表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
絶望世界  作者: 春夏秋冬
第1章 『避難都市脱出』
15/15

第14話 『傷』

 時刻は五時をまわる。

 辺りはまだ明るさはあるも、木々が日光を遮断されて少し暗さがあった。


 学園を脱出してから一時間が経過し、上り坂は段々と下りになっていく。山路を走るバスはライトで前を照らしながら、舗装もままならない悪路を走らせる。


 時折、大きな窪みで大きく車両が揺れるのも、今となっては気にならなくなった。


「……」


 会話ひとつない静かな空間。後ろに目をやると、生き残った者が車両の前方に集まって身を寄せ合っている。座席に座ったり、床に座ったりと自分が落ち着けるように。


 後方で繰り広げられた惨状に背を向けていた。


 そんな中で運転席に座る沙月さつきと隣にいる ゆい は、広いフロントガラスで周囲の『Z』を警戒する。


 山に入ってから『Z』の姿はない。これだけ気配がないのは不気味でもあるが、やはり街と違って音の少ない山にわざわざ来る個体はいないのだろう。


 仮に来るとしたら、少女のような個体が一番可能性がある。


「……」


 ほんの数時間前までの日常は今はもうない。日常は悲劇に変わり果て、あの学園で繰り広げた脱出劇はまさに壮絶極まりなかった。多くの人が死んでいき、自分もその一人になる瞬間も何度もあった。


 本当にあれだけの襲撃を受けて、生きていることが奇跡だ。その多くの奇跡に結び付けたのは彼の存在が大きい。


「神室さん…大人しくしてください」


 再び、後ろの方を見る。

 前の方に寄っている団体より奥の方に、左右と後ろの窓から『Z』の奇襲を警戒している雲雀(ひばり)と、その横で休まない彼に注意をする舞花(まいか)、それを座席に座って不機嫌に眺める南奈ななの姿。


 そのすぐ近くにはゆかりお嬢様の肌に付着した血などはタオルで拭き取るメイドのしずくの姿もある。彼女も黒いメイド服は汚れは目立たないものの、確かに血や泥で色が変わっている。

 それでもメイドとしてお嬢様を第一に考える上では、彼女は本当に立派なものだ。


 運転席に最も近いところには友達を失った悲しみで、身を投げ出そうとした絹代きぬよが座っていた。彼女は未だに俯いたままで顔色さえも分からない。


 その斜めには旧資料室で舞花と一緒にいたギャル。こちらも友達を失った悲しみというか、この状況にまだ混乱しているせいか、頭を抱えて何かを呟いていた。


 それぞれがあらゆるダメージを負った一行は、ゆい達の家へ向かっている最中だった。


「ゆい も休んでていいのよ?」


「ううん、大丈夫だよ。手当てもしたし、私も何かできる事は極力やらないとさっちゃんに負担をかけちゃうの。それに目は多い方が索敵も隅々まで出来るしね」


「分かったわ…。でも少しでも体調が悪くなったら、無理せずに休むのよ?私より ゆい の方が怪我としては重傷なんだから」


 指の骨折、左腕の銃痕、鼻血や素肌の怪我、打撲といった重傷を負っている。沙月が言うように休む事に徹した方がいいが、逼迫した状況がまだ続く限り休んではいられない。


「そろそろ山を出るわ。みんな、引き締めて行くわよ」


 長い山路も終わり、木々の隙間から建物が見え始める。都心部から離れ、元々住んでいた県民の建物がそのまま残っている町。高層ビルが隣接しているどころが、五階建てのマンションが点々と建ち並ぶくらいの開放感。

 都心部のような窮屈感もなく、自然もかなりあって、住む環境としては心地が良い所だ。


「ッ!!??」


 そんな町が黒煙を棚引かせて、爆発音や悲鳴などといった音が木霊していた。数時間前まで何事もなかった光景は変わり果て、本当にもう安全な場所はないのだと嫌でも現実を叩き付けてくる。


 あまりの衝撃さからバスを停車する沙月。


「分かっていたさ…校門から出る時にも絶えず『Z』が外から侵入していたし。でも、近場だから…ここはまだ少しはマシかなって思ったけど…。が、学園と何一つ変わらなかった。こんなの…酷すぎるわ」


