第15話 だから大好き
ミャオフは呼ばれるままに走り、エンディを跳び越えた。
その眼下にはエンディがいたが、アウロニスもいた。
互いの背に、互いの手が回っている。
頬と頬がついている。
彼らの頭上を通過するとき、ミャオフの目は信じられないものを見たかのように大きく見開かれたのである。
その背を追っていた胃袋状の魔物、第九十二孔の主は、目の前に現れた二人の人間を迷わずに口中に収めた。細かい牙が無数に生えた巨大な口を開き、どんと頭から飛び掛かるように襲ったのだ。
ミャオフはすでに距離を取り、主窟の反対側の壁面を走り登っている。壁に爪を立てて静止し、見下ろすように振り返った。目はやはり見開かれたままだったが、意味が異なった。
走りながら後ろを見ていたわけではないが、なにが起こったかはわかっている。
「……に、う……」
人間の姿はない。
主が巨体をずるずるとくねらせ、ミャオフの姿を探している。
はじめは見つめているだけだったミャオフの目に、うっすらと涙が浮かんでくる。エンディの指示、求めていることは理解し、そのとおりに行動したつもりなのだ。が、もしかしたら間違っていたのでは、と思い始めている。
動けない。どうしたらよいかわからない。
眉尻が下がる。顔が、くしゃりと歪む。
十を数えるころ、ミャオフは決めた。
ぽろりと涙を零したあと、壁面で脚を上にし、低く構えた。全身の獣毛が逆立っている。瞳の金に、魔獣の色が滲む。ぐるる、と、引き結んだ口の端から音が漏れる。
自分が見えなくなれば地上に戻れ。エンディにそう言われていたことは忘れていない。が、はじめて彼女との約束を破ろうと思っている。
魔虎の末裔が家族の仇に向けて飛翔しようとした、ちょうどその時。
ばん。
鈍く重い音とともに、主の動きが止まる。その背の一部がごつんと隆起する。
ばずん。
二度目の音は、主の背にあいた開口部から聴こえた。魔体の一部が飛散する。
ずばばばん!
最後の音は立て続けに響き、同時に複数の短針が主の背から天井に向けて飛ぶのが視認できた。
見えたものはそれだけではない。ぎゅるん、と飛ばされた索が短針の後を追うかのように天井に届き、その持ち主ともう一人の身体を持ち上げたのだ。
「……あ……」
ミャオフは跳ぼうとした姿勢のままで目を見開いている。その目がもういちど、濡れてくる。山形になった口が震えている。
索を制御して、動かなくなった主の横に着地した二人。
ミャオフが跳ぶ方向がほんの少し、変わった。
「お、お……し、しょお……!」
「だめえ!」
エンディに向けて思い切り踏み切って宙に舞ったミャオフに、彼女は手を突き出して叫んだ。獣人ならではの身体能力でなんとか二人に触れずにその背後に降り立ったミャオフ。
互いに振り返る。
「……に」
「どろっどろ……触らないで……毛、汚れるから……おええ」
両手を前に突き出してだらんと下げ、吐き気を堪える表情のエンディ。紫と茶を混ぜたぬらりとした液体がだらだらと身体中から滴っている。
ミャオフは最初、近づこうとしたのだ。が、叶わない。あまりの臭気に足が出ない。むしろ、退がった。何歩か退がった。ずいぶん、退がった。
その横で、アウロニスが身体を丸めて胃の内部を空にしつづけている。
◇◇◇
「……だけどよ、よくまあ初見の魔物の核なんざぁ、見抜けたな。俺なら無理だ。ま、そもそも腹に入るのが無理だがな」
テーブルを囲んでいるのは四人。
暇なのだろう。ゴディオは若いものに厨房を任せてずっとエンディたちに付き合っている。ダル酒を湯で割ったものをくいと傾け、相変わらずげんなりとした表情のエンディを見遣り、にひひといやらしい笑いを浮かべた。
「……なんと、なくな」
エンディは気だるげに答えてグラスを傾けた。香草を漬け込んだダル酒に、さらに香りの強い葉を浮かべたものだ。匂いの記憶をなんとか飛ばそうとしているのである。
気だるげなのはもちろん疲労のためで、それは第九十二孔の主との死闘のためでもあるが、住処に戻ってから夜までずっと熱い湯と香油で身体を擦り続けたことにも起因している。
それでも鼻のよいミャオフはまだ気になるらしい。砂糖を入れた暖かいミルクを両手で口に運びながら、ときおり鼻をうごめかして眉をしかめている。
「……作戦……あったなら、先に言って、ください、よ……」
エンディの隣でぐったりと椅子の背に身体をあずけ、ずり落ちそうになっているアウロニス。水場でエンディと背中合わせで湯を使ってきたのだ。むろん互いに裸だったが、気にはしなかった。それどころではなかったのである。
