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絶望世界  作者: 春夏秋冬
第1章 『避難都市脱出』
3/14

第2話 『恐怖の誘い』

 異変は突如として襲う。


 陽気な音楽から割り込むように警報が学校中に響き渡り、楽しげな会話はその気力を失って空気が一転する。誰もが息を呑み、誰もが動けずにいた。


 次第にざわめく生徒達からは不安と恐怖が剥き出す。


「何、一体…!」


 ──────いや。


「まさか……っ!」


 ──────止まって。


「逃げなくちゃ…」


 ──────やだやだやだやだやだやだやだ。


 生徒達は顔を見合せ、不安と恐怖を分かち合おうとする。断言するには早い段階ではあるが、この壁の中で警報が鳴り響くことは緊急性のある重要な事が起きたということだ。


 身の毛が逆立つような嫌な音に耳を塞ぐ者や、恐怖のあまり逃げ出す者まで現れるようになった。

 そんな混乱渦巻く中で三人は身を寄せ合い、不安と恐怖から少しでも柔らかくしようとする。それくらいしか今の彼女達ができる精一杯の抗いだった。


 あれほど陽気だった ゆい ですらも、南奈(なな)舞花(まいか)の腕にしがみついて蘇る記憶におかしくなりそうになっていた。震える体から伝わる彼女の変化に心配する二人は、何度も体を擦って安心を得させようとする。


「大丈夫、大丈夫だからな…ゆい」


「私達がついていますからね」


「……うん」


 顔色が優れることはなく、気持ち悪い汗が噴き出していた。


 数十秒後、ようやく警報の音は小さくなり、スピーカーから聞こえる慌てふためく教員の声に少しの安心を得た。『Z』の出現が確認されれば、校内放送ではなく、都市放送で危険を知らせが入る。もう一つは、携帯に送られる避難指示の案内が今だに来ないということ。


『全校生徒にお知らせします!たった今、前館の普通教育棟に不審者を発見しました。現在、警備員が捜索をしていますが、見つかったという情報は入っていません。生徒の皆さんは教員の指示に従い、第一から第六避難所に避難してください!』


 この学園に侵入する不審者は頭がおかしいのかもしれない。今の教育機関は未来の人材を貴重なものとしている。それが、失われたり、悪影響を及ぼされないように最上級の防犯システムが使用されている。


 高性能監視カメラで顔を記憶することで、その人が在学生か不審者を区別できるようになっている。業者関係者も特定の人物しか入らないようになっている。


 それ以外の人物は『不審者』扱いとなるのだ。


 監視カメラで逐一警備員に位置が特定されるとなると、不審者もたまったものじゃないはず。捕まるのも時間の問題だろう。


『もう一度言います、たった今───(ダァン!)』


 その時、遠くの方で扉が強引に開かれた音がスピーカーから聞こえてきた。教員の声が途絶えたと思いきや、何やら揉め合いが起きていることが伝わる。


『ちょっと貴方──いや、格好からして貴方が不審者のようね!』


『そんな事はどうでもいいんです!早くその警報を止めて、生徒を呼び止めて学校外へ逃げるんだ!ここは危険のど真ん中に…ッ!!やめんるだ。今は争っている場合じゃ!』


 男性の声が少し途切れたのは、恐らく警備員が対象の無力化させるための攻撃を行われたのだろう。状況を知るには音声のみとはいえ、男性は攻撃を掻い潜って声を張り上げていた。


 印象に残るような男性の声に焦りの色を感じ取った ゆい 。食堂から出て行き、近くにいた教員と合流してもそれが気掛かりのまま、スピーカーから聞こえる声に耳を傾けて避難所へ向かう。