「さっちゃん…」


 生まれ育った町の無残な光景を前に沙月は涙を流していた。ずっと住んでいただけあって思い出もたくさん詰まっていたに違いない。それが黒煙と一緒に灰になっていくような、ゆい にはそう見えていた。


 自分自身も十年と月日の中で、この町に思い出がないわけではない。悲しさは勿論あったが、涙は流れなかった。育った町を失った悲しみは既に十年前にも体験しており、その当時は幼さもあってか、不安と恐怖で泣き止まなかったこともうっすら覚えている。


 けれど、故郷がなくなることは幼いからとか関係ない。悲しいものはやはり悲しいのだ。


 それでも──。


「それでも、立ち止まっちゃ駄目なの。私達は生きている。生きている限り、現実を受け止めなくちゃいけない。でも、一人じゃ全部を抱えることなんて出来ないの…」


 窓に映る沙月の顔を見つめ、そして向き合って手を掴む。


「だからね…さっちゃん、私達がいるの。さっちゃんの怖いも悲しみも、全部を私達に分けて…それで生きて行こう。私達は家族なんだから助け合いながら、抗って生きるしかないの。これ、ちゃんと慰めになっている分からないし、言葉として自分でもちょっと分からない所もあるけどね…。でも、前を向かないといけないの」


 舞花が言ってくれた言葉を借りるもいつも慰められる側の ゆい は自身の言葉に不安が過ぎる。反応がなかなか返ってこない沙月に、もう少し言葉のチョイスを考えた方が良かったと考え込んでしまう。


「…ゆい、大丈夫よ。ちゃんと慰められているから、ありがとう」


「…うん」


 瞼に溜まった涙を拭き取りながら、沙月は不安になる ゆい に笑みを浮かべて彼女の言葉をしみじみと感じていた。


「かっこ悪い所をいつまでも見せられないわ。家までの距離をどう切り抜けるか考えないと…」


 山を降って直進で一キロもない先に自宅のマンションがあるのだが、その道中には『Z』が疎らに徘徊する。

 これをどうやって気付かれずに自宅まで向かうかだ。結論からするとバスに乗っている時点で隠密な移動は困難だろう。


 となるとバスを降りての移動となるが、怪我人もいる中では逆に徒歩は危険かもしれない。


「俺に考えがあります」


 現れる声に二人は後ろを振り向くと、よろよろとした雲雀が舞花に肩を仮ながら提案を持ちかけてくる。


 期待が大きかったのは、これまで彼の残した功績が期待値を上げていたからだ。


「やる事は単純なものです。俺があそこの駐輪場にあるバイクで『Z』を誘き寄せている間にバスで移動する。というのが作戦です。シンプルではありますが、多くの『Z』が移動するはずです」


 降りきった場所に駐輪場が設置され、自転車だけでなく、原付や中型バイクも停まっていた。避難都市になってから車の交通量も多くなったことで、長距離以外での交通手段でバイクや自転車といった二輪車が主流になっている。そのためか多くなった二輪車を町で管理するために駐輪場が設置された、ということ。


「そこで確認したいことがあるのですが…」


 雲雀が行動に移す前に、自宅の位置を確認し合う。『Z』を誘き寄せるとはいえ、自宅のマンションから遠ざけるためには音に寄らない程度まで離れないといけない。


 位置を確認した雲雀は割れた窓から外へ出ようとした時だ。


 不意にシャツの裾を掴まれ、振り向くと舞花がムスッとした顔で睨んでいた。怪我の手当てをした人からすると、何をしたんだと言いたくなるような行動にしか見えない。


 彼女が怒る理由も分かる。


「怪我を、しているのですよ?」


「それでも誰かが行かないと皆が危険に晒される。舞花が手当てをしてくれたおかげで、まだ動ける。頼む…無茶をさせてくれないか?」


「……」


 掴まれた裾に手を置いて、舞花が彼の目を見つめるように、雲雀も彼女の目を見つめる。言葉として不十分だったかと頭の中で言葉を探してると、それより先に吐息で話の流れを割ったのは舞花の方だった。


