第3話 『荒ぶる恐怖』
理数教育棟の五階で起きる爆発に困惑する三人。
さっきの爆発音でこの階にいた『Z』は五階に向けて走って行くのが確認できる。
学園に内緒で護身用として持ち込んだのか。或いはそれ以外の用途でか。あの爆発が指す可能性があるのであれば、所持していた爆発物を使って『Z』もろとも命を絶ったのではないか、という推論。
自暴自棄になって死を選んだのだろう。教室という密室に加えて五階の高さに追い詰められたら、人は死を選ぶほど精神を蝕まれてしまうのは間違いない。
「ん?」
黒煙が濛々と立ち上る中、南奈が何かに気付く。目を凝らしていると、黒煙からうっすらのした影が現出していた。それが次第にはっきりとした輪郭を造り上げ、ある形へと映させる。
「ちょっ!?あれ、人なんじゃ…!」
驚きの表情とともに声を上げる。二人は目を凝らし、南奈が言う人影らしきものを探していると少しずつ風によって黒煙が流され始めたのだ。あれほど目を凝らしてもはっきりとした認識が出来なかったものが晴れていき、本来持つ校舎の色合いに異質なものが姿を現す。
───黒服を纏った男性が立っていた。
特徴的な服が決め手となり、三人が行き着いた答えが一致する。
「…あれは制服じゃない。あの男性が校舎に侵入してきた奴か?」
「となると、爆発の原因はもしかしたらあの男性の仕業かもしません」
「でも、何か様子が……」
解釈は一致だが、ゆい には気掛かりがずっと残り続けている。あの男性が行ってきた行動は、単なる卑劣な目的で不法侵入したものではないと疑問に思い続けていたからだ。
一日を通して常にカメラで死角のない監視網を張り巡らせ、警備員も数百人体制で巡回もしている。生徒の安全を確保する為、事故や事件を防止している学園に危険を犯してまで侵入するメリットはないはず。
余程、捕まらない自信でもあるのか。単に目立ちたいだけなのか。世の中には道徳に反した考えを持つ者もたくさんいる中で、理解しようとするだけ無駄なのかもしれない。
その直後、状況が動き出す。男性が教室へ再び入ったと思いきや、すぐさま姿を現し、そのまま身を投げ出したのだ。その瞬間を目の当たりにした ゆい と舞花は声にならない短い悲鳴を上げて口元を覆い、南奈は愕然と目を見開いて硬直する。
背後からは数体に及ぶ『Z』が男性を追っていた。逃げ場所を失い、混乱の末の末路だ。もしかすると、幾度の死のなかでこれが最も幸せなことなのかもしれない。自分の意思で死ねて、自分が決めた死に方ができる。
これ以上ない祝福のようなものだ。
しかし、状況は予想外の展開を迎える。普通なら重力により真下へ落下するはずの体が描く軌道はとても奇妙で、明らかに何かの作用が働いているものだった。そのまま棟と棟との間を移動し、四階の教室の窓を突き破る。
そんな光景を見た途端、血相を変えた南奈が唇を開く。
「急いで調理室に行くぞ。このままじゃあの不審者と鉢合わせになるかもしれない。それだけは絶対に避けないと!」
再び走り出す南奈を追いかける。あの光景に焦りを促されたのか、移動の速さが彼女の感情を代弁しているように見えた。
何の情報もない未知なる人間には敵と認識されるのは当然のこと。こういう世界なら尚更、白黒はっきりしなければ自分の命だって危険に晒されてしまう。出来れば出会わないことを祈り、不覚にも出会ってしまえば殺意を向けるしかない。
「ぅああああああああッ!!」
背後から恐怖に満ちた声音の悲鳴が迫ってきた。振り向く先に返り血を浴びたように、服が汚れた四人組の男女が複数の『Z』に追われいた。
何一つ学習していないことは明白。あんな大声を上げていれば、『Z』を呼び寄せるに決まっている。ゆい達のような壁の外で暮らしていた者以外。つまり地元民にとっては画面越しでしか見たことない『Z』に対して、対処するための思考は回りづらいだろう。
