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第27話 蒼い蝶


 受け取ることを躊躇った。

 指を伸ばし、いちど引き込める。

 呼吸が早くなる。 


 エンディは、怖かったのだ。

 受け取ってしまえば、戻れない。そう感じていた。


 薄闇に沈み、顔を伏せ、地に這うことをみずからに課して、そのなかで安寧を得ようとしてきた。それを、彼女の深い部分が知っている。欺瞞だった。止まらない出血を止めるための、それは彼女にとってゆいいつの選択肢だったのだ。

 その欺瞞が、破られることを恐れた。


 「……自分で渡せ、って、言ってやったんだけどな」


 そう言い、騎士は苦しい息のなかでもう一度、目元を柔らかくしてみせた。


 「あいつ、こんな状況なのに、笑ったんだ。エンディさん、素敵なひとだけど、手を出したら許さないぞ、ってさ。大事なものだ、失くすなよ、って……大事なひとの、大事な……」


 咳き込み、騎士の手が落ちそうになった。

 その手首をエンディは支え、両手で包む。いくどかの深い呼吸を繰り返し、騎士は意識を失った。腕がゆっくりと地に落ち、包みだけがエンディの両の手のひらのなかに残された。


 被せていた指を、怯えるようにそっと開く。

 薄茶色の厚い素材。魔石や薬品を包むための素材と見える。古い。四角く丁寧に折りたたまれたそれが護っているものも、また、薄く柔らかかった。

 表面を撫でるように、確かめるように指を這わせて、エンディは包みの縁に指先をかけた。


 三を数えるほどの間だ。

 長い時間ではない。

 それで、彼女には充分だった。


 打たれたように顔を上げる。

 手の中のものを胸に押し当て、目を見開き、まっすぐに中空を見つめる。薄くひらいた口元から細く息が漏れている。その息が、引き攣るようなものになってゆく。

 首を振り、包みを強く、強く、抱き締める。

 震えながら膝を折る。


 顔を隠そうとはしなかった。

 不安そうに覗き込んでいるミャオフは、だから、エンディとの暮らしのなかで初めてそれをみることになったのだ。

 銀の頬を転がり落ちる、たくさんの温かな雫を。


 幾重にも重ねた拒絶と否定の層。

 その層のもっとも深いところでぽつりと灯ったほんの小さな光は、刹那のうちにエンディを埋めたのだ。

 残酷であたたかな光の海。

 その深い水底に揺蕩いながら、彼女はひとりの少女の姿を見つめている。

 


 ◇◇◇



 頬に水滴が落ち、エンデラーゼの意識を呼び戻した。

 湧出した地下水が天井から落ちたのだろう。


 目を開く。視野が、紅い。

 紅い薄闇のなかに、彼女はニーデバルトの主窟、大回廊第二扉への経路である洞内の様子を鮮明に見てとることができた。


 身体を横たえたままでしばらく、重い思考を働かせようとする。

 状況がわからない。ここがどこなのか、なぜここにいるのかも思い出せない。どうして闇のなかでこれほど鮮明にものが見えているのか、その視野のなかに転がっている無数の人型のものは、なんであるのか。

 自分は、誰なのか。


 胸になにかが突き立っていることに気がついた。その端が掴めそうだ。ぐ、と力を入れて引き抜く。どろりとしたものが流れ落ちたが、そのことに彼女は痛みも感慨も持ってはいない。

 からん、とその剣を放り出して、身体を起こす。改めて周囲を見回す。


 背後に、もうひとつの影を見つけた。

 翠の髪の若い騎士。ただ、息をしてはいない。自分と同じように胸から流れ出ているものに、彼女は長く鋭い爪をもつ指を浸した。くんと嗅ぐ。自分と同じ匂いだった。

 そうであれば、喰いものではない。


 渇きと、飢え。

 焦燥感にも似ているその衝動を、彼女はどう扱うべきかわからないでいる。

 周囲にいくつも転がっている、自分と似た姿をした物体に手を伸ばした。いずれも命の匂いがしない。彼女はそれをかなぐり捨て、次を手に取り、また捨てる。苛立ち、首に手をやって、頭を掻きむしった。

 やがて、ひとつの考えを得た。探せばいい。命を。新鮮な、魂を。


 立ち上がることには努力が必要だった。ようやくそれが叶い、脚を出す。ずる、ずる、と、引きずるように進む。どこへ向かえばよいかはわからない。が、どこかにそれがあることを確信していた。

