あっ、まずい」
ともにまな板と皿を盾としながら、ミャオフとアウロニスは火口に走り寄った。アウロニスは手慣れた様子で炭を寄せ、鍋の蓋を持ち上げる。大匙を取り上げて大きくかき混ぜると、昨日の夜まで埃をかぶっていた調味料入れから何本かの瓶を取り上げ、振り入れた。
そのすべてが片手の皿をエンディのほうに突き出したままで行われたのである。魔法操作に習熟したもの特有の、左右で独立した動作。
香りを確かめ、よし、と頷くアウロニスの表情に、エンディは毒気を抜かれたように腕を下げ、はあとため息をついた。
「……ミャオフ」
「あい」
「これは、なに。どうなってるの」
ミャオフは少しのあいだ首を捻っていたが、やがて頷いた。
「あくにんすが夜に家に入ってきて、食料をだせ、といった」
「わかった」
「ぜんぜんちがうってば!」
なかば泣きながら説明の言葉を重ね、アウロニスは肉切り刃がエンディの手から放たれる直前にどうにか相手の闘気を鎮めることに成功した。
その間にミャオフは、彼がつくった煮込み料理を三つの皿に盛り付けて食卓に配膳してちんまりと椅子につき、足をぶらぶらとさせている。
「冷めちゃうにい」
恨めしそうにじっとりとミャオフを見やるアウロニス。その横顔に胡乱な視線を向けているエンディ。ただ、ともに大人しく食卓についた。ミャオフの隣にエンディ、向かいにアウロニス。
エンディはしばらく手をつけなかったが、ミャオフがひとくち含んで、み! といって獣耳をぴんと立てたので、渋面をつくりながら匙で口に運んだ。
「……旨い」
ついこぼれた言葉に、エンディはにわかにごほごほと咳をした。誤魔化しているのである。が、アウロニスは聴き漏らしていない。口元を持ち上げ、うんうんと小さく頷いた。
食べながら、エンディは昨日の夜食もアウロニスの手によるものであることを知った。渋面がさらに深いものとなったが、朝食を口に運ぶ速度がまったく落ちない。なにも言わずにおかわりを取りにゆく。
全員が食べ終わるまで、エンディは腕を組んで横を向いていた。アウロニスは丁寧に食後の礼をして、ミャオフがそれを真似する。皿はエンディが片付け、洗った。最後まで渋面のままだった。
◇◇◇
「……行かないぞ。あたしは」
口に釘を咥えながらエンディが言うと、アウロニスは扉の向こうで把手を支えながら小さく笑った。互いに膝立ちだ。
雨が吹き込んだ玄関もすっかり乾き、初夏の日差しが入りはじめている。
ミャオフが洗濯物を抱えて裏の物干しに行っているあいだにエンディが道具を持ち出してきたので、アウロニスも自然と付き合うかたちとなっているのである。
「粘ります。いつか、思い直していただけると信じています」
「無駄だ」
「さあ、どうでしょう。時間はまだあります。それに……」
アウロニスが言葉を切ったので、エンディも釘を打つ手を止めた。口元に小さな微笑みを置いたまま、彼は呟くように声を出した。
「それに……もし、本当に行っていただけないなら、僕があなたの魂を受け継ぎたい。あなたの考え方、あなたの行動を僕が学んで、伝えたい。きっとそれが、仲間たちを救う時が来る。そう、信じています」
エンディは動きを止めたまま、じっと相手の目を見ている。が、息をひとつ吐いて、何も言わずに元の作業に戻った。アウロニスは眉を上げている。強い言葉を返されなかったのが意外だったのだろう。
しばらくしてから、再びエンディが口を開いた。
「……どこにいたんだ」
「なにがです」
「……あんたの兄、というひと。どこの隊だった。あたしのことを、見たのか」
アウロニスはわずかに背筋を伸ばして、しばらくエンディの顔を眺めていた。が、なにやら意地の悪そうな顔をつくり、こてんと首を倒してみせる。
「気になりますか」
「……いや、別に」
「僕の話を聴いてくれたら、教えてあげなくも、ありません」
その言葉にエンディは眉を逆立てたが、同時に振り下ろした金槌が自らの手首を掠ったので、声を出さずに悶絶することになった。アウロニスが目を見開き、腰を浮かせて扉のこちらにやってくる。
「大丈夫ですか。ごめんなさい」
「……なんで、あんたが、あやまって、るんだ、よ」
「見せてください」
わずかに腫れた彼女の手首を持ちあげ、アウロニスは額のまえに翳した。目を瞑る。口のなかで小さな詠唱を行うと、エンディは手首にすうと涼しい風を感じた。痛みが消える。
「いかがですか」
エンディは返事をしないまま、すいと手を引いて横を向いた。アウロニスはまた小さく笑いながら、扉の向こうに戻っていった。
とん、とんと金槌の音。互いに喋らない。
中天に至らない日差しだが、今日は暑くなるのだなと、胸もとに溜まった熱を逃す方法がわからないままでエンディは作業を続けている。
が、修理は唐突に中断した。
アウロニスが扉の内側に転げ入ってきたためである。
「……な」
腰のあたりを押さえて咳き込んでいるアウロニス。背後から打撃を受けた、とすぐに判断をつけたエンディは中腰となり、扉の向こうにあるであろう影の来襲に備えた。
が、すぐにその緊張は脱力に代わり、かくりと肩を落とすこととなった。今朝から何度目になるかわからない渋面を作る。
「……また、めんどくさいのが……」
とん、と踊るような足取りで踏み入ってきた影は、眩しい陽光を背負いながらくるりとまわり、鮮やかな紫色のドレスの裾を揺らしてみせた。
上気した頬に片手を添え、濃い桃色で縁取られた大きな目をひとつ瞑り、エンディにキスを投げる。
「ごきげんよう、お姐さま。結婚いたしましょう」