第24話 閉じた時間
エンディが立てるようになるまで長い時間を要し、潜入口を出る頃には陽も落ちていた。
ミャオフに肩を支えられ、時おりがくりと膝を折りながら、エンディは一歩ずつを引きずるように進めてゆく。アウロニスがなんども手を伸ばしたが、触れようとはしなかった。
市街地に近づき、アウロニスは馬車を手配した。が、エンディはかけられた声に応えない。ミャオフはふたりの顔を見比べ、下の唇をぎゅっと噛んでいる。
ようやく住処に到着したときには月が昇っていた。
身体をぶつけるように扉を開け、廊下に倒れ、ずるずると自室へ向かう。ミャオフが付いていき、途中でアウロニスに振り返った。彼は戸口で躊躇っていたが、ミャオフの目に促されるように彼女の部屋に入った。
ベッドの横に倒れていた彼女を支え上げ、横たえさせる。布を掛け、背に手のひらを当てる。ふわりと柔らかな蒼の光が生じて彼女の身体を包み始めたが、壁を向いたままでエンディが小さく声を出した。
「……でて、いけって……言ったんだ」
「……エンディ、さん……僕は」
「でて、い……!」
そこでしばらく咳き込み、彼女は掠れるように声を絞り出した。
「……出て行ってくれ。もう、あたしに……あたしたちに、関わるな」
「……」
「お願い、だ。お願いだから……」
肩が震え出す。いちど引き込めた手を当てようとし、アウロニスはそれを中断した。揃えた膝のうえに両腕を力なく落とす。下を向いている彼に、やがてエンディの、すう、すうという寝息が聴こえてきた。
月が中天にかかるころ。
エンディのベッドに顔を載せるように眠っていたミャオフは、アウロニスの姿が部屋にないことに気づいた。目をこすり、廊下に出る。小さく声をかけてから、彼の部屋の扉をそっと押し開ける。
丁寧に畳まれた寝具。部屋の隅にたくさんの本が積み重ねられている。その上に書き付けが載っている。ごみを置いて行ってごめんなさい、と書いてあるが、ミャオフには読み取れない。
そして、もうひとつ。
ありがとうございました、と書いてあることも。
ミャオフは玄関に走り、扉を押し開けた。
誰もいない路上に蒼い月の光が落ちていた。
翌日も、エンディは動けなかった。
夕刻まで眠っていて、いちど目を覚まし、ベッドでミャオフが用意した粥を口にした。少し塩辛く感じたから、アウロニスに文句を言って、と声に出した。が、ミャオフが答えずに俯いたことで、思い出した。
粥は半分、残された。
深夜、彼女はアウロニスの部屋を訪れた。
月明かりが書き付けを浮かび上がらせている。
手に取り、指を這わせ、文字を追うようにそれを読んで、エンディはぺたりとベッドに腰を落とした。
見上げる月は、酔ったアウロニスを抱えるように戻ってきたこの部屋に差した光とはちがう色をしていると、エンディはぼうと考えている。
朝が来るのが遅かった。
その朝が来ても、布のなかでずっと膝を抱えている。
厨房からミャオフが食器を触るかちゃかちゃという音が聴こえてきて、エンディはもういちど、深く布を被り直した。
昼は眠り、夜に起きて、窓の布をそっとめくってみる。
そうした日をいくつか繰り返した。
雨の日もあり、月のない夜もあった。
月はないほうがいいと、エンディは考えている。
酒場の外で組み伏せた夜を、肩を支えて帰った夜を、歌を合わせた夜を、怒った夜を、笑った夜を、穏やかな気持ちで眠ることができた夜を。
そうした夜を、思い出すから。
ようやく寝室から出ることができたのは五日目のことであり、ふつうに食事を摂ることができるようになるまでにはさらに三日を要した。
それでも十日を経れば、外に出て身体を動かせるようにもなったのである。
いま、木立を相手に伸縮索を使い、勘を取り戻そうとしている。
「ねえ、ミャオフ。もう食材もないでしょ。今日は市場に行こうか」
壁に背をつけ、膝を抱えて座っていたミャオフは、ぼんやりとエンディの鍛錬を眺めていたのだ。ふいに振り返った彼女に声をかけられ、にっと驚いたような声を出し、ぎこちなく笑ってうなずいた。
市場ではミャオフが野菜や肉を選んだ。手に取り、品定めをするように回しながら見ている。ふたりに料理を教えてくれたひとの真似をしているのだろう。
串焼きの店がまた出ていたから、エンディはふたつ求めて、一本をミャオフに渡した。通りの隅の石台に並んで腰かける。旨そうだ、とエンディは明るい声を出してかぶりついたが、ミャオフはしばらく手を付けない。串を眺めて俯いている。