思考が恐怖の感情だけを膨らませて、自分の体じゃないくらい思い通りに動かないのは仕方のないことだ。
ゆい達のような避難民とは決定的な経験の差がこうした事態を招いてしまう。
すると、一人の男子生徒がとんでもない行動を取った。一番遅れていた女子生徒の足を蹴り、バランスを崩させる最低な行為に及んだのだ。
そのまま勢い良く床に強打した女子生徒は数回転んだ後、その勢いは止まるが『Z』は容赦ない数で蹂躙を尽くす。
「いや…いがだぁがががああああ!!」
女子生徒の抵抗も虚しく、綺麗な肌に次々と歯が食い込み、粘着質のある音を立てる。
『Z』の群がりように女子生徒を囮に使った男子生徒の表情は、加虐者に相応しいたちの悪い笑みを浮かべていた。
自分さえ助かればそれでいい。
他の人間は自分の生存の可能性を上げるだけの駒という考えを持ったクズ野郎だ。
「ざまぁみろがぁ!俺がこんな所で死ぬわけにいかねぇ、きゃははははぶぅろあはっ!!」
高笑いする男子生徒の体が突如と前へ飛ぶ。あまりの衝撃から胃液を吐き出し、床に叩き付かれて滑る。
痛みは全身に渡って伝わるが、男子生徒の意識が向いたのは全身ではなく、左腕に感じる違和感だった。圧迫感、それに圧倒的な高熱が恐怖を埋め付けていく。
目玉だけを左に向けると、男子生徒の恐怖は最高潮に達する。
女子生徒に群がっていた複数の『Z』の内の一体が、たった一瞬で距離を詰めて噛み付いていたのだ。
「な、何なんだよ…畜生がああああああああ!!」
骨すらも噛み砕かれたことによって襲う激痛に絶叫する。その声に釣られ、女子生徒に群がっていた『Z』が瞬く間に集まり出す。そして、標的は他にも。
「篤司たずげあがあぁぁあああぐあぁあ!」
「やめろ、離せ離ぜぶぅぐうぇがばぁあああ!」
逃げ遅れた男女二人も『Z』の餌食になっていた。
あの距離の詰め方には何度見ても震えが蘇る。狙った獲物に一瞬で飛び付く奇怪で目を疑う動き。間違いなく『Z』の身体能力のリミッターが解除された瞬間だった。
『Z』の戦闘能力に知性は感じ取れないが、人間以上の身体能力があるとされている。それでも人間としての本能によるものが、身体を壊さないようにセーブをしているのだろう。
しかし、その枷を外す場合だってある。特定の個体だけが持つ者ではなく、全個体がそれを可能とするものだ。一度リミッターを解除されれば、身体能力は数十倍以上の能力が向上する特異体質を持っている。
外の世界でもこれによって命を奪われる人間が数多く、最も要注意しなければならない。だから、ゆい達が声を殺したのも前提としては見つからないようにするための行動だが、その他に標的にならないための行動でもあったのだ。
ただし、利点だけでもない。一度リミッターを解除すると、体に強烈な負担がかかるようで耐え切れない骨や血管、筋肉は崩壊する欠点もある。両足を使えば、歩けなくなる。両腕を使えば、腕の上げ下げが出来なくなるといった行動制限がかかってしまう。
「(ゆい、舞花。あまり後ろを見ないほうがいいぞ)」
背後で起きる惨状を目にした二人は、南奈の声に振り返って走り続ける。
恐怖が心臓の底を蠕動し、刺すような顫動が背中を駆け巡り、体力の消耗を余計に早める。粘ついた痰が喉を絡め、呼吸を阻害してくる。
それでも、なんとか渡り廊下を渡りきり普通教育棟へ到着するが、悲鳴は止むどころか、むしろその数を増してあちらこちらから響いてくる。
考えは違った。分かっていなかった。
『Z』が現れたら校舎の外へ逃げるという考えがそもそも間違っていたのだ。外へ逃げるのは一部であって、初めて『Z』を前にした者が正常な判断なんて出来ないに決まっている。怖気ついて動けない者や隠れて危機を去るのを待つ者だっていたかもしれない。
人数が元々少ない普通教育棟では理数教育棟とは違った行動を取れ、人の流れに反して身を隠すのも容易。それが『Z』を拡散させ、広範囲に各階に分散させたのだろうか。