『そんなこと出来るわけないでしょ!私達、教員は生徒を守らないといけないの!だから、貴方をここで捕まえないと!』


 教師の使命は生徒に勉強を教えるだけではなく、生徒を預かっていることへの責任を常に意識しなければいけない。この女性は本当に教師像の鏡のような存在なのだろう。


『その正義感はありがたい…だが、状況が状況です。すみませんが先生方の出る幕じゃありません』


 男性は目の前にいるであろう女性の意志に賞賛の意を込めてるも、決して首を縦に振らない。


『何を言っているの…?一体。貴方は何が目的?』


『………』


『答えなさい!』


 三人はそんなやり取りを聞きながら教員の誘導に従って、校舎を歩いていた。避難所があるのはこの敷地の端にある頑丈な造りで施された巨大体育館。六つある内、ゆい達から最も近くても第一避難所。現在位置の理数教育棟の食堂寄りで距離で表すなら直進でも一キロ以上と長距離なもの。


 流石に生徒にそこまでの負担はかけまいと、ここから校舎を抜けて約百メートル進めば緊急時に巡回するバスの停留所が設置されている。とりあえず、そこまでは徒歩という形で移動をしているのだ。


 そのため校舎の中に入ると、生徒と合流して一階は大渋滞の予測がされていた。


 混雑する中で ゆい は改めて男性の言動について思い出していた。不審者にしては目的がはっきりしていないことを踏まえ、何かに危機感を覚えているような発言に首を傾げる。


 そのなかで最も印象深かったのは「状況が状況だ」という言葉。今、自分が起こしている状況を指しているようには思えず、別の意味を持っているのではと考える。


 なら、その状況は今よりももっと悪いのだろうか。


「ったく、さっちゃんにも言ったけど緊急事態になるとバスの巡回が変わるのは本当によく分からん。なんで食堂にいたあたし達がわざわざ真逆に行かないといけないんだ」


 警報の正体が不審者によるものと分かると、強張った南奈の緊張感もだいぶ解けていた。


「大勢が移動すれば、先生達の目も届きにくくなると思います。確かに個人でバラバラに動かれるよりかは団体で行動された方が人の流れが他の人達も動かしてくれるでしょう。そうすれば、より多くの人に声を届けることも出来ますので」


「結局、何も変わらないってことか。ここにいる人達に教訓というものはない。こんなの、誰か一人でも転べば、大混乱だ」


 足元が見えないだけでなく、歩幅も狭くなってしまう。ただでさえ、人の密集で体勢が思うように取れない状態では転ぶ率も上がる。そのような危険性さえも見えていない。


 こういうストレスが人の心理に影響を及ぼして異常者と化し、判断能力が麻痺してしまう。痴漢や窃盗という犯罪に手を出す者だって、実際じゃ殆んどかもしれない。


「ゆい、汗を拭かせて。それじゃ気持ち悪いでしよ?あと…胸の方をパタパタしてくれるとた、助かります…」


 ハンカチを手にした舞花は ゆい の額や首に浮かぶ汗を拭き取ってくれたが、彼女の言葉と赤面する顔に視線を胸に向ける。


「ひゃあっ!?…焦ったぁ、全然気付かなかったの」


 汗でカッターシャツが透けて、今日のラッキーからーであるピンク色の下着がエロさを放ちながら晒されていた。急いで胸を隠しても数分くらいの間に色々な人に見られていたと思うと顔が赤くなる ゆい に、南奈はある一方向を見ながら。


「ゆい は意外にも隠れ巨乳だからなぁ。周りの男子の視線が本当に嫌らしかったなぁ?」


 横を並走する二人組の男子生徒に威嚇する南奈。男性が少ないとはいえ、犯罪が少なくなったわけではない。壁ができた当初は混乱もあってか、犯罪数が前年の数倍以上も跳ね上がったこともあった。今では監視カメラなどの防犯装置が避難都市内に何千個もあり、犯罪は少なくなりつつあるが、性犯罪に関してはずっと一定の水位を保っているのが現状。


 女性が男性に向ける認識はどの人も好意的とは限らない。南奈は紛れもなく、敵意を向けていた。


「南奈、睨みつけないでください」


 南奈の威嚇に慌てる男子生徒を前に舞花は止めに入るも、彼女もまたあまり良い表情とは言えない。ゆい と彼等の間を妨げるように体で隠して、最後に睨み付けて敵意を見せる。


