第4話 『信用への勇気』
狩衣に似たようなものだが動きやすいように袖口は狭くしており、神職の常装よりも名前の通り狩り専用の服装に見える。黒をさらに濃ゆくした深黒を基調として赤の網目が幾つも刺繍されている。ここで深黒加工という極限まで光の反射を抑えたことで、赤に深みを生み出していた。
髪は調理室に入る前から風に当たっていたのか、かなり乱れた状態だ。原型がなんにせよ、ゆい達の警戒がより一層強くなる。不審者、爆発魔と全てにおいて関係性の深い人物を警戒しない理由はない。
例え、『Z』の脅威から救ってくれた恩人であろうと。
助けたことにはきっと理由があり、例外なく邪な感情で近付いてきた悪人に決まっている。
「ゥアア……」
呻き声を上げ、壁に叩き付かれた『Z』が壁に体を擦り付けながら立ち上がる。全身に何かしらの異常は見受けられ、その動作には明らかに遅い。脅威としては下に値する存在に少し心に余裕というか、気が緩む。
「ァ゛ァ゛ァ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!!」
しかし、『Z』はリミッターを解除して、ゆい達に向かって飛び掛かってきたのだ。ここぞというタイミングに押し寄せる恐怖に足が竦んで倒れ込み、襲いかかってくる恐怖が再び死を予感させる。
音を立てたのは男性の方なのに、迷いのない動きに不自然さを覚えた。まるで、男性との戦闘を避けたかのような思考を巡らせを感じる。
襲われる瞬間、ゆい達は下を向いたことで情報量は限られたものになっていた。視認できるのは迫ってくる影だけで、音に関しては南奈の叫ぶ声しか聞こえない。
「ッ!!??」
──────影はもう一つ現れる。咄嗟に顔を上げた ゆい の視界の端に、映り込むのは先程の男性だ。
飛び掛かる『Z』に強烈な踵落としを食らわせる。リミッターを解除したことで移動速度は段違いに早く、正面で立ち向かえば衝突は免れない。無傷で済むわけがじゃない。だから、男性はその危険から逃れるために上から攻撃を仕掛けたのだ。
床に叩き付かれた『Z』の足首をすぐさま掴むと、そのまま ゆい達の前から遠ざけるために後ろへ投げる。あと数センチの生死の瀬戸際、彼の一瞬の判断に命を救われた。
床に放置された調理具を撒き散らしながら転がり、再び低い呻き声を上げながら立ち上がろうとする『Z』。
その行為は無駄である。リミッターを解除した影響で、両足の骨は砕け、筋肉は千切れ、下半身の機能は完全に歩行困難を意味する。
それでも、諦めの悪い『Z』は動かない下半身を引き摺りながらアザラシ歩きで前進してくる。最早、音での特定はいらない。がむしゃらに走る『Z』は散らばる調理器具を豪快に飛ばして迫り寄る。
─────突然のことだった。それまで動いていた『Z』が力を失ったかのように倒れたのだ。最終的に調理台に身体をぶつけ、立ち上がると思ったその個体はそれを最後に動かなくなった。
数秒か、あるいは数十秒か。一時的なものと警戒して動き出す瞬間を今度は見落とさないようにする。そうまでして、暫く経っても動かない『Z』に ゆい達の強張った緊張が今度こそ解放されて、安堵のため息が自然に漏れる。
「ゆい、舞花…」
「…南奈ちゃん」
無事に南奈と合流することができ、強く抱き合う。全員が生きていることを鼓動で感じながら、ゆい は改まった姿勢で男性を見つめる。
倒した『Z』に歩み寄っていると、動かなくなった『Z』にも視線が向く。倒れた『Z』の体を転がすと頭部にはナイフが脳に到達するほど深く突き刺さっていたのだ。
突然、『Z』が倒れたのも納得した。脳が損傷すれば、機能が停止する情報自体は世界に拡散している。ただ、攻撃は武器の種類によっては近付かないといけないものもある。様々な恐怖を抱いた状態で、果たして近付ける勇気を保ってられるか。
そんな感情の混在も男性にとって当たり前のことなのだろう。仕留めた後に関しても死んだふりの可能性だって考えられる中で、仕留めたことに絶対的な自信がないと無防備で近付いたりしない。
