第28話 遠い地上に
絹地を握りしめる。
手で包み込み、額に当てる。
乱れた筆跡。病床で記したのだろう。
その文字が、エンディの深い場所に沈んでいたものを拾い上げ、ふわりと包んで泡とする。浮かび上がってきたたくさんの泡、その奔流のなかで、彼女はいま呼吸をすることができずにいる。
泡のひとつに、少年の姿が映っていた。
騎士学校の幼年科、知り合ったばかりのゼオとエリオスのもとを訪ねてきた少年。エンデラーゼは彼に笑いかけようとした。驚いたような表情をつくってエリオスの背に隠れた彼の髪は、当時はまだ橙色を帯びていた。
兄が、いたんです。ニーデバルトに。
あの日、ニーデバルトの深層で、兄も闘っていました。
雨に濡れながらそう言ったアウロニスの言葉も、彼女の頬を温かく撫でてゆく。
その感触に、彼女は小さく、口のなかだけで言葉を向けた。
あたしは、莫迦なんだから。
わかんないよ。ちゃんと言ってくれなきゃ。
ずっと、みてた、ってさ。
引き攣るように吸い込む洞内の湿った空気を、こんどは吐き出すことができない。はっ、はっ、と大きく肩を揺らす。そうしているうち、滲む視界にミャオフの膝を見つけた。指を石床に彷徨わせるようにして、そっとその上に置く。
「……おね、がい……あるんだ」
ようやく喉から送り出すことができた言葉とともに、伏せたままの顔で、エンディは小さな微笑をつくった。
ミャオフはなにも返さない。柔らかな肉球が、彼女の細い手首に重ねられる。
「みんな、を、さ……手伝ってあげて、ほしいんだ。怪我してるひと、上手に歩けないひとが、たくさんいるから。肩を貸して、外に戻れるように、助けてあげてほしい。できる、かな」
「できない」
すぐに返し、ミャオフはもうひとつの手のひらで、今度はエンディの手首を掴んだ。首を振っている。その目は俯いているエンディからは見えていない。が、声がすでに潤んでいる。
「できない。あち、お師匠といくから。あくにんすのとこ、いくから」
その声に、強張りがいくぶん解けたのだろう。エンディはわずかに顔をあげた。頬を濡らす涙は左右で均等のはずだが、右の銀がよりおおく滲んでいるように見える。
濡れたままで、今度は柔らかくおおきく、微笑んでみせる。
「……あくにんすがね、言ってた。今度は自分のちからで頑張るから、って。でも、ほら。またきっと、失敗しちゃう。だからあたしは、こっそり助けにいくんだ」
「……に、う……」
「大好きなミャオフに、そんなところを見られるの、きっと恥ずかしいっていうよ。ね。わかるよね」
「……わか、ん、な……」
エンディは膝を出し、ミャオフの背に手を廻した。思い切り抱きしめる。いくども顔を埋め、いくども太陽のような匂いを嗅いだ獣耳に口元を寄せ、小さく囁く。
「それにさ、もしさ、あくにんすが先におうちに帰っちゃったら、びっくりするよ。誰もいないって。だから……」
いちど言葉を区切ったのは、上手に発声することが難しかったためだ。しゃくりあげそうになる息をおさめて、それでもようやく声を出す。
「……だから、みんなを運んだら、ミャオフはおうちに帰って。ね。それで、ごはん作って、待ってて。あたしとあくにんすが、帰ってくるの」
「……あくにんす、かえ、る……?」
「帰るよ。あたしが、連れて帰る」
ミャオフは、ばすんと音を立てて彼女の背に腕を廻した。くしゃくしゃになった顔のまま、気遣いする余裕などない獣人の子の膂力。だがそれは、エンディにとってはこの地上でもっとも柔らかく、温かな抱擁だった。
「お師匠と、あくにんすと、ごはん、たべる。たくさん、たべる。ね、なにつくる。あち、なにつくればいいに」
「そう、だなあ……うん、目玉焼き。ミャオフの目玉焼きがたくさん、食べたいな」
身体を離し、ミャオフはごしごしと目元を擦って、笑った。
「もう。おししょ。また、おなか、痛くなるから」
そうして数拍、目を見合わせる。
もう一度だけ軽く互いに抱擁し、ぽんぽんと背を叩き合う。
危地へ入るときにいつもおこなってきた儀式は、約束でもある。だから、二人にはもう、それ以上の言葉は必要なかった。
ミャオフは駆け出した。壁に背を預けて立とうともがく騎士に声をかけ、助け起こす。その姿にエンディはしばらく視線を置き、消えることのないよう焼き付けた。静かな微笑を浮かべている。
賢い子だ。上手くやっていくだろう。
今も、これからも。
傍で眠っている騎士、アウロニスの友人に目を落とし、ありがとうと小さく囁いた。立ち上がり、振り返る。目の前には、淡く輝く黄金の薄い壁。
洞をふさぐように設置されているそれは、アウロニスの手によるものだろう。強力な結界魔法だ。入れず、出られない。その向こうで起こった凶事を外界へ漏れ出させないために行ったことだろうが、施術者も容易には戻れない。
