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HORIZON of HEAVEN

始めての小説投稿なので、改行や改ページが読みにくいかも知れませんが、よろしくお願いします。

△▼△




何故、飛ぶのかって?


そんなこと、知らないわよ。


飛びたいから、飛ぶ。


強いて言うなら、そうね、私は

――……勝ちたい。


だから誰よりも速く、何よりも早く。


私は、飛ぶの。


「瑠音先輩ッ!!」


「大丈夫よ、礼」


本当に可愛いわ、礼……。


でも、絶対口には出さない。恥ずかしいから。――……言える訳無いじゃない……っ。


「ふふっ……」


右足を前に。


一歩目から全力。


屋上の縁を蹴って、私は翼を伸ばした。


ばさぁっ!! と、光と窮屈さが解き放たれる。


重力に捕われて、体が下へ落ちていく。


落ちていくこの感覚が、私は大好き。


あらゆる戒めから、体が解き放たれる瞬間だから。


風を受けて下へ、下へ。


私の嫌いな地面が迫る。


上からも、私を追って来る男共が、何人もやって来る。


「ぁは……っ!!」


堕ちていく。


追って来る。


迫って来る。


私を求めて、みんながみんな、私を見てる。


それを吹き飛ばす感覚が、私は大好き!!


一度、大きく羽ばたく。


轟ッ!! と。


光と一緒に、凄まじい爆風が、背後にぶちまけられた。


私の体は、地面スレスレを舐めるように、高速で行く。


――……また道路を壊したかしら?


まぁ、良いわよね。


可愛い後輩の元に、急がなければならないのだから。


あなたはいつだって、待っていてくれるものね、礼?


「瑠音先輩……っ!!」


「お待たせ、礼」


「全然、待ってませんよ。今日も、一番速かったんですから」


「当たり前じゃない。――――なのに」


「え?」


「……な、なっ、なんでもないわ。さ、帰るわよ」


「はいっ」


――……。


言えるワケ無いじゃない。


あなたに早く会いたいから、1番を取りたいだなんて。


そんな、恥ずかしいコト……。



△▼△


西暦2100年。


人類は、機械による個人飛行を実現していた。


《Space Sonic》と呼ばれる飛行機械によって、最高時速200km超による、短・中距離の飛行が可能となったのだ。


《Space Sonic》には、様々な形状がある。ブーツ型のものや、バックパック型のもの、中には翼のような形をしたものまであった。


それらは若者の間でファッションの一部になるほど、バリエーションに富んでいた。


やがて、法整備や施設整備、製造技術の発展が迅速に行われ、『16才以上の専門教習をクリアした人』は誰でも飛行できるようになるまで、そう時間はかからなかった。


機械の値下げに伴い、飛行人口は爆発的に増える。


ハンドボールやドッジボールに応用されることでスポーツとしての一面も見せ、それに伴って《Space Sonic》の性能も更なる凄まじい向上を見せた。


そして、スポーツの中で、最も単純な動きの『陸上競技』に応用された途端。


競技人口が、爆発的に増えた。


その種目は、短距離走。


1kmの距離を超高速で走り抜けるその競技は、一歩間違えば競技者の命はない。


しかし、その危険と隣り合わせの状況が、人間達を狂わせる。


レースを勝ち抜いた、その瞬間のカタルシス。


ある者は歓喜の叫びを上げ。


ある者は傍沱の涙を流した。


全ては、勝利のために。


たった一瞬の、歓喜のために。


「私も、参加するわ」


ある時。


とある少女が、現れた。


彼女は、有翼の少女。


凄まじい強さのあまり、人は彼女をこう呼んだ。


『天使』、と。


謠羽瑠音。

(うたはね・るおん)


18才の戦乙女だった。

△▼△




「はぁっ、はぁっ……」


風も熱気を帯びてきた、初夏の陽気。


僕はその風を外でなびく木々の揺れで感じながら、部室への道を走っていた。


早く部室にたどり着きたいのではなく、部室への道もまた、トレーニングの一環だという、先輩からの助言のせいだ。


1階から4階まで、階段を一気に駆け上がり、最も西側にある部屋へと急ぐ。


「よしっ、着いた」


僕は弾ませた息を必死で押さえ付けて、部室の扉を開いた。


「こんにちはっ、瑠音先輩っ!」


「遅いわよ」


間髪入れず聞こえてきたのは、この部の長、謠羽瑠音 (うたはね・るおん) 先輩の可愛くも厳しい声だった。


つやつやした長い黒髪に、黒くて大きな、意志の強い瞳。


抜群のスタイルと可愛さの先行する顔立ちで、この彩鏡学園(さいきょうがくえん)でも人気のある3年生だ。


部員は、僕と先輩の2人だけ。

最初は恥ずかしくって顔を見ることも出来なかったけど、今ではきちんと話も出来る。


「何してたのよ。こんな時間になるなんて、珍しいじゃない」


部室は南側の壁が、一面窓になっている。


広さは普通の教室の半分くらいで、中は長机と先輩専用席、そしてロッカー、備え付けの黒板があるだけで、他には何もない殺風景な部屋だ。


先輩は南に面した窓を背にして座っていて、逆光の先輩からはかなりの威圧感が放たれている。


「いや、あの……今日はホームルームが長引いちゃって……」


恐る恐る言うと、先輩は足を組んで腕を組み、ため息をついた。


「全く、いつも遅いのよ。早く部活を始めたいのに」


「うぅっ……」


か、返す言葉が見当たらない……どこに行ったのかな、僕のボキャブラリー。


「あの、だったら先に始めていても大丈夫ですよ? 瑠音先輩に迷惑はかけられませんし」

瑠音先輩は、今年で部活を引退する。


そろそろその時期も迫ってきており、最後の調整を始めているところなのだ。


すると、瑠音先輩は何故か少し慌てた様子で、そっぽを向いてしまった。


「礼がいないと練習相手がいないのよ。だから待ってあげてるんでしょ! さっさと準備しなさい!!」


「ひぃっ!」


男らしくない甲高い悲鳴を上げて、僕はそそくさと部活の準備に取り掛かった。


でも……。


さっき先輩の顔が赤く見えたけど……気のせいかなぁ。



△▼△




自己紹介がまだだったっけ。


僕の名前は羽瀬川礼 (はせがわ・れい)。


学園の1年生にして、『飛行部』唯一の平部員だ。


飛行部とは、個人飛翔用機械《Space Sonic》を用いて、1kmから5kmの短距離をいかに速く飛べるかを競う競技の部活だ。


それはいわば、空中のトラックアンドフィールド。


僕らはその大会で勝つために、日々練習を重ねている。


「今日はAコースを5周よ。目標は自己ベスト更新ね」


「え、Aコースですか……」


様々な形に入り組んだ校舎周りを、Aコースは最も複雑に飛ぶことになる。


隙間のような場所をすり抜けたり、人通りが多い場所を多く通る。


よ、よりによって1番危ないコースとは……。


「ほら、さっさと行くわよ」


僕と瑠音先輩は、中庭にいる。


ここから正面にある校舎の上を抜け、先にある渡り廊下の間をすり抜けなければならないので、ここがスタート地点なのだ。


ふわっ、と柔らかい風を起こし、先輩は軽やかに宙に浮く。


僕もブーツ型の《Space Sonic》のスイッチを入れて、先輩に並んだ。


「平均速度は100kmね。行くわよっ!」


そして、背後に凄まじい風圧を巻き起こし、先輩は一気に加速した。


――……っていうか相変わらず速い!!


