第5話 エンデラーゼ・ヴィステリア
太聖暦二百二十五年、初夏。
雲ひとつない快晴に恵まれたその日は、ちょうどヴィステリア侯爵令嬢エンデラーゼにとっては十七回目の誕生日でもあったのだ。
「おめでとう、エンデラーゼ」
背中からかけられた声に、エンデラーゼは背の半ばまでの艶やかな黒髪をぽんと揺らして振り返った。
「お父さま! いらしてくださったのね」
「ああ、遅くなってすまなかったね」
純白に金の美しい縁取りをした薄甲冑を鳴らしながら、彼女は大きく手を拡げた父、ヴィステリア侯爵の胸に飛び込んだ。
「北方のお仕事で帰れないって伺ってたのに。ご無理なさったんじゃないの」
「はっはは、可愛い君のためならさしも怠惰なお父さんも頑張るのさ。本当はもう少し早く抜けるつもりだったんだが、遠征先の王軍の指揮官がやかましくてね。戻ったらまたどやされるよ」
「ふふ。百もの特級ダンジョンを拓いた英雄、翔剣候ですものね。お父さまがおられるだけで魔物たちは怯えて出てこなくなるもの、今ごろ現場は大変なのではないかしら」
侯爵は無骨な太い指で彼女の後ろ髪を漉いてやりながら、愛しむように柔らかな視線を落としている。
「ああ、そうだな。だが、世界はもうすぐ新しい英雄を迎えることになる。十六歳にして王立パーティの最先鋒に立ち、誰も越えられなかったニーデバルトの扉を攻略して、世界の歴史を変えるんだ。翔剣候など、みんなすぐに忘れ去るだろう。こんなに愛らしく美しい英雄を目の当たりにすればね」
「お父さま。わたくしは今日、十七歳になりました」
「おっと、そうだったな。すまんすまん。しかしあのじゃじゃ馬娘が、なあ」
「あら。お邸の奥で静かに本のページをめくっている娘がご所望でしたか?」
「あっははは、そんな娘がこのお父さんのところに生まれるはずはないな。あらためて、おめでとう。栄えある出陣、そして誕生日」
エンデラーゼは父の背に手を廻し、力いっぱい抱きしめた。父も同じ仕草だが、真っ白な花弁に触れるように柔らかく娘の背に手を置いている。
「おめでとう、エンデラーゼ。綺麗よ」
父の背からの声。エンデラーゼはゆっくりと身体を離し、しばらく互いの目を見つめあってから、母のほうへ踏み出した。手を拡げ、もうすぐ背丈を追い越すであろう母をふわりと抱きしめ、頬に小さくキスを落とした。
「ありがとう、お母さま。ねえ、わたくしはじゃじゃ馬?」
「ええ、そうよ。お母さんの娘ですもの。とっても可愛いじゃじゃ馬。そして、お父さまとお母さんの、ヴィステリア家の誇り」
言いながら、母は襟元に手を置いた。巻いていたスカーフをするりと外し、娘の甲冑、首の防具留めに通してからくるりと巻き付ける。上質な絹地に蒼で繊細な紋様、美しい蝶のモチーフが染め抜いてある。
「これはね、お母さんのいちばんのお気に入り。お父さまに初めていただいた贈り物なのよ。だから、かならず返して。あなた自身の手で」
エンデラーゼは布地を持ち上げ、しばらく目を落とした後で、下の唇をきゅっと噛みながらふたたび母の背に手を廻した。
「……約束、する。かならず返す。埃ひとつつけずに」
「ええ、信じてる。あなたならできるわ」
しばらくそうしていたが、今度は母がエンデラーゼの背の向こうの人影に気づいて、娘の背を小さく叩いた。
「ほら、いらっしゃったわよ。しっかりなさい」
その声にエンデラーゼは目元を拭い、振り向いた。歩み寄ってきた二人の男に小さく膝を曲げてみせる。母も裾を摘み、微笑みかけた。
「ご立派です。ゼオさま、エリオスさま」
二人ともにエンデラーゼと同じ、純白の軽甲冑。ただ、いずれもその胸に金の紋章を戴いている。向き合う二頭の竜、交差した二振りの剣。王の紋章だ。王族と、誇り高き王軍の精鋭のみがそれを身に着けることを許されている。