ましてや、遺体に触るなど躊躇ったりする。頭を押さえながらナイフを引き抜き、二体の血で汚れた表面を拭き取って腰辺りにしまい込む。
すると、男性はこちらの方を気にし始める。何ごとかと思っていると、男性の側に倒れているのは後ろにいる二人の親友だったと気付く。振り向くと二人も合流しており、近くにいる男性を睨んで様子を窺っていた。
男性はそっと遺体から離れると、何の躊躇いもなく親友の二人が駆け寄ってくる。血で汚れるスカートに気にもとめず、何度も何度も遺体に話しかけながら肩を震わせてしゃくり上げる。
そんな彼女達に悲しげに見つめる男性は、耐えきれなかったのか背を向ける。
「……ッ」
丁度、向かい合った形で男性と目が合った。紅い瞳に引き込まれるような感覚は、言葉では説明できないほど奥深き何かがあったからかもしれない。胸が締め付けられる?ような、全く整理が付かない。
でも何故か、初めての感覚ではないように思えたのはほんの一部の自分だった。
「下着が……」
すると、男性の最初の一声が 指差しとともに ゆい に向けられる。
「へ?」
思考を巡らせていた分、男性のからの不意な声に拍子抜けた声が漏れる。
ゆい は男性に指摘された『下着』をキーワードに、胸から流れるように見ていくと、ある一点で目に止まる。男性に見せびらかすように股を開き、まるで男を誘惑している痴女のような。
そんな情報処理を得て、自分が如何にまずい格好かを判断するまでにタイムラグが発生する。
そして、全てを理解した彼女の顔が真っ赤に染まり、慌ててスカートを押さえ込んだ。
この学園のスカートは短いため尻餅をついたら、下着が露になるのは当然だ。ゆい はこうも簡単に見えてしまうスカートの丈の短さに、今までの学校生活では大丈夫だったのかと気にし始めたら止まらない。
男性も気を遣って指摘後は見ないように視線を外してくれていたが、見られた事実がより一層に自分の無防備さを自覚させる。
とにかく、下着を見られたことでパニック状態に陥った。
(あ……あぁ、わわわわわわわわわわわわわ!!み、見られた!見られた見られた見られた見られたぁ!!)
顔を下に向けては身の置き所のない羞恥に駆られながら発狂する ゆい。
場所や状況に似合わない乙女の姿に反応する男性だが、遠くの方から『Z』の声が聞こえるとナイフに手を置いて臨戦体制に入る。ここは密閉した空間だ。今の騒ぎで『Z』が寄って来ないとも限らない。
音を聞き、近付いて来ないことを確認すると、ゆい の方に歩み寄る。
「ここも長居は出来ない。…立てますか?」
「………」
男性の視線が指す方向から『Z』の呻き声がするのを確認する。それでもとくに焦っている様子はなく、冷静な態度で ゆい に手を差し伸べる。
ゴツゴツしている男性の手だ。見える範囲でも分かる通り、半分以上の面積が素肌でない赤く滲んだ包帯が巻かれていた。本物なのか、はたまたそれに見せかけた偽造なのかは分からない。
しかし、漂ってくる血臭は忘れることもない本物だと確信する。だから、鼻を刺す臭いと包帯に付着している血はやはり本物なのではと思うと、痛々しい痕跡が顔を歪ませる。
しかし、これはこれで好機なことかもしれない。正面に向かい合ったことで服装をもう少し着目できるようになる。まず、自衛隊ではない。どこかの機関の特殊部隊と判断した方が納得がいく黒い服だ。狩衣を羽織っているが、隙間から腰や太腿の至る所にナイフを所持しているのが見える。
側から見ても怪しい存在にしか見えないが、最初に声を聞いた時の違和感に、ゆい はこの手を払うか払わないかを決めなければならない。気付けば下着を見られた事実が薄れ、謎多き男性の正体について考え始めていると。
───バチンッ!と男性が差し伸べた手が第三者によって払われる。
「あんたが何者かは知らないが ゆい には触るな。何も話しかけるな。何か言いたいことがあるなら、あたしに言え!」