 男性達も何か言いたそうな顔をしていたが、人の流れが更に壁を作って徐々に遠退いていった。


 離れることを見届けると改めて、舞花は ゆい の胸元に風を送ってあげる。


「でも、良かったです。あれから、ゆい の顔色が良くなかったので心配していました」


 警報が鳴った直後に過呼吸とはまでいかないが、気持ち悪さで呼吸がしづらくなってしまった ゆい。制服の下にはカッターシャツを着込んでおり、呼吸をスムーズにする為に制服の胸元のボタンを外してカッターシャツを露出させていたのだ。


「そんなに悪そうに見えたの?」


 警報が鳴ってから鏡や窓で自分の顔を見ておらず、舞花の指摘に自分の姿が映る窓を覗き込む。そこには、引き攣った表情をした自分自身の顔が映り込み、頬や口、眉間に手を当てながら強張りを確かめる。


「顔面蒼白だったぞ?」


「そっか…」


 南奈の言葉を疑いたくなるくらいに、今の形相ぎょうそうにその面影はない。もっと近付いてまじまじと、窓ガラスに映る自分の顔を見ようとするも、人の流れがニ、三階の合流時点に差し掛かると更に流れは速くなる。


「きゃっ」


 おちおち、自分の顔をじっくり見ている暇さえなかった。諦めた ゆい は前後からの圧迫感を味わいながら、二人と身を寄せ合ってお互いの体を支えるように移動する。誰かが倒れそうになろうとも誰かが助けられるようにと。


『─────────ッ!!』


 依然として校内放送から聞こえる音が止まない。不審者との会話はなく、不審者を捕まえる為に教師や警備員の奮闘する声や音が響き渡っていた。


 しかし、疑問もあった。大抵の不審者はナイフといった武器で捕まらないように、威嚇して暴れるイメージが強い。なのに、この不審者は怒号を上げたりせずに冷静に対処をしているような気がした。


 数で押さえ付けられるはずの教師や警備員も、数分が経過しても不審者を捕まえる気配はない。むしろ、その数を持っても捕まらず、逃げる選択肢も取らない不審者を凄いと思ってしまう。



『くそ…こんなことしている場合じゃ…ッ!?窓から離れるんだ!!』



 突然、男性の必死の声が鼓膜を突く。


「──ッ!?」


 直後、放送の音と被るように重い金属の衝撃音が一度鳴り響く。廊下を進んでいた生徒や教員は一斉に身を縮めた。理解に追い付けない者は数秒後、ゆい達は一瞬でその音の正体に行き着いていた。


 避難して来た者なら聞きたくないほど耳に焼き付かれ、不快さを味わわせるもの。


「銃、声だ…銃声だ!逃げなくちゃ、逃げなくちゃっ!!」


 誰かがそう叫んで逃げ出すのが目に入った。そこからは人間の集団心理が働く。この世で多くの人を殺した殺傷武器という認識は時には理性さえも奪いかねない。


 その騒乱が再現される。


 腹の底から喉元まで一気に突き上げる絶叫が拡散する。それを切っ掛けに群衆の流れが一気に速くなり、恐れていた事態が起きた。


 ゆい達は手を握り締め、出来る限り離れないように身を寄せ合う。それでも襲ってくる圧力には対応が難しく、止まるわけにもいかずに必死に耐えなければならない。


 ある者はそれによって倒れ圧死し、ある者は教室へ避難し、ある者は耐え難い苦痛を逃れる為に窓から抜け出して中庭から目的地まで向かうなどと必死になる。



 すると、続けて鳴り響く三発の銃声。

 更にパニックの悪化へと導く。生徒を落ち着かせようと声を張る教師の努力も虚しく、流れは加速していく。



 最早、誰の声も届かないだろう。群衆が感染した恐怖に勝るものなんてない。


 騒がしくなったことで放送の声が聞こえなくなった。教師の方も心配だが、問題は男性だ。四度にわたる銃声は男性によるものなら、確実に被害を受けているのは職員室にいる教師や警備員。威嚇射撃あるいは殺傷するための発泡かの判断が、唯一情報を知らせる音声に被るように人の悲鳴にかっ消されて真相は闇の中だ。


