結婚式の帰り道、私は純米を選んだ
ネトコン向けに、現代の恋愛に挑戦してみました。
夜の十時過ぎ。
スマホが鳴った。表示された名前は「智也」。一瞬、出るのを迷ったが、結局、通話ボタンを押す。
「もしもし」
「……梨沙?」
低い声。酔ってはいないようだが、妙に湿っている。
「なに? こんな時間に」
「明日、千尋の結婚式だなって思ってさ……」
「うん、招待状、もらってる」
「……あのさ、もし俺が、明日……あれだよ、『卒業』みたいなことしたら、どう思う?」
私は一瞬言葉を失った。けれど、彼のことだから、妙な冗談とも思えなかった。
「……『卒業』って、あの映画の? 教会で花嫁を奪うやつ?」
「うん。ダスティン・ホフマンがさ、好きだった子の結婚式に乱入して、式場のガラス叩いて、彼女と一緒に逃げるやつ」
「で、バスに乗って、最初は笑ってるけど、だんだん顔が無表情になるやつね。あれ、ハッピーエンドじゃないよ?」
智也は少し笑った。「そうかな」
「ああ、ハッピーエンドだと言う人もいるか。
……で、あなたは明日、千尋を奪ってバスに乗りたいの?」
「……いや、そういうつもりじゃ……でも、なんか……」
「『なんか』って……なに?」
少し声がきつくなった。
電話越しの沈黙が続く。
「今さら何言ってるの、智也。あなた、千尋にちゃんと告白すらしなかったじゃない。ずっと『どうせ無理だろう』って逃げてた。
それを、彼女が他の人と幸せになろうとしてる瞬間になって、やっと動こうとするなんて……それ、遅すぎるよ」
彼は返事をしなかった。私は深く息を吐いて、少しだけ声を和らげた。
「……あのね、明日、花嫁になる彼女の人生を壊すような真似、しないで。そんなことしても、誰も幸せになれない。
あなただけじゃなく、彼女も、そして相手の新郎も」
「……でも、後悔する気がしてさ」
何を今更……と言う言葉しか出てこない。
「千尋がさ、映画を観た後に『すごいよね、あそこまで人を想えるって。私、そういうの……ちょっと羨ましいかも』って言ってたんだよ」
言いそう。
……そして、智也の千尋に関する記憶力はすごいから、本当にそう言ったんだろう。
「奪っても、奪わなくても、映画じゃないんだから、その先があるのよ。
バスを降りた先にどんな人生があるのか、しっかり考えて」
まあ、考えた末にダスティン・ホフマンをやるなら、私は止めずに眺めていてあげよう。
電話の向こうから、ため息の音が聞こえた。
「……梨沙は、変わらないな」
「そりゃそうよ。私はあなたの『逃げ場』じゃないんだから」
おやすみと言葉を交わし、通話が切れる。
スマホをテーブルに伏せて、私は天井を見上げた。
今頃、彼は脳みそを振り絞って考えているんだろうか。
私たちは大学の映画鑑賞のサークルで出会った。
智也は、千尋のことをまるで聖母のように語っていた。
「優しくて、気高くて、笑顔を見てるだけで救われる」と、真顔で言っていた。
見ていて呆れるくらい、一途だった。
私は知っている。千尋は、そんな女じゃない。
智也の想いにはとうの昔に気づいていたし、気づいた上で、都合よくキープしていた。
「あなたが優しいから、頼っちゃってごめんね。彼氏の愚痴を聞いてくれて、ありがとう」と鈍感なふりをしていた。
女性側から見れば、笑ってしまうほどあざとい手口。
だけど智也は、気づかない。いや、気づかないふりをしていたのかもしれない。
千尋がほかの男と付き合っても、「あの人は選ばれたんだ」とか、「俺なんかが手を伸ばしちゃいけない人だから」とか。
勝手に神棚に祭り上げて、傷ついた気持ちをロマンチックな物語に脳内変換していた。
そんな智也が、私に言ったのだ。
「千尋のこと、もう忘れたい。だから――梨沙とちゃんと付き合いたい」
社会人になって、久しぶりに映画を観ようと誘われたけど、デートだとは考えていなかった。
あまりに唐突すぎて、私は思わず笑った。
「リハビリか何か?」
そう聞いたら、彼は困った顔で笑った。
答えになってなかったけど、まぁいい。
私は、「他の誰か」を引きずる人間なんて珍しくないと思っている。
完全に切り替えてからじゃないと恋愛できないとか、そんなきれいに割り切れないだろう。
