第6話 ニーデバルトの悲劇
くしゃ。
がり、がり。
音は遠くからのように思っている。
闇の中に漂うエンデラーゼには、ただ、上下も左右も区別がついていない。時間の感覚すら失っている。だから、実際にはそんな音を聴いてはいないのかもしれず、自分はもう存在していないのかもしれないとさえ、ぼんやりと考えている。
闇の中で、何度も何度も、情景を反復している。
遠い昔のようにも思う。
つい、今しがたにも思う。
想定を大きく上回る速度で前進を続けた王立パーティは、予定よりも三日早く、目標であるニーデバルトの扉、大回廊第二扉の直上に到達した。扉を護る魔物たちの抵抗は苛烈だったし、負傷者も出たが、士気は高かった。
そんな中で、その報告はもたらされたのだ。
扉の主の滞留空間。そこへの、別の経路が存在する。
慎重に隠蔽されたその経路を発見した若い前衛設計者は、先鋒部隊の責任者であるゼオに、興奮を隠せない様子でその詳細を報告した。
興奮はゼオにも伝播した。
被害を最小限に抑え、扉の主を背後から突けるかもしれない。
エンデラーゼにそう語る彼の頬が紅潮していた。瞳に興奮の光が宿っていた。彼女は微笑んで頷こうとしたが、なにかを感じて、躊躇った。その躊躇いは良くないものだと、彼女は自分自身を叱ったのだ。
協議は紛糾した。特に、後衛の責任者であるエリオスが強固に反対した。が、その後に次々に入った続報が彼らの空気を変えて行った。
正規の経路に対し、魔物の反応が十分の一。何らかの理由で魔物が生息できない空間なのかもしれない。扉の主の弱点。だからこそ慎重に隠蔽したのだろう。経路は狭いが、少数で迅速に突破するに適した地形でもある。
だが、誰がゆく。誰が切り開く。
その声にゼオが反応する前に、エンデラーゼが立ち上がった。
わたくしが、行きます。皆さんを護ってみせます。どうか、背を離れないで。
総員の拍手のなか、ゼオとエンデラーゼは互いの目を見て、微笑みながら頷いた。
進路は未知の経路へと変更された。
そうして、進入の直後に、それは静かに出現したのだ。
銀に輝く闇。
エンデラーゼが最初に受けた印象はそれであり、彼女はそれを、美しいと感じてしまったのである。
ごく小さい。
エンデラーゼとそう変わらない。
立ち上がった長髪の女性、あるいは滑らかに溶けた氷柱。人智を超えた銀の光、深い闇をまとって、その存在は唐突に彼らの前に現れた。
直前までまったく魔力を感じなかった場所に、周囲の空間を捻じ曲げるほどの強烈な反応が生じた次の瞬間、エンデラーゼの背、左右の数名が消失した。
罠だったのだろう。
あるいは、戯れのようなものだったのかもしれない。
いずれにしても、大回廊第二扉の主にとっては、それは戦闘ではなかった。淡々とした作業。そう表現するしかない手順をもって、エンデラーゼの周囲についていたほとんどの隊員は十を数えるまでに肉体を失った。
それでも、攻撃が徐々に通りはじめた。凄まじい速度で繰り出される触手状の攻撃を躱しながら、騎士たちは主を押し込み、隙を作った。
エンデラーゼは全身の魔力を一点に集約し、同時にゼオが奥義の剣を振るった。攻撃は主の銀の身体を貫き、裂いた。静寂が戻る。
歓声。手を叩きあう騎士たち。エンデラーゼはゼオに走り寄り、飛びつくように抱きついた。
その二人を同時に地に叩きつけた触手は、壁面から生じていた。
壁面は、銀。
その時になってようやく、騎士たちは気づいた。扉の主の本質は、扉そのもの。主とは大回廊の一部であり、彼らはその腹のなかで闘っていたのだということを。
後方の部隊の絶叫を、薄れゆく意識のなかでエンデラーゼは感じていた。
主により隠蔽されていた魔物たちがすべて同時に解放され、雪崩のように、あらゆる経路からパーティに殺到しようとしていることも。
それからずっと、闇の中にいる。揺蕩っている。
痛みはなく、苦しみも、喜びもない。
がり、という音はしばらく続いていたが、ふいに止まった。
代わりに何かが近づいてくる。
彼女は肩に触れるものを感じ、それによりまだ自分が肉体をもっているのだということを思い出した。