 だが、ゆい には引っかかるものがあった。誰がどう聞いたって男性は危険を知らせていたことを ゆい は心に留めていたからだ。


(やっぱり、今起きてる何かを打破しようと…)




「きゃああぁぁあああああああああああッ───!!」




 今までとは明らかに異なる悲鳴が前方で上がる。その直後から人の進路が逆へ転回しだし、慌て具合からも先程の比ではないくらい悲鳴が乱れ飛ぶ。まるで、職員室で起きていることが目の前で起きているかのように。


 ゆい達には何が起きているのかの把握はできず、ただ逆らわずその流れに沿った。流れの逆へ進んだとて前に行ける保証もないし、何より人間ドミノが起きる可能性を考慮しての判断だった。


「痛っ…!くそ、こうも状況が把握できない、とどうしたらいいか分からないな!」


「か、可能性としたら男性がこの階、に現れたのでしょうか?そのくら、いしかありません!」


「だろう、な!」


 身を寄せ合っているとはいえ、群衆の悲鳴の前では声を張り上げても聞こえづらい。それに加えての人と人に挟まれている状態では声も出しづらい。


 南奈と舞花は言葉を詰まらせた会話の中で、舞花の推測に同意の意志を見せる南奈。確かに最も疑わしいのは男性だが、それを聞いていた ゆい はあまり納得して出来ないような表情をしていた。


「うぐっ…」


 体に加わる圧力に押し潰されそうになり、苦痛の声が漏れる ゆい 。短時間でこれほど体に負担がかかるのであれば、それが長時間続くと思うとゾッとする。


「南奈ちゃ、ん…」


 袖に捕まる手が強くなる。命の危機を感じている ゆい に南奈は周囲を確認する。


「あぁ、分かってる。このままじゃドミノ倒しで圧死は免れない。どうにか抜けないと……階段か。ゆい、舞花!ここは一度、二階に避難しよう!」


 丁度、彼女達がいたのは二階へと続く階段の近くだった。殆どの生徒が一階に集まっているのか、二階から一階へ降りる生徒はまばらなだった。人の少なさで選ぶなら、確実に今よりも格段に動きやすくなるの間違いない。


 二人は南奈が指す階段を確認して軽く頷き、お互いに抱き着きながら移動を開始する。


 避難民としての生きる知恵が発揮され、人波を横から掻き分ける。しかし、そう易々とはいかなかった。横から襲う何百人の力がその進路に立ち塞がる。

 南奈が二人を守る形で押し寄せる波を背中で受け、持っていかれそうになる体を必死になって耐え凌ぐ。


 散々と殴られたような痛みを伴いながらも、なんとか階段まで移動することができた三人。服装は乱れ、上履きに関しては色々な人の足跡が残ってその凄まじさを語る。


 束縛から解放された分、捻ったり、伸ばしたりと体の調子を確かめる。痛めた箇所によって歩けないわけでもなく、力を入れすぎて足裏が少し気になる程度だ。


「今は状況を把握するのは後回しだ。とにかく違うルートから避難所に向かった方が良さそうだ」


 現在いる理数教育棟がこの騒ぎなら、どこも同じような状態かもしれないが一つだけ確証できることがある。


 理数教育棟と普通教育棟では生徒の人口比が七対三と、明らかに理数教育棟の生徒が多いのだ。最近ではいい大学から就職して避難都市の利益になることをすると、国から重要人物として優遇される制度がある。ほんの一握りとはいえ、少しでも近付く為に毎年多くの人が理数科に入っている。