「うわ、ま、待ってください!!」


僕も数瞬遅れて、飛び出した。


「礼!! 背筋を伸ばして!! 体は小さく振りなさい!!」


「は、はい!!」


僕の《Space Sonic》はブーツ型。


足裏やふくらはぎから光を噴出させて、先を行く先輩を追う。


渡り廊下をすり抜けた時点で、速度はすでに100km超。


校舎の周りを飛行するには、あまりにも高速すぎる速度だ。


流れて行く景色の中、はっきりと見えているのは、瑠音先輩の後ろ姿だけ――――


「ん……」


その美しさに、僕は息を飲んでしまう。


瑠音先輩の背中から生えているのは、純白の光の翼。


天使の翼のような、白い大翼。


左右に全開すれば全長6mにも及ぶ巨大なそれは、先輩の背負うバックパック型《Space Sonic》の出す光だ。


先輩が《Space Sonic》を操作する度、光の翼は羽ばたかれ、瑠音先輩の軽く小さい体を高速で前に飛ばす。


一つの羽ばたきで、数十メートルもの距離を風のように翔ける瑠音先輩。


それはまるで、光そのものが空中を飛んでいるような、天使が実際に舞い降りたかのような――……。


――……あぁ、綺麗だな。


この学園の校舎は、継ぎ足しを繰り返しているため、複雑に入り組んでいる。


校舎から校舎へ向かうための渡り廊下や、校舎同士が立体交差のようになっている場所もある。


僕と先輩は、その隙間を縫うようにして高速で行く。


「次の立体交差、バレー部がいるから気をつけなさい!!」


「了解ですっ!!」


瑠音先輩がさらに速度を上げた。


凄まじい速度で急旋回を繰り返す先輩に、僕は必死で食らいついて行く。


いよいよ立体交差を、バレー部にぶつからないように高速で抜ける地点が来た。


と、僕が見えてきた立体交差を凝視していた、その時だった。


「ん――――?」


――……うわっ。






ばばばばばばん!!

がっしゃーん!!

ばんがんごんどっかん!!






「うわぁぁああっっ!!!!」


「なっ……れ、礼ッ!?」


最初のはガラスを破裂させた音。


次のはガラスに飛び込んだ音。


最後のは飛び込んだ教室の中身に衝突した音だった。


「あたたた……」


《Space Sonic》の操作を誤って、窓ガラスから教室に飛び込んでしまったようだ。


運のいいことに使っていない教室だったので、被害はガラスと机と僕の肋くらいだろう。


「うわ、動けない……」


教室に整列した机をぶちまけたことで、僕の体の上に机や椅子が折り重なるようにしてのしかかって来ていた。全く身動きが取れない。


それに……体の所々が痛い。骨、折れちゃったかな……?