ゆい を守るように前に立つ南奈と抱き着く舞花。二人が命を救われた恩人でも警戒を怠らないのは、正体不明というワードが彼女達との距離を遠ざける。
「……」
敵意剥き出しの視線に男性の手が引っ込む。不審者ならこの行為に逆上するかもと心配になってくる。助けた見返りが敵意や拒絶は、助けた側からしても不快なものだろう。
「…君も分かっているかもしれないが、もう感染は既に学校全体にまで広がってる可能性が高い。ここも危険です…すぐにでも学園から脱出しないといけない」
不快な表情は一切せずに、ありのまま如何に今が危険な状況下かを伝える。
「不審者に言われなくたって分かってる。だから、あたし達は武器を入手するためにここにいる。というか、あたし達がここで何しようとあんたには関係ないことよ」
警戒の色を濃くした眼光は、男性を受け付けないように圧の鋭さを強くする。それでも男性は屈することなく、真っ直ぐと見つめる赤い瞳に男性自身の意思が強く出る。
「関係あるに決まっている。俺がここにいるのは助けるためだ!君達が不審者と言うのなら、それでいい。罵っても構わない。だけど、それでも信じてほしい…俺は味方です」
恐怖から解放される救いの言葉。それだけには甘えたくなる心の動きは人間の本能的な何かなんだろう。
しかし、そうであっても男性に対しての情報がない彼女達には、同時に不信感を抱くのは当たり前のことだった。
「何その矛盾した台詞?ふざけているんなら余所でやれ。あたし達はあんたに構っている暇なんてない。それに、あたし達以外にも対象はたくさんいるだろうが、後ろの二人でも守ってろ」
男性の後ろにいる二人の女性を指す南奈。彼女がここまで辛辣なのは、やはり過去の影響力が大きい。外から来た者なら何度も味わった『Z』への恐怖と人間自身が持つ悪の面の二つが大きく関わっている。
生きるために他者を平気で生け贄に捧げたり、自分の思い通りに動いてくれない人を殺したりと見てきた景色は数え切れない。彼女達はずっと怯えながら生きてきたのだ。どんなに助けを乞いても、求めた結果が悲劇を巻き起こす。
裏切られ、殺されかけ、負の連鎖が積もっていく内に身も心もすっかり変わり果ててしまった。
だから、他者を信用できない。
そんな長い生活の末、彼女達に強く残った人に対しての拒否感情がこのような結果を招いてしまっているのだ。
それが一番に根強く残っている南奈の鋭い語気には流石の男性も口籠る。
ようやく、一歩引いた男性を他所に南奈は落ちている調理器具を拾い上げる。絶対に隙を見せてはいけない。武器を持つことは敵対意志を可視化し、相手を威嚇するには十分な効力がある。
敵と認識している存在を目の前に、武器を持たないのは自殺行為だからだ。
「舞花、さっきの部屋から包丁を持ってきてくれる?この場所に長居するのは危険だから、早くさっちゃんと合流して校舎から出よう」
「…わ、分かった」
既に準備室の扉は開き、自由の行き来が出来ていた。容易に入り、目当ての物が見つかるのも時間の問題だろう。
「駄目だ!君達でなんとかなるような状況じゃないんだ。既に『Z』は学校中を…」
二人のやりとりを聞いた男性はもう一度声を張り、一刻の猶予もないことを伝えようとしても。
南奈は殴るモーションをとって近づく男性を脅し、その歩みを止めさせる。更に強まる拒絶の眼光は、男性が言いかけた言葉そのものも遮る。
「…来るな。それ以上近づくのなら、あたしは容赦なく殺しにかかるぞ。あんたが正義っ面してあたし達を納得させようとしても考えは何も変わることはない。どうせ、あんたも卑怯で自己中のくそ野郎で、あたし達を生き残るための駒にしか思ってないんでしょ?」
偽りもない親切な態度でも過去への強い感情が疑う心を剥き出していた。
「……違う」
「「──ッ!」」
南奈の発言に反発の声を漏らしたのは男性ではなく、同じ恐怖を味わってきたはずの ゆい だった。思いもよらない人物からの声に、南奈と包丁を手にして戻って来ていた舞花は驚きを隠せずにいた。