「作戦……なんてもんじゃ、ねえ……最後に残ったのが長針二発だけだったから、身体の中から、核を撃ち抜くしか……っぷ」
そこまで言って、魔物の腹のなかのことを思い出したらしい。うっという形で口を押えた。アウロニスにも伝播する。ミャオフもおなじ表情を作ったが、眉間の皺がより深かった。
笑っているのはゴディオだけだ。アウロニスの肩をどしんと叩き、親指を立ててみせる。
「あっはっは。ま、さすがの機転だよ。おいぼっちゃん、あんたも勉強になっただろ。エンディと臭い仲になったことを記念して、店の出禁は解いてやるよ。感謝してたんまり金を落としていけ」
「ありがとう……ございます……」
「臭い仲、じゃ、ねぇ……」
力のない言葉がふたつ返される。
と、ちょうどその時。店の入り口がばんと大きく開かれた。
「お待たせいたしましたお姐さまぁ」
両手で思いきり木扉を開け放ち、人間の可聴域の上限と思われる甲高い大音声で叫んだ。裾をひらめかせてくるりと廻り、優雅にカーテシーを作ってみせる。エンディを見つけて走り寄り、レイシュはアウロニスにどんと腰をあてて彼を椅子から落とし、そこに座ってエンディの持つグラスに手を添えた。
彼女をここに呼んだのはエンディだが、早く帰れと願っているのもエンディである。
「素敵ですわ、夜の酒場での挙式。ええ、いつなんどきも準備はできております。今宵……あたくしを、お姐さまのものにっ……!」
そういってエンディの頬にとがらせた唇を寄せようとしたが、のけぞった。眉根が寄せられている。手の甲を口にあてている。
「……く、さ……?」
「いろいろあったんだとよ。二人、抱き合って、べっとり。な、ぼっちゃん」
床に転がったアウロニスを助け起こし、別の椅子を引き寄せて与えながらゴディオは相手の背を叩いた。
レイシュは即座に腿の短刀を引き抜いているが、その手首は同時にエンディに掴まれているのである。
ふう、ふう、と息を荒くしたレイシュの獣の視線を向けられたアウロニスは、だが逃げる気力もないようだ。かくりと首を前に垂らす。
「……いろいろ、あったんです。第九十二孔、最下層の主は……」
「くたばってたよ。確認した。攻略は、完了していた」
被せるように声を出したエンディに、アウロニスは目を丸くしてみせる。
「え、いや、なに言って……」
「でかい胃袋みたいな気色の悪い主だった。検分してるときに、残ってた体液でそいつが脚を滑らせてな。助け起こすときに、あたしも転んだ。そういうことだ」
その言葉に、レイシュは落ち着きを取り戻したらしい。目をぱちくりと瞬かせ、即座に短刀を格納したのち、くるりとエンディに振り向いた。
「そうでしたかぁ。うふふ、あたくしったら」
紅の乗った目尻を細め、両方の頬に手のひらをあてていたが、小首を傾げてしばらくエンディの顔を眺めたのちに居住まいをただした。
そうしたときのレイシュの表情は、エンディですら背に涼しいものを感じるほどに冷たいものだ。この街で生き、この街を背負っている、揺るぎない本物。
「では、改めて。第九十二孔の主の存否は、いかがでしたか」
「生きてはいなかった」
エンディは即座に返す。アウロニスが戸惑ったように左右をみて腰を浮かしかけるが、ゴディオがその背を叩いた。首を振ってみせる。
「それでは、重ねて確認します。主を討伐したのは、誰ですか」
「公式の、攻略パーティだ」
「クエストは予定通り完了した。そう報告した公式パーティもギルドも、認定したミリスティゲル評議会も王都の担当者も、だれも間違っておらず、訂正すべきことはなにもない。それでよろしいですね」
「……ああ、そうだ。間違いない」
またしばらくエンディの黒と銀の瞳を見つめたのち、レイシュは穏やかに、満足そうに微笑んで大きく頷いた。
「ミリスティゲルのエンディ、最下層の銀揚羽。あなたの認定を尊重しましょう。第九十二孔の攻略は間違いなく完了していた。これを最終報告といたします」
エンディは応えずに椅子の上で脚を組み、横を向いた。グラスを持ち上げてくいと傾ける。その口の端はわずかに持ち上がっていたのだ。
耳元に、レイシュが口を近づける。
「……だから、大好き。お姐さま」
囁くように言葉を置き、胸元から包みを取り出してテーブルに置いた。そのまま踊るような足取りで酒場を出てゆく。エンディは包みの中身を確認しようとはしなかった。
「……なんでだよ……」
俯いてひとこと呟いたきり、ずっと黙っていたアウロニスは、やがてゴディオに酒を注文した。目を見合わせるゴディオとエンディ。
ふっと笑ってゴディオが運んだのは、薄い果実酒だった。
運ばれてきたそれを、アウロニスはずいぶん時間をかけ、ちびちびと呑んだのだ。




