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エピローグ


 王都の東、なだらかな丘陵地帯。


 北の峻険な山嶺がゆったりとその高度を下げながら平野部を抱くように南東に巡り、潤沢な水源と穏やかで冷涼な風、明媚な眺望とをこの地域にもたらしている。

 王都にとって東への備えという意味も持つこの地域を治めるのは、武名たかきヴィステリア侯爵家。王都と大陸東部との交易経路にあたることもあり、侯爵本邸を中心とする市街地の賑わいは喧しいほどだ。


 ただ、そうした喧噪もここには届かない。

 とおく樹々の間に街並みを見下ろすことはできるが、歩けば数刻もかかる山あいだ。夏の日差しを受けてきらきらと揺れる樹葉も、あるいは足元を埋める白い野花も、彼女と下の世界とを柔らかく遮る役割を果たしている。


 日差しなり気温が穏やかでさえあれば、彼女はつねに庭先の露台で過ごした。

 手元の小さなテーブルには茶の入った器が置いてある。それと、本。いずれも、本邸から伴ってきたひとりきりの侍女が用意してくれたものだ。

 茶には少し口をつけているが、本は、今日も開かれることがない。


 三部屋ほどの小さな母屋とあずまやだけの簡素な建物。別荘ともいえない。それでも、ヴィステリア家が所有する多数の地所のなかから彼女はここを選んだのである。

 庭先に立ち、背を伸ばしてみれば、遠くかすむ南の地平にニーデバルト地方を望むことができる。本邸とそこをともに視野に収められるこの場所に立っている限り、最後の糸が切れることはない。繋がりは、絶たれない。

 彼女はそう考えたのだ。


 娘を喪ってから、五年間。

 彼女はその時間を、ずっとここで過ごしてきた。


 言葉を失くし、開いた瞳になにも映さない彼女の心は、娘を追ってニーデバルトの最下層に向かったのだと、魔物に喰われた身体を離れて彷徨う娘の魂を探しているのだと、使用人たちは小声で噂した。

 医師は療養を勧め、それを夫、ヴィステリア侯爵は受け入れた。止めるための言葉を、彼はつくることができなかった。

 ベッドを離れられるようになった頃、雪がちらつきはじめた秋の終わりに彼女は邸を出た。伴ったのは、実家からずっと一緒だった侍女ひとりだけ。彼女がそのように希望したのだ。


 昨日も、あるいはその前日もそうであったように、朝方からずっと雲を追っている。夏には南寄りの風が吹くから、雲はニーデバルトの空を通ってきたはずなのだ。そういうことを、彼女は無意識にわかっている。

 薄くひらいた口で、時おり呟いている。

 名を、呼んでいる。


 やがて眠気が差したようだ。

 細い手首をひざ掛けに置いたままでうとうとと微睡む。

 張り出した日除けを潜って日差しがわずかに足元を暖めたが、夢を破るほどとはならなかったらしい。さらと揺れる樹々の葉擦れの音に揺られ、彼女の穏やかな時間はしばらくは続いた。


 そうして、どれほど経った頃か。

 彼女はふいに顔を上げた。左右を見回す。

 誰かに名を呼ばれた、という表情だ。


 突き動かされるように立ち上がった。落ちたひざ掛けをそのままに、歩き出す。

 たくさんの色を持つ花々が膝ほどの高さに咲いている。花壇のようになっているその間で、なにかを探すようにひとつずつ脚を出す。出すごとに、歩みが速くなる。

 やがて彼女は走り、建物の裏手に向かった。息を切らし、木漏れ日のなかで顔を振る。求めるものは見えない。


 と、彼女が振り返る。

 音を聴いたと感じたのだ。しゅ、と、空気を切るような音。

 先ほどまで腰を掛けていた庭先からだと感じた。


 戻った庭先には、異常はなにも見当たらない。

 ただ、小さな変化をひとつだけ、見つけることができた。

  

 テーブルの上、本の横。

 手のひらほどの小さな木箱が置いてある。


 怯えるように歩み寄り、指を伸ばす。

 温度を確かめるように表面をなぞり、蓋に手をかけた。

 持ち上げる。


 長い時間、そのまま彼女は動かなかった。

 目に映るものの意味が胸に浸透してゆくのを待ったのだ。

 そうして、収められていたものを掬うように持ち上げた。

 持ち上げて、ちいさく口づけを落とす。胸に抱く。

 ゆっくりと膝を折る。

 

 足元は、芝だ。そう硬いものではない。

 だから彼女は、外出していた侍女が戻るまでの数刻、ずっとそのままでいることができたのだ。小さな背を震わせて、だが両の腕でつよく、つよく、それを抱いていることができたのだ。

 もう二度と、大事なものが、その腕からこぼれ落ちてしまうことのないように。


 抱いている絹地、蒼い蝶の紋様を染め抜いたスカーフは、角が少し焦げたように欠けていた。そこに似たような布が当てられ、繕われている。不器用な指先で作業したのだろう。なんども、なんども失敗した跡。

 添えられていた小さな紙片には、こう記されていた。


 遅くなって、ごめんなさい。

 じゃじゃ馬娘より。


 庭先の花々の上を一羽の蝶が舞っている。

 彼女の周りをめぐるように、肩に触れるように。

 それでもやがて、ふわりと大きく羽ばたいていった。


 蒼の空を昇ってゆく。

 どこまでも高く、昇ってゆく。



 <了>

 

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