第8話 『狂気乱心』
暗い旧資料室に沈黙が続く。
泣き止んだ舞花は雲雀から受け取った上着を深く着込み、体を隠すようにしていた。仄かな血臭が少し気持ち悪さを残すも、それが嫌とまではいかないのは慣れの影響なのかもしれない。
「……」
泣くにしても時間の経過がこれほどまで曖昧になってくると、自分で自分の行いを反省する舞花は気持ちの整理に雲雀とは離れ、少しの距離を保ちながら棚に背中を預けていた。
勿論、彼の胸の中で泣きじゃくっていた件についても我に返り、初めて異性と密着していたことに羞恥心を隠せずにもいたり。
(ま、まさか、まさか!!私が、わわわ私があれほどまで取り乱してしまうなんて!恥ずかしすぎる、h%@¥#&かs☆¥るuuuuu!!!)
どちらかというと、泣きながら抱き着いていた方がダメージが大きかったようで頭を抱んで身悶える。異性以前にほぼ他人のような彼の胸を借りたことに屈辱と思ったりもして、脳内はパニックになっていた。
「痛むのか?」
「あうぅえ…!い、いえ!そうではな、いですが…と、とりあえず離れてください」
そんな仕草が不安を煽いだようで顔を覗き込んでくる雲雀に、舞花は頬を赤く染め上げては短い悲鳴を上げる。顔を近付けてくること自体ではそこまで動揺しないのだが、頬を触られるのは反則だった。
頬の傷を心配してくれていることには嬉しさがあるも、やはり危機感の方が優先されて両手で押して引き離す。
「…すまない。気が動転して冷静な判断が出来ていませんでした…。俺と舞花は出会ったばかりの他人のようなもの、あまり馴れ馴れしくするのは良くなかったです」
反省している面では多目に見るつもりだったが、引っ掛かる部分があったためか、舞花は不服そうに頬を膨らませて。
「舞花…呼び捨てなんですね。ただの他人に呼び捨てで名前を言うのは馴れ馴れしいのでは?」
「そうですね。少し気が緩んでいたせいで馴れ馴れしくなってしまったのかもしれないです。すみません…気を付けます」
「分かればいいんです…」
話は終わり、暗闇の空間に聞こえるのは互いの息遣いだけとなった。
「「………」」
黙りこくったまま数秒と短い時間が過ぎていくと次第に舞花の体が震え出す。
(き、気まずい…!どうしましょう、彼を突き放したとはこうも無言ですと…)
完全に恐怖から抜け出せていない舞花にとって、それを抜け出すための話し相手が欲しかった。紛らわすだけのどうでもいい話でもいい。とにかくこの恐怖をなくしたい。
だから、この気まずさを脱する話題を探し求める。きっかけを、話題が見つかるきっかけだけでも思い浮かべば、後は流れが解決してくれる。
と、そこに。
「おい、物音が凄かったが一体何があったんだ!?」
『Z』の可能性を考慮してか手斧を片手に、匠海が二人の会話の声を頼りに駆け寄って来てくれた。舞花は反射的に匠海の死角である雲雀の後ろへと移動する。
他人に見られたくない姿をしているのだから当然の反応だ。恥じらいを見せるよりも警戒色のある表情を浮かべる舞花は、雲雀の裾を軽く摘まんで頼る。
「見ての通りの光景です…察してくれると嬉しいです」
「見ての通りと言われても、俺にはただの喧嘩にし──あ?」
一見、確かに男同士の喧嘩のように思えたかもしれない。しかし、匠海は床に転がる携帯のライトで雲雀の背後にいる舞花が視界に入る。服装から大体の状況を示しているようなもので、すべてを納得した匠海は倒れ込む男性達の見る目を変える。
「ちぃっ。こいつら、最初から手伝わねぇと思ったら最低なことを企てていたってか。どおりで女子からの批判があったわけだ」
「とりあえず、拘束を手伝ってください。目を覚まして、また暴れられると困ります。郷道さんは出入口付近に転がってる奴を拘束してくれますか?」
縄の代わりにウエスを棚から取り出して匠海に投げ渡す。舞花の心配から自分が行動できる範囲は限られ、出来る限り傍にいるようにするなら一番遠くで倒れている男性はお願いする。
すると、匠海は雲雀の言葉に疑問を抱いたようで首を傾げながら。
「出入口付近?…いや、俺が入ったときに倒れ込んでいた奴なんかいなかったぞ?今、ここにいる奴で全員じゃねぇのか?」
「え…っ?」
声を漏らす舞花と息を呑む雲雀。
彼の言っていることが本当ならば、まだこの部屋に潜んでいる可能性がある。周囲を見渡そうにもこの暗さでは隠れられたら発見は困難だ。すぐさま床に転がる携帯を拾い上げて、周囲に動く物体がいないかを部屋中照らす。しかし、棚のどの段にも物が置かれ、部屋中を照らしているつもりでも遮蔽物で光が届かない。
「(くそっ!とにかく四方八方から注意するのは分が悪い。壁際まで下がって死角をなくした方がいい)」
「(わ、分かりました)」
「(仕方ないがそうするしかない)」
一足先に匠海が壁際まで移動して安全の確保を行わせる。その間に舞花を立たせ、主に背後からの接近を注意しながら移動を開始しようとした。
瞬間。
ミシ…と、軋む音が舞花の真横から聞こえた。木造の床が相手の居場所を教えてくれたことにはありがたいが、あまりにも音は二人に近すぎた。携帯のライトで相手からは随時、こちらの距離と位置が把握出来ている。しまった、と気付いて携帯を放り投げた時には既に遅かったのだ。
舞花と雲雀は同時に音の方へ首を回す。
「あ…」
舞花の目の前に現れた男性の手には棒状の何かが握られ、その振り落とされる時点に自分の頭があった。狙われたというよりも男性はただそこにいた存在を殴ろうとしているだけのようにも見える。
視界が悪い環境だからこそ、ようやく己が殴ろうとしている存在を視認できた頃には既に止められない。
「あああああああああああ!!」
どうにもなれと言わんばかりの叫びを上げ、男性は躊躇なく振り落とした。
しかし、舞花に襲う衝撃は僅かなものだった。明らかに人体に悪影響を及ぶ鈍い音は何かによって隔てられ、音と衝撃が緩和されていたのだ。反射的に目を瞑っていた舞花は身体に窮屈感を覚えながら、ゆっくりと目を開けていくと。
「か、神室さん…っ?…な、何を、一体何をしてい、るのですか……?」
舞花を守るために覆い被るように抱き着いていた。その光景に彼女は衝撃が走る。彼らしくない行動に思えからだ。彼ならもっと違う選択肢があっただろう。受け止めるのでなく、先に攻撃を繰り出すことくらい容易いことのはずなのに。
