第8話 皿、洗えるか
「……辞め、た……?」
アウロニスの表情は、エンディが言葉を返すたびに緩む。
たとえ、彼女が石炭を奥歯で噛み潰したような顔をしていたとしてもだ。
どうだ、と言わんばかりに胸を張り、大きく頷いてみせる。
「王軍の拠点がここから半日の距離に置かれているんです。ミリスティゲルでの攻略戦に向けての準備です。主だった幹部も同行しています。ですから、王都まで馬を走らせる必要はありませんでした」
ひと息に説明したアウロニスには、エンディの渋面が、ミリスティゲルから王都までの往復三日の旅を経ずにしていかに職を辞する手続きが可能となったのか、との疑問の表明と映っているらしい。
むろん、エンディはその誤解を解こうとはしない。必要もないからだ。
「……そうか」
「はい!」
アウロニスの返答が大声であったために、エンディの寄せられた眉根はほとんど眉間において接着した。すがめられた目は糸のようになっている。
「……ご苦労さん」
「はい!」
「よく休め」
「はい……!」
言いながら、すうと扉を閉めようとするエンディ。が、アウロニスの手が伸びた。がっと扉を掴む。笑顔を貼り付けたままだ。
「まだお話が」
「……あたしにはないが」
「明日からのことです。お仕事もあろうかと思います。お時間をたびたびいただくのも心苦しい。ついては、いつでもお手隙のときに作戦概要などを説明させていただけるよう、日中は同行させていただければと」
エンディはさらにぐいと引く。が、アウロニスがわずかに優った。ぐぐ、と外に向けて開かれる扉。エンディは把手を掴む片手にもう一方の手も添え、力を込めた。
「……なん、で、あたし、が、あんたの説明を、きかなければ、ならない……!」
「はい、昨日は僕の説明があまりに拙く、性急でした。反省したのです。しっかりと時間をかけて、王軍の計画と僕の考えをご説明すれば、きっとご理解を……」
「だ、か、ら……! なんであたしが、ご理解しなきゃ、ならないんだ、よ!」
ぐい、と思い切り引いた途端、ばきんという音を立てて把手がもげた。たがいに後ろにたたらを踏んで目を丸くし、手元の部品を見つめる。
「……明日はまずは、大工仕事からになりそうです」
「……あんた、莫迦だろ」
「はい、よく言われます」
「王軍を辞めたんなら、あたしのとこに来る理由がない。なにを狙っている」
その問いに、アウロニスは笑顔を収めた。じっとエンディの目を見つめる。雨のなかにもその柔らかな薄青の瞳が透き通って見えたから、彼女はわずかに視線を逸らした。
「……あなたを誘っているのは、僕の一存です。王軍の意向ではありません。ですから、ここに居続けるためには、あなたを説得し続けるには、辞めるしかなかった」
「はあ?」
「ですが、必ずわかってもらえます。あなたがいかに重要か。僕が説得します。二人で王軍に戻りましょう。扉を克服するために。王軍の、輝かしい勝利のために。人類の新しい明日のために」
がん、と床に叩きつけられた把手の部品。
エンディの手から放たれたそれが幾度も跳ね返る間に、彼女は前に踏み出していた。アウロニスのずぶ濡れの襟元を掴み、だん、と玄関外の壁際に押し付ける。喉元に肘をあて、制御を奪う。二人の身体を雨が打つ。
自分の言葉が激情を誘うことはわかっていたのだろう。アウロニスは驚いた様子をみせなかった。が、締め上げられながらエンディの目を見た彼の表情に、戸惑いが浮かぶ。
エンディは肩口でぐいと目元を拭った。
滲んだ視界は雨のためだと、充血した目尻は酒のためだと、自分自身に説明をしている。
「……いいよ。いま、教えてやる」
「……ぐ」
「どうすれば勝てるのか。どうすれば、生き残れるのか。関わらないことだ。扉の主に、大回廊に、そしてあたしに」
「……」
「挑むな。背を向けろ。逃げ続けろ。感じなくなるまで罵りを浴びろ。迎えたくもねえ朝日をなんどでも拝め。最後までそれができれば、勝ちだ」
ひと言ずつを区切るように、刻むように発声し、エンディは最後にぐいと力を込めて、ふいに手を外した。がくりと膝を折り、咳き込んで喉元を抑えるアウロニス。
「……もう、来るな。ここには」
冷ややかに相手を見下ろしながら、エンディは小さく呟いた。把手を掴もうとし、空振りをした手元を忌々しそうに見つめて、扉に手をかける。今度はアウロニスも掴もうとはしなかった。
その代わり、扉が閉まる瞬間、小さく、だがはっきりと声を出したのだ。
