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最終話


 エンディを包む強い光が消失した。

 剣も、蒼の羽根も失せている。


 声が奪ったのだ。

 いや、その表現は精確とはいえない。

 彼女がみずから、手放した。


 哀しげな表情を向けるゼオ。

 到達する寸前、身を捩って相手を避けた。高速で擦過するように通過し、そのまま第四扉の付近の壁面に激突する。受け身も取れない。衝撃により岩が崩れ、彼女の身体に降り注ぐ。岩の内側を侵食していた銀が露出する。


 ゆっくりと歩み寄ったゼオは、炎と岩礫のなかで倒れ伏している彼女の首を掴み、持ち上げた。翠の髪、翠の瞳。だが、傷ひとつない白の薄甲冑と同様に、そのすべてが歪んだ紅をまとっている。

 彼の足先は床の銀に溶け、それは壁に繋がっている。その銀に、ぐったりとした彼女の首を押し付けた。炎を映した瞳が月のように撓められる。


 『……驚いたよ。ほんとうに殺されるかと思った。でも、ふふふ。とっても楽しかった。もっともっと遊んでいたいけど、そろそろあの方に睨まれちゃう』


 空いている手を彼女の顎に当て、弄ぶように、検分するようにぐいと持ち上げた。


 『だけどさ、この顔、この声。この期に及んでもまだ効くんだね。君を縛るのに、さ。でも、さすがに気づいてくれたかな。僕が、なんなのか。あの日、ニーデバルトで君のなかに宿った僕が、力を貸してくれと願った相手が、そして挑みかかった敵が、誰なのか』


 彼女は応えない。だが、回答は持っていたのだ。

 知っていた。


 『そうだよ。君たちが扉の主と呼ぶ存在。あの方、始原とか魔王とか、君たちが不遜にも名づけした、あの方の影だよ。僕は、僕たちは、どこにでもいる。ニーデバルトにも、ここにも、そうして、喰らってやったあの男の顔をして、君の右にも』


 嗤う主。だが、理解できてはいないだろう。それがエンディの、みずからに向ける罰であったことを。

 喰っていい、だから、救わせて。

 その言葉を彼女が選んだ理由を。救うのは、いまミリスティゲルの最下層にいるものだけを指しているのではないことを、五年前に魂を奪われたひとに向けてのものでもあることを。

 すべてを知った上で、すべてを永劫の彼方に沈め、救おうとしたことを。


 ただ、断つことはできなかった。

 できると信じた自分の覚悟が、それをくれたひとの穏やかに澄む青い瞳が、エンディには遠い昔のもののように思い出された。

 

 『……まあ、いいさ。約束は約束だ。守ってもらうよ』


 ゼオの形をとった主は、興奮しているのだろう。相貌が崩れかけている。輪郭が歪んでいる。

 エンディの頸にかかる力が強まった。目を見開く。彼女の周囲に微かに残る穏やかな蒼の光が収束し、胸に集まり、首に至る。そこから光は、ゆっくりと相手の腕に流れ込んでいった。

 生命を形づくるなにかが少しずつ失われ、主の表情に恍惚が浮かぶ。


 同時に、彼女の全身がぼうとわずかに紅を帯びてゆく。蒼の光に置き換わってゆく。禍々しい爪が伸展する。手の甲に、首筋に、無数の棘が生じる。流れ込んでくる主、始原の意思が、彼女から人間を奪ってゆく。

 五年前、ニーデバルトの深層でそうであったように。

 滲んだ涙は雫になって落ちていったが、地に着くまえに高熱に焼かれた。焼かれてゆくのは自ら閉じようとしている意識も同様である。


 と。

 腕が緩む。


 『……なんだ……?』


 忌々しげに下方を見やる主。

 持ち上げた指先にどろりとした気配を凝集し、射出する。続けて腕を上げる。中空に銀の刃が数百ほど生成され、音もなく放たれた。岩の砕ける轟音、爆風。

 放ちながら、億劫そうに声を投げる。


 『……ねえ、君。勘違いしてるみたいだけどさ、ここはそもそも、君たちなんかが立ち入ってよい場所じゃない。人間、ごときがさ。遠慮してくれないか』

 「……勘違い、して、いるのは……どっち……だ」


 強い声。ただ、掠れている。

 聴覚には拠らない。ここは事象の臨界点だ。声帯の振動は魂に対して作用する。


 声を発したものは、近づいてくる。エンディらの立つ岩場を目指し、ゆっくりと、わずかずつ。ただ、歩んでいる、と表現することは難しい。


 防御の色が揺らいでいる。限界をすでに超えているのだろう。白い軍衣が赤黒く染まっている。無数の傷。頬から首にかけてのものが深い。血は、肩から腕をとおって滴り落ち、落ちるとともに高熱により即時に蒸発していた。