それらを全部捨てて自分が庇うことを選んだ。理由はどうあれ、一度の攻撃が頭部や首、肩といった部位に受ければ、流石の彼でも無傷では済まない。
現に飛び散る血が舞花の頬に落ちてきて、その量が傷の深さを物語ていた。鈍器で殴られると当たり所が悪ければ人は意識を失う。雲雀は意識を失わなかったものの体に力が入らず、舞花を抱き着いた形のまま倒れる。
それでも、床に倒れ込む寸前に雲雀は舞花を下敷きにしないように体を捻り、自分をクッション代わりにする意識までは残していた。
「この野郎が!」
遅れた匠海が手斧を強く握り締め、男性に近付こうする。
「来るなぁ!!」
捕まりたくない一心で金属製の棒状のようなものを投げつけ、男性は匠海が怯んだ隙に出入口の方へ駆ける。その際に床に転がるナイフを拾い上げ、自分にはまだ抵抗の意志があることを見せつける。
舞花の方に匠海に投げつけた金属製の棒状の何かが転がり、ようやくそれが鉄パイプだと確信した時。彼の傷の重さを実感し、痛みに苦しむ雲雀を見つめる。
「くそが!おい、お前ら大丈─いや、大丈夫なわけないか。とにかく、その男を早く止血した方がいいぞ。俺は奴を追う!」
そう言い残して出入口に向かう男性を追う匠海。言われた通りに止血に欠かせない布を取りに行くために起き上がる舞花。一刻も早く止血しなければ最悪は失血死、そうでなくとも意識を失ってしまう。この状況下で彼が戦闘不能に陥ると、今後の脱出が困難になりかねない。
幸いなことにウエスの存在が明らかになっていたので、探す手間は省けていた。棚から取り出したウエスを雲雀の傷口である後頭部に当てるが、裂けているせいで一枚だけでは心許ない。
生暖かい感触を味わいながら何枚ものウエスで止血を進める。
「……」
彼が苦しみ、痛がる姿を前に舞花の感情が言葉に表れる。
「どうして…どうして……?貴方ならもっと他に方法があったはずです」
やはり、彼らしかない行動に舞花の思考は混乱していた。『Z』相手に冷静に対処できる雲雀が、こんな連中を相手に遅れを取るとは思えない。先の戦闘でも他の男性相手には圧倒的な武力で制圧していた。そう出来なかった理由がない限り、このような有様には──。
「もしかして、私がいたからですか?私がいたから貴方は本来の力が…」
「…それは違う。俺は舞花を助けたい、い…一心で、動いたら盾になることを、選んで…いたんだ」
「意味が分かりません!ちゃんと理由を言ってください!私を庇ってまでこんなに傷付くことなんてないのに…」
はぐらかしたような雲雀の言葉に、舞花は感情の昂りから声が出てしまう。
自分はそんな守られるような存在ではない。他人を害的に見て、関わろうともしない。食べられそうになっていても助けない。逆に逃げるために囮にする。最低なクソ野郎と大して変わらない。
それでも、委員会などで仕方なく人と関わらなければならない時は、笑顔を作って愛想良く振る舞った。本当なら嫌々付き合わなくていいのだが、あまり不快な態度をとってその影響が南奈や ゆい に及ぶのは避けたかったからだ。
真面目で誰にでも優しい存在として周囲から認知されるようになり、声をかけられては偽造した笑顔で対応していた。それが返って不測の事態を生み出す。
週に何回か男性に呼び出されたと思いきや、告白されることが多くなった。丁重にお断りしても諦めの悪い人は何度も近付いて来ては、しつこく声をかけてどうでもいい話をしてくる。強引に、それこそ腕を掴んで無理やり連れて行こうとする連中も現れ、この時になって自分の行いに後悔した。
あの時、笑顔で接したのがいけなかった。根暗を装っていれば、自分に興味を示してくれる人なんていなかったのだ。結局、二人に迷惑をかけてしまった。
それから休み時間になる度に、教室から離れて誰にも見つからない敷地内の森でいるようになった。二人はこんなことになってしまったことに責めたりしなかったが、手遅れだとしても自分の中でずっと責め続けた。
だから、その日常が崩壊した今日。自分は解放されたと嬉しくなっていたのだ。自分に近付いた者が死んでいく。青空廊下でしつこくナンパをしてくる人物が『Z』にやられた時、心の底から「ざまぁ」と叫んだ。
そんな汚れきった自分を助ける価値なんてない。それを知らない雲雀だが、いくら突き放そうとしても彼の優しさが彼という存在を複雑させていく。
「そんな事、を言うな…舞花。はぁはぁ……俺は、どんなに無様な姿…でもそれが死に際だって君を助けたい…」
「──ッ!!」
本気で言っていると思ってしまう。どうしても彼が舞花の好感度を上げるための嘘を付いているように思えない。
彼を否定することが出来ない。
「だ、だからって……だからって…。か、神室さん?神室さん!?しっかりしてください!」
小さく揺すり、大きく揺すり、それでも反応が返ってこない雲雀に舞花は鳥肌が立つ。当たり所が悪すぎた。鈍器で最も殴られてはならない頭を強打されれば、止血だけで済む話ではなくなる。
内出血を起こすとそれだけで別の症状を引き起こしてしまう。しかし、医療関係は応急手当くらいしか教わっていない舞花にはこれ以上手の施しようがない。
「気をしっかり持ってください!」
彼女ができることは声をかけ続け、止血すること。後は願うだけの役立たずさに自分の能力不足に惨めな気持ちを噛み締める。
「きゃああああああああああ!!」
職員室から響く女性の叫びが火種となって悲鳴が拡散していく。旧資料室にいる舞花達には何が起きたのかも詳しい状況が把握できない。
あの逃げた男がまた何か企てているのか。
心配なのは職員室にいる南奈、ゆい、さっちゃんが無事かということ。
出入口を見つめるも、意識が朦朧とする雲雀の姿に今は目の前の事を集中することを決心する。二度も救ってくれた恩を必ず返すために。
「頑張って、頑張ってください。神室さん!」
舞花はひたすら雲雀を呼び続けた。
────○────○────○────○────
「こ、こいつが殺されたくなければ、誰も近付くなぁ!」
「止めなさい。今はこんな事をしている場合じゃないわ」
旧資料室から出た男性は近くにいた女性の髪を引っ張り、引き寄せてナイフをちらつかせる。当然、そんな出来事に周りの女性は悲鳴を上げ、男性から離れるように逃げていく。
先に駆けつけた沙月が対面して説得を試みている最中で、追い付いた匠海はその騒動に皆に落ち着けと言いながら、人質を取る男性と睨み合う。