「行ってください。どうせ無茶です無理ですって言っても行くと思いますので…。そうやって全部…貴方が背負うのですね。本当に呆れました…でも、死なないでください」


「ありがとう、舞花」


 手が離れると雲雀はそう残し、バスから飛び降りて坂道を下っていく。その背中を目で追うことはなく、舞花は裾を掴んだ手を見つめて溜息を吐いた。


「あんな奴、放って置いても勝手に死ぬ。舞花がそこまであいつに執着する必要なんてないぞ」


 舞花の様子に声をかける南奈。座りながら身体だけを窓に貼り付け、遠さがる雲雀を見つめて。


「そうですけど、どうしてか気になってしまうのです。神室さんがどうして私達に肩入れするのか。彼にも目的があったはず、それを疎かにしてまで私達を守る理由なんて…」


 思い出される旧資料室での出来事。舞花を襲った男子生徒達から助けられた時に放たれた言葉。


『君が助けを求めている顔をしていたからだ。理由なんて関係ない』


「私って…そんなに助けを求めている顔をしていますか?」


「それは感じ方の問題じゃね?」


 雲雀はかなり心配性であることは行動からでも分かる。頬の切り傷、ナイフで斬られたとはいえ枝で引っ掻いたくらいの浅い傷にも彼は反応し、激昂した。単に助けを求めている顔をしているくらいで、あそこまで怒れるものなのだろうか。


 他人同士なら尚更。それでも彼が怒ってくれたのはどうしてなのか。答えは分からない。


 でも、どうしてか。彼女の顔は。


「…どうしてこんなに赤くなっているのかな」


「……」


 窓に映る自分の姿を前に少し身だしなみを整える舞花に、睨む南奈。


 すると、下の方から轟音が響き渡る。それが雲雀からの合図だと理解した一同に漂う空気が張り詰める。運転席に座る沙月はいつでも動かせるようにアクセルペダルに足を置く。

 彼が未だに空吹かしをしているのは周囲の『Z』を呼び寄せているからだろう。ギリギリまで待機して引き付ける。生半可な気持ちだけで務まるものじゃない。


 姿があまり見えなかった『Z』が思惑通りに蠢き始める。鬼哭啾啾たる気配を放ちながら、その数に圧倒される。


 雲雀が乗るバイクが動く。進路は自宅方面。住宅地とあって交差点がいくつもあり、なおかつ障害物となる大小様々な物も無造作に置かれている。直進の道でも障害物を避けなければならないこの状況と死角から襲う『Z』を避けなければならない。


 運転技術や動体視力が求められ、怪我をしている雲雀からしては転倒する可能性が高い。それでも加速の手は緩めずに、無駄に吹かしながら出来る限りの『Z』を誘う。


 その作戦は上手く起動に乗り、バイクを追いかける大量の『Z』がバスから遠ざかっていく。沙月はシフト操作をしながらアクセルを踏んで一気に坂道を降る。雲雀のおかげで自宅の門が見える位置まで『Z』は確認できず、警戒はしつつも運転の方に集中できる。


 ただ、図体が大きい分、ハンドル操作で当たらないようにしようにも道路に散らばる障害物を避けることはできなかったが。


「みんな、降りる準備をするわよ。門の前に縦列駐車するからマンションの玄関まで走って!」


 左のサイドミラーを破壊、左ボディーを大胆に削り、一つしかない入口を塞ぐように停車させる沙月。門と門の間へ丁度の位置に扉を持っていき、扉を手動に切り替えたのちに音に誘われる前にエンジンを切る。


 運転席から離れ、扉を人力で開けると中に『Z』がいないかを確認する。オーナーの趣味である花や植物が植えられ、その中で背の高い植物もあるせいか死角で全体を確認できない。

 念のために弓を構えて、後から続く ゆい達に待つようにジェスチャーすると、一人で庭園に踏み込む。


 腰を低くして植物の隙間から動く影がないかを確認していくと、壁側に微妙に前後に動いて蹲ったスーツ姿の女性がいた。顔が見えなかったことで警戒は怠らなかったが、反応を窺うために声をかける。