 ここよりも比較的行動できるであろう普通教育棟へ向かう方針を立てる。


「ということは二階の渡り廊下で移動するってことだね。そうと決まればすぐ行かない……と──っ!」


 二階へ続く階段を上る南奈の後ろを二人が追いかけようとした時だ。涙を流しながら恐怖に染まった顔をした一人の生徒が下ってきた途端、三人の体が反応する。


 その原因は鼻孔を刺激する鉄の臭いだった。


 思わず口元と鼻を手で覆い、反射的にそれを拒む。込み上げてくるたった一つの感情に酔いそうになるほど、彼女達にとって本当に嫌な臭いだったのだ。




 ───ドクン。




 次々と流れるように上から下へと何かに逃げる生徒達には、どの人も最初に下りてきた生徒と同じ表情にさらに感情が深部へ染み込む。

 次々と駆け降りる生徒の中には足が覚束ない者や階段から転げ落ちる者まで現れる。それが多くなるに連れて、次第に匂いだけでなく、制服に血が付着した生徒を目の当たりするようになって血の気が引いていく。




 ───ドクンドクンドクン。




「やだやだやだぁああッ!たずげでぇ、誰が…ぁああががぁばふぁッ!!」


 聞こえてくる悲鳴の質が変わっていく。その声に似たのがいくつも聞こえる度に彼女達の全身は震える。階段を降りていった人達が踏んだ床には靴底の跡がくっきりと血色に染まっていた。


 一階にいた時には気にならなかったのは、単に一階に充満する香水などの影響からかもしれない。そこから脱出した途端、本来の臭いが鼻を突いてきたということだろう。


 それでも好奇心から足は止まらなかった。


 見たら後悔する。頭の中ではそう理解しているはずなのに制御できない。


 息が荒れ、汗が噴き出し、心臓の鼓動が激しくなっていくのは自業自得だ。制御の効かない心の働きに嫌気が差しながらも、恐る恐る音のする進行方向の廊下を覗いてみる。




 ───ドクンドクンドクンドクンドクンドクン。




「……あ」


 自然に漏れた声、ゆい達はようやく全てを認識してしまった。


 廊下を埋め尽くすのは飛び散った赤黒い血と夥しい量の死体の残骸。それを踏み躙り、群がる恐怖の形そのものである奴らの姿を目撃したのだ。


 こんな場所にいるはずがない。存在をしてはならない。存在するだけで人を不幸にする。


 絶望させる。


「『Z』…」


 ゆい はその者の名前を口にする。どういう経路で感染が蔓延したのか、悠長に考える前に視線が下へ向く。


 奴らが群がっているのは、まだ抵抗を続ける少女の動く音に寄ってきていたのだ。足をやられたことで、少女はほふく前進という移動手段で死に物狂いで『Z』から離れようとしていた。