外の『Z』を呼び寄せてしまう危険がある中では、迂闊に男性を刺激はできない。沙月も、匠海も慎重に言葉を選びながら、話し合いで事を成そうとしている。
「その子を人質に取ったってお前は逃げられる訳じゃないぞ。ずっとこの状況が続くのはお前にとっても意味もないことくらい分かっているはずだ」
「な、なら扉を開けろ!捕まるくらいなら、まだ外の方が安全だ!くそ、くそくそくそ!あの男が現れなかったら今頃舞花ちゃんとパーティーだったのによぉ!!何ぼさっとしてる。いいから、さっさと動け!」
話し合いどころか、男性の行動を作るきっかけを作ってしまった匠海は言葉を詰まらせる。これ以上興奮状態でいられるのは不味い。事態の収拾を図るよりも相手の感情を落ち着かせることから始めた方がいい。
「ちょっと待って。じゃあ、舞花がいないのはあんたが関係していたわけ?!」
これは予想外の事態だ!声の主は舞花の親友である南奈のもの、生徒達の間を掻い潜って匠海の前に出てくる。彼女の乱入は男性の機嫌を損ねるだけで済むとは思えない。
「おい、落ち着くんだ。安心しろ、彼女は神室という奴が助けた」
「少なくとも舞花ちゃんだけわな」
少し余裕を見せ始めた男性は余計なこと言い、それまであった殺伐とした態度に動揺の色を浮かばせる南奈。
「……それ、どういうこと?」
「あいつは馬鹿だよな…。舞花ちゃんを庇うために自分から当たりに行くなんて。今頃出血多量で死んでいるんじやないか…ははは…」
「何が…」
ギリギリ、と歯軋りの音を立たせながら。
「何が可笑しいのよ!!」
増していく動揺が彼女の冷静な判断を失わせ、怒りのままに男性に近付こうとする。そんな行動を始めたら、きっと悪い結果になる。そう感じた匠海の予想は的中した。
近付いてくる南奈を脅そうと人質の女性の首に刃物を当てる男性。普通なら躊躇うはずの行為に全く動じない彼女は無視して進む。
「南奈ちゃん、落ち着いて。そんな事をしても事態は悪くなるだけなの。それに神室さんはきっと無事だよ…」
「……」
遅れて生徒達の間を掻い潜ってきた ゆい によってその進行は止められ、急かさず沙月も止めに入る。ゆい の言うように南奈がしていることは状況を悪化させる事態に追い込んでいるだけ。
我に返る南奈は周囲の視線を必要以上に気にしながら、落ち着きを取り戻す。
「しっかし、今の俺なら失うものもないし何でも出来そうだ…。旧資料室で舞花ちゃんは犯せなかったけど、幸い女の子が一人俺の懐にいるし、このまま脱がせて犯すってのもアリだな」
男性は人質に取った女性を厭らしい視線を送り、露出している肌を指で這わせる。匠海は最悪の瞬間の訪れを悟った。誰もが男性を含んだ複数人で舞花を襲ったことを知らない。とはいえ、今の男性が女性にして行なっていることは他の女性達を完全に敵に回す。
「死ね…あんたなんか死んでしまえ!誰にも弔われずに惨めに地獄に堕ちろ!」
「気持ち悪いのよ!クソ野郎!!」
「最っ低!!」
殺意を滾らせた暴言には匠海でさえ、止める勇気がなかった。もう彼女達を止められる者はいない。ゆい と沙月も呆然と立ち尽くし、男性の行動に青ざめていた。
そんな集中砲火にも悦に浸ったかのように引き笑いをする男性は、更に女性のスカートに手を伸ばして行為を始めようとする。人生に諦めを持った人ほど言動に歯止めが効かなり、説得も返って激情を生む。
「一種の愛情表現にこの言われよう…。んじゃ、死ぬ前に一発ぅ
───────すると。
ガシャンッ!!と窓ガラスが甲高い音とともに四散しながら、『Z』が咆哮を上げて侵入してきた。
そして、何よりも驚愕だったのは窓には段ボールで覆い更には片袖デスクで塞いでいることで、それなりの耐久性を持っている。回数を重ねられたら耐えれる保証はなくとも一発は耐えれるだろうと見ていたのだが。
まさか、最も防壁の薄い小窓を初手から破ってくることは誰も予期はしないだろう。
全員が必死に考え抜いた防壁の意味も霧散していく。奴らが破ったのはその積み上げた片袖デスクの上にある小窓。小窓用のカーテンを引いているだけで何も施されていない。
「な、なんでお前があぁぁあいだいぃだいだいぃいッ!!!」
侵入された場所が丁度人質を取る男性の真後ろで、掴み上げられた男性は首を噛み千切りられる。その隙に拘束から解かれた女性は離れ、皆と合流を果たす。
幸運なことに侵入されたとはいえ、上半身までしか入り込まれていない。これなら犠牲者を出さずにして対処ができる。沙月は騒ぎが大きくなる前に射抜こうとした時だ。
小窓を破る音が廊下側を集中して鳴り響く。考えが甘かった。一体が反応したのなら、もう何体も反応したに決まっている。大声を出したことにより『Z』は完全に標的を見据えたのだ。
だが、今を後悔している暇があるなら思考を切り替え、状況に適した行動を起こさなければ。
「「「ァア゛ア゛ア゛ア゛アアアアアアッ!!!」」」
勢いが足らなかった『Z』は引っ掛かり、勢いがあった『Z』は職員室の床に転げ落ちる。逃げ場のない空間に放たれた殺戮者は容赦なく人間に襲いかかった。女性の首を噛みきり、何人の者を突き飛ばす。
一体から始まった死の恐怖が職員室内を陥れる。また一体、また一体と侵入を許していき、やがて悲鳴が増産される。
「マジでやばいぞ!戦うぞ、これ以上好き勝手させ──おぉら!!」
悠長にしていられる時間などない。襲いかかってきた『Z』の首を手斧で切り落とし、肉質の感触を再び味わうことになった匠海は苦みある表情を浮かべる。
元はごく一般な人間。それを斬り殺す勇気は何度も一から引き締めないと自分は殺人を犯したのではと思い込んでしまう。人間の皮を被った化物相手は辛い部分もあるのだろう。
「こ、こん…なの無理に決まってる…」
「お、俺達も逃げた方がいいって」
男性達の支持率は低下するのは当たり前だ。いざ、大量の『Z』と戦うとなるとやはり気持ちの整理が付かなくなる。職員室にいるのはなにも人助けをして逃げ遅れた人だけではない。逃げることを諦め、隠れていた人もこの場所にいる。
最初から臆病者だっているということだ。
「じゃあ何処に逃げるつもりだ?!ここよりもましな場所があるなら、俺は喜んで皆を誘導する!だが、護衛は厳しいぞ。今いる量の数十倍を相手にしなくちゃいけねぇことくらい分かって言っているんだろうな?」