「うぅっ……!!」


「うそ――……礼ッ!!?」


と、瑠音先輩の声が窓側から聞こえてきた。


机と椅子の下敷きになっている僕を見つけられないのか、瑠音先輩はかなり必死な声と足音で近づいて来る。


僕は『大丈夫ですよ』と言おうとして、口を開こうとした――――


――――その時。


「礼ッ……礼、礼ぃっ!!」


先輩は、必死な口調で僕の名前を叫びながら。


竜巻を巻き起こした。


「えっ!!?」


「礼!! 大丈夫っ!?」


痛みよりも、驚きが勝った。


僕が次に見た光景は、光の翼を全展開し、《Space Sonic》を使って机を自分の背後へ吹き飛ばした、瑠音先輩の泣きそうな表情だった。



――……。


何て、綺麗なんだろう。


泣きそうな表情の先輩。彼女が背負う光の大翼。


天使が僕を救うために舞い降りたかのような、そんな光景だった。


あまりの美しさに言葉を失っていると、先輩は膝をついて僕の体を揺らした。


「ちょっと、礼!! 起きなさいよ!!」


「あぅあぅ、だっ、大丈夫ですよっ!」


肋骨が痛いので、必死に無事を訴えると、先輩ははっとした顔で僕の顔を見た。


一瞬、安堵したように表情を緩め、しかしすぐに何かを我慢するような表情になったあと、


「ばかっ! 大丈夫ならさっさと起きなさいよ!!」


「いてっ……」


僕の顔に平手打ちを食らわせた。


痛みで朦朧としてきた意識を、必死でつなぎ止める。


「すいません、でした……」


「さ、さっさと練習戻るわよ。動けるんでしょ」


「すいません、ちょっと……休ませて、ください……」


どうやら、僕は先輩の引退試合には、一緒に出場することが出来ないみたいだ。


遠くからバタバタと足音が聞こえる。きっと先生などが駆け付けているのだろう。


その足音に安心しながら、僕は意識を手放した。


最後に見たのは、先輩が僕に何かを叫んでいる、瞬間だった。



△▼△




「……全く、何て姿になってるのよ」


先輩は呆れたような、しかしどこか淋しそうな声で僕にそう言った。


その言葉に返す言葉はなく、僕はただ、苦笑だけを落として部室の中に入った。


昨日の事故で僕は左腕の上腕を折り、3ヶ月は飛べなくなってしまった。


肋骨は無事だったようで、脇腹は打撲で済んだが――――


しかし。


先輩の引退試合に、僕は出場することが出来なくなってしまった。


――……。


短距離走は個人競技なので、僕が出なくても先輩に迷惑はかからない。


だけど……大会で一緒に走れる、最後のチャンスだったのにな……。


「折っちゃったものは仕方ないでしょ? 折った足で試合に出られても、しんぱ (……いなんてしないんだから) ……」


瑠音先輩は顔を少し赤くして、口を尖らせながら小さく何かをつぶやいていた。


僕はいつもの席に座りながら問う。


「でも先輩、大丈夫ですか?」


すると、「何がよ?」と振り向いてくれた。


「レースで礼に心配されるようなことなんて、無いと思うけど?」


うっ。


ま、まぁ、確かにそうなんだけれど……。



先輩は県大会へのスーパーシードを持つほどの、超ハイスピードスプリンターなんだから、僕なんかに心配されるような人じゃない。


だけど……。


僕は先輩の目を見て言った。


「1人で――……大丈夫ですか?」


言った瞬間、僕は殴られるかと思ったけれど――――


先輩は、


「――……ないわよ」


「へ?」


「大丈夫じゃ、ないわよ……っ」


顔を真っ赤にして、そっぽを向いてしまった。


「かっ、勘違いしないでよね! 1人で淋しいんじゃないだから!!」


癇癪を起こしたように叫ぶ先輩だったが、その声は明らかに強がっていた。


ますます心配になって、僕は次の言葉を継ごうとする。


と、その時だった。


「失礼するよ」


『ッ!!』


部室に、僕と先輩以外の声が響いた。


2人同時に振り向くと、そこにはスーツ姿の中年男性の姿があった。


「真山先生……?」


僕は思わず、漏らしていた。



真山先生。


飛行部の顧問であり、瑠音先輩のクラス担任でもある世界史の教師だった。


「羽瀬川くん、怪我は大丈夫かい?」


「あ、はい、大丈夫です。単なる単純骨折ですから、比較的早く治りそうです」


そうかい、と真山先生は柔和な笑みを浮かべた。


しかし、先生はすぐ真顔になると、瑠音先輩の目を見据えた。


「謠羽くん。今回の羽瀬川くんの事故、どうやら部の存続に関わって来るようだ」


「なッ……!?」


僕と先輩は、同時に目を剥いて立ち上がる。


事故が、どうして部の存続に関係するんだ!?


「校長はね、今年出来るかぎりの経費削減に乗り出しているんだ。


そんな最中に羽瀬川くんが事故を起こし、多くの備品を壊してしまったんだ。人数も少ない部活だし、真っ先に潰されるとしてもおかしくはないだろう?」


「――……僕の、せい」


確実に、僕のせいだ。


このままじゃ先輩は、最後の試合で走るどころか、部を続けることさえ危うい。


僕のせいで……部が――――


「違う!」


と、先輩が叫んだ。


強く強く、反論どころか反撃するかのように。


「礼は確かに事故を起こしたけど、反省もしてるし弁償する気だってある!

それなのに……いきなり頭ごなしに廃部だなんて理不尽にも程があるっ!!!!」


先輩の軽い体のどこからそんな声が出るのか、窓を震わせるほどの咆哮だった。


しかし、真山先生は至ってクールだ。


「残念だけど、理屈が通じる相手じゃない。校長の強引さには、僕ら教師陣も手を焼いてるんだ」


真山先生の言葉に、瑠音先輩も言葉を失ってしまう。


何か、手立ては無いのか……?


この部を……いや、先輩が最後のレースを走り切るまででいい。どうにか、部を存続させる方法はないのか?


「1つだけ」


ふと、真山先生が呟くように口を開いた。


「1つだけ、方法がある。いや、条件かな」


「条件――……?」


部を存続させるための、条件?


「何ですか、それ」


僕は間髪入れずに、聞き返していた。


何でもいい。


部活が存続できるなら、どんなことでもやる。


「謠羽くんに、やって欲しいことがあるんだ」


「――……」


無言のまま、先輩は真山先生を見据えている。


「『墜走』に、挑戦してみないかい? しかも、『新東京』で」


『なっ……!!』


僕と先輩は、同時に息を飲んだ。

『墜走 (ついそう)』。


それは、《Space Sonic》を使った短距離種目の1つである。


本来はビルの隙間を縫ったり、直線を飛び抜けたりと、地面と水平に飛ぶのが短距離走の基本である。


しかし、『墜走』とはその名の通り、遥か上空から地表に向かって『墜ちるように走って行く』、短距離走の中で最も恐怖感のある種目だ。


ただ、墜走に挑戦すること自体に問題はない。先輩に不得意科目はないのだから。


問題なのは、開催される場所だ。


『新東京市』。


50年ほど前に、東京都の西側にある山間部を開墾して建造された、次世代都市である。


新たな免震技術が開発されたことで、その街は1000mを超える超々高層ビルが林立する。


僕も初めてその街を見た時は、あまりの高さに目が眩んだものだ。


その街で行われる、墜走。


それは、都市の中を落ちて行く感覚に近い。


ビルからビルに渡された廊下や、巨大ゆえに飛行可能なビルの内部、そして複雑に入り組んだ超高度道路――――。


《Space Sonic》は風の影響を受けやすく、ビル風などは天敵となる。


更に新東京市は、町中に設置された風力発電機や複雑に入り組んだ高層ビルのせいで、風の流れがおかしい。


地形とその風も相まって、超高難易度コースとして世界的に名を馳せる街なのだ。


「そんな――……高校生があの街のレースに出るなんて、聞いたことないですよ……」




《Space Sonic》による短距離走のエキスパートばかりが、新東京市では活躍している。


高校生がその街を走ったという話は、聞いたことがなかった。


「――……ふぅん?」


ふと、瑠音先輩が笑った。


鼻で笑うような、嘲笑だった。


「私に、その大会に出て、勝って来いっていうのね?」


「そうだよ。実はうちの校長、《Space Sonic》競技が大好きでね。高校生があの街で通用するのか、見てみたいんじゃないのかい?」


――……。


あれ?


「真山先生、確か最近新東京でレースがありましたよね……?」


すると、先生はにやり、と笑った。


「解ってるね、羽瀬川くん」


先生はそう言うと、一枚のプリントを差し出してきた。


僕が受け取り、瑠音先輩のもとまで持って行く。


先輩の隣で一緒に見ようとすると、


「ちょっ、あんまり寄らないでよ……」


小さく小さく、身じろぎしながら呟く先輩だったが、僕はあんまり気にしなかった。


プリントに書いてあったのは、新東京市で開かれる《Space Sonic》競技の大会についてだった。


「『新東京市オープンレース』……?」


僕が呟くと、瑠音先輩は「うわ」と顔をしかめた。




「ずいぶんエグいこと考えるのね、うちの校長も」


「そうかも知れないね」


先輩は嫌そうに表情を歪め、真山先生は苦笑を漏らしている。


「――……? どういうことです?」


僕は二人のリアクションの意味がわからず、二人を見比べてしまう。


答えてくれたのは、真山先生だ。


「『新東京市オープンレース』はね、全国から名のあるスプリンターの集まる、日本で最も有名な市民大会さ」


最も難易度の高い街で行われる、最もレベルの高いレース。


――……いや、街の難易度が高いからこそ、レベルの高いレースが実現するのだろう。


瑠音先輩に、そこで勝てというのか……?


「集まって来るのは、大学生や社会人、各地で『最速』と呼ばれるスプリンター達。


校長はそこで、謠羽くんに勝てというんだよ」


どうだい、エグいだろう?


