4・あなたはいつだって
背後からエレミアの声がする。
良かった無事だった、と言いたいがそうじゃない。
彼女は、床に倒れ込んでいた。壊れた花瓶とともに。
俺の名を呼んだその声がいつもよりくぐもって聞こえるのは、口の中を切ったからだろう。赤くなった頬は痛々しく、僅かに血の匂いがした。
目の前の男を睨みつける。
赤い髪と瞳、筋骨隆々の大男。
エレミアと一片たりとも似ていないこの男が、けれど彼女と血の繋がった父親で――たった今、エレミアを、自分の娘を、己の手で害した。
つまり、これは俺の――敵だ。
『あァらジャン、随分とお冠ネ』
耳元で声がする。軽やかで、楽し気な声だ。
普通の人間とはどこか違う、さやかに響く不思議な声を持つその存在は、生まれたときからずっと俺の側にいた。
慣れ親しんだ、けれど常に敬意を忘れてはいけないと教えられた、親のような友人のような、神のような。
そんな存在。
「……精霊様」
一瞬目を瞑り、頭の中でイメージを組み上げる。
それは、意識的に閉ざしていた回路をかちりと、開くような。
かけていたヴェールをさらりと、取り払うような。
ずらしていた視線をぴたりと、合わせるような。
そんなイメージだ。
目を開く。
そこにはいつもの世界と被せるように、極彩色の世界が広がっていた。
くすくす、きゃらきゃらと笑いながら、様々な色、様々な姿のちいさきもの――精霊たちが、空中を飛び回っている。
目が合ったらひらひらと手を振るもの、壁などものともせず外に飛び出していくもの、似た姿の仲間たちとじゃれ合っているもの。
ちらりと横を見ると、見慣れた姿が目に飛び込んでくる。
いたずらめいた表情の、金緑に輝く、美しい少女のような姿。
透き通った羽で自由自在に空中を飛び回ることを得意とする彼女は、けれど俺の目前でぴたりと制止しながら、こちらを見て肩をすくめた。
『あァら、『精霊様』だなんテ。……んフ、流石にワタシの名前を呼ばナいくらいニは理性が残ってるみたいネ』
安心したわァ、と言う「精霊様」に、俺は当然でしょう、と返した。
生まれた時から一緒に居てくれている精霊様の名前を、勿論俺は知っている。
けれど精霊の名前は、彼らの命にも等しい。
ゆえに、その名前を軽々しく口に出すことは許されない。
他の人間に知られるだけでも、それは相当なリスクになるからだ。
『ねェ、それより見なさイよジャン。あの子、とっテも――可哀想』
「……ええ」
精霊様が眉をひそめ、ある1点を指さす。
それは男の右腕に縋りつく、赤い精霊。
高位の精霊であろう彼女は美しく、けれど一目でそうと分かるほど窶れ果てていた。
顔は悲しげにゆがみ、その頬にはぽろぽろと涙が伝っている。
赤い精霊は、炎の精霊。
炎の精霊は気性が明るく、激しく、溌溂としていることが殆ど。
であるのに彼女があそこまで元気をなくしている、ということは。
『名前を渡シて、契約して。でも、きっト彼、変わっちゃっタんだわ。心は離れかけテいるのニ、契約に縛らレ、好いた人間を捨てラれず、あァしてずっと泣いテいる。可哀想。とっテも、可哀想』
ねェ、だかラね、と、精霊様は言った。
『助けテあゲた方が良イわよネ?』
「……どのくらい、必要ですか」
『いつもヨりちょッと多めが良いわネ。炎は、ワタシとは相性が悪いのだもノ』
「分かりました」
『話が早クて助かるわァ!』
にっこりと笑い、精霊様はすいっと指を動かした。
その指先から小さく鋭い風が生み出され、俺の髪へと飛んでいく。
髪紐がするりと解け、風圧に巻き上げられたざんばら髪が不自然なほど空中に広がり、そのひと房が刃のような鋭さをもつ風により切り離された。
切り離された髪は淡い金緑の光となり、精霊様の身体へ溶けていく。
彼女は『ごチソウサマ』と満足そうに笑い、赤い精霊のもとへと飛んで行った。
「……お、おま、お前、それは」
「ん?」
男のうめき声がして、俺は視線をずらす。
エレミアの父である男が顔を真っ赤にしながら、ぶるぶる震える指を俺の目前に突きつけてきた。
「それ、その瞳は! 今、変わったな!? 俺は、確かに見たぞ!」
「瞳? ……ああ」
興奮しきっている中年男の言葉を理解するのは難しかったが、一拍遅れて思い至った。
俺の瞳の、色のことだろう。
普段は茶色である俺の瞳は今、精霊様の纏う色と同じ、金緑に変わっているはずだ。
精霊たちを見る「目」を開くときは、いつもこうなるのだ。
それと同時に何故か俺の表情筋は仕事をしなくなるらしく、加えて性格もちょっと変わっているように見える、らしい。
その所為で村の幼い子らに怖がられることも何度かあった。
自分自身では意識してやっていることではないから、なんとも言えないけど。
「どう、やったんだ」
「は?」
「どうやったと聞いているんだッ!!」
男は横にある椅子を蹴り上げた。派手な音を立てて椅子が倒れる。
こいつ、足癖が悪いな。
背後のエレミアがびくりと肩を揺らした気配も伝わってきて、目の前の男に対する嫌悪感が増していく。
「おまえの、その、色変わりだっ! どう、やったっ!」
俺が平然としているのを見てか、今度は拳を繰り出してきた。
うーん、手癖も悪いときたか。
避けることもできたけれど、エレミアに当たるといけないのでやめておく。
念のため祈りのことばを唱えつつ、腕で拳をいなす。
僅かに髪先が消失する気配がしたから、精霊のどなたかが祈りを聞き届けてくださったのだろう、全く痛みを感じなかった。
あ、目が合った青い精霊がウインクした。多分あの方だろう。
この国の将軍だと聞いていたから念には念を入れたが、こんなものか。
次は祈るまでもなさそうだ、と考えつつ、男の問いに対する答えを考える。
「どう、といわれてもな。精霊様の色が反映されているだけだし」
そもそも、髪や瞳に現れる色は、その人間が生まれつき持つ魔力の性質を表す。
そして精霊と契約を結ぶと、その精霊の色がその髪や瞳に反映されるのだ。
けれど基本的には、自分の魔力と同じ性質の精霊に好かれることがほとんどなので、俺みたいに色そのものが変わることは皆無に等しいらしいけれど。
俺?