「「「───っ!」」」
皆が必死に製作した防壁を展開しているからこそ、今は数体で済んでいる。しかし、こうして匠海が説得をしている中でも着々と数を増やしていっている。
まだ、その数で抑えられているのも先生方や詩織が戦っているからだ。噛まれると死よりも恐ろしい姿になってしまう女性が率先して、武器で『Z』を討っている。それなのに、うだうだと駄々を捏ねる男性達は心底みっともない。
「やってやる…殺ってやる!」
「あぁ!女の子だけに無理はさせられねぇ!」
「何も出来ない自分なんて嫌だに決まってる!」
匠海の説得により男性達の支持率が再び上がり、ようやく意志の固まりようを見せる。散々に分かれ、一人で無理をしないように複数の団体で対処にあたる。その間に女性陣を新資料室へ避難を指示する。単に女性であることを除けば、『Z』化の条件は女性だけという点を考慮した上での避難。
増える材料がなくては『Z』も増殖しない。言い方は悪いが事実、こちらにとっても増えないのはありがたい。
「(野洲川先輩は資料室へ避難して下さい。ここに居たら危ないんで)」
『Z』の侵入後に傍に寄ってきた野洲川柚季に避難するように促す。本来なら彼が率先して『Z』と戦う必要なんてないのだ。全員ではないが戦う意志のない男性だっている。彼女と一緒に資料室に逃げ込んでも誰も責める者はいない。
だったら。
「(一緒に行きましょう。も、もう…無理だよ。匠海君に出来ることなんてない…。私、もう嫌だ…よ、匠海君が傷付くところをもう見たくない…)」
もう、彼は充分なくらい戦った。人助けもした。辛い思いもたくさんした。
それで良いじゃないか。
こんな世界になっても善人を保ってられる人なんて多くはない。彼は絶望に打ちのめされても人助けを怠らず、少しでも手の届く命を救ってきた。彼の勇姿に動かされる者だっているくらいに人々の希望になっていた。
だから、一度くらい諦めて、自分のために生きたってバチは当たらないのに。
「(……俺は大丈夫だ。運動神経だけは良いんで、華麗に『Z』の攻撃を避けてやりますよ。心配はいらないです…ちゃんと帰って来ますから)」
柚季の泣きそうな顔を前にそれでも匠海は、恐怖を押し殺して立ち向かうことを決意する。手斧を待つ手は震え、今にでも決意した心を崩壊させるくらい、不安が押し寄せていることが分かる。
それでも。
きっと、彼はこれからもそうするのだろう。誰もやらないから自分がやらなくてはという責任感ではなく、ただ彼がそうしたいから。家族を失った彼だからこそ、助けられる命を見殺しには出来ないのだ。
(本当に優しい人…。だから、傍で支えなくちゃって思えたんだ)
柚季は瞼に溜まる涙を拭い、覚悟を決める彼に余計な心配をさせまいと優しい笑顔を向ける。
「(……無理も承知で無謀も承知の匠海君を説得するのは難しいです…。私は心配ですし、反対なのは変わりません。危険な目に遭うのは私自身の立場じゃなくても嫌なものは嫌なのです。行きたいって言っても、行かせてくれないのも知っています。だから、約束ですからね?絶対に帰ってきてください)」
匠海目線からは柚季の不安や心配の感情を被った笑顔として映る。彼女を危険な目に遭わせたくない。この気持ちに嘘はない。
しかし、自分の目が届かないところで彼女の身に危険が及んだ時、自分を責める資格なんてあるのだろうか。肝心な時にいなかった自分を言い訳にするように、自業自得と罵る口実をただ立てているだけなのかもしれない。
こんなにも頑張っているんだと誰かに示すために。いや、それこそ口実かもしれない。自覚していないだけで本当は自分の為なのでは。
分からない。今の自分の本当の気持ちが。
「(はい…それじゃあ行ってきます)」
背中を向けた瞬間、彼女はどんな表情で見送っているのか。恐ろしくて振り向くさえも出来ず、匠海は不安を払拭させる為に近くの『Z』に斧を振り落として絶命させる。
集中しなければならない。彼女との約束を果たす為にもここで死ぬわけにはいかない。
「(枝邑先生もその子達を連れて資料室へ逃げてください。ここは俺がなんとかするんで…とにかく今は自分が生き残れることを考えてください)」
「(駄目よ。まだ舞花が旧資料室に取り残されているのなら、放ってはおけないわ。家族なら尚更よ。今こうしている時でも舞花の身に何か起きていると思うと、居ても立っても居られないわ)」
残った片袖デスクに身を隠していた沙月達にも避難するように声をかける。けれど、彼女の反応は従うとは程遠い言葉で、その隣で頷く二人にも同情が見受けられる。
彼女達がやろうとしていることは下手をしたら、危険極まりない行為だ。自分が言える立場でもないが、それでも女性と『Z』の相性を考えると増える意味では行動は避けるべきだ。
ましてや、沙月の弓矢では接近戦での立ち回りが不利すぎれば、暗闇の中での狙いも定まりずらい。他の二人に関しては武器は持っても戦えるかは匠海には分からない。
「(旧資料室も入り組んでいるので逃れるにはうってつけの場所だ。逃げ込む人がいれば『Z』も寄ってくる。そうなれば枝邑先生の武器も意味がありません。ですから、俺も行きます。俺は手斧なので小回りも利く、いざとなったら盾にしても構わない)」
「(待って待って。着いて来てくれるの?どうして、そこまで…)」
「(心配だからに決まっていますよ。いくら先生でも女性なんですから気遣うのは当然のことだ。それに、俺は二人がいる場所を知っています。声を出して位置を確認するよりかは安全に合流できるかもしれません。もう、嫌なんですよ…。何度も噛まれた女性が『Z』になっていく姿を見ることが…。自分が助けられる命もあったはずなのに…)」
いつもと変わらない日常から突如として変貌した世界に、匠海の心はことごとく折られていた。テレビなどの情報で知り得た惨状が実際に起きてしまい、尚且つその惨状が想像以上の現実だった場合。情報処理が追い付かずに、狂気と化していたのかもしれない。
そうならなかったのも柚季の存在が大きく、彼女の為に強くあろうと思えたのだ。
それは沙月も同じようなものだった。ゆい達に聞かされた話しか知らない恐怖を、いざ味わうと自分は本当に彼女達が体験したことを軽く聞き入れていたんだと痛切に感じる。
そして、何より哀憐の情を起こさせる彼の言葉が心を抉る。教師は生徒を守る。それは教師として当たり前のことで、教師になる上でなくてはならない気持ちだ。