 しかし、床が血塗れなことと荒い呼吸音に『Z』は位置の特定まではしていないが、彼女との距離は着実に縮まっていっているのは分かる。


 確認できるだけでも数十体。そんな絶望的な状況に助ける意志が湧かなかった。


「……すけて」


 ゆい達の存在に気付いた少女は声を出来る限り殺して、助けを求めてくる。が、その必死の懇願に答えられなかった。


 圧倒され、恐怖に怖じ気づき、ゆい達は見ている事しか出来なかったからだ。


「やだ、よ…。お願、いだから……助けて、死にたくない死にたくない死にたくない!!」


 反応が返ってこないことに少女の瞳から絶望の色をした涙が溢れ出す。顔は歪ませ、我慢していた声も次第に声量が増し、訴え始める。


 それでも、ゆい達の足は動かない。彼女からは全て見えている。『Z』がその声にどう動くかを。


「…どうして、どうして助けてくれがばぁあぐぅあああああッ!!」


 完全に位置を把握された少女は伸ばした手から噛み付かれ、その悲鳴に次々と他の『Z』に貪られる。血飛沫と共に少女の体の一部が転がっていく。


 内臓に右足などと酷い惨状が目の前で起き、頭痛や吐き気が襲ってくる。


 あの時、少女には怒りが見えた。どうして助けてくれないのか。貴方達も死ねばいいのに。と訴えているような瞳に ゆい は心を痛める。


 しかし、そんな感情に浸っていられるのも一瞬。


「…あ、あぁ……」


 動かなくなった少女から離れる『Z』はゆっくりとこちらに近付いてくる。『Z』になる前の顔つきはどんな風だったのか、もはや想像できないほど原形をとどめていなかった。

 肌は抉れ、不自然に折れ曲がった腕、女性の命である髪ですらも血色に染め上げ、不気味さを覚える。


 それがたった一体だけで精神を焼き付けるような感覚に陥るのであれば、この数を前にしたらもう狂ってしまいそうだ。


「(ゆい、舞花。姿勢を低くして静かに移動するぞ。あの様子だとまだあたし達の存在に気付いていないはずだ。出来る限り奴らから離れるぞ)」


 恐怖に固まる ゆい と舞花にいち早く動いた南奈が小声で的確な指示を出す。その声が救いとなり、直立不動のくびきから解き放たれた二人は、彼女の指示に従って姿勢を低くする。


 指示のもと、三人は背後を常に警戒しながら少しずつ距離を離していく。音を立てれば一巻の終わり、緊張が走ると同時に胃が苦痛をあげる。喉元が胃酸に焼かれる感覚が非常に気持ちが悪かった。


 楽になろうと思えばいくらでも吐き出せた。けれど、ここで自分の弱さを見せては駄目だと思って必死に堪え、ゆい は南奈の背中を追う。


 とにかく『Z』がいる棟から離れるために二階の渡り廊下を経由して普通教育棟に移り、避難所に向かうこと。彼女達の方針は何一つ変わらない。


「(普通教育棟に行けば、三階に調理室があるからそこで包丁を入手した方が良さそうだ。この先…何が起こるか分からないが、武器を持っているだけでも対処の幅は広がると思うし)」


 ある程度の距離を確保できると、三人は中腰の状態から腰を上げて走り出す。『Z』の侵入経路に確証ないが、バスの停留所の方角なら食堂寄りは少ないはず。教育理数棟は人数が多い分、行動を移そうにも思うように動けないだろう。


 その一方、教育普通棟の人数は少ない。動けるスペースがあれば、心のどこかに余裕が持てた人は室内よりも屋外へ逃れる為に動くはず。


 時間の猶予があるなら、武器の一つや二つは確保しておきたいのが南奈の考え。多少のリスクを背負うことになるが、状況次第でまた作戦を変えればいい。南奈にはそこまでの余裕が感じられる。


 すると。


「おい、嘘だろ!?なんでこんな所に『Z』がいるんだよ!」


「ヤバい、洒落にならいよ!」


 ゆい 達と同じ考えを持った男女達が『Z』と遭遇する瞬間が耳へと届く。何人かなんて後ろを振り向いてまで確認したくなかった。男女達が見る先には複数の『Z』が待ち構えている。あれほど大きな声を出せば、どうなるかくらい目に見えている。



「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッ!!」



「いやああああああああああ!!」


『Z』の咆哮、女性の悲鳴が響く。背後で何が起きているのかは知りたくもなく、耳を塞ぎながら完全に情報を遮断する。


「うあああああああ!」


 男性の悲鳴が徐々に近付き、南奈が振り向くと女性を含む複数の男女とすれ違う。この事態の恐ろしさに鳥肌の立つ三人は窓際まで寄る選択を取り、逃げたい気持ちを抑えながらじっと耐える。


 周囲からの視線は馬鹿げている行為と思われても、『Z』を前に叫びながら動く方が馬鹿げている。格好の獲物、自ら場所を教えているようなものだ。


 しかし、事態の大きさを分かっていなかったのはお互い様だった。


 先頭を行く男性の横。教室の窓から突然、窓ガラスを突き破る『Z』によって中へ引き摺り込まれたのだ。苦痛な悲鳴に似合う肉が引き千切れる音、骨が砕ける音は精神を蝕んでいく。