未練を抱えたまま、新しい関係を始めていいと、私は思った。
それに――あの時は、智也がどう変化するのか興味があった。
映画でもよくある、「忘れるには次の恋」。
「じゃあ付き合ってみるか」と思えた。
後悔することがあっても、それはそれで人生経験になるだろう。
次の休日、返事をしようと決めていたが、いざとなったら照れてしまい下を向く私。
覗き込むようにして、智也はキスをしてきた。
「……まだ、OKしてない」
「でも、その顔はOKでしょ?」
……そういえば、ラブコメが好きだったよね。
映画のワンシーンのような、くすぐったい始まりだった。
千尋に対してはもじもじうじうじしていたのに、私とはぽんぽんと会話が弾む。
これがいいことなのか、悪い兆候なのか……私はあえて考えないようにしていた。
そして。
付き合い始めてしばらく経ち、私は「本命の女」から呼び出された。
カフェの隅。きれいに巻いた髪、薄く香る香水。
千尋は、微笑みながらカプチーノを飲んだあと、こう言った。
「智也くんと、付き合ってるんだって?」
「うん。そうだけど」
「ふーん。まぁ……智也は私のものだから。
今の彼と別れたら、彼と付き合うつもりでいるの。だから、それまで大事にしてあげてね?」
あまりにサラッと、まるで「荷物預けておくね」みたいな口調だった。
私はしばらく言葉が出なかった。
ムカつくというより、よくそんなことが言えるな、と呆れた。
「それ、智也にも言ってるの?」
「言うわけないじゃない。そんなこと言ったら、彼、変な方向に舞い上がるでしょ?
梨沙ちゃん得意でしょ、面倒見てあげるの」
さすがに、カップを置く手が強くなった。
ガチャ、と耳障りな音が響いたけど、彼女はまるで気にしていなかった。
……こういうやつだ。千尋は。
気高くて、優しくて、笑顔が素敵――なんて聞くたびに、私は内心で笑っていた。
そういう「見せ方」が上手いだけ。
無自覚じゃない。全部、わかってやってる。
女優なのだ。
その後も何度かデートを重ねたけど、正直に言えば、体の相性も、そんなに良くなかった。
キスにはドキドキするけれど、触れられても心が弾まない。
それでも、「ちゃんと向き合ってみよう」と自分に言い聞かせていた。
だけど、そんな努力も、簡単に壊れる。
ある晩、彼がぽつりと言った。
「……やっぱり、千尋のこと、どうしても忘れられないんだ」
そのとき私は、ものすごく冷静に思った。
やっぱりね。
ああ、そうですか、どうぞご自由に。
泣いたり、怒鳴ったりなんてしなかった。
ただ、胸の奥で「振り回されてムカつく」と毒づいた。
主人公二人に挟まれて、私は間抜けな当て馬。
「千尋のこと忘れたいから付き合いたい」と言った男が、「やっぱり忘れられない」と言う。
試したらダメだった、ということですね、はいはい、了解です。
彼はきっと、誰と付き合っても満たされない。
千尋が与える背徳感は、とてもドラマチックだから。
女郎蜘蛛に捕らえられ、生かさず殺さず……そのスリルに陶酔して、もはや中毒患者だ。
そして私は、その「リハビリ」係を演じてみたけれど、あっさりスリップされたのだと思う。
※「スリップ」とは、中毒(依存)からの回復途中にある人が、再び手を出してしまうことを指す。
別れを告げられた夜。
彼は「ごめん」とだけ言った。
私はそれに、「うん」とだけ返した。
優しくする気にも、怒る気にもなれなかった。
この恋愛で私は部外者で……当事者じゃないような、不思議な感覚だった。
そういえば、学生時代――映画研究サークルで『卒業』を観たことを思い出す。
「ラストシーン、意味深すぎじゃない?」
口火を切ったのは、分析好きのAだった。
「バスに乗ってからの無言。あの沈黙が逆にすごいっていうか……絶対ハッピーエンドじゃないよね」
「私は好きだったなぁ」
夢見がちで感情に素直なBが、頬を染めて言った。
「『奪いに来た』っていうの、ちょっと憧れるかも……」
「いやいや、あれは逃避でしょ」
冷静な皮肉屋のCが鼻で笑った。
「自分がどうしたいのかも決まってなくて、ただ勢いだけで全部ひっくり返してる。迷惑だよ、あんな男」