そう言って、真山先生は吹き出すように苦笑する。


その声には、諦めの色があるように感じた。


「そんな――……瑠音先輩……」


あまりにも、無理がある。


いくら瑠音先輩が素晴らしいスプリンターでも、それが全国レベルだとは思えないのに……。


「あははっ……」





ふと。


瑠音先輩が、笑った。


乾いた笑みは、渇いた欲望を満たしたいがために――――。


「良いわよ、真山先生。校長からのその勝負、受けて立つわ」


「えっ!? る、瑠音先輩っ!?」


「何よ、礼。あなたもしかして、私が負けるとか思ってるの?」


「だっ、だって――――」


「だって? だって、何?」


――……。


僕は二の句が継げなくなってしまった。


どっ、どうして先輩……こんなに自信満々なんだろう?


「真山先生、私たちスプリンターにとっての『勝ち』とは、『優勝』ということよ。そういうことでしょ?」


先輩の言葉に、真山先生は「ふふっ」と笑った。


「――……かつての『天使』は、堕ちてしまったのかい?」


???


ま、真山先生は何を言ってるんだ?


かつての天使?


堕ちてしまった?


――……何の、ことだ?


すると、先輩はまた、鼻に掛けたように笑った。


「堕とされた、っていうのが正しいかも。何にかは言わないわ」


「ふふっ、そう。じゃあ、楽しみにしているよ。エントリーは僕の方でしておく。また後日、報告に来るよ」


そう言って、真山先生は部室を後にした。


後に残されたのは、状況の理解できない僕と、仕方なさそうにため息をつく瑠音先輩だけだった。







△▼△




それからというもの、先輩はさらに速くなった。


1周平均20秒はかかるAコースを15秒で走り抜け、日に日にその速度は増して行った。


「嘘……また記録更新だ……」


後輩の僕でも、それは信じられない速度だった。


平均時速は何と250km毎時。瞬間最高なら、300kmを超えていた。


黒の髪をなびかせて、純白の翼を大きくはためかす。


加速の度に、地上へは凄まじい風圧が襲い掛かり、外で活動していたバレー部の女子部員を一人、転ばせてしまったほどだ。


そして、《Space Sonic》を用いたスポーツの部活は他にもあれど、先輩の速度は別格だった。


空中サッカーも空中ハンドボールも、速度が重要なスポーツだが、先輩には追いつけなかったのだ。


練習試合と称して競争した相手は男子ばかりで、中には本気でくじけている人もいた。


――……そりゃそうだよなぁ。


瑠音先輩、身長は高くないし、可憐な顔立ちで可愛いし。スポーツが出来るようには全く見えないもん。


「うっ、煩いわね……っ。削ぎ落とすわよ!!」


「どの部分をですかっ!?」


そして。


真山先生が部室に来てから、2週間。


「さて、と。ついに来たわね、この日が」


「は、はいっ……」


僕らの姿は、新東京市にあった。


時刻は午前8時。


今は、試合会場である街の中心部に、電車で向かっている最中だ。


――……。


車窓からは、街の風景がこれでもかと見えている。


超高層ビルの林立する新東京市は、移動手段は地上にあるものだけではない。


道路や電車、モノレールなど、ありとあらゆる公的交通機関が、陸橋や宙を行くチューブの中を行くのだ。


その上、ビル同士を繋ぐ橋が縦横無尽に広がっているため、街中はアリの巣のような有様だ。


中でも圧巻なのは、


「うわぁ……凄いですね、先輩」


「そうね。『新・東京スカイツリー』。別名『堕天の神居』……墜走の聖地と呼ばれる場所ね」


新東京市の中央に、一際大きく、高いビルが存在する。


超巨大高層ビルの上に、電波塔を乗せた作りをしたそれは、末広がりの円筒型をしており、全体として電波塔のような印象は見当たらない。


高さ1500mを誇る世界一の巨大建築物。


それが『新・東京スカイツリー』。


今回の大会のスタート地点だった。





「――……瑠音先輩、あそこから落ちるんですか? 頂上見えませんけど……」


不安に駆られて聞いた僕に、先輩は自信ありげに微笑むだけだった。


それから30分ほどで、電車は終点、新東京駅に到着した。


複雑に入り組んだ駅構内を通り抜け、僕らは駅の近くにあるスカイツリーへ向かう。


近くに屋上展望台までの巨大エレベーターがあるので、それに乗り込んだ。


学校の教室ほどもあるエレベーターに乗り込むと、そこはすでに戦場の空気が漂っていた。


屈強な体つきの男の人や、明らかに気の強そうな女の人が、闘志を剥き出しにしているのだ。


「礼、腕は大丈夫?」


ふと、先輩が話し掛けてきた。


周りを気にしていた僕は、少し慌てた感じに答える。


「はい、大丈夫です。すいません、荷物持ってもらっちゃって」


「仕方ないでしょ。ギプスって大変そうね?」


「そうでもないです。《Space Sonic》で飛べないのは残念ですが、あんまり不便ではないですよ。幸い、利き手じゃないですし」


――……。


先輩、どうしたのかな?


間を持たせるための会話なんて、先輩はほとんどしないはずなのに、今日は何だか饒舌だ。


もしかして瑠音先輩、緊張……してるのかな?


「あの、先輩?」


「何よ?」


「もしかして、緊張してます……か?」


そう問い掛けると、先輩は急に顔を赤くして怒りだした。






「そ、そんなわけないでしょ!? 礼の癖に私の心配なんて生意気なのよ!」


「ぅぐっ……」


どうやら思い過ごしだったみたいだ。


そうですか、と答え、再び口を閉ざした。


スカイツリーの屋上までは、非常に距離がある。


1.5kmを上がるのだから、相応の時間はかかる。


その間をずっと沈黙で過ごしている時だった。






ふわっ






「――……?」


僕の右手が、何か温かいものに包まれた。


見れば、誰か他の人の手が、僕と手を繋ぐようにされていた。


手は小刻みに震えていて、わずかに汗っぽい。


手の主を辿ると、


「瑠音先輩?」


「っ……!」


そっぽを向いた瑠音先輩が、僕の手を握っていた。


「?」


先輩の顔を少し覗き込んでみると、その頬は真っ赤に染まっている。


「――……」


僕は黙って、瑠音先輩の手を握り返した。


すると、手の震えは治まって、しっかりと僕の手を握ってくるようになる。


柔らかくて、小さな手。


その感触に緊張しながらも、僕は屋上に着くまでのその間、瑠音先輩とずっと手を繋いでいた。




△▼△

午後12時

大会実況中継

朝比奈礼子のリポートより




『さぁ!! いよいよ始まりました、新東京市オープンレース!!


今回も日本全国から!! 中には海外から!! 各地で最速と呼ばれる猛者達が、ここ新・東京スカイツリーへと集まりました!!