「あ、あの…大丈夫ですか?」


 反応はなく、沙月は矢を引く。


 そして、矢を摘む力を緩めようとした瞬間だ。先程まで蹲っていた女性が飛びかかり、なんとかバランスを崩しながらも間一髪のところで避ける沙月。


 だが、バランスを崩した際に踏み込んだ足を捻り、身体は大きく傾いて地面に倒れてしまった。


(痛ッ!ま、まずい視線が外れ…)


 飛びかかり、沙月の背後に移動した『Z』が四つん這いの状態でこちらに向かってくる。振り向いた時には既に距離は半分、矢を番える時間は充分あるも頭を狙うには激しく動かれては致命傷は与えられない。


 そう直感した沙月が狙ったのは腕。放たれた矢は確実に腕を貫き、『Z』の身体は大きく崩れる。転がる身体は彼女を巻き込むことなく、壁へ激突する。


 動きが鈍くなった所を最後にもう一本でとどめを刺す。


「これで全部かしら?!居たら、こっち来い!!」


 わざと声を張り上げ、他の個体の存在を確かめる。足を痛めて本当は『Z』と戦うには不利な状態であることは理解しているが、ゆい達を思うと弱音を吐いてはいられないと自分を鼓舞する。


 暫くしても反応がないと、弓を杖代わりにして立ち上がった沙月はバスの前まで移動する。ジャスチャーで安全だということを伝えると、それを確認した雫の指示で皆の移動が開始される。


 幸いに歩くのが困難な重傷者はいない。詩織を先頭に次々とマンションの玄関前まで走らせて、通り際に南奈と舞花に足を心配されたが「大丈夫よ」と一言だけ告げた。

 最後尾に ゆい と雫に紫の三人。沙月は通った人数を数えながら全員がいることを確認していると。


「っ!待って、まだ人が残ってるの」


 ゆい が突然、バスへ戻り出す。


「ゆい!!」


 誘き寄せ損ねた『Z』は一連の音を聞き逃さなかった。壁があるとはいえ、学園のような十メートルの高いものではなく、二メートルもいかない尚且つ薄い。

『Z』からしては登れない高さじゃない。まるで障害物を越えるようによじ登って数体の個体が顔を覗かせる。


「やばい!いっ痛ぁぁ…ゆい、走って!」


 沙月は痛みに耐えられず蹲ってしまい動けない。


 ゆい が連れて出たのは絹代きぬよだった。歩く意識も持たない抜け殻のような彼女に肩を貸しながら、多少は強引でもバスから引きずり出す。


 助けに行きたくてもこの足では足手纏いになるだけでなく、『Z』の脅威に対処ができない。沙月は遠距離から壁を登る『Z』に矢を放ち、少しでも進行を遅らす。


 一本一本最大まで引いて狙うという工程があまりにも時間がかかっていた。進行を遅らせる分には頭部を狙う必要はないが、次々とよじ登ってくる相手に対しては効率が悪すぎる。


「沙月先生、わたくしが行きます」


「私も助太刀します」


 詩織とメイドの雫がそれぞれ武器を持つ。 


「お願いします!」


 彼女達に ゆい を託して、沙月は遠距離から援護射撃をし、より優位に立ち回まれるように着実に数を減らしていく。しかし、腕を撃たれた詩織は『Z』を対応するには動きが鈍く、一体相手でも苦しい。


 そう判断した雫が『Z』の相手を引き受け、詩織が ゆい達を補助する形に組み変える。襲ってくる『Z』をナイフで足に切りつけ、バランスを崩させてから距離を取る。


 トドメを刺さないのは沙月が数を減らしているとはいえ、一気に二体以上に襲われたら殺傷に至るまでにもう一体に襲われてしまうからだ。尚且つ、雫はメイド服を着ている。丈が長く、伸縮性も悪く、動きやすさでいうとかなり動きに制限がかけられる。