あの時、あの時と思い出す度に助けに行けば助かった命は一体いくつあったはず。より多くの生徒を助けるために犠牲にした命だって数え切れない。
ゆい達と合流する前の時点で、生徒を守ることが出来なかった不甲斐なさ。舞花を助けれないかもしれないという恐怖が頭から離れない。
なら。
「(…分かったわ)」
「(さっちゃん…!)」
「(でも、身の危険を感じたらすぐに逃げてね。貴方が何と言おうと私は教師として生徒を守る義務がある…それは変わらないわ)」
雲雀が重症を負っているのなら運ぶ手段は簡単なものがいい。女性の力だけでは運ぶ人数が必要だが、匠海がいることで一人で運べるメリットがあることを反対的な意志を見せる二人に説明する。
素直に納得する ゆい に反して、未だに不服そうな顔を浮かばせる南奈には適当にあしらわれ、手を払いながら邪魔者ように冷たい視線を向けられる。
結果はどうあれ彼女からの否定の声がない以上、改めて手斧を握り直して周囲の『Z』の様子を確かめつつ先陣する。
集団での対処が効果的面だったようで、『Z』の数が徐々に減っていっているのが分かる。一人が囮を買って、もう二人が背後から攻撃を仕掛ける方法。囮役の人はかなり体力を浪費させてしまい、リスクを背負わせる重大な役割を持つ。それを買って出る人物は相当な覚悟が必要なものだ。
しかし、大きな違いもある。一人で圧倒的な運動神経で秒殺する雲雀に対し、複数人との連携で殺傷していく彼ら。一人で背負うのではなく、複数人で対処することはお互いをカバーし合えることにも繋がる。生き残るための知恵が活かされていた。
(侵入して来る『Z』は小窓だけあって少ない…この分なら『Z』の全滅も時間の問題なの。後は小窓から次々とやってくる方に対処の目を向けないと)
ゆい は小窓に引っ掛かる『Z』を見つめながら、旧資料室に歩む。今更、防護を固めたところで『Z』の流れが変わるとも思えない。侵入までの時間を稼げれば、こちらも余裕のある行動ができる。
第一に職員室内の『Z』の排除。第二に侵入経路の遮断。今、課せられる試練は半端な意識下の中では成し遂げれないだろう。
そんな気の緩みのない意識下の中で。
ガシャン!!ガシャン!!と、ゆい が視線を向けていた小窓が立て続けにガラスの破片が散乱する。
『Z』が三体同時に侵入し、他の『Z』の対処にあたっていた男性達を巻き込む。あまりにも不意に訪れた数による襲撃。巻き込まれた男性達は吹き飛ばされて、それが ゆい達の進行を邪魔する。転がる男性達を避けようと身体の重心があやふやなり、床に尻餅を付く ゆい達。
新たなる増援の対処は容易なものではなかった。倒れた数人分の被害は大きい。殺り切れなかった『Z』、新たに侵入した『Z』は女性の悲鳴を辿って襲いかかり放題だ。
「郷道さん、行って!」
沙月が咄嗟の判断で矢を一体の『Z』の足を射抜き、女性に向かうのを阻止する。それが意味する答えを理解した匠海は、手斧を大きく振りかぶり鈍くなった『Z』の首を切り落とす。
続けて同じ手順で踏もうと矢を引いた寸前で沙月は一体の『Z』を見失っていた。
「さっちゃん、旧資料室に『Z』が入っていったの!」
だが、ゆい は見逃さない。女子生徒が『Z』から逃げるために旧資料室に入ったことも確認できていた。
「不味いぞ…一番最悪な形だ」
恐れていた現実が起こってしまった。重症を負ったことで戦闘が出来ない雲雀。残された舞花には戦える能力はない。まさしく最悪な状態だ。侵入した『Z』を追いかけようと急いで合流といきたいが、行く手に立ちはだかる三体の『Z』を無視できない。
ゆい達を先に向かわせる考えも過る。ただ、リスクの大きさを含めると首を横に降り、自分を桿ましく感じる沙月。
(ふざけるな、私の馬鹿馬鹿馬鹿!!いくら壁の外の生き残りとはいえ、そんな危険なことはさせたくない。力を合わせて舞花を助けないと!)
時間は待ってくれない。焦りが身体中に刻まれるなかで感情を冷静に保てるか不安だった。
「殺るしかないか…。旧資料室を出たら職員室が『Z』に溢れ返っていたなんて洒落にならねぇからな」
手斧の刃先を近付いてくる『Z』に向けながら一歩ずつ後退る。数の少ない今がチャンスだとしても、そう何度も同じ手が通じるとも思えない。防御の薄い小窓を破ったときから『Z』を見る目を変えていた。
漫画、映画といった空想世界で描かれていたような単純に突っ込んでくるゾンビとは違う。見くびった考え方を捨て、一体一体が自分よりも強者として認識しまければならない。
「南奈、ゆい、絶対に離れないでね」
再び矢を引く沙月の声に反応する『Z』の叫び声が開戦の狼煙を上げた。
────○────○────○────○────
(職員室がすごく騒がしくなってる…一体何が起きてるのでしょうか。南奈、ゆい、さっちゃん…無事でいますよね?)
『Z』が職員室に侵入した事実を知らない舞花だが、女性達の悲鳴の質が変わったことで南奈達に危険がないかが不安になっていた。
扉まで向い状況が把握できたら、その不安は消えるのだろう。しかし、雲雀を置いてまで舞花は信じていないわけではない。
あちらにはサバイバルで鍛え上げた沙月がいる。数ヶ月も『Z』の世界で暮らしてきた南奈と ゆい がいる。常に一緒に行動を共にしていたからこそ、三人が生きてることを信じていられる。
それに雲雀から目が離せられない。意識が朦朧とし、一人じゃ不安に決まっている。そこで、そんな不安を取り除くためにずっと彼の手を握り締めていたのだ。彼女がそうしてもらったように。
血に染めたウエスから伝わる温もり、最早彼の温もりなのか、血の温もりなのかも分からない。
彼の身に起きていることは外見からでは、頭に打撃を食らって血を流しているくらいの情報量しかない。当たりどころが悪いっていうなら、咄嗟に庇うような形で舞花の前に立ったからが原因だろう。
本当に馬鹿としか言い表せないものだ。
それでも。
「ここにいますから…」
そう投げかける自分は本当に他人として扱っているのかと疑うくらいに彼の事を気にしている。側から見ても今の光景はどう映ってしまっているのだろうか。
まるで病人の彼氏を心配する彼女、それは恋人のように見えているのだろうか。
(こ、恋人!?いやいやいやいや違う違う違う!!何を考えているんですか私はぁ!)