と同時に、闇が回転した。遠くに切れ目が生じ、ごく淡い光が差し込む。ゆっくりと開かれた目に、暗く沈む周囲の光景が映る。
身体を横にして倒れている彼女の腕をつかんだのは、翠の髪を持つ騎士だった。
「……ぜ、お……」
霞む視野のなかで、彼女は自分の横に膝をついた相手に手を伸ばした。凪いでいた心に波が起こり、それは彼女の両の目から溢れだした。
「ゼオ……よか、った……いき、て、て」
相手も彼女の腕を取る。
取って、わずかな間を置き、その二の腕に歯を突き立てた。
「あぅ……っ!」
身を捩り、腕を引く。消えていた肌の感覚が戻ってくると同時に全身に痛みが走る。視野の霞がわずかに払われ、目の前にある相手の顔に焦点が合った。
銀色の皮膚、銀色の瞳。髪にもまだらに銀が混ざる。
表情をもたない瞳の中心に、小さな紅の点が灯っていた。
「……ゼオ……その、姿……どうして」
相手は彼女が言葉を終えるのを待たなかった。首に両手を伸ばし、締めながら掴み上げる。逃れようとした彼女の背に廻り、羽交い絞めにして肩に歯を立てる。エンデラーゼは絶叫し、大きく身を捩った。相手の脇に何度も肘をあてるが緩まない。
呻きながら、エンデラーゼはそのときに視野の縁に捉えたのだ。
地に転がる、喰い荒らされた僚友たちの遺骸を。
戻っていたはずの音が、感覚が、失せた。
問わないし、答えも要さない。
経緯も理由もいらない。
明日はないのだから。
脇に差していた剣をゆっくりと引き抜く。
残っていた魔力のすべてを柄に流し込む。
薄く光を帯びたその剣を高く掲げ、自らに向ける。
「……ゼオ」
小さく呟くと同時にエンデラーゼが振り下ろした剣先は、彼女の胸とその背のゼオを同時に貫き、背後の壁に達した。
なにかが流れ出てゆき、なにかが流れ込んでくる。
目尻から落ちた雫は前者のひとつだったし、後者は懐かしいゼオの匂いを伴っていた。そのどちらもこれから永劫の罰を受ける自分には許されないものだと、エンデラーゼは意識を閉ざした。
だから、もう目覚める必要などなかったのだ。
それでも闇の中に意識を得たのは、すでにそれが罰なのだろうと理解している。
気がつけば、歩いていた。引きずるように脚を動かしていた。
なぜ、とは思わない。自分が生きているとは考えていないからだ。
灯りはない。まったくの闇の中で、どこを目指しているのか、自分自身にもわからない。僚友たちも、魔物もいない。
ただ、ただ、渇いていた。激しい渇き。
照明を得ようと魔法を使う。が、その瞬間に膨大な意識が流れ込んでくる。自分の意識と置き換わる。恐れ、怒り、恨み、嘆く声が彼女を支配しようとする。その声の色のひとつは、懐かしげに彼女を呼ぶのだ。
『エンデラーゼ。もう、離れない。ほら、僕たちの力、素晴らしい力……使ってごらん』
自らの顔を削り取るように擦り、あるいは岩壁に頭を打ち付け、彼女は声を消した。剣を抜き、自らの首に突きつけることもあった。
そうやって彷徨ううち、やがて水音を聴いた。彼方にぼんやりとした光。
全身の痛みに呻きながら、転がるように走り寄る。
水場。洞窟蛍が群れている。
ほのかに蒼く照らす光のなか、彼女は水面に身を乗り出した。
清らかに澄んだ水面は、残酷なまでに明瞭に映し出したのだ。
銀の皮膚、銀の瞳、銀の髪。
顔の右半分を覆った、呪いの銀を。
長い絶叫が自分の声であるのか、あるいは自分を罰する僚友たちの呪いの言葉であったのか、彼女には判断をすることができなかった。
◇◇◇
ニーデバルト撤退戦、あるいはニーデバルトの悲劇と呼ばれるその出来事の公式な記録には、ヴィステリア侯爵令嬢は作戦開始から十三日後に深層付近で発見され、処置ののちに侯爵家へ移送されたが、息を引き取った、と記されている。
だから、彼女を見たヴィステリア侯爵が漏らした言葉も、厳重に隔離された彼女が数日後に意識を取り戻し、その日のうちに姿を消したことも、侯爵家の一部の使用人以外には知られていない。
全身を包帯で覆われたエンデラーゼのベッドへ走り寄り、だがすぐに口元を押さえながら後ずさって、ヴィステリア侯爵はこう呟いたのだ。
なんだ、これは。
なぜ魔物がここにいる。