 だから、沙月が要になる。ゆい達に最も近付く『Z』を排除しつつ、壁をよじ登る個体にも侵入を防ぐために放ち続けなければならない。


「っ!!」


 焦りからの把握不足か、普段なら矢数を把握する沙月が最後の一本を使い果たすまで矢を撃ち続けていたのだ。当然、要になっていた攻撃は止み、『Z』の進行は加速する。負担が雫に押し寄せ、ナイフで捌き切れず、徐々に足止めのための切りつけも浅くなる。


「南奈、扉を開けて!」


 南奈に玄関の扉に暗証番号を打ってもらい、開いた状態を維持させる。とにかく今いる人達だけでも中に入り、残りの三人のタイミングに合わせて閉めるしか出来ることがない。


 問題なのは ゆい達の後ろのすぐそこまで『Z』がいることだ。タイミングに合わせて閉めるには近過ぎ、これでは閉める時には数体が強引に入ってくるかもしれない。


「早く閉めろよ、あんな人達放って!」


 ギャルがいつまでも閉めない沙月に叫ぶ。他人から見れば当然の反応なんだろうとは思うが、冷静でいられていない沙月の表情には怒りが彫られていく。ただ、怒りを声に出したのは別の人物だった。


「彼女達は助けるために行動しているのです。何もしていない貴方が勝手なことを言わないでください!」


 舞花は胸ぐらを掴んでギャルを壁に押し込む。自分も何もしていない彼女と同じ立場だとしても、親友が命を張って他人を助ける勇姿に何を文句を言うのか。


「お前は良いよな。親友がまだ生きているから、そんなことが言えんだ!こっちはみんな死んだんだ…もう、自分の命を優先して何が悪い!」


「なら、一人で生きていけばいいじゃないですか!私達に合わせず、自分の思うようにすれば文句も出ないでしょう。私達に構わず行ってください!どこにでも好きなところに!…それが嫌なら、少しでも仲間意識があるなら、何か手伝うくらいしてください!」


 言いたいことだけを言い放って、胸ぐらを掴む手を離すと。舞花はエレベーター横にある南京錠付きの金属製の箱を、雲雀から預かっていた手斧で南京錠を破壊する。中から取り出したのはハンマー斧、彼女達が持っている武器の中でダントツの重量と殺傷能力を兼ね揃えている。


「南奈、これを使って!」


 取り出したハンマー斧は舞花の力では持ってはいけない。そこで床で滑らせて、南奈の足元まで投げる。矢を使い果たし、足の怪我で動けない沙月の他に運動能力が高いのは彼女しかいなかった。


「よし、これであたしも行ける!」


 拾い上げたハンマー斧を軽々と片手で持ち、ゆい達の元へ向かうとした時だった。


「エ、エレベー…ターが……」


 幼い声の中に恐怖による震えが混じり、体を縮こませながら動くエレベーターから離れるゆかり。状況が状況であって気付くのが遅れてしまった。三階、二階と止まらないエレベーターの目的地は一階と悟った南奈はエレベーターの前に立つ。