どのような経緯とはいえ、既に感染は止まることを知らず、全校舎に伝染している事実を受け止めるしかないのだ。
「こんなところまでいるのかよ…」
逃げ惑う生徒の背後から夥しい数の『Z』がこちらに走って来ていた。ゆい達も生徒達に続いて逃げるのではなく、それとは逆に階段を上がって逃れる選択肢を取る。
既に追い付かれそうだった者もいる中で、迂闊に一緒に行動はするのは危険は付きまとう。案の定、一階へ降りて行った生徒達の悲鳴が反響してくるのを聞きながら隙間から覗く。飛び散る血魂を目撃すると一階へ行かなかった自分達に安堵する。
それても危険が去ったわけではない。三階も同じような光景だが、一階に殆どの生者が集まったことでこの階には『Z』しかいない。
例え、ここも安全な場所でなくても本来の目的である調理室に逃げ込む。
滑り込むように入室して中の安全が確認されると、すぐさま窓越しから廊下の様子を窺う。急いで逃げ込んだため音を聞き分けられ、こちらに向かってくる個体もいるかもしれないからだ。
しかし、余程生徒達の声が大きかったのか。こちらに向かってくる個体はおらず、心底生徒達の悲鳴に誘き寄せられたことにホッと胸を撫で下ろす。
あのまま生徒と一緒に逃げていたら、生存の確率が下がっていた。そう思うと自分達は正しいかどうかは別とし、冷静な判断が出来たことを素直に喜ぶ。
他人を助ける考えなぞない。他人が死んだとて、他人は他人だと感情は揺れ動くことはなかった。そればかりか、誘き寄せてくれた生徒達に感謝の念を抱いている。紛れもなく自分達に罪悪感がないことを示している。
すると、隣で。
「結局…人類なんか滅びる運命なんだな、くそっ」
壊れゆく日常に怒りを露にする南奈が膝から崩れ、拳にのせた気持ちの床にぶつける。心のどこかではいずれ起こりえる事態と覚悟していた。それが、いざ起きると受け入れた先に待っているのは、どうしようもない怒りだけだった。
侵入を許してしまった政府に対する怒りか。
侵入を許してしまった指定避難所の学園に対する怒りか。
はたまた、絶望か。
「南奈、そんなに感情的になっちゃ駄目です。こうなった以上、これからのことを考えないといけません」
そんな様子の南奈に冷静な舞花がもう一度廊下を確認し、声のトーンを落としながら落ち着かせる。その言葉に怒りを沈ませるために深呼吸して、取り乱した自分に首を横に振って自省し、南奈も窓の外を眺める。
「ごめん…。こういう状況だからこそ気をしっかりしないといけないのに、あたしとしたことが」
「ううん、誰だって突然、こんな事になったら取り乱すに決まってる。私だってもう何がなんだか分かりませんでしたから…。だから、南奈が声をかけた時は本当に助かりました…ありがとうございます。それで、これからどうします?」
改めてこの状況下で何を優先するのかを舞花は尋ねる。南奈は突然の状況にも対処することが出来ていた。自分と ゆい の恐怖のくびきから解放させた彼女に委ねることが、生き残れる確率が上がると確信する。
「変わらない。とにかく武器を入手して、さっちゃんと合流したい。今後のことも皆で相談しないといけないし」
ブレることのない目的を再度確め合い、人の気配がない調理室から武器となる包丁を探す。調理実習の最中だったようで調理台には食材や調理具が無造作に散らばり、視線を下に向ければ床にも色々な物が転がっており、事態の慌てようが分かる。
ただ、血が付着していないところを見ると、おおよそ警報で出て行ったのだろうと推測が出来る。
「包丁ってどこにあるんだ?」
調理台の下にある棚や壁側にある大きな棚を探しても見つからない。