 岩を掴み、がくりと脚を出し、膝を折りかける。それでもぐいと肩を身体の前に送り、倒れ込むように一歩ぶん、進む。

 そうやって前進しながら、男の視線は一点から動かない。

 声が続く。

 

 「……その、人間ごときに擬態しなければ、言葉さえ届けられない。彼女に触れることも、目を向けさせることすらできない。そんな存在でしかないのは誰だ。眩しい生命、生きようともがく魂の前に、見苦しい偽りでしか己を置いておけないのは、誰だ……!」


 ひとことずつ、激情を抑えるように置いてゆく。低く、だが重い声は、そこで言葉をいちど区切った。

 

 「……触れるな。扉の主ごときが。そのひとに……エンディさんに!」


 あう、ろ、にす。

 自らの唇が紡いだ言葉が、彼女の意識をふたたび現世に引き揚げた。薄く目を開け、眼下、岩台の下方に力なく顔を傾ける。同じ言葉を、こんどは意識が口に載せた。ただ、同時に目尻から落ちたいくつかの雫は意図してのものではない。


 だん、と、岩に背を預け、荒い息で肩を揺らしながら、アウロニスは右腕を持ち上げた。左足をわずかに引く。身体を捻り、脇に手のひらを獣の顎のような形に構えて、エンディとそのとなりの存在に向ける。口中で作っている言葉は、詠唱か。腕の周囲を光の粒が巡り始める。

 その姿を見下ろして、主はふっと息を吐いた。肩をすくめる。


 『なんだ、この女がせっかく逃がしてくれたのに。そんなに一緒に消滅したいの、これと。でも、生憎だね。僕は君に食欲がわかな……』


 軽口が途切れる。

 アウロニスの指先に、空間に現出している淡い紋様に目を落としている。

 

 「……なぜ、それを……」


 舌打ちのような音を発し、主は表情を歪めた。

 指を上げ、ぴんと弾く。銀の円錐が無数に生成されてアウロニスへ降り注ぎ、そのすべてが命中した。防御が揺らぐ。亀裂のように光の膜が途切れる。苦悶を浮かべ、片膝をつく。もはや術ではない。意思の力だけで保たせているのだろう。

 ただ、唇が動く。その動きが自分に向けてのものであることを、エンディは理解している。


 あれを、使います。ごめんなさい。

 そう読めた。


 同時に感じたのは、怯え。

 エンディ自身のものではない。

 どん、と衝撃が伝わる。突き放されるような感触。首を掴んでいた腕が離れたこと、そして、彼女の生命を取り込もうと接続されていた経路が唐突に切断されたことによるものだった。


 逃げる。

 そう感じた瞬間、エンディの両腕が上がっていた。頸から離れた相手の腕を握る。これからなにが起こるのかは分かっていない。が、そうしなければならないと知っている。握力を失っていたはずの指が動く。強く、強く、掴む。


 『……な……』


 振り解こうともがく主。が、動くほどに食い込む。魔物としての鋭い爪が、手首の棘が、前腕の刃が。そうして、ぐいと引き寄せて相手の頸に突き立てた、長い牙が。

 ふたたび流れ出し、そして、流れ込む。

 互いの意識が混じり合う。

 思考も、そして抱く恐れも、彼女に明瞭に伝わった。

 

 扉の主、始原の影。傷つけることが叶わない存在。

 存立する世界、依拠する次元が異なるために。

 例外はたったひとつ。

 人間、ひとの魂と結びついている間だけは、現世の理に縛られる。


 それが、いま。


 「……あう、ろ……に、す」


 主の姿が揺らぎ、ひとの輪郭を失いつつある。その首、いや、首であった位置の銀に牙を突き立てたまま、残ったすべての力で相手の動きを封じながら、エンディは口の端から発声した。紅に染まりそうな視界で、懸命に彼の姿を捉え続けた。