「……兄が、いたんです。ニーデバルトに」
その単語にはエンディの自由を奪う効果があったから、彼女は動けなくなった。閉まりかけた扉の向こうにアウロニスの金の髪を見つめたまま、硬直する。
互いにそのままの姿勢で、ぽつぽつとアウロニスは言葉を発した。
「……あの日、ニーデバルトの深層で、兄も闘っていました。パーティが壊滅して、重傷を負った兄は数日後に救出されましたが、亡くなりました。それでも僕は、最期に兄と会話することができた。それがどれだけ大きいことだったか」
アウロニスはちらと扉の中に目をあげた。許しを請うような表情だった。
「つまらないことを話します。ごめんなさい。僕は、騎士の家に生まれた。たくさん期待されて、だけど僕には上手にすることができなくて。学問がしたかったから、逃げました。家を出たんです。その僕を、兄だけがいつも心配してくれました」
「……」
「傷を負った兄のもとへ駆けつけました。その僕に、兄は言ったんです。作戦はうまくいかなかったが、誰のせいでもない。みんな互いを護ろうと必死だった、決して責めるな、と。そして最先鋒を切り拓いた騎士たちのことを、兄は懐かしそうに、誇らしげに、いつまでも語っていたんです。息を引き取るその時まで」
ふいに雨足が強まった。扉のこちらに吹き込んでくる。それでもエンディには扉を閉めることができなかった。
「……地獄のような状況で、それでもその姿を、皆を護って闘う姿を、誰かの心に刻んだひと。人生の最期まで誇らしいといわせたひと。そのひとを、知りたい。その魂を知りたい。騎士学校に戻って王軍に入った僕は、ずっとそう、考えていたんです」
互いに言葉を発しないから、玄関前の石畳を叩く雨粒の音だけがしばらくの間、響いていた。やがてエンディがゆらりと身体を動かす。扉を閉めようとしない。その方法を失念したのだろう。玄関の奥の壁にとんと背をつけて、俯いている。
と、左手の寝室のほうから目をこすりながら現れたのはミャオフだ。
「お師匠ぉ……ばんごはん、どうするに……ぃ、いっ? び、びしょびしょにぃ」
吹き込んだ雨に水浸しになった玄関付近の床を指し、ミャオフは虎毛を逆立てて叫んだ。黙り込んでいるエンディと、把手が失われた扉の向こうに知った顔を見つけ、戸惑ったように交互に見る。
「にぅ……あくにん、の、ひと……そうか」
なかば寝ぼけていた目を見開いて逆立て、にゅうと爪を出し、エンディを護るように立ち塞がった。威嚇の唸り声を低く上げ、いつでも跳べる体勢をとる。が、エンディは黒と銀の髪を垂らして俯きながら、小さく首を振った。
「……いい。扉を壊したのは、あたしだ。そいつはただの悪人だし、すぐに帰る。相手にするな」
それだけを言い置いて、エンディはふらりと足を出した。首を垂らしたまま、寝室の方面に向けてぺたぺたと歩いてゆく。戸惑ったのはミャオフだ。
「あ、に、う」
「……あの……」
エンディの背を見送っていたミャオフは、しとどに濡れたアウロニスに扉の外から声をかけられ、きゅうと音を立てて背筋を伸ばした。手を前に妙なかたちにぶら下げながら、ゆっくりと彼のほうへ振り返る。
「……あの、軒先……借りても、いいかな。ごめん、迷惑はかけない。宿屋が……取れなかったんだ。どこにいっても、あんたに貸す宿はないって言われて……なんでかな……」
えへへ、と頼りなげに頭を掻くアウロニスに、ミャオフはしばらく非常に複雑な表情を浮かべていたが、やがてミャオフなりの計算が確定したのだろう。やおら振り向き、とててと走って、奥から何枚かの布地を持ってきた。ん、とアウロニスに差し出す。
「床、ふく。あと、身体」
「……あ……あり、がと……」
戸惑いながら受け取り、言われたとおりに雨の吹き込んだ玄関まわりを拭き始めるアウロニス。その姿を見下ろしながら、ミャオフはさらに高度な計算を重ねたらしい。ひらめいた、というように目を見開き、彼の背に声をかける。
「あ、あくにん」
「……悪人じゃないよ、アウロニス」
「わかった。あくにんす。あくにんすは、皿、洗えるか」
へ、という顔のままで固まったアウロニスだったが、やがて頷いた。
「あ……ああ、うん、まあ……普通には」
「ごはん。できるか」
「でき……る、かな。肉料理くらいなら」
「にく」
ふんすと鼻息を吐き、ミャオフは獣毛に覆われた頬をさえ染めてみせた。にんまりと口の端を持ち上げ、アウロニスの袖を引く。
「へや、いっぱいある。あっち。その前に、お皿」