自分がこうして傍にいるのは男性達から助けてくれた恩人が傷付いて、その看病というだけあって、断じて恋人と思うのはおこがまし過ぎる。
(……)
確かに憧れがないというのは嘘になる。小説や漫画、ドラマのような恋愛ができたら、きっと幸せなのだろう。けれど、自分が親友の二人と親のような存在の二人以外と話ができる自信もないし、何よりも他人が怖いということから、そんな幸せは想いで終わる。
もしも、過去の出来事がなければ今頃どんな女性になっていただろうか。化粧に興味が湧いたり、買い食いしたり、恋したりと色々と青春を味わっていたかもしれない。
何はともあれ、すべてはもう叶わない夢だった。考えるだけで悲哀を感じてしまう。
だから、あまり考えまいと舞花は雲雀の苦しむ顔を見て紛らわす。じっと、何も頭の中で浮かばせず見つめていると、顔が熱くなっている自分に気付く。
自分じゃないような感覚が気持ち悪い。他人を嫌い、他人を信用できない彼女が警戒心のない表情をしているだから。こんなにも心が揺さぶりやすい自分に失望する。
これも全部、彼との出会いがきっかけだ。渋滞する様々な感情にどう向き合うべきか分からないのだ。
(どうして、なんでしょ──
「あんたぁら、ここで何してんの…?」
──うか……)
唐突な女性の声には少し息が荒れて、言葉が掠れてる部分があった。意識が雲雀に向けてたとはいえ、舞花がかなり慌てた彼女達の接近に気付けなかったことは失態だった。
「……あ、貴方達こそ、何しに来たのですか?」
黙る一点張りを通すことも儘ならない状況で彼女は勇気を振り絞る。初めて他人と話すわけではなかったが、まだ落ち着いていない彼女にとって目眩や吐き気が襲うせいで、上手く話せているのか分からなかった。
「職員室に『Z』が入ってきたんだよ!お前らはヤっていたから分からなかっただろうが」
真ん中の女性が告げる事態に目眩や吐き気が吹っ飛び、後半の言葉も届かず、第一に浮かんだのは南奈達の安否。鍛え上げた沙月がいるから大丈夫、知識を持つ南奈や ゆい がいるから大丈夫なんて言ってられない。
職員室という密室空間で襲われたら逃げ場所だってない。それでも、間違いなく自分を助けに来るはずと舞花は確信していた。
なら、自分に出来ることはと考えていると雲雀を見る。今すぐ行動を起こそうにも雲雀の介護を疎かにすることは出来ない。助けてくれた恩人を誰かに任せることは、恩を返す能力がないことを自白しているようなものだ。
思い切りがつかないまま時間は刻一刻と消費されていく。応答のない舞花に女性達は少し苛立ちを見せ始め、左端の女性が距離を詰めて。
「なに見せびらかしているんだ、お前はよぉ?うちらが大変な思いでいるのに彼氏といちゃつきやがって、調子乗ってんじゃねぇぞ!おら、彼氏もなんとか言え!」
倒れる雲雀に一蹴りする女性に舞花は守るように抱き寄せ、睨み付けるだけで抵抗の表しを見せる。それが不快さをより濃くさせ、舌打ちをする女性達。
ここで、ようやく二人までの容姿が判明していき、世間体で言うとギャルの類に入ることに納得する舞花。校則なんて関係なしにイヤリング、濃い目の化粧、派手なネイルと自分とは真逆の世界にいる彼女達に恐縮しながらも。
「や、止めてください…!彼は頭を怪我しているのです、無闇に刺激しないでください!」
自分なりの威嚇を言い表したつもりだったが、注意したのにも拘わらず彼女達は更に近付く。舞花と同じ視線まで膝を曲げて鼻の先でせせら笑うと、今度は暴力的に舞花の髪を掴んで引き寄せる。
接点があるわけでもなく、気に障っただけでこの仕打ちに物申したい気持ちが溢れる。しかし、
彼女は黙る。自分が余計なことを言って更に彼女達の機嫌を損ね、雲雀にも被害が出てしまうのを避ける為に。
「良いよなぁ、舞花ちゃんわ。容姿端麗だからいつでも男から声をかけられ放題でしょ?その男も色気を使って捕まえて、自分の手駒でもするつもり?いやぁ、モテる女は違うねぇ」
腕を揺らして髪を常に引っ張った状態が続く。
「な、何が言いたいのですか…貴方は。無いことを言ったって反応に困ります…」
本当に良い迷惑だった。色気を使った覚えもないし、手駒にするつもりもない。ただ、相手に嫌な思いをさせて南奈や ゆい に迷惑をかけたくなかっただけなのに。
「出たよ、いい子ぶりやがった。いいじゃねぇか、今この場には私達とあんた、それに彼氏と…倒れ、る男性?」
そこでギャルの言葉が詰まったのは周囲を見渡し、睦まじい雰囲気に異質さが広がっている事実に初めて気付いたからだ。
金属製の棚の凹み、散乱する物、そして舞花の膝でぐったりする男性のウエス越しから滲む血。
そこまではっきり視認できたのも、彼女達が携帯のライト機能を使用して周囲を照らしたからだ。舞花も三人の内の二人の姿が共通してギャルであることが判明したのも光源があったから。
「貴方達が思っているような事は何も起きていません。ただ神室さんは私を庇って傷を負っ──ぁあ…」
舞花は見た。はっきり見えたというか、シルエットが薄く見えた奇跡のようなものだ。呻き声も出さずに近付かられるのは本当にタチが悪い。
「オアアアア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッ!!」
猛り狂った声とともに誰の声に反応したかも見当が付かない『Z』が近付くにつれて、醜怪さが際立つ顔が露になる。棚にぶつかりながらも体は声のする方へ真っ直ぐ向かって来る。
雲雀の意識遠く、とてもじゃないが助けを求めることはできない。判断の時間は僅かなもの、舞花は見捨てない選択を取って非力ではあるが、今の列から離れるために雲雀を移動させる。
「う、嘘でし──」
一瞬の判断ミスで自分を命の危機に陥ってしまう。能力が足らなければ当然、動けるわけもなく言葉だけが漏れる。そんな一人の女性の終期は突進され、吹き飛ばされながらも的確に首を噛み千切られ、苦痛の悲鳴さえも許さなず床に叩き付かれて絶命する。
友人の死に嘆くかと思いきや、一人の女性は恐怖で隅に縮こまり、もう一人の女性は走って逃げていた。置き去りにしてまで自分の命を優先的に考えるのは悪いことではないが、それにしては躊躇いのない迅速な行動だった。
しかし、『Z』はそれを阻む。足音に反応した途端、女性との距離を一気に詰める。リミットの解除とは違い、本来持つ身体能力を駆使して棚越しから女性を捕まえる。
あくまでも棚を壁として利用したというのなら間違い判断ではないが、大前提で足音を立てない。それと二枚以上の棚を利用できれば、まだ命を繋げたかもしれない。
助けを求む声が淡く聞こえるも、次の瞬間には腕から首を噛まれて声にならない悲鳴を最後に力尽きる。
「あ…あぁ……いやぁ…ぁああ…」
二人を食い殺した『Z』は次の標的を定め、ゆっくりとした足取りで尻餅を付く女性へ向かう。次の標的とはいえ、まだ完璧に位置を把握出来ていないためか、歩みで済まされているのだろう。近付けば近付く程、女性の命は削り取られていく。
やがて、同じ末路を辿ることになろうとも舞花には関係なかった。どうせなら彼女を利用してこの旧資料室から脱出することも考えているくらいだ。
(今のうちに神室さんと出入口に向かえる…。でも職員室も大変な事になっているのなら、ここを脱出できたところで私が神室さんを庇いきれるわけがありません)
「た、助けて……」
(南奈や ゆい、さっちゃんと合流できれば話が変わるかもしれません。…その前に私の力では神室さんを担ぐことはできない。引きずってしまいますが、そこは許してください)
「助けて…」
(もう、職員室に滞在するのは難しいと思う。『Z』に場所を特定されたら長居は禁物…たぶん南奈もそう思っているはず。神室さんを簡単に手当てしたら、すぐにでも…)
「誰か…」
(……………あぁ、もう!)