ある程度、見える範囲で探していると気付くことも出てくる。食材や調理器具が散らばっているが、調理中というよりも調理の準備をしている最中だったのだろう。鍋やフライパンの中に油も水も入っておらず、食材が洗われた形跡もない。何より、クッキングヒーターのブレーカーがオフに下がったままだった。
「包丁ならその扉の奥にあるはずなの。先生がいつも授業以外で生徒が勝手に使わないようにしているって言っていた気がするの」
ゆい が指を、差す方向に、古くから使用される南京錠で掛けられた扉があった。旧校舎をリフォームをしたのはいえ、旧校舎の名残りをそのまま感じさせるような建て付けの悪そうな古びた扉だ。
それでも、南京錠が頑丈なものには変わらない。当然のセキュリティに舌打ちをする南奈近くの棚から大量の菜箸を取り出す。
「南奈ちゃん、それどうするの?」
「てこの原理を使えば、壊せそうと思ってな」
南京錠をかけている箇所も長年の使用で取っ手の方はガタついていそうだった。狙って何かしらの強い衝撃などを与えると簡単に取れそうなくらいに弱々しいものだ。
「下手に大きな音を立てる方法じゃ不味いけど…これはこれで、そう上手くもいかないだろうが…」
消化器を振り落として南京錠を壊す手なら、今すぐにでも実行は可能だ。しかし、何発も打ち込めば、その音で『Z』に気付かれてしまう。手段は選んでいる暇はないが、この場所は校舎の端。『Z』が押し寄せると逃げ場のない絶対的不利な場所なのだ。
勿論、視力を持たずに聴覚で人の存在を感知している『Z』に特定されなければ、それを掻い潜ることは出来るだろう。問題は数だ。対角線に位置する出入口と保管室との距離はあり、想定以上の数が来ては掻い潜ることも難しい。
「「ッ!!」」
ゆい と南奈が扉の方へ歩いていると、先に向かっていた舞花が動作の停止を示す合図が送られる。その合図に出かけた言葉を喉に残し、反射的に屈んで状況の確認を取る。
「(舞花、どうしたんだ?)」
「(南京錠を見たら外されているのよ。中に誰かいるかも)」
遠目で見れば、ちゃんと付いているように見える南京錠だが、入口の前まで来るとただ取っ手にかけられているだったのだ。無理矢理外された痕跡はなく、鍵を使って開けたのだろう。
「(でも、『Z』の可能性は低いんじゃないの?『Z』なら扉を閉める器用さはないし、もしかしたら逃げ遅れた人が)」
「(何にせよ、見てみないことには判断が付けられないな。『Z』を閉じ込めている可能性だって捨て切れない)」
扉の周囲に血痕のようなものは見当たらないが中から物音が聞こえ、ますます判断が付けられなくなる。ゆい はもしものために武器の代わりにフライパンを握り締め、『Z』の脅威に備える。
取っ手に触れる南奈の表情に緊張が浮かぶと、それが一気に周囲に伝わり緊張感を漂わせる。
そっと力を加えると恐怖を倍増するような不快な金属音を立てながら開く扉に、冷や汗が滲むのを感じていた。慎重に開けたはずが思わぬ音に心臓が痛くなる。
息を殺し、恐る恐る中を覗くと、
「結菜、葵衣逃げてぇ!!」
勢いよく開かれた扉から一人の女性が南奈の体を突き飛ばすと、上に覆い被さって動けないように腕を封じる。それに続いて準備室から出てきた二人の女性が調理室の出口へと走り出す。
自分を囮にして他の二人を逃がすという魂胆が行動でよく分かる。こんな状況になって捨て身覚悟で体当たり出来るほど、心の整理は簡単ではないはず。南奈に跨る女子生徒は二人を思っての決死の判断だったのだろう。
しかし、外の状況を知っている ゆい達は咄嗟に手を伸ばし、それを阻止するが一人だけ間に合わなかった。
「待って!」
ゆい の声は恐怖に溺れた人には届かない。
一度は振り向き、友人を気にするも様々な思いが彼女の足を止めず、そのまま出口の前まで駆け走る。
「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッ!!!」