ゆい はずっと男性のこれまでの行動を振り返る。その中でも、たった数分前に起きた状況がこうして突き動かされていたのだ。自分でも驚くくらいに。
しかし、南奈の主張には耐え難い記憶が蘇り、それ以上の言葉がなかなか出てこない。彼女自身に疑う心がないわけではない。
それどころか、三人の中で特に他人に対して恐怖を抱き、心を閉ざしたのは彼女だ。
南奈の敵対心、ゆい の恐怖心。相互が共通するのは『他者』というただ一点。忘れられない過去、消えない傷はそう易々と癒せられないのだが。
そんな彼女でも。
あの一瞬の光景が脳に染み込む。
二体の『Z』相手に逃げ隠れもせず、ゆい達を助けるために正面から立ち向かった男性の姿を。
過去を振り返っても現れなかった人物が目の前にいる。本気で生存者を助けようし、生き残ることを願ってくれる。状況に合わない温かみを感じさせる男性は、彼女に希望を抱かせる。
人が希望を抱く基準はそれぞれ。ゆい からしては、それがとてつもない光が照らされたようなものだった。
「…ゆい?な、なんで…なんで……」
向けられる視線、舞花の声が痛かった。これは裏切りに近いようなものと思うと体が強張っていく。
だけど、男性を信じてみたくなった。二人を信じさせたい。揺るぎない使命感が彼女に力を与える。
「わ、私は彼が悪い人には思えないの…。分かってるよ、二人が言いたいことは。私達は人に傷付けられて、人を信用することが怖くなった。けど、そんな私達はさっちゃんを信用できるようになった…彼女の優しさは本物だと確信できたから。今の彼も、それと……同じ感覚がするの。私達を心の底から心配してくれてるような、そんな感じが…」
説得には不十分な言葉に聞こえるが、ゆい が彼を信用したいという気持ちは強く現れていた。しかし、そんな気持ちに二人の不安の顔が消えるわけはなく、それどころか男性に確かな恐怖が芽生える。
「こいつが、さっちゃんと同じ?ゆい…馬鹿なことを言わないで、こいつは…こいつは───」
南奈の驚きの反応は最もなものだった。さっちゃんと呼ばれる人生を変えてくれた存在と、男性とじゃ天と地の差がある。
比べるまでもないかもしれない。
「二人も本当は分かってるはず、私達が今どれほど危険な状況に置かれているのか。今までとはわけが違う…。この呻き声を聞いて…たくさんの『Z』がこっちに向かってる。もう私達だけじゃ手に負える状況じゃないよ」
声や戦闘で響いた音で三階に集中する『Z』の群れに、堂々と正面から突破できるような策など彼女達の能力では不足している。
それでも躊躇ってしまう南奈。ここまで絶体絶命の状況にも拘らず、彼女が男性との協力を拒む理由は他にもある。協力し合うということは、少なからず命を預けなければならない。
どのタイミングで裏切られるかが分からない中で、全てを任せるのは危険すぎると考える。ましてや、『Z』と違って知性を武器として襲われたら対処はまた難しくなる。
これは本当に決断力が試される。葛藤するのも人間の心理だ。二人にとって素性が不明な人を信じることが怖く、どうしても悲観的な考えが生まれてしまう。
「南奈ちゃん…舞花ちゃん……」
広い空間に残る ゆい の声。心臓が強く突き続ける度に皮膚の裏を撫でるように走り回る嫌な音。高熱に火照る体になんとなく自分の心理状態が理解できた。
沈黙に潜む、張り詰めた緊張感が舌で湿らせた唇が渇く。ゆい はそんな緊張感を味わいながら、見据える先に立つ二人の言葉を待つ。
「ぁあああ!」
突然、南奈が短い叫びとともに髪を掻き毟ると、今度は自ら男性に近付いて握ったフライパンを向ける。止めようと二人の間にか割り込もうとした ゆい だったが南奈の寸止めにその足が止まる。
「よく聞け、不審者」
辛辣な語調、敵意を含んだ視線に変化はない。諦め半分の態度になっていることに、ゆい だけでなく男性も気付く。
「あたしはあんたの事を信用したわけじゃない。そこだけは勘違いしないでよ。これは、あたし達が生き残るための最善な策…いい!あたし達はあんたを利用する。あんたはあたし達に利用される。今はそれだけなんだから」