実況は私、朝比奈礼子 (あさひな・れいこ)と、解説はお馴染み、彩鏡学園飛行部顧問、真山先生でお送りします!!』


『はい、よろしくお願いします』


『早速ですが真山先生、大会はすでに準決勝と決勝を残すのみ、今はお昼休憩ですが、注目選手は誰になるでしょうか?』


『まずはやはり下馬評通り、「破夜舞迅 (はやま・じん)」選手でしょう』


『破夜舞選手は一昨年、去年とこの大会の優勝者ですね』


『えぇ。しかし、彼だけではなく、女子選手中最速の呼び声高い音無黒廻 (おとなし・くろね) 選手。


妨害能力では別格の破壊魔、神崎橙弥 (かんざき・とうや) 選手にもまた、注目が集まりますね』


『なるほど、やはり去年からの有力選手が注目というわけですね?』


『はい、やはりそうなりますね』


『ところで、準決勝までに残った16人の内、ただ1人、初出場の選手がいますよね? しかも女子選手です』


『えぇ、謠羽瑠音 (うたはね・るおん) 選手ですね』


『彼女は、先生の学校の生徒ではなかったでしょうか?』


『はい。恥ずかしながら、うちには2人しか部員がいません。


そのような中でも、彼女は今回、非常に頑張っていると思います』


『彼女の《Space Sonic》の形状とも相まって、ちまたでは天使と呼ばれているようですが』


『彼女、もしかしたら怒るかも知れませんね』


『それは……どうしてです?』


『彼女は天からの使いなどではなく、等しく神だと、そう言うと思いますから』




△▼△




「私、そこまで自信過剰じゃないわよ」


お昼休み中の新・東京スカイツリー屋上。


瑠音先輩は見事に予選を勝ち抜き、選手控え用のテントに待機していた。


この大会はテレビで実況中継されているらしく、先ほどの放送はその内容だ。


解説役を終えた真山先生は、テントまで来ると、いきなり瑠音先輩からの口撃を受けた。


対し、真山先生は飄々と受け流す。


「あれ、そうだったかな? それにしても君、今日は羽瀬川くんと随分仲が良いみたいだね」

「うっ」


あ、先輩が反撃を喰らった。


予選を勝ち抜いてこのテントに戻って来る度、先輩はここで僕の手を握りしめたまま、動こうとしないのだった。


「煩いわねっ! さっさと大会本部で踏ん反り返って来なさいよっ!!」


「うぉっ!! ペットボトルを投げるのをやめてくれ謠羽くん!! わかった、わかったからさ!!」


先輩の物理的なキレ方に観念したのか、真山先生はそそくさとどこかへ行ってしまった。



「全く、何言ってるのよあの教師は」


「あ、あの、瑠音先輩?」


「な、何よ」


「そろそろ……離してくれませんか?」


「――……やだ」


「恥ずかしがるくらいなら、握らなくて良いんじゃ……」


「っっっ~~!!」


それにしても、予選での先輩は速かった。


本当に初出場なのか疑うほど、先輩は素晴らしい走りを見せたのだ。


位置取り、コース取り、加速のタイミングなど、見る限り最高だったように思う。


それはもはや、不自然を感じてしまうくらいの完璧さ。


まるで、昔から飛び慣れた空を行くかのように――……。


もしかして、先輩は昔ここで走ったことがあるのだろうか?


「なぁ、アンタが謠羽瑠音さんか?」


ふと、僕らの正面に3人の男女が立ちはだかった。


この3人、知ってる……。


さっきの予選で、瑠音先輩と同じで他を圧倒して予選を勝ち抜いた3人だ。


中央に立つのは、赤い髪をした鋭い目つきの青年だ。


カラーコンタクトを入れているのか、その瞳も悪魔的に紅い。


彼の右に立つのは、刈り込んだ髪を金に染めた、見るからに屈強な男の人。


着ている服は作業着のようなツナギに見えたが、フライトスーツみたいだ。


そして赤髪の青年の左に立つのは、ショートの黒髪を軽く波打たせた、眠そうにトロンと半目を開く女の人だった。


決して飛行には適さないはずの、軽いパンクファッションを身に纏っている。




中央、破夜舞迅。


右手、神崎橙弥。


左手、音無黒廻。


真山先生が注目選手として挙げた、トップスプリンターたちだ。


迅さんの言葉に、瑠音先輩は僕の手を離し、立ち上がって答えた。


「えぇ、そうよ。何の用?」


毅然とした先輩の態度に、橙弥さんが豪快に笑う。


「ハッハッハ!! 彼氏と楽しそうにしてるから、邪魔しに来てやったんだよ!!」


「ばっ……こ、こんなのが私の彼氏なワケないでしょっ!!?」


ムキになって叫び返す、先輩に対し、橙弥さんは笑い声を大きくするだけだ。


すると、顔を真っ赤に染めた先輩に、迅さんが言う。


「次の準決勝、オレら3人は同じグループなんだよ。


オレらはアンタと戦うのを凄く楽しみにしてる。


だから、必ず勝ち上がって来い」


前年度優勝者の強い言葉。


それは純粋に、強い人間と戦いたいという、覇者の欲望だ。


それに対し、先輩は――――


「良いのかしら、そんな余裕な台詞を吐いて」


――――自信に満ちた顔で、強く眉を立てた。


その台詞に何も言わず、迅さんたちは立ち去ってしまった。


黒廻さんに至っては途中から寝入っていたようで、橙弥さんに引きずられて行った。


彼等が立ち去った後、先輩は黙って僕の隣に体育座りすると、


「……こわっ」


小さく小さく呟いて、僕の手を今まで以上に強く握りしめた。




△▼△




「行ってくるわね」


私は礼にそう言うと、温かい彼の手を離した。


――……手が冷たい。早く勝って、もう一度手を握りたかった。


全長3kmのコースのうち、半分が落ちていく落下戦。


残り半分は、地上で折り返して上昇戦となる。


地上に向かうまでには、幾本もの立体交差や空中チューブをかい潜らなければならず、地面が迫って来る恐怖感も合わさって相当の難易度だ。


決勝はまたコースが変わるらしいけれど、準決勝の今は考える必要がない。


とにかく早く帰って、……。

――……っ!!