それは一瞬の出来事だった。突然の奇声とほぼ同時に女性が出ようした調理室の扉を一体の『Z』が突き破ったのだ。扉ごと突き飛ばされ、壁に激突した女性からは大量の血が流れ、意識は辛うじてあるも、非常に危険な状態だった。
その有り様を目の前に、南奈の上に股がる女性が叫ぼうとした所を無理やり口を塞ぎ、南奈は首を横に振る。女性の精神面を考えると状況を理解するのは難しいかもしれない。
最悪、気を失わせるまでの段取りも考えていたが、徐々に押さえ付ける腕の力が失う。騒ぎ立たない女性に疑問に思いつつも、解放された南奈は体を起こし、すぐさま『Z』の観察をする。
ゆい達ももう一人の女性の口を塞いで、声を上げられないようにしていた。南奈の方の女性とは違って騒いだり、名前を叫んでいたが ゆい と舞花の二人がかりで押さえ込む。
先程の衝撃で上半身から何本も骨が突き出しているのにも拘わらず、倒れないその異形さは精神に大きな傷を植え込む。魂のない体を壁や調理台に預けながら、調理室を徘徊する『Z』はこちらに見向きもしない。
右へ左へ、不規則になりつつある動きに確信を持つ。
見つかっていない以上、こちらが若干有利なポジションで入られることができる。『Z』には視力がないわけではないが、近視ということで離れていれば問題はない。
最も、警戒すべきは聴力。音に敏感なのは厄介なものだ。ごく小さな音では特定までとはいかなくとも、おおよその範囲が絞られてしまう。完全に特定された瞬間には容赦なく襲ってくるだろう。
南奈はジェスチャーで『Z』の動きに合わせるように指示を出し、一定の距離を保ちながら移動することにする。南奈の近くにいた女性は指示に従順だが、ゆい と舞花の方の女性は未だに暴れる。
こうも二人の反応が対照的だと、二人掛かりだったのは功を奏していたのかもしれない。
しかし、計り知れない緊迫した沈黙の中で、周囲を意識をしても暴れられると床に転がっている食器などを避けずらくなる。この女性を動かすのに必死で足元の食器を雑に避けていた。
その度に大きな反応を見せる『Z』は進路を変え始め、徐々に保っていた距離を縮めてきていた。『Z』に慣れていない者にとってはそれが大きな動揺を与えさせる。
近付いてくるのなら今の体勢では逃げるのは難しい。女性を立ち上がらせた二人は覚束ない足取りを引きずって移動をする。あちこちに気を配りながら移動するのに苛立ちを覚え、見捨てようかなと思う度に我に変える。
この瞬間に音を出されたら、取り返しのつかないことになるのは目に見えている。今の彼女の精神状態を考えると、何をするかなんて予測は出来ない。無理矢理にでも準備室に移動しなくては、自分達の命にも関わってくる。
すると、舞花の体が調理台に置かれたステンレスボウルに触れた。
物が軽い分、触れた感覚が『Z』や女性に意識が向いていたことで気付けずにいた。ゆっくりと傾いたボウルは、静かに落ちていくのを ゆい は視界の端から目撃する。
気付いたときにはもう対処のしようがなく、ゆい はただただ落ちていくボウルを目で追うことしか出来なかった。事態の恐ろしさが次第に表情に刻まれ、フライパンを握る手に力が入る。
次の瞬間。
ボウルは床を何度も跳ね、転がっていき音を立てる。音一つ一つは調理室どころか廊下まで漏れ、誰もが真っ青になる。この時、初めてボウルが落ちたんだと彼女は認識し、彼女もまた抵抗をする力が緩む。
「ア゛ガガガガガガガァガァガァガァッ!!」
最も近くにいる調理室の中にいた『Z』が、奇声を上げながら ゆい達の間合いを詰めるのは一瞬のことだった。逃げることも悲鳴を上げることすら与えず、見えるものをひたすら追ってしまう。
彼女達に目掛けて突進している光景に南奈もまた何も出来ず、また一つの命が奪われていく瞬間を目撃してしまうことに恐怖する。それが親友ともなると声を上げずにはいられない。
「舞花、ゆいッ!!!」