 気が付けば、彼女と同じように蠢いている影がいくつもあった。みな、同じものを探している。姿は自分に似ているものもあれば、まったくの異形というものもあった。


 はじめは身体を上手に扱うことができなかった。それでも彷徨ううちに歩く速度が上がったし、走れるようになった。鋭い爪は岩をよく捉え、腕と脚の棘により垂直の壁を登れることにも気付いたが、やがてもっと良い方法があることを知った。

 いびつに歪んだ、蝶の羽根。

 背に生じたそれにより、彼女は他の者たちよりも早く動くことができるようになった。滑空し、層を自由に行き来して、そのうちに目指すものを遠くに見つけた。


 浅い層に、その姿はあった。

 下降路を瞬時に昇りきり、洞内を四肢で駆け抜ける。

 白い薄甲冑。自分と同じものを身に着けたその男は、横たわる他の者たちの胸に手を当てていた。ここまで背負って連れてきたのだろう。が、当人も出血が激しい。その傷から漏れる血の匂いが、姿をまだ点としてしか捉えられないうちから彼女の鼻腔を刺激した。

 男が気づいて振り向いた時には、すでに彼女は両手を拡げて覆いかぶさっている。声を出す間もない。


 「……っ!」


 両腕を取り、膝を腹に当て、押し倒した。

 その首筋に即座に歯を立てなかったのは、愉悦のためだ。初めての獲物、初めての食餌。ひとの魂の甘美な匂い、その脈動を全身で感じている。興奮に身もだえをしている。

 どこからどう口に含もうか、舐めるようにその頬に顔を近づけた。

 その、ときだ。


 「……えん、で、らーぜ……?」


 小さく吐かれた掠れ声は、彼女を縛った。

 橙色の髪を血に染めた男は、見開いた眼の中の同じ色の瞳を震わせ、覆いかぶさる彼女の顔を見つめている。


 「エンデラーゼ……その、姿……は……どう、して」


 だん、と、彼女は仰け反った。なぜそうするのかを自身では説明できない。反射的に腕で顔を覆った。変貌したゼオを見たときに彼女自身が漏らしたのと同じ言葉を向けられたためだということを、彼女は知覚していない。

 動けずにいる彼女の腕を、相手はがっと掴んだ。引き寄せる。間近に、叫ぶ。


 「なにがあった……先鋒で、なにがあったんだ! 君たちが新しい経路に入ってすぐに妙な光が走って、そうしたら四方から魔物が湧いて……あれは、なんだ。君たちはなにを見た。なにと闘ったんだ。ゼオは、皆は、無事なのか。エンデラーゼ、なあ、なんとか言っ……」


 言葉が切れたのは、エンデラーゼが彼の首を掴んだからだ。ふう、ふうと息を吐き、中央に紅を灯した銀の右目を見開いて、岩床に力を込めて押しつけた。

 ゼオ、という言葉を、自分に対する毒だと受け止めたのだ。


 「……えん、で……おれの、こと……わか、らない、のか……」


 途切れそうな呼吸のなかで、彼はかろうじてわずかに言葉を吐いた。エンデラーゼもそれを聴き取っている。が、意味を受け取れない。乾き切った胸腔のなかで、それは虚しく反響するだけだった。

 力を、増す。相手の腕にかけていた彼の指先がほぐれ、ぼとり、と手を下ろす。

 ひゅう、ひゅう、と細く息を吐いている。

 それも徐々に弱まってゆき、途切れるかと思われた、その時。

 男の目尻から小さな雫がひとつ溢れた。


 「……ご、め……んよ、えんで……せなか、まもって、やれ、なくて……」


 親友と、その妻となるひとの背を護れるんだ。

 俺は幸せものだと思う。


 「……えり、おす」


 意図していない。成す意味もわからない。

 それでもその名を、長い牙を覗かせるエンデラーゼの唇は誤ることなく発音した。自らが紡いだその音は、彼女の身体を相手、エリオスの上から跳ね上げるように離れさせることとなった。

 数歩先、狭い洞内の反対の壁まで跳びすさり、どんと背をつける。

 激しい呼吸。

 頭を掻きむしり、その手を、長い爪を見つめる。それを頬に立て、ぎり、と、引き裂くように引いた。銀の皮膚からは出血がない。怯えたようにエリオスの姿を見つめたまま、首を振る。なんども、なんども。