 舞花はその背中を見つめ、彼女が酷く怯えていることに気付く。下着が透けるほどの大量の汗に、持っている武器が重たいのか腕が震えていた。


 生存者の有無、『Z』の有無すらも。正直なところエレベーターが動くだけではどちらか分からない。


 万が一の事態に備えて南奈が警戒する。一階に到着すると奏でる音楽とともに扉が開かれ、より一層彼女の身体に力が入る。


 しかし、中には誰もいない。見る限り、上下左右に視線を移しても人影すらもなかったと思いきや。


 ひょっこりと扉の端から女性の顔が出てくる。顔立ちや仕草で『Z』ではないことは分かったが、南奈はその女性を見るなり。


「なっちゃん…?」


「南奈?……南奈!南奈だ!!」


 二人が唖然としながら見つめ合った数瞬、先に動いたのは女性の方だった。最初の出会いが嘘かのように女性は南奈に抱き着いて、髪を撫で回す。


「っ!!名織なお!?な、なんで?!」


 振り向いた沙月がその人物を見るなり、驚いた様子で名前を叫ぶ。


「沙月もいる!?ということは舞花も ゆい も!?あれ…でも、ゆい がいない…」


「ゆい なら外で『Z』に追われているわ!助けに来たなら助けてあげて!」


「生存者が沙月達なら私が使うのは勿体無い。沙月、あんたの愛用を待って来てあげたわ!」


 背負っていたコンパクトに折り畳められた弓を投げ渡す。受け取って二つあるボタンを同時に押すと、折り畳められた弓が瞬時に開き上仕掛けから下仕掛けに弦が張られる。


 続けて床を滑る矢筒を受け取ると、すぐさま数ある中から特殊加工が施された矢をセットする。狙いは『Z』に向けてではなく、鏃は空を目掛けて空気を裂く。


 すると、その矢からは音響が生じて、大きな弧を描きながら向かいの建物まで音を鳴らしていく。出来る限り長く、より大きな音が鳴るように。


 鏑矢。鏃付近に卵型の空洞を作って目のような窓を空けることで、音を鳴らす仕組みの特殊な矢。戦国時代などでは開戦の合図としても使われていたが、音が甲高いことから『Z』相手には気を逸らさせるために打って付けなのだ。


 案の定、吸い寄せられるように ゆい達を無視して矢の方へ身体が向く。彼女達との距離が開くと同時に、またまた特殊加工の矢を矢筒から取り出したと思いきや。


 鏃を矢筒に擦らせて発火させ、一体の『Z』に射撃する。しかし頭部を外れた矢は足に刺り、絶命までいかずに倒れるのみ。焦りで手元が狂って貴重な矢を活かせきれなかったのか。


 否、次の瞬間には刺さった足から炎が上がり、痛みのない『Z』は皮膚が焼ける独特な異臭を放ちながら燃え続ける。皮膚に刺さった燃える矢は衣服に燃え移っていたのだ。


 致命傷ではなくとも『Z』を始末することができる。全身に燃え移るのは時間は経かるが、矢の消費を考えるならば有効な手段でもある。


「沙月、援護頼むよ!」


 小形クロスボウを腕に装着した名織は走り出して、遅れる ゆい達と合流する。そこに近付く個体にすかさず矢を射って、近づけさせないように対処する。


 それでも間に合わない個体は名織のクロスボウと体技で対処を行ってもらう。『Z』相手に怯むことなく、格闘技の心得がある彼女は次々と転ばせ、死角から襲って来た個体は沙月と連携をとる。


「さっちゃん、一番後ろ!」


 南奈が叫ぶ。彼女の言うように数体いる『Z』を視線で掻き分けていくと、侵入した団体の最後尾に四つん這いの個体を発見した。鏑矢にも目も暮れずに真っ直ぐこちらを見つめ、更に体勢を低くする。


「このタイミングって最悪!」


 まだ合流が出来ていない中で、ゆい達の直線上の後方の位置に奴はいる。仮に奴を矢で対処しようと思えば、ゆい達や後ろへ控える複数の『Z』を掻き分けなさればならない。


 結論から沙月の位置からでは対処は困難だ。残るは真ん中にいる名織による対処だが、彼女はまだ狙われていることに気付いていない。呼びかけは返って『Z』を刺激するだけで、リスクを背負わせてしまう。


 なら、沙月にできることは。


 鏑矢で釣られなかった数体の『Z』およびリミッター解除を目論む『Z』を誘き寄せるしかない。ただ、奴らは利口である。あの個体が前を行く数体を認識して、タイミングを見計らって突っ込んで来ようとしているのは間違いない。


 怖いのは誘われている可能性があることだ。


 対処の優先はその個体からであるが、他の『Z』を無視できるはずもない。しかし、ここで前にいる数体の『Z』を何かしらの方法で倒しすことは障害物がなくすことになる。


「─────っ!?」


 前へ飛んだと思いきや、着地時点にいた『Z』を踏み台にしたタイミングでリミッターを解除してきたのだ。踏み台にされた個体は後ろへ飛んでいき、それらを踏み台にした個体は威力は半減も人を壊すには十分な速度で接近する。