やや背の高い方、深い翠色の髪と瞳を持つ柔和な顔立ちの騎士が胸に手を当て、丁重な礼をとった。
「ヴィステリア侯爵、翔剣候。そして奥さま、ご無沙汰をしております」
「ああ、元気そうでなによりだ、ゼオ・リーディスくん。だが……相変わらず堅苦しいな。お義父さんでいいって言ってるじゃないか」
「そういう訳にはまいりません。婚儀は攻略戦が終わってからです。それまでは。それに自分は、お嬢さまの夫となる身ですが、候の子息になれるわけではありません。稀代の英雄、翔剣候を仮にも我が父とお呼びするなど畏れ多く……」
「ああ、もう、わかったわかった!」
笑いながら侯爵は降参するように手をあげてみせた。皆も笑う。
ゼオは伏せていた顔を上げ、切長の目を細めて微笑みながらエンデラーゼに小さく手を振った。彼女も口元を押さえながら振り返す。
「エリオスくん、二人を頼むよ。後衛に君が選ばれたと聴いたときには心底、安堵したんだ」
侯爵が声をかけたのは、ゼオの横で爛漫な笑顔を浮かべている騎士だ。短く刈り込まれた橙色の髪と分厚い胸板とが、彼の二つ名、黄金の盾という言葉を連想させた。意思の強そうな眉の尻を下げ、頭の後ろを掻いてみせる。
「ええ、まあ、仕事ですから行きますけどね。ほんとに今回だけは勘弁願いたかったです」
「なんだ。嬉しくないのか、伝説級の精鋭だけを集めた五十人のうちに選ばれたんだぞ。君の名前を十代あとの子孫たちも歌にうたうことになるぞ」
「あんな狭いダンジョンで、こんな熱々の二人をまいにち見せつけられるくらいなら、歌なんぞならなくてもいいです」
今度こそエンデラーゼは声を我慢できない。あはは、と声を漏らすと、初めは渋面を作っていたゼオも拳を口にあててぷっと吹き出した。それから彼女は二人の側へ歩いてゆき、それぞれの瞳を見つめてから小さく頭を下げた。
「……エリオス。どんなに危険なダンジョンでも、誰も降りたことのない深層でも、あなたがいてくれるから、わたくしたちは前だけを見て進むことができます。どうか、よろしくお願いします」
エリオスはなにやら空を見て、ふうと息をついたあと、大きな笑顔を浮かべてみせた。
「親友と、その妻となるひとの背を護れるんだ。俺は幸せものだと思う」
「なんだ、さっきと言っていることが違うぞ。どちらが本心だ」
「ああもう、ゼオ! いま俺、すごい良いこと言ったとこなんだぞ!」
再び口を尖らせたエリオスと、戸惑うゼオ。エンデラーゼは笑いを堪えながら二人に手を伸ばし、肩を抱いた。
「……がんばろうね、二人とも。そして、元気に戻ってこよう」
「ああ、もちろん」
「そのための俺だよ」
と、ちょうどその時。
高らかな鐘の音、勇壮な吹奏楽が広大な王宮前広場に鳴り響いた。
五十人の精鋭たち、そして彼らを支える三百名の要員。家族や友人たちと名残を惜しんでいた彼らの頭上に無数の白い鳩が放たれた。
「……刻限だな」
妻と手を取り合いながら様子を見ていたヴィステリア侯爵がそう呟くと、三人は目を見合わせて頷きあい、改めて威儀をただした。エンデラーゼが一歩、前に出る。
「行ってまいります。必ずや、世界に新しい明日を」
「ああ。頼むぞ」
三人が同時に、かつ、と踵を打ち合わせ、胸の前に手を置いた。ヴィステリア家の娘ではなく、ひとりの騎士として示したその凛々しい礼に、父はただ頷き、母は口元を手で押さえることしかできないでいる。
「……行こう、エンデラーゼ」
ゼオが手を差し出す。伸ばした指をそこに重ねて、エンデラーゼは微笑みながら頷いた。並んで歩き出す三人。
わずかに風が吹き抜けて、エンデラーゼの首元のスカーフをふわりと揺らしていった。