俺、というか俺含む村の人たちは特別。
なぜかものすごく精霊に好かれやすい体質だから、祈りと対価、そして何より敬意を忘れなければ、いろんな精霊様方からお力をお借りすることができる――とは、魔法使いの爺ちゃんの言。
俺が爺ちゃんから教わった魔法も、ほとんどがこの方法だった。
だから、学校で教わる、自分の魔力そのものを使って魔法を使うやり方には慣れなくて随分と苦労した。
とはいえ契約を結ぶのは1体が基本だ。俺にとっては精霊様がそう。
そしてこの男も、けっこう高位の精霊と契約を結んでいる。
今は、随分と蔑ろにしてしまっているようだけれど――それでも、髪や瞳の色合いが濃くなる、くらいの変化はあった筈だ。
だから、あんたも分かるだろう、と、言葉を続けようとした、その時だ。
「はっ、『精霊』だと!? そんなもの、居る訳がないだろう!?」
「……は?」
は?
ちょっと、待ってほしい。今、こいつは、何を――そんな、許されないことを、軽々と、何、を?
「あんた、本気で、言ってるのか」
「お前こそ正気か!? 精霊など、そんな絵空事をッ!!」
「でも、あんたの魔法は、精霊の加護を受けてるだろう」
「加護だと!? 馬鹿を言え、俺の炎は俺の力により精錬されたもの、誰の助力も受けておらぬわ!」
「――あんたは、あんたの精霊様と、言葉を交わしたことがあるはずだ」
「おまえはさっきから何を言っている! いいか、よく聞け」
血走った目。
己の考えを微塵も疑っていない目、ともすれば優越感に浸るように、男は、こちらに、指を突きつけながら。
「精霊などという、不確かで、気持ちの悪いものッ! そんなものが、この世に居るはずがないだろうが!!」
「―――は」
喉から、乾いた音が漏れた。
それは嘲笑のような、失笑のような。
自分でも、よくわからなかったけれど。
「なんてこと……」
エレミアの呟きも聞こえる。
彼女をはじめとした大抵の人は、精霊を見る目を持っていない。
けれどその存在は当たり前のように信じている。
だって、魔法に親しむ人ならば、精霊の存在を一度は身近に感じたことがあるものだから。
魔法騎士であるこの男も、感じたことが無い、筈はない。なのに。
赤い精霊が、能面のような顔で男を見ている。
男に縋りついていた彼女の腕が緩み、やがて力なく、ゆっくりと下ろされた。
それを見ていた精霊様が、ゆっくりと彼女に近づき、囁く。
先ほどまではふるふると首を振っていた赤い精霊が、諦めたように目を瞑り。
そうして、何事かを精霊様に言付けた。
戻ってくる精霊様を見ながら、俺は男に向かって、こう言った。
「……色変わりを、どう、やったか。だったな」
「あぁ!?」
男が返答なのか怒号なのか分からない声を上げる。
精霊様が戻ってきて、俺の耳元に一つの「ことば」を囁いた。
「――『ヴェリムルーエ』」
『!』
ぴくりと、赤い精霊が反応する。
そのまま彼女――「ヴェリムルーエ」さまに向けて、俺は手を伸ばす。
彼女は一度逡巡したけれど、そのまま、こわごわと、俺の手を取った。
瞬間、ものすごい熱波に全身が煽られる。
あまりの温度に、少しだけ目を細めた。
思っていた以上に、彼女は高位の精霊だったらしい。
「な、な、な……」
目を開けると、男が間抜けな金魚のように口をパクパクさせていた。
そいつの目は多分、俺の髪に釘付けだろう。
俺は真紅に染まった自分の髪をひと房掴み、男の目の前でひらひらと振った。
「まあこんなところだな。……はッ、ああ、こんなん見せなくてもできてるじゃないか、あんたも。ほら」
俺は懐に入れていた手鏡――以前、同級生から髪の手入れに便利だとアドバイスをもらってから、ずっと携帯していたものだ――を、男に投げてやった。
男は訝しげに鏡を覗き込み……、醜い叫び声を上げた。
そして己の髪を掴んで搔きむしる――色が抜けて、僅かに赤が滲むだけのくすんだ白髪になった、自分の髪を。
「ふうん、あんた、元々そんな色だったんだなぁ。そんなんじゃ、炎どころか碌な魔法も使えなかったんじゃないか?」