 それで終わるなら、複数の男女も襲われた人を無視して逃げる一択を取れただろう。


 本当にそれで終わるならば。


「「「アア゛アア゛アア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッ!!!!」」」


 それを皮切りにその窓から複数の『Z』が這い出てくる。感染場所の特定は出来ていなかったが、おおよその方向から来たという予想はしていたつもりだった。


 しかし、状況はもっと最悪なものかもしれない。


 挟み込まれた残った男女と ゆい達。主に男女達は悩乱し、狼狽し、恐慌をきたす。武器を持つ意志を見せる人は最低一人は出てくるも、実際に使える武器を選択できるかはその人次第。

 結局、消火器という一体の『Z』には有効な武器でも、複数の相手にはあまりにも不向きなもの。


「あぁ…ああああああああばばがぁあっ!」


「いやぁあ゛あ゛がががぁあああっ!!」


「やめっ、やめべぇがあばばがああっ!」


『Z』を甘く見た者、恐怖に叫びを上げる者、窓から逃げ出そうとした者。皆、最後は悲鳴とともに『Z』に召し上がれてしまった。


 目の前で起きた惨状。先程、襲われた女性の時より惨たらしさは目立つのに、不思議と意識をしっかり保ち、判断能力もマシな方にも思える。


 あの光景が三人の記憶から感覚というものが目覚めるトリガーとなったのかもしれない。もしくは、あまりの恐怖に感情が麻痺を起こした可能性も低くはないだろうが。


 南奈の指示が出る。『進む』のジェスチャーに反対の意志を伝える者はいない。この場にいても状況が好転するはずもなく、自分達から行動を移さなければ危険は上がるばかり。

 真横には肉に貪る『Z』。これでも十分すぎる危険さだが、ゆい達には躊躇いが一切なく、音を立てずになんとか集団と離れることに成功する。


『Z』の特性を理解しているからこそ、このような行動ができるのだ。


 ゆい は一瞬、視線を割られた窓に向けて教室内の様子を見る。廊下と教室を隔てる窓は、中からも外からも人のシルエットしか分からない特集加工されたもの。だから、唯一割られた窓からしか中の状態を確かめられない。


 しかし、自分の好奇心を呪いたくなった。見えないものまで見えしまうのは仕方がない。ただ、見えてしまったものが、あまりにも残酷なものだったからだ。


「───っ!」


 真っ赤。徘徊する『Z』も、悪戯で誰と誰かも分からない相合傘が描かれた黒板も、授業で使う教科書類が置かれた机も、天井も、床も、窓もすべて。


 ここで何が起きたのかを想像をしたくない。想像なんてできっこない。見なかったことにしようと変に感性を刺激しないようする。

 ゆい は胃から喉へ込みあがる吐き気に参りそうになりながら後を追う。


 ようやく、食堂側に最も近い渡り廊下を渡ろうとした時だ。



 ドゴァッッッッ!!と今度は、耳を引き裂くような轟音と振動に南奈以外の二人の体がバランスを崩して床へ転がってしまう。南奈はすぐさま二人を起こすと、傷の具合を確かめる暇もなく、爆発音があった場所に視線を向ける。



 理数教育棟の五階のとある教室で黒煙をたなびかせ、熱気によって陽炎と同じような現象を起こしていた。窓枠はその衝撃から歪み、ガラスは飛散し、ベランダのコンクリートは砕け、その爆発力を物語る。


 爆発の検討なんてつかなかった。まず、教室にそんな爆発を引き起こすものがあっては色々と問題だ。生徒に危険が及ぶことだって考えられ、持ち込みは禁止されていたはず。



 ───なら、あの爆発は一体の何なのか。



「一体…この学校で何が起きてるの」


 ゆい が漏らした言葉には困惑が隠しきれず、三人は呆然と見つめていた。

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