うんざりしたかのように舞花は棚に置いてあった教材を『Z』の後ろ目掛けて投げつける。
自分の心境が謎だった。利用目的で脱出を企てている悪い女が女性を助けるために自分を危険に晒しているのだから。
女性の声よりも背後の音の方が大きかったようで、『Z』は向きを変え、後ろの方へ誘い出すことに成功する。そっと棚に雲雀の体を預けさせ、動けない女性に駆け寄る。
「な、なんで…?」
「(少し黙っていてください。あまり話しかけられると気が変わりそうですし、『Z』にも気付かれてしまいます)」
女性の意志関係なく、無理やり手を掴んで『Z』から引き離す舞花。別に焦っているわけではないのに変な汗が出たり、動きがぎこちなかったりと。汗が出るのは単に他人と接触したことへの拒絶反応、動きがきごちないのは頭で考えていることと体が付いて行けていないだけだ。
(誘き出せたのは成功しましたけど、ほんの気休めのようなもの。すぐにこっちに戻ってくる…その前にこの人を安、いえ安全な場所はもうなかったですね。とにかく、 一度神室さんのところまで)
「真矢、凉…。二人とも死んじゃった、二人、と…もぉ……」
「(めそめそするのでしたら、もっと静かにしてください。『Z』に気付かれたら、貴方も彼女達と同じような末路を辿ることになるのですよ?)」
弱々しく涙ぐむ女性に対して同情の意志を全く見せず、少しきつめな言葉を発する。
「あ、あんたには分からないだろうが。親友が死んだんだぞ?悲しくなれない方がおかしいって!」
「ですから、声をっ──ぁ」
親友の死に悲しくなれない人なんていない。南奈や ゆい、さっちゃんが死んでしまったら、生きていける自信が喪失して自殺まで追い込まれるに違いない。考えないようにしてきたが、こうも指摘されると元々あった不安がいっそう倍増される。
しかし、今は『Z』を無視してまでそうした感情に浸っている場合ではなかった。女性の声に再び反応し、今度は確実に位置を把握したようで歩む速度が速い。
避けようにも場所が悪く、棚が隣接されている資料室では急には横に避けることも難しく、他の方法を模索しなくてはならなかった。
(どうしよう…どうしたら、南奈なら…ゆい なら、さっちゃんなら!私じゃ、何もできない…何も、何も……)
咄嗟に物事を判断できない不器用な舞花には、じっくりと考える時間が必要だった。頭で考えたことを瞬時に動ける南奈、ゆい のようにいかない所も、悩みの一つとして抱え込む彼女は自尊心を失いつつある。
一つでも役に立てるかと思っていたが、本当に何もないくらい無能だった。どんなに飾っても結局は飾り物なんだと思い知り、何もできない自分があさましく、何もできない自分が大嫌いでしょうがない。
いつの間にか生存の可能性を見出だすことを諦めていた。何をしようとも無駄なら、何をしたって無意味だ。
自分を偽ったことも、彼女を助けたことも、何もかも全部。
(……)
目の前が真っ暗に染まる。もともと暗い空間なのに、それとは段違いに密度が濃い。
死の予感。そう感じとっても不思議と恐怖はなかった。諦めがついていたかもしれないから、自分が大嫌いだったからかもしれないから。
理由はなんとでもなる。
「おらおら!!こっちを向けや、『Z』があ!!」
そんな時に。
声がする。金属同士を叩き合う音を奏でながら男性の声は移動していく。暗がりでお互いに見えていないとはいえ、『Z』を完全に位置を把握出来ていないのにも拘わらず、これほど大胆に移動をするのは自殺行為だ。
お互いに位置を把握できないのは一瞬。『Z』の聴覚は異常な性能を持ち、既に男性との距離感を掴んでいた。
「どうした、俺はここだぞ!」
声の主からして郷道匠海のものだと判明し、ようやく助けに来てくれたことを確信する舞花。彼は音を出せば、少なくとも優先して注意をこちらに向けられると考えているのだろう。そうすれば舞花との距離を離すことができ、怪我を負った雲雀を運ぶ時間を稼げる。
後は彼が『Z』を見失わずに処理することが出来れば、一番理想とする形になる。舞花はそう受け取り、雲雀が倒れている方へ念のために『Z』の位置を確認しながら後退する。
そして。
「舞花ちゃん!」
「ゆ、い…」
ゆい の声が。
「「舞花!!」」
「南奈に、さっちゃんも…」
南奈と沙月の声も聞こえた。
来てくれた。声が聞けただけで安心感が湧いたことが認識できる。まだ姿が見ていないのに生きることに諦めがついていた心が揺れ始め、様々な思い出が流れ込んでくる。
これが初めてではない。
枝邑家に拾われてから数ヶ月のこと。ゆい と南奈は少しずつ沙月を信用していっていたが、舞花は未だに馴染めずにいた。
この時、舞花は死を望んでいた。この壁の中の窮屈感に絶望したのではなく、主に人間関係にやられていた。他人に対して最初の方にあった感情は嫌悪というよりも恐怖が優っていたのだ。
年上相手にも勿論のこと、同年代に対してや身寄りのない三人を引き取ってくれた沙月も『他人』ということで適応されている。
彼女は同情されることに恐怖していた。同情して心の隙間に入ろうとしている他人が悪魔に見え、自分を従えさせて道具のように扱おうと目論んでいたりとか、依存させて離れさせないようにして自らの欲を満たす為とか、色々なことを考えて震えていた。
壁の外の出来事が子供である舞花の心を抉っただけでなく、思考さえも変えるきっかけになったということ。子供の彼女からしたら心の問題はどう向き合うべきなのか分からないのだ。相談しようにも同年代の二人には難しい話だろうし、かと言って沙月にも聞ける状態でもない。
母親はもういない。頼れる人がいない。ひとりぼっちだ。死んで楽になりたい。死にたいよ死にたいよ死にたいよ死にたいよ死にたいよ死にたいよ死にたいよ死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい!!!!!!!!!!!!!!!!!!