それだけを残すと南奈は包丁を取りに行って来た舞花から受け取り、男性と ゆい の後ろで友人の死に泣いている二人に話しかける。
「あんた達はどうするの?ここでずっと友人の死に悲しむだけか、あたし達と一緒に避難所に行くか、どっちにする?」
彼女達にとって見知らぬ人は警戒の対象であるが、友人を失ったことへの同情から提案を持ちかける。二人は互いの顔を見合せながら考え、もう一度友人の亡骸に見ると覚悟を決めた頷きが返ってくる。
「わ、私達も一緒に行きます。でも、その前にもう一度ちゃんと葵衣とお別れさせてください」
南奈は頷き、それが終わるまでもう一度男性の方に目を向ける。
「んで、作戦は?この絶望的な状況をあんたはどういう行動を取るんだ?」
結局、一人増えただけで状況が好転するとは思えていなかった。さっきの騒ぎの影響で早めに行動を移さないと階段まで『Z』が近付けば、本当に脱出経路が遮断されてしまう。
現状を手に負えないくらいまで悪化していることを南奈は伝える。男性が破壊された扉の先を遠くから覗くと、やはり徐々に近付いていることが分かる。階段まではもう目前、今から行動を移しても数で押し潰されるのがオチだ。
「雄一の出入り口である扉の前には無数の『Z』がいる。そうなれば、もう正面から脱出を試みるのは危険すぎる。俺でもあの量を相手に全員を守ることは難しいです」
「それなら他に脱出できる所なんて……」
舞花は周囲を見渡して、完全に袋の鼠状態に不安な表情を見せる。すると、男性はそんな不安に答えるかのように窓際へ歩み寄ってことで、徐々にその意向が判明していく。
「窓から…」
「それが最善かは理解に苦しむかもしれないが、この方法しかない。カーテンをロープ代わりに何枚も繋げて一階に下りるしかない。怖い思いをするが、そこはもう耐えるしか…」
今の精神面を考えると、命綱なしで三階から一階まで自力で下りるというのは過酷過ぎるものだ。
不安要素は付き纏ってくる。
「あんたや『Z』の恐怖と比べたら全然マシだね。となると、長さを考えても五、六枚は普通に必要だな。それと固定できるような何かがあれば…舞花、ゆい も手伝って」
もっと反対されるかと思っていた男性は、素直に聞き入れてくれたことに驚く。理解から行動に迷いがない。まるで、ここに逃げ込んだ時点で脱出の策を見出していたかのように。
「……」
余計な詮索はやめておこう。反対されないということは、彼女達もそれが最善だと判断したということだ。
「…何か手伝えることはないですか?」
「あんたは見張りがお似合いだよ。少しでも離れてくれているとありがたいしな」
ただ、やはり警戒は解かれない。
思い出すのは南奈の『卑怯で自己中のくそ野郎』という言葉。過去に何があったのか、それだけでなんとなく分かる。
周囲が信用できなかったからこそ、自分達の力だけで生きていくしかなかったのだろう。そう考えると改めて、彼女達とのコミュニケーションの難しさが身に染みる。
問題は南奈とのコミュニケーションだった。警戒心が根強く残る彼女は三人の中でも最も難しいだろう。男性にとっても、まずはそれを意識して行動をしなければならない。
「分かった…。準備が出来たら俺に伝────」
「………あ?」
男性の声が途切れたことに首を傾げる南奈は尋ねるが、男性からの返事はない。代わりに眼を剥き出し、驚きの表情を覗かせていた。
ゆい は男性が見る先を見据える。依然として『Z』が徘徊する廊下は気分を不快にさせていく。
しかし、今更男性が『Z』に戦くとも思えなかった。が、その疑問は早くも解かれる。廊下を蠢く『Z』の中から他とは明らかに異なる個体が見え────。
くすっ。
「……ぃげろ」
「え?」
震えた声は力が入らず、まともに聞こえなかった。ただ、男性の目付きが次第に変わっていくことは確かめられた。
「逃げるんだ!早くここから立ち去らないと、あいつが来る!!」