 アウロニスが突き出す腕、その周囲に巡る光の輪。

 その輝きが強くなる。きいん、と、鋭い音が生じている。空間を歪ませ、術者の姿をすらゆらりと霞ませている。

 放たれる雷は、銀を砕く。ひとに巣食う始原の眷属を滅する。

 その宿主の肉体を貫くことによって。

 主も始原も、エンディも、そのことをよく理解していた。


 「……う、て……」


 魔物の舌だ。発声が困難である。牙を立てたままで溢したエンディの不明瞭な言葉を、だが、アウロニスは受け取ることができた。直接に置いたためだろう。彼の胸のいちばん奥で、真っ直ぐにその薄い青の瞳を見つめるひとが。


 「……はや、く……」

 「……エンディ、さん」


 相手の声もまた、彼女に直接に届いている。掠れていることは彼女と同じであり、躊躇いを含んで潤んでいることが異なっている。


 「賭けてください、って、言わなきゃいけなかった。僕に。兄とふたりで作った、この術に。でも、言えなかった。いまも言えない。だから……僕が、賭けます。あなたに。あなたの魂が、乗り越えることに。でも……」


 アウロニスが、ぐ、と腕を引く。空気を裂くような音が高まり、やがて無音となった。周囲の岩が揺れ動き、小さなものは浮遊した。空間を埋める光がゆっくりと反転し、闇と区別のできないものになってゆく。

 主が激しく身を捩り、エンディを背の岩壁、銀に打ちつける。が、離さない。彼女は腕を上げ、指を刃のように立てて、全力で相手の身体に突き刺した。刺した部分から融合してゆく。


 「……怖い。怖いです。ほんとうに。撃ちたくない。だから、叱ってください。いつもみたいに。なにやってんだって、情けねえなって、笑ってください」


 洞の全域が震えている。びしり、と、岩壁に亀裂が走る。


 「……もし、しくじったら、ごめんなさい。攻撃魔法、苦手なんです。でも、僕もいっしょです。力を正しく還元できなかったら術者も消える。そういう、術です。だから……それで、許してください。いつか、どこかで、ちゃんと謝りますから」


 主の咆哮。もはやひとの形を留めていない。銀が歪み、流動し、縋り付くエンディを打つ。無数の槍で突き刺し、瘴気の渦で削り取ろうとする。

 が、彼女の表情は動かない。その目は、アウロニスしか映してはいない。

 紅が灯っていた瞳の中心に、蒼が降りる。

 それはおそらく、微笑をつくろうと努力する彼女に生み出せた、抱擁を行う腕をもう持っていない彼女がつくり得た、もっとも大きな想いの表現だったのだ。


 ばか。

 だいじょうぶ、たすけてみせます、って、いうんだよ。そういうときは。


 最後の言葉は伝えていない。

 瞳に姿を焼き付け、目を瞑る。


 なんどかの首を振るような仕草ののち、アウロニスは左腕で右を強く握りしめた。噛み締めている唇に滲む血は、おそらく負傷によるものではない。

 事象を転換するための歯車が起動する音は、ちいさな鈴が鳴るのとよく似ていた。


 その、刹那。

 時間の概念が届かない場所で、エンディの肩に触れたものがある。


 悪い癖だよ。エリオスのね。技の設計、詰めが大雑把だ。いつも最後には自分を犠牲にすればいいと思ってる。あんなに可愛がっていた弟に使わせる技じゃないよね。あとで、よく言っておく。


 背からの声に彼女は振り向けない。動くことができない。温度が、柔らかな想いが、ふわりと彼女に触れるのを感じるだけだ。


 エンデラーゼ。お詫びは、言わない。言えない。ずっと君をひとりにしてしまったこと、苦しませてしまったこと。僕を、手にかけさせたこと。償いはまだ始まっていないけれど、すべては因果だ。必要なことだったのだろうし、僕は報いを受ける。


 息遣い。

 喧嘩をして謝るときにはいつも、そのひとは言葉の合間にひとつ息を吐いていた。初めて手を握ったときも、抱きしめてくれたときにも、同じ息を置いた。

 そのことを、エンディはよく憶えている。


 動けなかった。顔を、魂を奪われて、縛られて。ずっと君のことは見えていた。なのに、なにもできなかった。苦しむ君に。申し開きもないよ。裁かれなきゃいけない。でも、最後に機会をもらえた。支配を逃れることができた。ほんの一瞬だけど、それで充分だ。