 ざざ、という音は、ちょうどその時に彼らに届いた。

 遅れて別の層からやってきた、魔物たち。そのほとんどは騎士の格好をしている。洞の奥、暗がりから無数のそれが近づいてくる。


 「……なんだ、あれは……」


 激しく咳き込んでいたエリオスが、喉元を抑えながら声を出した。膝を立て、腰の短剣を引き抜く。ただ、覚束ない。起こそうとした背が傾く。

 そこに一体の魔物が殺到した。速い。エンデラーゼと同様になんらかの特別な力を帯びたのだろう。壁を疾駆して弧を描くようにエリオスに迫る。


 その爪は、だが、届かなかった。

 腕を含めたその身体は、すでにいくつかの部分に分離していたためだ。

 両腕を振るったエンデラーゼが、その振り抜いた姿勢のままで長い爪を閃かせ、エリオスの前に立ち塞がっている。


 「……エンデラーゼ」


 かけられた声に、彼女はわずかに振り向いた。

 横顔は、泣いているように見えた。


 一瞬とは言えない。が、瞬きを数回するよりは短い時間のなかで、エンデラーゼはすべての魔物を屠った。

 貫き、引き裂き、齧り切った。

 衝撃により削れた天井の破片が地に落ちるよりも早く、彼女はエリオスの横に膝を立てている。動作に伴う風は、あとから到着した。


 エリオスが声をかけようとしたが、それを止めるようにエンデラーゼは腕を伸ばした。いくつもの棘を生じたその手の甲を隠すように、エリオスの傷に当てる。ふわ、と光が浮かぶが、途端に彼女は表情を歪めた。治癒魔法は、彼女のなかの人間の部分を、残った魂を、消費する。

 意識を失いそうになれば、自らの爪を頬に、首筋に食い込ませた。掻きむしり、皮膚を削り、その痛覚をもって自我を維持した。

 横たわるほかの数名にも同じように治癒を施し、彼女はもういちど、エリオスに向き直った。肩で息をしている。


 「……エンデラーゼ。帰ろう、一緒に、戻ろう。大丈夫、僕が……」

 「……さし、て」


 エリオスが振り絞るように送った言葉に被せて、エンデラーゼはぎこちなく唇を動かした。発音が困難なのだろう。


 「わた、し、が……いる、あいだに、刺して……もう、保てない、あなたたち、を、また、襲う、から……今度は、とめ、られない。だい、じょうぶ、わたしは……しなない……しぬことが、できない、から」

 「……っ、なに、言ってるんだよ。そんな、こと……」


 が、その時にエンデラーゼは激しく背を仰け反らせた。びしりと腕に筋が走る。爪が伸び、瞳に昏い紅が宿る。がはっと息を吐いて堪え、それからエリオスが持つ剣身に手を伸ばした。剣先を、自分の胸に向ける。


 と、エリオスの左腕に目を落とす。出血に気づいたのだ。

 するり、と、自分の首元、薄甲冑の防具留めに通されていた布を抜き取る。上質な絹地、蒼で染め抜かれた蝶のモチーフ。出陣式のさなか、母から贈られたものだった。

 エリオスの左腕の傷にそれを巻きつけ、彼女はぎこちなく微笑をつくってみせた。


 「……おね、がい……わたし、を、あなた……の、ともだちの、ままで……いさ、せて」


 直後に、変化が生じた。

 無数の棘が彼女の肩に生じ、羽根がばんと展開する。石床に額を打ち付けるほどに身体を撓めた彼女は、ぐる、と喉を鳴らして、エリオスの横で眠っている僚友たちに紅に光る目を向けた。


 剣先が彼女の願いを叶えるために動いたのは、その瞬間だった。

 エリオスの唇からは新しい出血がある。

 あまりに強く、あまりに長く、噛み締め続けたためである。



 ◇◇◇

  

 

 エンディの手のひらに載っている、絹地。

 蒼い蝶の紋様はすこしも色褪せてはいない。

 それを包む布地には、いくつかの言葉が記されていた。


 救わなければならない。

 彼女を。

 友だち、を。


 エリオスの筆跡で置かれた墨は、もう何年も前に乾いている。

 だから、エンディの涙がどれほど染み込もうとも、滲むことはない。



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