ここに来るまで『Z』に追われる身ではあったが、標的にされたわけではなかった。だから、今回のような明確な標的として襲われることが堪らなく焦りが浮き上がる。待ち受ける死の恐怖に対する整理なんてつけられるものじゃない。
「逃げろぉぉおおおお!!」
呆然と立ち尽くす三人の横をフライパンが通り過ぎる。顔面に直撃すると反動で『Z』がよろめき、一瞬だが動きが止められた。
咄嗟の判断で動く南奈からしては、武器を投げる行為は賭けのようなものだろう。暴投なんてすれば、二人の命を救うことなんて叶わないことだって脳裏にチラついたはず。
それでも、自分が走って頭部へ叩き込む時間は大幅に短縮。それが成功でもして数秒でも時間を稼ぐことが出来たのなら、自ら『Z』との距離を縮めることだって可能だ。幸い、武器となる物が床に転がっていたのも大きい。
命を繋ぐことが出来た三人の間に割り込み、代わりに南奈が『Z』と相見える。
「あたしが相手だ…」
正面で声を出したことで『Z』は標的を変更し、南奈へ襲いかかる。両手に武器を握り、片方で防御しつつ十分な踏み込みと間合いを確保してもう片方ので顔面に向かって打撃を加える。
手に伝わってくる軟らかいようで硬い肉の感触は気持ちが良いとは思えない。その衝撃で痺れて握力がなくなったことでフライパンは手から落ちていく。それには生々しい血痕が残されていたが、鈍器でってよりも既に血塗れの状態だからだろう。
蹌踉とする『Z』はそのまま床に倒れ込むものの、倒せたわけではなく、身体を捻ってたりしながら立ち上がろうと活動は継続のまま。それでも完全に床へ倒せたことで大きな時間を得ることが出来る。
その間に準備室へ向かうために離れた ゆい達と合流しようと南奈は倒れ込む『Z』に注意しながら ゆい達の元へ────。
「──ッ!?後ろだぁぁああ!!」
南奈の必死の声が三人の耳に滑り込んでくる。その声色の意味を考えいると、真後ろから大きな音が響いてくる。調理室にいる『Z』の数を引いても音の出す存在は ゆい達以外いないはず。だから、その音を聞いた途端に背筋が凍り付いていた。
振り向いた先に、音の正体を目撃することになる。
「ど、どうして……葵衣が、嘘よ嘘よ嘘よ嘘よ嘘よ…」
利口だった女性の方が声を漏らす。現実に受け止められず、嗚咽を吐きながら膝をつく。そう、振り向いた先は扉の下敷きになって潰れていた女性のはず。なのに、そこに立っていたのは彼女達の親友であろう姿をした『Z』だった。
バキバキ、と音を立てるのは骨を無理矢理に動かしたからだろう。その造形が恐怖を象徴として、一つ一つの動きが感情を駆り立てる。
空気感染という事例は今まで聞いたことがない。となると、考えられるのは彼女は既に噛まれていたことになる。ゆい達の知らないどこかで。
南奈が助けに向かおうとするが、注意する音はもう一つ。調理台に倒れ込んだ『Z』が起き上がり、狙いを定めていたのだ。一体から二体へと、地獄のような光景が左右に広がる。
南奈の方の『Z』は南奈を標的に、ゆい達の方の『Z』は ゆい達を標的に。南奈の方は一対一でも戦えるスキルは持っているが、ゆい達には戦えるスキルなんてものはない。
ましてや、彼女達から目を離すと更に状況を悪化させる要因になる以上は連れて行くしかない。
しかし、その考えを持っていたとしても二乗された恐怖から足が竦み、パニック状態へまっしぐらだった。
息苦しさから襲う呼吸困難、目眩による平衡感覚の異常、身体の震えなどがまとめて症状として起きる。これほどにも人間というものは弱いのだと実感させられる。
(ど、どうしよう…どうしよう!?私達じゃ、どうすることも出来ないの…)
死を悟ること以外、思考を働かせてくれなかった。思い出も、何もかも奪われてしまう恐怖が苦しめる。『Z』は互いの意識とは関係なく自らの歩調に合わせて迫ってくる。逃げ場所はあるはずなのに、体が動かない不自由さ。
