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第7話 雨の宵、玄関にて


 「……ぐ……」


 呻き声をあげ、エンディは背を丸めた。

 無限とも思える努力の末にわずかに得た視野も赤く霞んでいる。

 彼女にとって世界はいま、痛みで構成されている。


 もがき、身体を起こそうとするが、叶わなかった。

 無理もない。全身を侵す毒性物質が彼女の神経回路を縛っているのだ。それでも、彼女は練磨である。こうした窮地の経験をいくつも有しており、それへの対応をよく心得ている。準備も怠りない。


 が、その周到な用意も無に帰した。

 振り回した腕が掴み取ることに失敗した陶器のカップは、盛大な音を立てて床で砕け散ったのだ。ベッドの下に飛び散る破片と、二日酔い止めの薬が溶けた水。


 「にぁああああ」


 寝室に走り込んできたミャオフが目を剥き、右手に持っている焼き物返しごと頭を抱えた。首筋の虎柄の獣毛が逆立っている。


 「だぁかぁらぁ……枕もとに置いたら危ないにって、言ったにぃ……」

 「……あたしの計算によれば、ちょうど、ここでこう、手を振れば……掴み取れるはず、だ、った……」


 それだけ言葉を遺して、いちど上げた顔をがくりとベッドに押し付け、再びエンディは沈黙した。泣きそうな顔で駆け寄るミャオフ。


 「お、お師匠……だめ、だめ……」

 「……ミャオフ……すまない……」

 「だめにぃ今度やったら自分で掃除するって、言ってたにぃ」


 ミャオフはエンディの腕を引き、背を支えてぐにゃりとする身体を起こさせた。走って厨房に戻り、焼き物返しの代わりに箒とちり取りを持ってくる。エンディの膝にそれを載せて、すぐにまた厨房へと走った。


 「……残酷だな、世界は……」


 ゆらゆらと揺れながら二日酔いに痛むこめかみを押さえ、小さく漏らしたエンディ。すぐさま、ざんこくじゃないにぃ、という返事が厨房から届いた。


 昨夜。

 ゴディオの店、『小鳥たちの囁き亭』を出たのは月が中天を越える頃だった。

 王軍から来たという男、アウロニスは、最後には膝に手を置き、床と並行になるまでに頭を下げてみせた。


 ふた月後の、大回廊第四扉、ミリスティゲルの扉の攻略戦。

 王立パーティに、加わっていただけませんか。

 剣を振るわなくていい。魔法も使わなくていい。ただ、あなたの経験を、あなたが知っている扉の主の本質を、皆に伝えて欲しいのです。

 僕たちが、護ってみせますから。あなたを。


 ミャオフの首筋に顔を埋めたままで器用にグラスを傾け続けていたエンディは、アウロニスが言葉を収めるまで、ただ、黙って聴いていた。

 それでも、護ってみせる、というところでわずかにその背が震えたことに気づいたのは、ミャオフだけだった。


 エンディは、ゆらりと立ち上がった。アウロニスも顔を上げる。

 ミャオフの背に手を当て、行こう、と促してエンディは扉に向けて歩き出した。その背にアウロニスは手を伸ばし、待って、お願いだ、聴いてくれ、と声を投げる。


 悪いね、生きてる人間とは組まないって決めてんだ、あたし。


 振り向かないでそれだけを返し、厨房の方へごちそうさんと言い置いて、エンディは扉を潜った。ミャオフが続いたが、しばらく置いてアウロニスも続いた。


 エンディはちらりを後ろを振り向いて、ため息を吐いた。そうなるだろうね、と呟いて、彼女はミャオフに小さく声をかけた。

 跳ぶよ、と。

 に、とミャオフが短く返事を返すと同時に、二人は跳躍した。一人は伸縮索を用いて、もう一人はその脚力により。たたんと屋根から屋根へ身を躍らせる。アウロニスがついてくる様子はない。わずかに雲が掛かりはじめた月の光を浴びて、ふたつの影は自在に中空を舞った。


 エンディの住処は、ミリスティゲルの西部、歓楽街の端にある。

 まだそのあたりが最前線であり、未踏のダンジョンがいくつも口を開けていた時代に建てられたものだ。当時は冒険者たちの宿舎だったが、前線の移動にともなって使われなくなり、夜の商売をする女たちの集合住宅となった。そして老朽化により取り壊しになる寸前、エンディが買い受けたのだ。