そんな絶望の中で助けてくれたのが沙月だった。彼女は同情をした上で、驚くべきことに叱ってもくれたのだ。
『…辛いのは分かるとは言わないわ。私は外の世界のことはよく分かっていない。舞花がどんな辛いことにあったのか、落ち着いた時でいいから…いつか聞かせてほしい。でもね、だからって一人で抱え込むのは駄目!そりゃあ、私はまだ舞花に信用されていないかもしれないし、敵っていう認識でいるかもしれないわ。それでも、何事も一人で抱え込むのは自分を貶めているだけ。少しずつでいいから…私はどこにも行かないからね』
この言葉と沙月がしてくれた行動に救われた。抱き締め、どんなに嫌々と抵抗しても抱き締め続けてくれた。子供の頃だからはっきりとした感情は分からない。だけど、母親を失い、身内との再会も果たせなかった子供の舞花にとって、抱き締められることが何よりも堪らなく欲しかったのかもしれない。
後で聞いた話なのだが、舞花が人間関係で追い詰められていたことを南奈と ゆい は気付いていたらしい。何度も言うタイミングはあったのに声をかけなかったのは。
『もう誰も信用しないっていう約束を破ったあたし達が言ったところで、逆に舞花を更に追い詰めることになっていたかもしれないからだ。自分勝手なのも承知。実際に苦しめることになってしまったのもあたし達の責任でもある。でも、あたしはもう舞花と喧嘩したくない…この縁をずっと大切にしたい。あたしはこの場所を好きになりたい』
自分が死を望んでも、南奈達は舞花の死を望んでいない。
それは記憶の中にある日々が教えてくれた。共に過ごした時間は無意味で終わるほど無価値なものではない。二人がいたからこそ、沙月がいたからこそ、大切な時間となり、この日々を大切にしたいと思えていた。
それを失うは。
(嫌だ…楽しかった時間も全部なくしたくない。忘れていました…私の命はもう簡単には手離されません。一人じゃない。この命はもう私たちのものじゃない!そんな理由だけで南奈達を悲しませたくありません!もっと、一緒にいたい。もっと、一緒に生きたい。一緒に、未来を見たいって約束しました…!)
役立たずでも、自分を偽っても、帰る場所がある。待っている人達がいる。何も果たしていないなら、彼女なりに出来ることを模索するしかない。結果的に何も変わらないことも、また結果だ。大事なことはその結果を次に行かせられる行動が出来るかだ。
その挑戦が出来るのも、生きているからこその特権。
舞花の瞳は光を取り戻す。自分に出来ることは何もないことには変わりないが、一つの選択肢を見出だしていた。
大変不本意でもありながらも、心の中では頼りにしている自分がいた。この暗がりで声を頼りに助けてくれた彼を、傷を負ってまで助けてくれた彼を。
「アアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」
『Z』が咆哮の質を変えてくる。周囲の声に苛立ちを見せたのか、それらを全て振り払って真っ直ぐ舞花の方へ駆けた。最初の獲物からと、『Z』とは思えない思考の切り替えに怖じ気付そうになる。
(お願い…)
彼が立ち上がるか、否か。究極の賭け、待っているのは死か生の二択。恐怖そのものだ。こんな賭けは間違っていると自分で言い聞かせることも簡単な話だ。
それでも、彼を求めた。
「神室、さん…」
もっと大きく。
「神室さん」
腹から声を。
「神室さん!!」
事態は大きく動いた。
『Z』のタイミングに合わせて棚が倒れたのだ。上半身は挟まり、下半身はそれでも標的の舞花目掛けて動き続ける。
目を見開いて結末をしっかり映す。棚を倒したのは雲雀だった。彼は倒れた棚にうつ伏せの状態で乗り、動けなくなった『Z』を睨み、最後にナイフで止めを刺す。
棚は倒れないように太いネジで固定されていたのを、根本から力ずくに折り曲げて進行を阻止する。
彼はどこまでも危機に駆け付けくれる。正義のヒーロー気取りだろうとそれで助かる命があるのなら、それはもう正義のヒーローである。
ただ、それだけの行動によって雲雀の体は重力に押し負ける。元々、動けない体を無理やり動かせば本人もどうなるか分かっていたはず。
それでも彼の攻撃は確実に、脳天を刺したのは彼なりに強い意志があったからだろう。
意識を失ったのか、動かなくなった雲雀に駆け寄る者はいない。舞花も直後で体がまだ恐怖を覚えて動けず、走り回っていた匠海もタイミング的に舞花達と合流する形する形となった。
「た、助かったのか…」
「えぇ…そうみたいです」
床に座り込んで不動のまま沈黙が続く中でギャルが呟く言葉に舞花は頷くと恐怖で強張った体が軟らかくなり、大きな溜め息を吐くギャル。釣られる舞花も恐怖からの解放には流石にそうせざるを得ない状態だった。酸素を多く取り込んだわけでもないのに、体中の恐怖を吐き出すかのような。
危機が去ったことで自分の体の異常に初めて視野を向けると、かなりの汗で服がベタつき気持ちが悪さを覚えたり、体の芯から高熱を放っていたりと気付かなかったことだらけだった。本当にこれが『Z』に対しての恐怖なのだろうか疑問に思いながら、改めて自分という臆病な人間を見つめ直す。
(私はこれしか出来ません…助けを求めることしか。けれど、どんなに責めても結局はそれが私なんだ)
納得はしても何も出来ない自分を責める自分がまだいる。それは、これからも引きずるものだと受け止める。