 胸の奥にいくつかの象形が浮かぶ。エンディには理解できない。が、なにをするためのものか、彼女がなにをすべきかは伝わった。


 彼の力が届く寸前に、これを展開してほしい。大丈夫、君ならできる。エリオスが描いた魔法構造を、ちょっといじらせてもらうだけだ。僕と、僕の姿を奪った奴だけを撃ち抜くようにね。ふふ、僕はずっと、エリオスには学科では負けたことがない。いまだって、負ける気はしないんだ。


 エンディはその名を呼ぼうとした。が、心の動きを止められた。


 呼ばない方がいい。あそこで君だけを見ている彼に怒られるよ、きっと。あ、そうだ。これを言っておかなきゃ。彼はね、いちど僕と殴り合いをしたことがある。彼が十三のときかな、君を巡ってね。そのときは僕が勝った。ふふ。内緒だよ、僕がこれ、言っちゃったってこと。


 軽やかな笑いとともに、声がわずかに薄くなる。消えかかる。しばらくの沈黙ののち、小さくひとことだけ、柔らかく言葉が置かれた。


 ……じゃあね、エンデラーゼ。かならず帰るんだよ。大事なひとの、ところへ。


 りん。

 音ともに、世界が動きを取り戻した。

 同時にすべてが白に埋まる。白に、染め抜かれる。


 「……ぜ、お」


 絞り出した声すらも、光の境界の向こうへ消えたのだ。



 ◇◇◇



 静かだった。

 なにも聴こえない。なにも、見えない。


 目を閉じているのだろう。が、確信はない。視力を残しているのか、そもそもここが闇の底であるのか、エンディには判断がつかずにいる。


 闇に沈んでいることに恐怖はなかった。それがたとえ、永劫だとしても。もとよりそこに生きてきたのだし、長い間、闇は彼女を優しく包んでくれたのだから。

 

 時間の経過を理解できていない。

 ただ、感じることはできた。

 仰向けに倒れた自分の頬を、なにかが零れ落ちてゆくことを通じて。


 そうしているうち、柔らかな闇と静寂とが、ふいに彼女を離れた。

 ずり、という音。

 世界が薄く白を帯びる。瞼の向こうで、なにかが彼女を照らしている。

 音はしばらく途絶え、再び聴こえた。いくども繰り返される。引き摺るような音に、荒い息が混ざっている。


 そのひとが、どういう姿勢でなにをしているのか、彼女には手に取るようにわかった。這うように近づいてくる姿も、表情も、あるいは震えている唇までもが見えている。 

 だから、目を瞑ったままで、エンディはわずかに頬を緩めたのだ。

 溢れるものはそのままに。


 「……えん、でぃ……さ、ん」


 聴こえないふりをした。

 意地悪を仕掛けていると、彼女は考えようとしている。が、それは欺瞞だ。

 言えば、くちを開けば、言葉を告げるのなら、もう止めることができないから。

 あたたかな波に攫われてしまうから。


 「……エンディ、さん……返事して……お願い、だ……お願いだから……」


 声が滲む。引き摺る音が近づく。

 隣で膝を立てている。彼女の顔を、覗き込んでいる。彼女のものではない雫が、みずからのそれと、頬の上で合流する。

 

 「……う……ああ……」


 呻いている。肩を揺さぶられる。

 そこが限界だった。

 もう、我慢をすることができない。


 ばん、と、床を叩いた。

 上半身を跳ね上げる。

 跳ね上げて、目を丸くしているアウロニスの背に手を廻す。


 「……ばか」


 呟いて、抱きしめる。濡れた頬を相手のそれに擦り付ける。

 感情を映してわずかに紅潮した、白い右の頬を。

 

 「あ……エンディ、さ……」

 「ごめん。ちょっと、黙ってて」


 ぐ、という音を吐いて、アウロニスは口を引き結んだ。

 ただ、腕の動きを禁じられてはいない。

 ゆっくりと、躊躇うように、壊してしまわないように、エンディの背に指を置く。手のひらを滑らせる。滑らせて、彼女の首筋に、そして艶やかな黒い髪に指先を潜らせた。

 

 ずいぶん経ってからだ。

 音のない世界で。世界の、底で。

 最下層で。


 エンデラーゼ・ヴィステリアは、小さな、小さな声で囁いた。

 彼女の家族にだけ、聴こえるように。

  

 「……帰ろう。あたしたちの家に。目玉焼き、冷めないうちに」




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