「……あいつ、らしいね」
アウロニスの覚悟を心でなぞり、エンディは小さく笑った。
数歩を踏み出す。結界の前に立ち、ふう、と息を吐く。
目を瞑る。
やがて全身をかすかな銀の光が包んでいく。そのまま、彼女は踏み出した。結界は光の粒子と溶け合うように融合し、彼女を迎え入れた。通過し終えると、その背でふたたび固く閉じる。
ゆっくりと歩きながら、目を開く。俯いていた顔を上げる。
銀の瞳のその中心に、小さな光の点が灯っている。
ただ、紅ではない。
蒼。
その蒼は、彼女がいま胸元の革帯に結び付けた絹地の蝶が帯びるものと似ていたし、アウロニスの薄い青の瞳も連想させた。もっとも、色の理由はそうたいしたことではない。
彼女に見えている世界の色彩を、彼女の魔力はそう表現したというだけだ。
失ったものは、戻らない。
刻まれた悔悟を消し去ることは叶わない。
だが、ニーデバルトの深層で、銀の呪いのなかで、贖うべき罪の下で、彼女はたしかに最後まで、エンデラーゼであることをやめなかった。そうした彼女を救うべきものとして想いを繋いだものがいた。
その事実は、彼女のちいさな魂を、昏い紅の澱みから引き上げたのである。
身長の十倍ほどの幅、倍もない低い天井。第二百二十五孔、ミリスティゲルの扉に続く主窟は彼女の前に長く続き、奥で闇に溶けている。
外の音はもう聴こえない。
気配も匂いも、届かない。
代わって湧いてきたものは、ざりざりと岩になにかを引きずる音と、吐き気を催す生臭さ。それを受け取り、彼女は石床を蹴った。
左右の壁の一部が隆起し、分離した。潜んでいたのか、そういう魔物なのか。人とも動物ともつかない異形の黒い影が左右からエンディに飛び掛かる。が、同時に展開していた武装装甲から無数の短針が射出され、その影を引き裂いた。
続けて複数の腕を持つ魔物が数体。躱し、腕に仕込まれた刃をぎんと立てて一体の背に打ち込む。その勢いのまま回転し、踵の刃を別の個体に突き立てた。
飛翔する魔物が十ほど。続けてのたうつように近づく双頭の巨大な蛇。いずれも退けたが、その背から新たな魔物が出現した。
天井が低く、伸縮索を使えない。体技と装備だけで進路を切り拓く。
ただ、その間も表情が変わらない。
穏やかと表現すべき視線、蒼の瞳を洞内のずっと奥に向け続けている。
百を超える魔物を無力化したころ、装備が尽きた。
両腕の仕込み刃は欠け、ひとつは中途で折れている。
それでも、彼女は速度を落とさない。
魔物の爪が彼女の肩に届いた。呻いて躱すが、反撃が届かない。蹴り上げるその足を別の魔物に狙われた。掴まれ、壁に打ち据えられる。跳ね起きて組み合い、振り切り、走る。
走りながら、彼女は呟く。
目を、まっすぐに前に向けながら。
「……いるんでしょ」
『ああ、いるよ。僕はいつでも、君の右に』
声は、彼女の内側から返ってきている。軽やかな声色。
魔物の腕がかかり、地に転がる。覆い被さった相手を蹴り上げながら、荒い息の下で彼女は続けた。
「お願い、あるん、だけど」
『へえ、嬉しいなあ。何年ぶりだろう、君にお願いごとをされるのは』
「……ちから、貸して」
しばらく沈黙した声は、嗤いを含んだ。
『……面白い提案だね。でも、やめておくよ。君のいたずらに手を貸して、あの方に睨まれたくはない。僕だってまだ、自我を保っていたいんだ。君の身体がまた喰われて、僕たちのところに戻ってくるのをのんびりと……』
「……あなたが、喰えばいい」
魔物の群れを逃れ、脚を引きずり、壁の窪みにだんと背を預けた。
左の脇からの出血を抑え、エンディは絞り出すように声をつくる。
『……なんだって……?』
「この、身体……もう、保たない。壊れる。そうしたら、魂は持っていかれる。ふふ、だけど、もう要らない。うんざりなんだよ。永い生命……始原だかの一部になって、生きながらえる生命なんてさ。だから……」
ごふりとむせ込み、大きく肩を上下させる。
それでもエンディは頭を岩壁にあて、はるか頭上にあるはずの懐かしい空、ぜんぶの想い出を置いてきた遠い地上に顔を振り向けた。
「……あなたに、あげる。この魂を。あたし、ご馳走なんでしょ? 強くなるんでしょ、取り込めば。いいよ、内緒にしといてあげる。その代わり、いっとき。少しの間だけでいい。あなたの……始原に繋がるちから、使わせて」
『……消えるんだよ。魂を喰われれば。輪廻の円盤から外れる。永遠に、消滅する。その意味が分かってるのかい』
「かまわない」
即座に返し、エンディは目を瞑った。
その口元は静かに持ち上げられている。
「喰っていい。あたしを。だから……救わせて。あのひとを」