『さぁそれではいよいよ始まります準決勝!! 選手が位置に付きましたっ!!』


実況の叫び声で、ハッと意識が戻る。


いけない、集中しないと。


私が立っているのは、新・東京スカイツリーの屋上の縁。


このまま一歩を踏み出せば、1500m先まで真っ逆さまだ。


地面は霞むほど遠く、だけどそこまで恐怖はない。


私は、飛べるから。


ふんわりした白いワンピース調のフライトスーツは、私の一番のお気に入り。


単純に飛びやすいし、礼が可愛いって褒めてくれたから。


風になびく服を、ぱんっと一度叩くと私は集中しはじめた。



『――……』


実況の声すら、私にはもう聞こえない。


両脇に並ぶ他の選手の挑発にいたっては、聞く必要がない。


『On Your Mark――――』


コールが響く。


《Space Sonic》を静かに起動した。


翼のような起動光が、背後へ伸びていくのがわかる。


これが――――私の翼。


『――――Set』


そして、私は高く跳ぶ。


号砲までにラインを割らなけ

れば、自力の跳躍は許される。

助走を付けるように。


より堕ちて行けるように――――。


『Go!!』


号砲が、響いた。


その瞬間、私の意識は一瞬で加速した。


プールへ飛び込むように、頭を下にして落ちはじめる。


一瞬、背後の礼の顔が見えた。


どこか慌てたような、落ち着かない表情。


――……全く、なんて顔してるのよ。


礼の顔を見たまま、私の体は下へ落ちて行った。


耳で砕ける風の轟音。


靡く黒髪、風圧を受ける体。


墜走は、大好き。


機械に頼らない、落ち始めの自由落下が好き。




――……愚かな敵たちが、私の前に出始める。


許さない。


私と――……彼の間を阻むなんて。


「絶対……許さないんだから」


私は、加速した。


羽ばたき、押し、前へ出る。


行く。


超高速で迫る陸橋やチューブを、紙一重ですり抜ける。


羽ばたき、


走る。


前へ。


堕ちる。


堕ちてゆく。


前へ前へ前へ前へ前へ――……堕ちる堕ちる堕ちル堕ちル堕チル堕チル堕チ堕チ堕堕堕堕堕――――!!!!


「――……ぁははッ!!」


爆圧にも似た衝撃を伴って、私はさらに《Space Sonic》で加速した。


背後で敵が事故の音を起こした。


爆発。


陸橋を回避。次は送電線。隙間はどれくらい? 行けるわ全然行ける。


無様な喚き声が聞こえた。あれなら陸橋に引っ掛かって助かるはず。運がなければ知らないわ。


電線と電線の合間を抜ける。次は地面。折り返して上昇。

昇る。


昇る昇る。


昇る昇る昇る。

ら送電線陸橋チューブかい潜る敵が落ちてくる翼で妨害また1

人事故ルールは守っている喚き声鼓動轟音脈々と毒々と刻む誰よりもただただ速く速く速く速く――――!!!!!!




――――――――




『ぬっ……抜けたぁぁあああ!!!! これは誰が予想したでしょうか!! 準決勝Bグループ1位は最強のダークホース!! 彩鏡学園3年の謠羽瑠音選手だぁあああ!!!!』

「ふぅ……」

音が戻って来る。

屋上から歓声が聞こえてきた。

見下ろすと、私に向かって拍手や称賛の声が贈られているのがわかった。

完走した敵が、私の隣に並びはじめる。

「速いね、君……」

ふと、近くにいた男が私に話し掛けてきた。

私はそれに、少しだけ嘲りを込めて、こう答えた。

「当たり前よ」

△▼△




「瑠音先輩っ!!」


屋上に設置された画面で見た先輩は、桁違いに速かった。


陸橋やチューブを、絶妙なタイミングですり抜け、折り返しの上昇戦では敵を妨害する余裕まであった。


今、屋上のさらに上へ滞空している先輩は、純白の大翼を全開にして黒髪をなびかせている。


ふと、先輩はテントの前に立っている僕と目を合わせてくれる。


そして微かに笑うと、屋上へ降り立ち、勝利者インタビューを受けはじめた。


やっぱり、先輩は速い。


特に、地面から再び屋上へと上がって来る時の折り返し。


翼のたった一振りで急激に減速し、一度地面に手を着いてから、再び屋上へと戻る。


ほとんどの選手が地面付近で徐々に速度を落としていく中、瑠音先輩は全く地面を恐れず、平然と地面に向かい、そして素晴らしいターンを見せる。


「あの《Space Sonic》。すごいね」


ふと、背後から女の人の声が響いてきた。


振り向いてみると、そこにはテントの下に寝転がっている黒廻さんの姿があった。


「てんし みたいで、きれーだね」


少し舌足らずな風に、しかも眠たそうに話す黒廻さんだったが、その瞳はしっかり先輩を捉えている。


「ただの《Space Sonic》じゃない。とくちゅうひん。じんくんや、とうやさんといっしょ。くろねともいっしょ」


瑠音先輩の《Space Sonic》が、特注品?


「えっと、どういう……あれ?」


黒廻さんにさらに意見を求めようとして振り向くと、そこに彼女の姿はなかった。


「し、神出鬼没……」


「どうしたのよ、礼」


うんっ!? 今度は正面?


再び正面に向き直ると、瑠音先輩が髪を掻き上げながら立っていた。


「誰かいたの? 話し掛けようとしてたみたいだけど」


「あ、黒廻さんがいたので、話し掛けようと思ったんですけど、どこかに行っちゃったみたいで」


「……そ」


僕がそう答えると、先輩はどこか拗ねたみたいな態度になって、僕の隣に座った。




「……」


すると、先輩は何故か僕の手を握っては来ず、体育座りで顎を膝にくっつけていた。


よく見ると、少し唇を尖らせていて目もなんだか伏し目がちだ。


――……本当に拗ねてる?


僕が機嫌を損ねてしまった……の、だろうか?


「先輩、決勝進出、おめでとうございます」


「……」


「地上からの折り返しのターンとか、すごく綺麗でかっこよかったです」


「……」


「相変わらずすごい反射神経ですよね。陸橋の上の人とか、驚いてましたよ?」


「……」


「あの、瑠音先輩?」


「……」


うわ、やっちゃった。


完全に拗ねてしまった。


でも原因がなんだかわからないので、謝りようもないのだけれど……。


「――……」


僕は謝る意味を込めて、膝を抱えている先輩の左手を取った。


抵抗する素振りを見せなかったので、少し強めに握る。


それからずっと、決勝戦がコールされるまで。


僕は先輩と、ずっと手を繋いでいた。




△▼△




『それでは、いよいよ今年の日本最速を決める戦いが始まります!! 新東京市オープンレース、決勝戦を始めます!! 選手の皆さんは受付を済ませてください!!』


コールが響いた。


いよいよ、決勝戦が始まるのだ。


しかし、しばらくしても先輩は僕と手を離すことなく、テントの下に体育座りを続けている。


「瑠音先輩……? 行かないんですか?」


静かにそう聞くと、しばらく間を空けて、口を開いた。


「――……ぃよ」


「へ?」


今、『怖い』って言った、のか?


「ねぇ、礼」


と、先輩が膝から顔を上げて、僕の方を向いた。


恥ずかしそうな表情に顔を真っ赤にして、だけど真っ直ぐ、僕の瞳を見つめていた。


「――……待ってて、くれる?」


「え―――」


「ねぇ、答えて。礼は私のこと、ちゃんと待っててくれる……?」


――――、――……


先輩は一体、何を心配しているのだろう?