「でも、ちょっと気持ちはわかるけどな」
控えめなDが、小さくうなずいていた。
「社会に従うのが苦しくて、自分の感情に賭けたくなる気持ち……若さゆえの衝動っていうか」
「彼女のほうが結構残酷だよな。結局、誰も幸せになってないし」
現実主義のEがポツリと言った。
「花嫁衣装のまま逃げるって、何の覚悟もないまま、その場のノリで全員裏切ってるってことじゃん」
「俺、好きだけどな。めっちゃロマンチックじゃない?」
そう言ったのが、智也だった。
「好きな人のために、全部捨てて駆けつけるとか、最高だと思う。あのバスの中の無言も、未来が始まる感じでさ」
私は、あのときの智也の顔を今でも覚えている。
憧れが滲んでいた。あれを本気で「美しい愛」だと信じていた。
「ロマンチック……ねぇ」
私――梨沙は、そのとき苦笑しただけだった。
「まあ、映画ならいいけどね。現実でやられたら、取り返しつかないよ」
「私、ちょっと怖かったな」
おとなしいFが珍しく口を開いた。
「親とか、大人とか、全部敵にして、自分たちだけで突っ走って……
何かあっても助けてもらえないのに、どうするつもりだったんだろうって」
あのとき、千尋はなんて言っていたっけ?
「逃げるくらいなら最初からちゃんと向き合えばよかったのに、って思うけど……でも、気持ちはわかるな。
誰かを本気で好きになったら、冷静でいられなくなることって、あるでしょ?」
そうそう、あくまで「共感できる私」を装っていた。
誰も否定できない立場を取り、非難も称賛も受けずに済む無難なポジション。
旨いな、と感心した。
あれから何年も経って、まさか本当に「卒業」みたいなことを考えるやつが身近に現れるとは、思わなかったけど。
しかも、未練と迷いの末に。
智也が「ロマンチック」だと信じたものの裏側が、こんなにも無責任で、独りよがりで、誰も幸せにしないことを――
きっと彼は、まだわかってない。
自分一人だけ悲劇に見舞われたかのように、酔ったまま……。
あの頃、「夢見がち」だった男は、今でもきっとバスの中で、どこへ行くかもわからないまま座っている。
ただ、私はもう、その隣に座る気はない。
翌日、結婚式の会場に着くまで、正直、少しだけドキドキしていた。
智也が、昨日あの電話のあと何をしたのか、していないのか。
「ありがとな」なんてSNSで一通だけ来たけれど、あれはなんだったのか。
決意の後押し? それとも未遂の言い訳?
わからないまま、私は淡いベージュのワンピースで式に出席した。
新婦の親しい友人枠――という微妙な立ち位置。
久しぶりに会った友達と盛り上がりすぎないよう、気を遣った。
うっかり悪口に聞こえることを言わないように。
(だって、サークルの女性陣は、誰も彼女を親友だと思ってないもん)
チャペルの扉が開いて、音楽が流れ、新婦が入場する。
白いドレスの千尋は、幸せそうな顔をしていた。
よくできた芝居かもしれないし、本当に満足しているのかもしれない。
智也は、私たちに後ろの列にいた。
叫ばなかったし、バージンロードを駆け出したりもしなかった。
彼は式をきちんと見届けて、「おめでとう」と口にした。
その瞬間の千尋の表情は、模範的な花嫁のそれだった。
彼女は智也の葛藤も知らない。
――当然か。表向きは、「サークルの仲間」でしかないのだ。
式が終わり、披露宴はしないということで、二次会が行われた。
お互いの学生時代の仲間ばかりが集まる、くだけた雰囲気の会場。
もし、「卒業」をやらかしていたら、幹事さんの苦労もふいにするところだったんだぞ。わかってんのか、この小僧。
と、心の中で罵倒してみた。
千尋は笑っていた。愛想よく、社交的に。
新郎の腕を軽く取って、幸せな新妻を演じていた。
でも私には見えた。
彼女の視線が、時折、智也のほうを追っていること。
そして、智也がそれに気づいていることも。
私が千尋の隣を通り過ぎようとしたとき、彼女がふと微笑んだ。
「今日は来てくれてありがとう、梨沙ちゃん」
礼儀正しい、完璧な笑顔。
「うん、おめでとう」
私も笑ったけど、それ以上は何も言わなかった。