声が荒らす男性に全く意図が掴めない南奈達はすぐに行動に移せなかった。男性は腰辺りにしまい込んでいたナイフを取り出して戦闘の一手を打つ。
「あの…一体何が」
直後。
脳髄に響くような凄まじい高音質のノイズが耳を劈く。唇を開いていた ゆい は言葉を詰まらせ、耳を塞ぐので精一杯だった。
「ノイズメーカー!?クソがぁッ!!」
入り口前に転がるノイズの発生源である装置をナイフを投げて破壊するも、男性の表情に怒りが張り付く。失ったナイフを手元に戻さず、急かさず二本のナイフを取り出していた。
律動的だった心臓も大きく激しい鼓動へ追いやられ、事態の急変に感情が引っ張られる。音源が入り口前であるなら無数にいた『Z』の矛先はどこへ向けられるか。流れ込んでくる足音に身震いを覚え始める。
分かっていても ゆい は顔を上げる。その隣で歯噛みする男性とともに。
最悪な光景を目撃する。
「必要な物だけ持って隣の部屋へ逃げ込め!ここで俺が時間を稼いでいる間になんとか脱出の手はずを整えるんだ!」
自身でもあの数の相手は難しいと言っていたのに、彼女達を守るために虚勢を張る男性。
南奈は友人の亡骸に寄り添う二人に声をかけ、準備室へと誘導する。それに続いて、カーテンや包丁といった必要な物だけを持った南奈達も逃げ込む。
全員の避難を確認した ゆい だったが、男性の心配から足が部屋へ運ぶことを躊躇った。背後ではなかなか入ってこない彼女を呼ぶ南奈と舞花の声が聞こえる。
その声を掻き消すくらい、一人残された男性を見つめて心臓をバクバクさせていた。
「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッッッ!!」
群衆から離れたら一体が、まず調理室に侵入する。酷い姿だ。皮膚は剥がれ、制服は脱げて肌が露出している。その肌には噛み傷もいくつもあり、『Z』化するまでずっと噛み千切られたであろう状態から察するに、必死に抵抗し続けたに違いない。
それを前に男性はどんな思いで対峙しているのか。そんな事を考えている瞬間に事態は動く。
音源を失ったことで標的を見失っている僅かな隙を狙い、首をナイフで裂く。血しぶきを噴きながら倒れ込む『Z』は、短い呻き声を最後に動かなくなる。
しかし、男性の動きは止まらない。続けて侵入する三体の『Z』に態勢を低くして、一体目に左ナイフでアキレス腱を攻撃し転倒させる。急かさず二体目の顎に下から右ナイフを突き上げ殺傷を試みるも、それでも絶命とはいかない。
それならばと、刺したまま持ち上げると弧を描きながら床に叩き付けて頭蓋を砕く。ほぼ同時に三体目の首を狙って左ナイフを投擲し、絶命させる。
「……す、凄い」
圧倒的な肉刀技術と人間の天敵すらも凌駕する身体能力はもはや人間の域を超えていた。
最も接近戦となる武器であそこまでの機転を利かせるのは相当困難なことだ。ましてや、一体のみならず複数となれば尚更。自衛隊でも銃を使った遠隔からの狙撃で対抗しており、いかに接近戦を避けていたかがこれで比べがつく。
「アアアッ…アアアアアアッ!!」
一瞬の気の緩みを許さないように『Z』の進行は止まらない。
しかし、男性は侵入する二体の『Z』に対しては、先の戦闘でアキレス腱を斬って床に転がしていた『Z』の足を掴んで投げ付ける。二体の顔面に直撃し、慣性の働きで体が一瞬宙を舞って後頭部から落ちる。
これで絶命しなくとも立ち上がるまでの時間は稼げると思いたいが、他の『Z』がそんな時間を与えさせない。倒されていく同種の無様さに動揺もなく、逆に一つの死体かのようにそのまま踏み潰して男性に集ってくる。
うんざりと、元々初めから期待するだけ無駄だと理解していた男性はナイフで『Z』の首を裂く。
繰り広げられる死闘は更に激しさを増す。雪崩れ込んでくる『Z』に一刀のもとに急所を正確に狙って斬り殺していく。返り血が返り血をと、古くなった血を新しい血で覆い被さり、一向に粘土質が変わらない。多すぎた分、黒色の狩衣は重く、変色するも驚くべきことに動きになんの影響もない。