 部屋数だけは多いが、何もかも古い。

 それでも四年前、この街に流れ着いたエンディが即金を支払ったのは、この物件は売り主が面談をしなくても良いと言っていると仲介者が説明したためだった。


 その住処の前にとんとふたつの影は降り立った。エンディはふうと息を吐いて伸縮索を腰に戻し、全体に蔦を這わせた石造りの無骨な住まいに目を向けた。


 踏み出しかけた脚が止まる。

 飾り気もない玄関の横に影があった。

 反射的に背の短針に手を伸ばしかけ、エンディは目を凝らし、頭を振った。渋面を作ったが、それは酒が抜けかけたことによる頭痛にも由縁している。


 どうやった。

 声をかけたエンディに、アウロニスは居づらそうに目線を逸らし、頭の後ろを掻いて、追跡魔法、得意なんです、と小声で答えた。


 ミャオフは戸惑うように爪を出し入れしていたが、エンディはかまうんじゃないと声をかけて背を叩いた。アウロニスの方には顔を向けずに横を通り、扉を開け、強く閉める。閉まる間際に手を止めて、入ってきたら殺す、と低い声で言い置きながら。


 お師匠、まだいるにぃ、と窓から外の様子を伺いながらミャオフは報告したが、同じように顔を出したエンディが、そうか、あたしには見えないけどね、と返したので、首を捻りながらエンディが待つベッドに向かっていったのだ。


 そして、今朝。

 前日の快晴が嘘のような大雨だった。

 街路が泡立つように見えている。


 「……仕入れは、明日にするか……」


 気怠げに窓に寄り、薄い目隠し布を開けてみる。昨夜と同じ窓から見た風景には、雨がけぶる中、通行人も、アウロニスの姿もなかった。


 仕事が続いたので消耗品を補充しなければならない。装備の点検と修理も必要だ。だから今日は仕入れに充てようと思っていたが、億劫だ。この雨でもあるし、頭痛もひどい。気難しい道具屋の顔を思い出すとなお気が滅入った。

 よし、中止。

 エンディはもう一度ふらふらとベッドに向かい、倒れ込んだ。が、即座に引き起こされる。


 「ごはんにぃ」

 「いらない」

 「い、ら、な、く、ないにぃ」


 ミャオフの体躯は十代はじめの少年ほどなのだが、魔獣の筋肉を有している。頭のうえに成人男性を抱え上げるほどの膂力を有するのであり、ぐずるエンディを引きずって食卓につかせるほどのことは訳もない。


 なかば目を瞑りながら、それでもエンディは好物の目玉焼きと黒パンだけは平らげた。食卓を去ろうとする彼女を捕らえ、ミャオフが生野菜を詰め込むように食べさせたのは、昨夜に酒場でゴディオに無理やりサラダを食べさせられた意趣返しでもある。互いに、野菜は大の苦手であった。

 

 「夕方まで寝るから」


 皿洗いは家事全般におけるエンディの数少ない担当のひとつだが、それすらも放棄して、彼女は左右に蛇行しながらベッドへ向かった。


 「むぅ? おでかけは?」

 「中止になったよ」

 「そうか」


 予定を聞かされていたミャオフだったが、今日は出かけたくない。雨の日は髭が湿り、勘も鈍る。魔虎の血を引くミャオフは、流しに置いた皿をちらと見やって、エンディとともにベッドに潜り込んだ。


 雨が降り止まない。

 初夏ではあるが、高地であるミリスティゲルは夜も、こうした雨の日も、肌寒く感じるほどに気温が下がる。

 二人はそのまま、時折りごろごろとじゃれあいながら、夕方まで毛布をかぶっていたのである。


 「……おなか、すいた」


 陽も落ちたころ、ようやく胃が動き出したエンディは、丸くなって眠っているミャオフを起こさないようにベッドから抜け出し、水場へ向かった。湯を沸かす。昨日の仕事から汗を流していない自分のありさまに閉口したのである。

 珍しく気が向いて、香油も使った。上等とはいえないごわごわした布地で拭きあげた髪だったが、黒も銀も、変わらぬよい香りがした。


 そうして機嫌良く鼻歌を歌いながら、なんとはなしに、雨の様子を見ようと玄関の扉を開けたのだ。


 「……な」


 咄嗟に背に手を回したが、寝巻きだ。短針も、刃物もない。

 だからエンディは、代わりに思い切りのしかめ面を作ってみせた。


 白の軍衣ではない。

 焦茶の外套に、同じ色の行動衣。選んだのだろう、ブーツも革手袋も同じ色だった。

 ただ、全身がずぶ濡れだ。


 「辞めてきました」

 「……なに、を」


 濡れ鼠のようになって玄関先に立っていたアウロニスに、エンディはうっかり言葉を返してしまった。それを聴き、相手は嬉しそうに顔をくしゃりと撓めてみせる。


 「王軍を。これでもう、心置きなく粘れます。あなたに」



  

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