まるで、このレースから自分が生きて帰って来られないみたいな、そんな言い方、しなくたって……。




僕は先輩の手を、さらにしっかりと繋ぎなおした。


待っててくれるかだなんて、そんなの、決まってる。


「大丈夫ですよ。ちゃんと、先輩の帰りを、待ってますから」


僕はもう、部の存続がどうのこうのの問題は、全く考えていなかった。


ただ、先輩が無事に帰ってきてくれれば、それだけで良かった。


すると、先輩は赤い顔をさらに赤くして、憤然と立ち上がった。


「べっ、別にどうしても待っててほしいわけじゃないんだから!! それでも良いんだったら、勝手にしなさい!!」


「あ、あの、先輩……?」


な、なんで先輩はまたこんな急に怒り始めてるんだ?


その疑問が晴れぬまま、瑠音先輩はスタート地点まで歩いて行ってしまう。


その毅然とした背中に、もうためらいは無いように思えた。


だけど、この時の僕はまだ知らなかった。


瑠音先輩がつぶやいていた、その言葉を。


「でも……待っててくれなかったらっ――……ひどいんだからね……っ!!」




△▼△




「さっきのレース、本当にすごかった」


礼とせっかく気持ち良く別れてきたっていうのに、スタート地点で話し掛けてきたのは、隣にいた無粋な赤髪の男だった。


名前は何と言ったかしら……そう、破夜舞迅。


「何の用? あなたのその芸名みたいな名前、じつはそんなに好きじゃないのよね」


本当は怖い相手だったけれど、決勝前に隙を見せるわけにはいかない。


私の受け答えに、迅さんは苦笑した。


「そんなに敵視するなよ。本当にすごいと思ったんだぜ?


この街の墜走で、あそこまで大胆に落ちて行けるやつはそうそういるモンじゃない」


「そ? みんながビビりなだけじゃないかしら?」


「ははっ、言うことが違うな」


私のあしらいにも、迅さんは全く乗って来ない。


すると彼は急に真面目な顔になると、とある言葉を口にした。


「アンタ、もしかして『堕天使』なのか?」


『堕天使』。


《Space Sonic》短距離走において、最高難度を誇る新東京市。


この街で生まれ、《Space Sonic》短距離走の初戦が『墜走』だった人間を、そう呼ぶ。


彼らはその先、地面へ垂直に向かっていくことを恐れる者と、逆に墜走でしか楽しめない者とに分かれる。


どちらにせよ、あまりの恐怖心に精神がおかしくなってしまうのだ。




私は、『堕天使』だった。


それも、後者の。


「えぇ、そうよ」


すると、迅さんは納得したように頷く。


「やっぱりな。アンタみたいな落ち方、狂ってるとしか言えない」


「……確かにそうね。私は狂ってるかもしれないわ」


だけど、それは仕方の無いこと。


私は墜走に魅せられてしまった。


この街の、この大会で、優勝したいと、ずっと思っていた。


だから私は、この決勝という舞台を――……チャンスを逃さない。


私は表彰台を指差して、迅さんに言った。


「悪いけど、真ん中、奪わせてもらうわ」


それに対して、迅さんは強く笑った。


「ハッ、やってみろよ。飛び降り狂」


『On Your Mark――――』


会話が途切れると同時に、位置についてのコールがかかる。


私は精神を集中した。


今までみたいに、無我夢中で自分ありきの走りをするだけは、絶対に勝てない。


冷静に、周りを観察しながら走る必要がある。


『Get Set――――』


並び立つ私以外の7人を見る。


私を見て笑っているのは、イカつい男の橙弥さん。


彼は上腕と足に《Space Sonic》を装備して、橙色の光を噴き出している。




それに対して、迅さんは強く笑った。


「ハッ、やってみろよ。飛び降り狂」


『On Your Mark――――』


会話が途切れると同時に、位置についてのコールがかかる。


私は精神を集中した。


今までみたいに、無我夢中で自分ありきの走りをするだけは、絶対に勝てない。


冷静に、周りを観察しながら走る必要がある。


『Get Set――――』


並び立つ私以外の7人を見る。


私を見て笑っているのは、イカつい男の橙弥さん。


彼は上腕と足に《Space Sonic》を装備して、橙色の光を噴き出している。


ぽーっと上を向いているのは、憎むべき音無黒廻。


彼女は腰部分に《Space Sonic》を装備し、紫色の光を宿らせていた。彼女にだけは負けるわけにはいかない。


そして、スケートボード型の《Space Sonic》に乗るのは迅さん。


彼はその赤い瞳を今は閉じて、精神を集中している。


彼ら3人以外に、警戒すべき相手はいない。残り4人は警戒する価値も無い。


息を吐き、下を向く。


決勝戦は、地上で折り返した後、『新・東京スカイツリー』の内側、螺旋状の廊下を登って行くコースとなる。


難易度は上がるけれど、問題ない。


――……わ、私はっ、礼の元に帰らなきゃいけないんだからっ。


止まっているわけにはいかない!!




『――――Go!!』


その刹那、翼を一瞬で全開にする。


それと同時に、この《Space Sonic》のリミッターを解除した。


本来、上や前に向かっていくための『純白』の翼は――――


「なッ……瑠音先輩!?」


誰かの声が、私の集中を突き破ってきた。


私の翼は、下に落ちていくための『漆黒』に変わっていた。


その状態で、私は屋上の床を蹴る。


「ッ……!!」


「っしゃあ!! 勝負だ謠羽瑠音ッ!!」


「威勢が良いなァ迅!! 今年こそ勝たせてもらうぞ!!」


「うーん……じんくん、とうやさん、まってくださ~い」


遂に、最速を決める戦いが始まった。




△▼△




加速度が、今までよりも遥かに増大していた。


下に向かっていくということは、重力加速度を最大限に活用できるということ。


黒の羽は重力を効率的に捉え、落下に関して爆発的な加速を生むことができる。


私がこの漆黒の翼を使うのは、初めてこの街で、墜走に挑んだ時以来。


何よりも、私が堕天使だという――――証明。


「ッ……!!」


景色はもはや捉え切れず、線になって平行感覚を安定させる。


陸橋を掠め、チューブを舐めるようにかわした。


今はまだ1位。迅さんも橙弥さんも黒廻も、私の後ろで様子を見ている。


僅かに振り向き、様子を確認。人数が減ってる……? 橙弥さんのせいか。あれ? 黒廻の姿が――……


「おじゃましまーす」


「なぁ……!?」


見れば私の遥か頭上、スカイツリーを原点としたX軸的には、大きな数字の位置する場所にいつの間にか黒廻の姿があった。


大きな弧を描くように飛ぶ彼女は、腰に蝶のような黒と紫の羽を生やしている。


その羽が風を流して加速してッ……!!


「あっ……くぅッ」


はっと気がつけば、陸橋が目の前に迫っていた。


幅は6m。翼の一振りじゃ……避けきれないっ!!