『Z』を踏み台に天井へ跳躍から、天井を蹴り、『Z』に重い一撃を食らわせる。避ける意味での利用目的も含めた一つの攻撃手段。体を使い、構造物の一部を使い、あらゆる機転を利かせることであのような戦闘スタイルが出来上がる。
「強いだけってものじゃないの。あの人には根本的に恐怖という感情がない…」
人間の能力値を遥かに超える戦闘を展開する男性に、ゆい は呆然とする他に反応できなかった。
人というのは脆い生き物だ。高い場所から着地すれば足を痛める。片腕や両腕で持てる重さも限られる。打撃も斬撃も食らえば、負傷して命を脅かすことも。
そんなリスクを背負いながら、『Z』と戦うということは恐ろしく怖いものだ。
ましてや、あんな息継ぎもままならない体制移動を繰り返したら体力の消耗が原因で、筋肉の痙攣などといった症状が出てくる。判断力も次の攻撃に必要な段取りも出来にくくなってしまう。
と、そこに。
「ゆい、こっちを手伝ってほしい。不審者が時間を稼いでいる間にあたし達はあたし達ができる事をしないと」
肩に手が置かれ、耳元で囁く南奈に振り向く。その後ろでは舞花と二人の女性が協力してロープを作っていた。皆が必死になっているのに身勝手な行動で迷惑をかけてしまったことに ゆい は萎縮する。
「ごめん、なさい…」
「謝る前に行動を起こさないと。ほら、行ったー行ったー」
背中を少し強めに叩き、本当は少し怒っているアピールをして ゆい を舞花の方へ誘導する。
歩んでいく ゆい の背中を見届ける南奈。自分に向けられる視線がなくなったことで、彼女の中にある不安が表情として現れてくる。
忘れるはずもない苦痛な記憶が蘇り、激しく鼓動する心臓を手で押さえ込み、無理矢理に落ち着かせる。
しかし、一度考えてしまうと感情は抑え込むことは出来なかった。顔にも表れるくらいに、苦痛とは別の感情で覗いてしまう白い歯を咄嗟に隠す。
(ほんと…いつも突然だな)
笑って、自分は何を言っているのだと冷静さを取り戻し、周囲を見渡す。他人に見られようとも笑みは多様な感情表現に使われ、簡単に判断出来るものではない。一方で親友ともなると、どんな感情の笑みかを癖や微妙な表情筋でバレたりする。
誰にも見られないことを確認して、扉の取っ手を掴む。
(間違うなよ、綾代南奈。あたしが選択した理由は二人を守るためだ)
今も時間稼ぎのために戦い続ける雲雀を睨み付け、ゆっくりと扉を閉める。本来なら鍵を締めたいところだが、無いものは仕方ない。
ただ、それも不要かもしれない。あの数を捌きながらでは逃げ込もうにも、南奈達を巻き込むことを避けるはず。
それに堪え兼ねても逃げ道を塞げば、それだけで自然と男性は追い込まれることは明白。窓から脱出すれば、男性だけは助かるだろう。準備室にいる生存者を犠牲になることを何とも思わないのであれば。
だから、男性の使命感を利用する。利用できるものはしっかり利用しないと生きていけない。あのやり取りで南奈が男性に対する態度や考えがどういったものかを知ったはずなら、少なくともこういう運命になる可能性も考慮できたはずだ。
考えれば考えるほど、喉の奥から堪え切れない笑いの衝動が込み上がってくる。我慢しようにも胸中に生まれ続ける何かが、口元にこれまで浮かべたことのない不敵な笑みが浮かぶ。
(お願いだから死んで死んで死んで死んで死んで死んで死んで死んで死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね!!!!)
卑劣やら外道と言われようとも、それが間違ったことをしていない。そう言い聞かせることで心に余裕を持たせようとするが、その度に顔色は悲痛な色に変わり果てていく。
すると。
「……………これでいいんだよな?」
今までの形相すべてを否定するかのような言葉を吐き捨て、ゆっくりと扉から離れていく。外で戦う男性の叫びと暴虐を尽くす『Z』の呻き声を遮るように耳を塞ぎながら。
しかし、視線はやはり扉の方に向けられていた。