その様子を見て、エンディも手を下した。
「……ごめん」
なにを謝っているのかを、エンディ自身もわかっていない。詫びるべきことはたくさんある。ただ、ふたりの周囲の時間を、わずかふた月前の時間に戻せないでいることがもっとも大きな罪であるように、彼女は感じている。
その顔を見上げ、ミャオフはいちど串に目を落とし、がふがふとひと息に腹におさめた。手を腰のあたりに打ちつけて、両腕をエンディの胴に回す。額を彼女の首下に押し当て、くるる、と喉を鳴らす。
エンディの右の手も相手の背にある。その額を梳るように左の指を流し、虎柄の後ろ髪に鼻と頬を擦り付ける。
もういちど、ごめん、と言いかけ、言葉を収めた。
夕食は、肉と根菜の煮込みだった。調味料がいくつも使われているが、その組み合わせは大事なところで間違っていた。ミャオフが用意したそれを、それでもエンディは大きな声でなんども褒め、なんどもおかわりをした。
月がのぼり、ミャオフを胸に抱いて眠り、朝を迎える。
食事をし、片付け、仕事の準備をする。
エンディはみずからレイシュのもとに向かい、第四十二孔の不手際を詫びた。なにがあったかをレイシュは訊かず、三日後には他の者の手で終わらせたとだけ返した。じっと見つめる彼女に、エンディは、新しい仕事をくれ、と頭を下げた。
かんたんな仕事をひとつ請け、その日のうちに片付けた。次の日もレイシュのところへ向い、その次の日も、あくる日も、同じようにした。
ミャオフははじめ、同行しなかった。エンディが仕事をすることも怖がった。それでもまた弁当を作るようになり、いくつも日を重ねたのちに、彼女の背にすがりつくように同行した。
以前となにも変わらない日々が廻り出した。
エンディの、再び停まった時間のなかで。
さらに十日ほどが過ぎた頃。
街で王軍の制服をみかけるようになった。
「いよいよだとよ」
ひと月ぶりの酒場だったが、ゴディオは久しぶりだのどうしていただのといったことはなにも口にしなかった。片眉を上げ、よおと手のひらを見せて、当たり前のようにエンディとミャオフを迎え入れる。
もうひとりは、などとは訊かない。
「王軍の本隊、ついにミリスティゲルに入ったぜ。大回廊第四扉攻略大本陣、ってなもんで、文字どおり鳴り物入りの行進だったってよ」
「……そうか」
「遠からず、そうだな、五日ほどで潜行開始ってところだろう。しばらくは猫、かぶってねえとな。どんなとばっちりが来るか分かったもんじゃねえ。ところでなに飲む。ミルクか」
「ああ、それで。温めて」
冗談のつもりだったのだろう。ゴディオはしばらく世界の終焉を見るような顔をエンディに向け、それから厨房に下がった。温めたそれをふたつと、自分には茶を持ってきた。さすがに酒は遠慮したようだ。
「ま、そう簡単にはいかねえだろうがな。いずれにしても、半月のうちには決着が着くだろ。首をすくめて待ってようぜ」
「……そう、だな」
いつも以上に言葉数が少ない。エンディがなにか言うのをゴディオはしばらく待っていたが、やがて諦めたように肩をすくめた。横目に、自分の膝ばかりをずっと見ている彼女の表情をちらと窺って、小さく嘆息した。
「……南方の珍しい魚が入ったんだ。まけてやるから、たまには佳いものを喰え」
「ああ。ありがとう」
彼女の反応に、ゴディオはため息をひとつ追加して厨房へ去っていった。
エンディはミャオフの首筋に指を通しながら小さく声をかける。
「魚だって。どう、食べる?」
「……ん。だいじょうぶ、おいしかった。あくにんすの……」
いいかけて口をきゅっと結び、俯くミャオフ。エンディは眉尻を下げてその背に手を沿わせようと伸ばしたが、動きが途中で停まった。
ミャオフがぴくりと肩を揺らし、上を向いたのだ。
鼻をすんすんと鳴らしはじめる。
しばらくそうしたのちに、がたんと椅子を蹴って立ち上がった。
店の戸口に向かって走る。
「ちょっと、ミャオフ……!」
エンディも後を追い、戸口を出た。
ミャオフはすでに角を曲がろうとしている。
走って追い、曲がる。
獣人の子は、跳んでいた。
辻の向こうに立つ白い影に向かって。
初めて遭った夜とは、少し違う。
正装なのだろう。純白に金の細い上質な縁取りの入った外套を羽織っている。
が、白の装束の胸に王軍の紋章を抱いていることだけは変わらない。
抱き着いたミャオフを受け止めかねてよろめき、それでも、アウロニスは彼女に向けて少し困ったような微笑をつくっていた。
見慣れた、その幼なげの残る表情に載せて。