「や、めろ」
「あ、そうかだから、あんたは魔法使いを目の敵にしてるのか。自分が使えなかったから、理解できないから、羨ましかったから――」
「やめろ」
「だから、どんな魔法も得意な白銀の髪の娘を、尊ぶどころか蔑むことしかできなかったんだ。いや自分の白髪と同じだと思ってたのかもな。くすんだ白と白銀の区別がついてなかったとしても不思議じゃない……」
「黙れぇッ!」
「まあ、いずれにしろ、自分の娘を虐げる理由にはならないけど」
男が呪文を唱え、振りかぶられた、炎を帯びた拳。
それを、真正面から受け止める。
村のある辺境の地では、野生の獣よりさらに凶暴な魔獣も出没したから、戦いは慣れている方だけれど。
男は鍛え上げられた、歴戦の戦士の身体をしている。
きっと真っ当に戦えば俺の勝ち目は薄かったはずだ。けれど男は怒りに身を任せ、実に分かりやすい挙動でこちらに襲い掛かってきた。
炎も、加護を失う前ならばそれなりの威力は有していたのだろうけれど、それも無くなった、今。
対応するのは実に容易かった。
あーあ、とため息をつきたくなる。
ひどく残念だった。
男は、鍛え上げた肉体も、大精霊の加護も持っていた。
努力と幸運、どちらも身に着けていた筈のこの男は、いったいどこをどう間違ってこんなろくでなしになってしまったのだろう。
ヴェリムルーエさまが、そっと俺の右手に触れた。
ちらりと見た彼女の瞳には、炎の精霊らしい強い光が戻っていて、こちらを見てこくりと頷く。
彼女の後ろで、精霊様も肩をぐるぐる回しながら、いッケー、なんてにぎやかな声を上げている。
「――いい加減、黙っとけ。迷惑だ」
俺は受け止めた拳を逆に握り返し、ヴェリムルーエさまへと祈る。
彼女の望みとも合致していたからか、対価をほとんど必要とせず、それは起こった。
俺が握り込んでいる拳から、ぼ、と、男が出したものとは比べ物にならない炎が、起こる。
それは見る間に男の腕を這い上がっていく。
男は炎に絶叫し、腕を振り回す。
やがて男は気を失い、同時に腕を取り巻く炎は鎮火した。
見下ろした腕にはくっきりと、火傷の痕が刻まれていた。
は、と乾いた笑いが出た。
炎系魔法が得意な者は本来、火傷なんかとは無縁だ。
それがこれだけ大きな火傷を負ったとあれば、こいつの凋落っぷりは誰の目から見ても明らかだろう。
「……ジャ、ン?」
エレミアの声に、俺ははっと振り向く。彼女は赤くなった頬を抑えながら、ゆっくりと立ち上がろうとしていた。
「大丈夫か」
「……うん。平気」
慌てて手を貸す。
間近で見た彼女の頬は痛々しく、思わず眉を顰めてしまう――が、俺の表情筋は、動かない。
同時に、今の自分の状況を思い出す。
赤い髪と金緑の目をした、表情が削げ落ち、異質な空気を纏う自分。
慌てて「目」を閉じようとするが、焦りからかうまくいかない。
そうこうしているうちに、彼女がゆっくりと、俺の両頬に手を伸ばしてきた。
戸惑いながら、その手を受け容れる。
彼女は何かを確かめるように、俺の輪郭を撫ぜていく。
「エレミア?」
「……うん。雰囲気は、違うけど……やっぱり、あなたは、ジャン」
「そうだよ。びっくりしたろ、ごめんな」
「どうして、謝るの……格好良かったのに」
心底不思議そうに、彼女は小首を傾げる。
「かっ?」
「格好良かった。ありがとう、ジャン……私を、助けてくれて」
かつてないほど饒舌に、彼女はそう言って――泣き笑いのような、くしゃりとした笑みを浮かべた。
「私、一人だと。お父様に、何も、伝わらなくて……悔、しくて、悲しくて……でも、ジャン、あなたは、ああ……ありがとう。あなたはいつだって、私を、救ってくれる」
だから、ありがとう。彼女はそう、囁いて。
頭がぼんやりする。
視界はエレミアの微笑みでいっぱいで、光にきらめく彼女の瞳がとてもきれいで――
騒ぎを聞きつけた人が駆けつけてくるまで、俺はエレミアを、呆然としながらただただ見つめていることしかできなかった。