彼女の言葉の裏に何があろうと、もう関係ない。
勝ったと思っていようが、仕方なく結婚したのだろうが――
(……彼の愛が重くて、別れられなかったから結婚してあげたの、とか自慢されそう)
ふと、こんな言葉が頭をよぎって、私は小さく笑ってしまった。
__気の毒なのは新郎よね__
千尋の視線の先に、まだ「未練の残り香」があることに、彼はいつ気づくのか。
もしかしたら、ずっと気づかずに、信じきって一緒にいるかもしれない。
それとも、智也が映画の「カサブランカ」のハンフリー・ボガートよろしく、あの夫婦の関係に波紋を投げかける存在になるのか……。
でも、それも私には関係ない話だ。
私は「いち抜けた」のだから。
智也が誰の元に行こうが、千尋がどんな未来を選ぼうが、あの泥のように絡みつく関係から抜け出せた。もう、それで充分。
さようなら、聖母のふりをした女。
さようなら、選ばれない悲劇に酔った男。
私はもう、あの茶番の舞台に戻るつもりはない。
さあ、次に進もう。
私の人生は、とっくに違う方向に進んでいるのだから。
三次会には行かなかった。
断る理由は、「明日早いから」としたけど、本音は違う。
「うっかりしゃべってしまうのが怖かった」からだ。
酔った勢いで、昨日の電話や過去の千尋の言葉を口にしたら大変だ。
今夜の私は、自分を信用できなかった。
私は常連の小さな居酒屋に向かった。
隠れ家というほどではないけれど、ちょっと入り口が奥まっていて、看板も控えめで、何より、干渉が少ないのがいい。
暖簾をくぐると、いつものイケメンのバイトくんがいる。
「わっ、今日なんか華やかですね!」と爽やかに招き入れてくれた。
「結婚式の帰りなの。友達の」
「なるほど、おめかししてると思いました」
彼は人懐こい笑顔でグラスを拭きながら言った。
「なんか、お祝いっぽい名前の酒とか飲みます?」と訊かれて、私は少し考えてから答える。
「うーん……そうね。がっつり“米”っぽいやつが飲みたい」
「じゃあ純米ですかね。少々お待ちください」
そう言って彼が冷蔵庫をのぞく姿を横目に、私はおしぼりで手を拭いた。
カウンターの奥に立つ、大将がちらりとこちらを見て、
「腹、減ってる? つまみだけでいいの?」と、いつも通りの口調で聞いてくる。
「……うん。野菜が食べたいな」
「ああ」
その一言ですむ関係性が、今はありがたかった。
説明も気遣いも、いらない。
升にグラスが入った状態でカウンターに置かれる。
大きな一升瓶から純米酒が注がれる。
グラスの縁を越え、升が透明なお酒を受け止めた。
バイトくんが瓶を見せながら、「これ、けっこう『米感』ありますよ」と自慢げだ。
私は軽く笑って、背中を丸め、口をグラスに近付ける。
ふわりとした甘みと、舌に広がる旨味。鼻は酸味をとらえ、この強い主張は飲む人を選ぶだろう。
今の気分にぴったりだった。
店内に流れる有線から、昭和のポップスが流れている。透き通るような女性のデュオ。
ふと、耳に飛び込んできたのは――
「くたばっちまえ」
という、きれいな旋律の中に放り込まれた乱暴な言葉だ。
あまりに静かで賛美歌のような綺麗な声で言われたものだから、一瞬、幻聴かと思った。
でも二番の歌詞にも、同じ言葉が出てくる。幻聴じゃない。
私は思わず小さく吹き出してしまった。
このタイミングでそれを聞かせてくるなんて、有線の選曲、侮りがたし。
脳裏に、今日の新郎、智也、千尋の顔が浮かんでは消える。
(……くたばっちまえ、ね)
誰に向けて、とは言わないけど。
その一節に、私の中のもやっとしたものが、溶けていく気がした。
カウンターの上には、湯気が立った枝豆。
濃い野菜の風味とシンプルな塩。
(家で茹でてもレンチンしても、こんなふうに濃厚な仕上がりにはならないんだよねぇ。さすがプロ)
誰にも気を使わなくていい夜。
余計な言葉を出さなくても許される夜。
何かを決断しなくていい夜。
私はようやく、自分の日常に戻ってきた気がした。
次に「卒業」を観るときは、置き去りにされた花婿に感情移入することになるかもしれない。
そんな予感を胸に、私はもう一度、米の酒を口に含んだ。
日本酒、美味しいですよね。