「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!!」
『Z』はそんな彼女の心境にお構いなしに突っ込んでくる。口を大きく開かけて、大量の涎を垂らしながら床に散らばった調理器具や皿を蹴り飛ばしていく。調理台が目の前に立ちはだかろうと、這いつくばってでも真っ直ぐ襲いかかる。
(あ…死ぬ……)
諦めかけた、その直後。
ゆい達側の窓を突き破り、黒い影が乱入してくる。
瞬きさえも忘れさせる驚愕な光景が目の前に広がる。黒い影が現れた途端、ゆい達の前にいたはずの『Z』か出入り口の方へ吹き飛び、隣の調理台の物を撒き散らしながら転がり落ちる。
唖然と床に転がる『Z』を目で追うも、すぐに調理台の上に佇む黒い存在に移した。影と思っていた物は黒を基調としたカラーリングだったための錯覚だったのだと確信する。
しかし、それは一瞬の思考。その黒服に心当たりがある南奈と舞花は警戒色を浮かばせ、舞花は急いで前に立つ ゆい の体を引いて懐に避難させる。
「オアァァァアアアアアアアッ!!!」
もう一体の『Z』が黒服を纏った男性に目掛けて襲いかかる。窓を割った音や男性が誘導するかのように立てた調理器具の音に反応を示したのだ。敢えて音を立てた行為には疑問を抱いたが、『Z』が思わぬ奇襲を仕掛けたことに塗り替えられる。
確かに『Z』と男性の間には調理台といった障害物は存在する。『Z』からしても目が見えずらい中で識別するのは難しいはず。調理台を乗り越えるまでは驚かなかったが、まさか踏み台にして跳躍するとは思いもしなかった。
それで他の障害物も飛び越えて一気に距離を縮めて来られては、いくらなんでも反応なんて出来やしない。反射的に声を上げりそうになるも、黒服には焦りの一つも表情として浮かんでいなかった。
まるで、読んでいたかのように『Z』の行動に合わせて男性も次なる行動を実行する。
たった、ひと蹴りだった。それだけで『Z』の体は横に飛び、壁に激突する。衝撃の強さは壁の罅と鈍い打撃音で放った一撃がいかに力があるか証明している。
「ガガガガガググゥッ!!」
危機が去っても、また危機は訪れる。
奇妙な声を発するのは最初に蹴飛ばされた『Z』。同じ手順で男性は誘うように足元に置かれた調理具を床に落とし、刃渡り十センチのブーツナイフを取り出して睨み付ける。
鼓膜を襲う金属音を響かせながら、狂気に満ちた叫び声と共に『Z』は躊躇いもなく真正面から突っ込んできた。知能を持たずとも不死身というチートを備えられていたら、向かってくるだけでも怖じ気付いてしまう。
でも、男性は違う。怖じ気付いて後退りもせず、『Z』に向かって走り出す。調理台から調理台へ跳び、『Z』と重なろうとする瞬間。同じ目線になる体勢に変えると男性は調理台を滑るように移動し、ナイフで首を斬り付ける。
深い傷口から血飛沫をあげ、一瞬で死体となった『Z』はその勢いのまま膝から崩れ落ちそうになる。男性はその死体が ゆい達の方に行かないように、腕を掴んで自分の体が持っていかれるのを防止するため、シンクに片足を引っ掛けてその場に留める。
かつて、生死が分かれる中で『Z』を倒しつつ、周囲にも気を配れる余裕のある人物はいただろうか。
ありえない、と ゆい の中で完結させる。
自分のことで手一杯なはずなのに、ゆい達のような他人に対して保護対象と見れるわけがない。
そんな人物は今までいなかった。いるという妄想に取り憑かれ、何度それで自分の命を脅かされたことか。
改めて、ゆい は男性を見る。横顔だけでは分からなかったものが、顔がはっきりと視認出来たことで、年齢層などの情報を考えることが出来る。視覚からの情報の中で一際、ゆい の興味を誘ったのは引き込まれるような紅い瞳だった。
それを見た瞬間、ゆい の中の何かに亀裂が走ったのを感じた。