「名織!!」


 最後尾にいた名織は沙月の叫びに反射的に後ろを振り向くと、すぐそこまで接近されていた。リロードが完了したクロスボウでも撃つことも、避ける隙さえもない。そもそも、眼前まで飛んできた相手に矢を射ったところで止められるはずもないし、避ける分の身体の助走が足りない。


 奴は死をもってリミッターを解除をしている。食すという欲求だけで後先考えずに行動しているのだから。そういう捨て身なところは理解はできない。


 すると、ザシュッ!!と名織の真上からワイヤー付きの鉤爪が伸び、地面に刺さった。


 モータ音を響かせ、上から雲雀が飛びかかる『Z』を踏み潰す。血飛沫や内臓が飛び散り、それを目の当たりにした唖然となる名織を他所に。遅れて団体が雲雀と接触するが、武器を持っていない彼は素手と己の戦闘能力で捌き始める。


 依然と動けずにいる彼女を守るように顎に蹴りを、膝に拳を、肋に肘を、横腹に膝を、加えて怯ませる。


「きゃ!」


 数体の『Z』を退けると動けない名織をお姫様抱っこをして、玄関で走る。高い位置から着地した足とは思いないほどに速く、前を走る ゆい達とほぼ同時に玄関へ到着できた。

 沙月は全員入ったことを確認すると、鏑矢を射って他の『Z』を音で仕向ける。雲雀によって倒れた個体達も這いつくばりながら寄っていく。


 扉を閉めて隔離された安心感から膝から崩れる沙月。疲れからその場に倒れ込み、痰が絡む気持ち悪さを覚えながら荒れる呼吸を落ち着かせるゆい達。


「さ、さっちゃん!」


「ゆい!…もう、本当に無茶ばかりするんだから」


 飛び付いた沙月は心配から身体の状態を確かめて、怒りから頬をつねって叱る。


「ご、ごうぇんしゃさい。…でも、彼女を置いていくことが出来なかったの」


 抱えられる絹代を目にして、彼女の精神状態がどれほどの深刻さが分かる。歩く気力さえもなく、引き摺られていくうちに靴が片方無くなっていた。


 そんな状態でも ゆい はめげずに見捨てることなく、最後まで自分の意志を貫いたのだ。その勇姿にここ十年寄り添い続けた沙月にとって、親離れした子供を見るような感覚に浸っていた。