翼を大きく振り、空中で側転するように陸橋をギリギリで回避する。


明らかなタイムロス。


迅さんや橙弥さんが、このチャンスを逃すはずがない。思った瞬間、刹那で2人は私を駆け離していった。




「ワハハハハッ!! お前に追いつけるかよォ!!」


橙弥さんの、嘲笑ではない純粋な叫びが聞こえる。


迅さんに言葉はなく、空間に焼き付いた赤い噴出光が、彼の集中力を雄弁に語っていた。


高速で離れてゆく赤と橙、そして紫の光。


その光が、初出場の私に語りかける。


『甘くない』


私に敗れるほど世界は甘くないと、そう言っていた。


やっぱり、ダメなの……?


この決勝戦は、間違いなく世界の頂点を決める戦い。世界最速が決まる舞台。


進出しただけで、それは相当の成果。校長も許してくれるかもしれない。部も存続するかもしれない。可能性は、高い。


――――――……、


だけど――……礼は?


礼は、許してくれる?


――……彼なら、きっと許してくれる。


礼は優しいから。私が死にでもしない限り、彼はきっと許してくれる。


――……だけど。


だけどそんなこと……私自身が許さない!!


礼に甘えたくない。礼のことが好きだから……大好きだから!! ここで彼に甘えるわけにはいかないの!!








『瑠音先輩っ♪』




「っっっ~~!!」




負けるわけには……いかないの!!!!!!!!!

△▼△




堕天使。


彼らは、落ちゆくことに何ら躊躇いを持たない、飛び降り狂。


何かに取り憑かれたように堕ちてゆくが、しかし、彼らには、共通していることがある。


堕ちてはゆくが――……


決して、墜ちはしない。


「ッ!?」


集中と高速に、加速していく意識。


何人も踏み込めない、自意識の檻に囚われていた迅はしかし、音を聞いた。


謠声だ。



『On Your Mark 途切れる鼓動に耳を澄ませ

Get Set 風を掴んで君のもとへ』



「な、何だ……この歌は!?」

地面は近い。

ターンは最も神経を使う場面。歌に意識を取られている場合じゃない。



『呑み込まれそうなビルの森 屈折する光は何処へ行くのだろう』



迅は、構わずターンの態勢に入り――……



『飛べない鳥は 地を駆け 空を睨んだ

「弱いヤツは生き残れない」と獣達は笑うけど



歌声が、迅を抜き去った。

『何……?』

迅は疑問に、橙弥は愉快に、黒廻は驚愕に、表情を染める。



『生き方は自由さ 羽ばたきながら 堕ちていく俯瞰』



黒の堕天使が――――加速したのだ。



『On Your Mark 誰より速く重力の壁を壊して



減速は絶対に間に合わない。確実に地面へ叩きつけられる速度だ。



『Get Set 勝ち抜くから待っていてほしい



しかし、堕天使は躊躇わない。



『加速して見下ろすビルの森 彷徨う影が小さく震えている



3人が減速していくのを良いことに、堕天使は更に加速した。



『白い翼は黒く輝き 地を蹴り 歌うんだ強く



羽ばたき、翻り、直後に地面へ足を向ける。



『「帰りを待っているよ」と君は手を握ってくれた



ふわり、と。

彼女は高速のまま、しかし墜落などせず、着地した。



『甘えたくはないのさ 大好きだから 迷わず墜走



「あ、有り得――――?」

迅が思ったその瞬間には、黒の堕天使は、白の天使へと覚醒している。



『On Your Mark 砕け跳ぶ風の声を聴け



迅、橙弥、黒廻が同時に聞くのは、街全体へ響く高らかな歌声と共に、天へと上る純白の天使の姿。



『Get Set 跳べ 走れ 前へ 堕ちろ 昇れ 昇れ



天使は笑みを湛えていた。



『On Your Mark 高ぶる鼓動に嘘はつけないから



抜いた。抜いてやった。やっと彼の元へ辿り着ける。彼の元へ走って行ける!!


何て幸福なのだろう!? 大好きな人の元へ駆け付けて良いだなんて!!!!


彼女は、高らかに歌う。



『Get Set 君の胸に舞い降りたい




彼は待っていてくれる? きっと待っていてくれる!!


陸橋宙をゆくバスやトラックチューブや陸橋に植えられた木々をかわしてゆく。


だって、約束したから。


身を翻して電線の間を抜ける更に速く早くハヤク!!


絶対に待っていてくれるって、約束したんだから!!


ビルの中に突入するゲートが見える複雑怪奇に入り組んだ中は飛びにくいまるで私を阻んでいるよう許さない彼の元に。


どんな顔をしてくれるだろうか? 喜び怒り哀しみ楽しみ? とにかく、何だっていい。帰らなければ。


赤と橙と紫が肉薄して来る特に赤は速い恐ろしいくらいに速いショーウインドーが風圧で次々に割れる廊下は狭くて飛びにくい私の翼は壁や床についている。


待っていてくれるって、言ってくれたから。


何て……幸せなんだ!!


「謠羽……ッ瑠音!!」


「ハハハハッ!! 待ちやがれェェエエ!!」


「まってぇー!!」


赤も橙も紫も一気に仕掛けて来る。駆け引きなんて何もない。ただ抜かしに来る。


だけど絶対抜かされてやらない。


だって、勝つのは私。







『瑠音先輩っ』




「ぁぁあぁああぁああぁぁぁあぁあぁああぁぁぁあぁああぁあぁあぁぁぁぁあああーーーっっ!!!!!!」




瞬間、彼女は白に飛び込んだ。


そして、最後にその一節を、歌い上げる――――。




『歓喜の歌を――――』


△▼△




『来たぁぁああ!! 帰って来ましたぁあああ!!! 誰がこの結末を予測したでしょうか!!


破夜舞迅、神崎橙弥、音無黒廻の三強を捩じ伏せ、最速の座に着いたのは!!


純白の堕天使!!


謠羽瑠音選手だぁああ!!』


「瑠音先輩ッ!!!!」


「ぁ――……」


気がつけば、私は礼の腕の中にいた。


ぎゅうっ、と。


固く固く、抱きしめられていた。


私の小さな体を押し潰さんばかりに私を掻き抱く礼に、手を回すことで応える。


翼はまだ収められていない。きっと、ビルの中央にある吹き抜けから屋上に抜けてゴールしたと同時に、礼に飛び込んだのだとわかった。


「――……お帰りなさいっ!!」


「待ってて……くれたんだ」


「当たり前じゃないですか。本当に……ドキドキしたんですからね?」


「――……私、1番だった?」


「はい、もちろん」


「ちゃんと、見ててくれた?」


「当たり前ですっ」


「私……頑張った、かな?」


「――――ありがとう、ございます」


「……?」


「1番に、逢いに来てくれて」


「……~っ!!」


言わなくちゃ。


待っててくれて、ありがとうって。


礼のことが、大好きだからって。


「あ、あのね……礼」


「どうしました?」


「あ、えっと、その……」


「……??」


「~~ッ!!」







「べ、別に待っててくれて嬉しいだなんて、思ってないんだからねッ!!!!」




――……あぁ、もう。


どうして、素直になりきれないんだろうなあ……。



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