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第25話 月のない夜


 大きく息を吐いた。

 続けて二回。深く、深く。

 逃げようとする心を、脚を、エンディはそうやって抑え込んだ。


 ミャオフを追って角を曲がり、とん、とんと立ち止まった。正面を見ることを怖がるように足元に視線を落とし、そのまま顔を上げられない。

 

 ミャオフはアウロニスの胸にぐりぐりと額を擦り付け、背に両手を廻している。その頭を梳るように撫でながら、アウロニスはゆっくりとエンディの方へ視線を上げた。

 眩しいものを見るような、手の届かないものを遠くに見るような表情。


 「……謝りに、来ました」


 しばらく彼女を見つめたのちに、アウロニスは口元を緩めてみせた。すがりつくミャオフの耳元になにかを囁き、ゆっくりと身体を離して、背筋を伸ばす。改めてまっすぐにエンディを見据えて表情を引き締めた。


 「出陣することになりました」


 エンディは、応えない。

 それでも肩が、わずかに揺れた。


 「三日後、です。大回廊第四の扉、ミリスティゲルの扉。その攻略戦に、僕も加わります。あなたをお連れすると何度も言いましたが、それは叶いません。そのことを、まずお詫びします」


 腰から折って、背を斜めに頭を下げる。そうした軍人らしい所作をエンディは視界の端にとらえているが、その姿を外すように顔を逸らした。

 そのまましばらく、互いに言葉を出さない。

 やがてぽつりと呟いたのはエンディだった。


 「……辞めたんじゃ、なかったのかよ」

 「ええ。辞めました。でも、上官が握り潰してたんです、辞表。本隊に顔を出したらそのままつかまってしまいました。あげくに、いきなりの最前線です。参りますよね、あはは」


 軽い口調で告げたアウロニスに、エンディは初めてまっすぐに視線を向けた。笑いを収め、唇を噛んでわずかに俯く。


 「……ごめんなさい。嘘、です。はじめから戻るつもりでした。どうしても抜けなければならない、もし戻らなかったら受け取ってくださいって、辞表を預けてきたんです。あの、雨の日、に。だから、あんなことがなくても、僕は……作戦決行のときに出て行くと、決めていたんです」

 「……」

 「それ、と……」


 言葉を切り、時間を置く。なんどか言いかけ、躊躇う。やがて小さな息をひとつ吐き、アウロニスは声を出した。


 「……作戦、第四扉の攻略には、あなたを連れて行く気はなかった。行くとおっしゃったら、はぐらかして断るつもりでした。一緒に行ってほしい、あなたの力が必要だ、そう言ったのは……口実、です。説得するという理由で、あなたの傍にいるための」


 彼の顔を見ていたエンディは、その言葉にふたたび横を向いた。耳を塞ぐように髪に手をやる。そうまでして自分の近くにいた理由を聴きたくはなかったのだ。

 が、アウロニスは首を振った。半歩だけ踏み出し、語気をわずかに強める。


 「……どう思っているかは知っています。でも、そうじゃない。そうじゃないんです。誰の指示でもない。傷つけるためでも、監視するためでもない。ただ、あなたを……」


 そこまで一息に言葉を吐いて、だが、口をつぐんだ。しばらく置いてから穏やかな声音で続ける。


 「……いえ、今さら、ですね。僕が間違っていたことに変わりない。謝ることばかりです。でも、いちばん謝らなければならないのは、そのことではありません」

 「……」

 「もっと、早く。もっと前から、あなたの傍にいるべきだった。伝えつづけるべきだった。あなたがどういう存在か。でも……どうしてもできなかった。怖かったんです」


 ふたたび間があった。掠れそうな声。


 「……怖かった。とても。あなたに、触れるのが。あなたを壊してしまうのが。あなたを……救うことができなかった時のことが」

 「……救う……?」


 俯いたままでエンディが小さく応えた。銀の前髪が表情を隠している。


 「見ただろう? あたしが、なにものか。あたしが何をしようとしたのか。あれが、あたしだよ。救い。ふ、そんなものがあるなら、見せてくれ。あたしの醜い銀の右目に、ようく見えるように。醜い魔物のあたしでも、それがどんなものなのかわかるように」

 「……あなたは、魔物じゃない」

 「なら!」


 顔を上げ、声を出した。

 強い声だが、わずかに震えている。


 「なら、なぜあたしを処分する魔法なんてものを創った! なぜ、それをあたしに向けた! なぜ、それを、黙っていた……なぜ……あたしの、ところなんかに……来たんだ、よ」

 

 言葉の最後が消えかけている。

 それでもぜんぶを言い終えるまで、肩を大きく上下させている彼女の呼吸が落ち着くまでを待ち、アウロニスは微笑を浮かべた。

 悲しげな、諦めたような色の微笑。


 「それが、僕の罪です。臆病だった僕の罪。あなたにそれを言わせないために、僕は来たというのに。なにもできなかった。結局、あなたを苦しめた。こんな中途半端なかたちではなく、ちゃんと、ずうっと、寄り添っていたら……」


 そこまでを聴いて、エンディは踏み出した。

 相手の顔は見ないまま、その腕にすがるように立っているミャオフのところへ向かう。


 「……帰るよ」


 獣人の子の腕を取り、ぐいと引く。

 が、ミャオフはその手を引き戻した。捩るように背をエンディに向け、アウロニスの顔を見上げる。さらに引かれ、いやいやをするように、彼に助けを求めるように縋り付く。

 その表情に、エンディは苛立ちを覚えた。ミャオフに向けて抱く初めての感情だった。


 「帰るってば……早く!」

 「い、や、にぃ……みんなで、かえる、に」

 「ミャオフ!」


 と、アウロニスが腰をかがめた。

 ミャオフをぎゅっと抱き、それから柔らかく身体を離した。両肩に手を置いてまっすぐに目を見る。

 

 「……どの味付けも、ね。調味料入れの右側、こっちの手のほうから順番に使うとうまくいくよ。そういう風に並べておいたから。あと、棚の端を見てみて。いろんなごはんの作り方、書付を置いてある。エンディに読んでもらって。たくさん美味しいもの、作ってあげて」


 ミャオフの頬を転がるたくさんの雫を指で払いながら、アウロニスは静かに言葉を置いた。こくりと頷くのを見届けると、エンディに向けて目を上げた。


 「……はじめてここに来たのは、第四扉の攻略戦に参加するよう命令があってすぐでした。そうしていまも、出陣の直前。あはは、ほんとうに僕は、追い詰められなければ……戻れないかもと思わなければ、なにも決心できない、愚かものです」


 ゆっくりと立ち上がった。

 胸元に手を差し込む。なにかを取り出そうとする仕草に見えたが、いくどか躊躇い、動きを止めて、なにも持たずに引き抜いた。自分に向けてするように小さく首を振っている。

 そうして、眉を寄せ、口を引き結び、だがどこか晴ればれとした表情をつくった。


 「どうか、お健やかに。あなたは……あなたは、素敵なひとです」


 かっ、と踵を打ち鳴らし、胸に拳を置いた。

 彼女の瞳をじっと見つめて、わずかに唇を震わせ、もういちど微笑む。

 エンディがなにも返せずにいる間に、もう、背を向けている。

 指を伸ばすまえに、歩きはじめている。

 ミャオフも追わない。


 エンディが望んだとおり、今夜は月がない。

 彼女はそのことを、僥倖とは思わなかった。

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