 彼女の中で何かが変わり始めている。それは徐々に行動として現れて、他人との関わりも少しずつ向き合いつつある。


 ただ、行動するたびに怪我をする姿には素直に喜べずにもいた。


「それでも私に言ってくれれば行ったのに。ゆい は怪我が酷いんだから傷口が広がるようなこともある…」


「心配してくれてありがとう。それになっちゃんも助けに来てくれてありがとう。神室さんも」


 扉の前でお姫様抱っこをされる名織を下ろす雲雀に向けて、改めてお礼をする。

 下された名織は少しバランスを崩しながらも壁に背中を預け、胸に手を置いて鼓動する心臓を確かめる。


「大丈夫ですか?どこか怪我でもしているのでしたら、見せてください」


「へ、平気よ。大丈夫…奴らには何もされていないよ。どちらかというと、さっきの状況の方が動揺が大きいで、す」


「あんた、敬語になるほど動揺してんの?」


 二人のやり取りに間を挟むように言葉とともに沙月が近付く。


「いきなり空から降って来た男にお姫様抱っこされたら、普通は動揺するでしょ?!ってか、この人は誰?沙月の隠れ彼氏?!」


「ち、違うわよ。神室さんは学園だけでなく、ここまで来るまで色々と助けてくれた命の恩人よ」


「という建前で本当は彼氏説?」


「あんた、殴るわよ?」


 胸ぐらを掴んで煽る名織を殴りかかる沙月に、お邪魔と感じた雲雀は疲れ果てる ゆい の元へ歩み寄る。


「また喧嘩してるの。こんな時にでも喧嘩するって子供みたいだし、なんか恥ずかしい」


「いつもあんな感じなのか?」


「そうですね。基本的には互いが煽り合うって感じかな。でも、あれでも親友同士で…私達を受け入れてくれた家族なの」


「……仲が良いってことだな。ゆい は怪我とかは大丈夫か?」


「あれから怪我は増えていません。体力がなくて、疲れ果てているくらいですので心配しなくても大丈夫です。神室さんこそ、高い所から着地して足は大丈夫なのですか?」


「特には気にならない。あのような事は何度かやっていく内に自然と骨が頑丈になったのだろう」


 指摘された事で肉眼で外傷を見たり、時には軽く飛び跳ねて足の調子を確かめる。正確にはどの階から降りて来たのかは分からなかったが、二階とてかなりの高さなのは校舎を思い浮かべば分かる。


 三階から飛び降りた際はワイヤーによる落下速度を緩和されたことで、ゆい達はほぼ無傷で着地できていた。今回のはその状況と明らかな違いがあり、ゆい は心配でならない。


「その発言ですと何度か骨を折っているって聞こえるんですけど、あまり無茶はしないでくださいね……あ」


 背中を軽く押され、振り向くと南奈がため息を吐いていた。


「何が無茶をしないでくださいね、だ。ゆい も人の事を言えないぞ?一体、何回心配させたら気が済まんだ」


「ぐうの音も出ません」


 そこに舞花も合流するのだが、明らかに南奈よりも怒っていることは明白だった。両手が伸びてきてビンタでも浴びせられるのではと、考えれば身体が反応して目を瞑ってしまう。


「一回、頬を摘みましょうか?」


「いたたたたたい。まぁひかちゃあん、もほぉ摘んでへぇる」


 頬をつねるどころか、外側に引っ張られて涙目になるくらいの痛みが襲う。まだ平手で叩かれた方がマシの思う ゆい は必死に耐え続ける。


「よし、とりあえず上へ行きましょう。ようやく安全な場所に着けたのに、ここじゃ落ち着かないから家に行こっか。みんな、案内するわ」


 皆を誘導してエレベーターに乗せると、最上階である五階のスイッチを押す。動き出すエレベーターの中は静寂に包まれていた。

 さっきまで話していた沙月でさえ、疲れた表情でモニターに映る動く数字をただ見つめる。


「…ここは、まだ停電していないのですね」


 電気が来ている。雫が沈黙を破って放たれる疑問。


「そうね、でもここだけが対策をしているわけじゃないわ。いつ、どんなことになるか分からないから、一家に一台発電機があるのは珍しくないし、今の集合住宅って自治体が管理している小規模の水力発電とか風力発電で災害に備えているしね。まぁ、うちのマンションは大型の発電機が地下にあるんだけど」


 元々の地形が残こり、都市化が進んでない町だからこそ大掛かりなことが可能。山を挟んだだけで、こうも開発に違いが生まれるのも人の歪みを取り除くためが一つの要因。


 人口密度も高くなり、人との接触が増えいったことで窮屈な暮らしになっている。


 実際に避難民を受け入れてからの数年は精神患者が増加していったのも話題になった。その対処が地方によって山といった自然を残すことでストレスを発散させようという。徐々にだが精神患者の減少傾向からこの付近の町の開発の目的が定まったというわけだ。


「都市部となると川に小規模のダムを作る広さはありませんですし、風車を設置しようにも膨大な発電をするための敷地はありませんから」


「都市部は何かと緊急時は不便そうですね」


「人口密度が高いですから仕方がないことです」


 そんな会話を見聞きしやながら五階へ到着する一同。先導する名織を他所に身構えて左右を見てしまうのは反射的なものだろう。


「このマンション内部には『Z』はいないよ。というか、私以外いないわ…皆、仕事に行っていると思うし。だから、安心して」


 そう言われるとエレベーターから出る沙月達はその通路を見るなり、いつもの通路だということに安心感を覚える。

 しかし、一度視線を外すと現実が広がっていく。普通の日常はもう取り戻せない。そんな絶望感が胸を苦しめる。


 通路を歩き続けると一番奥の扉でようやく足を止める名織。


 ここまで来るのに通り過ぎた扉は三つしかなかった。このマンション自体が小さいわけではないが、階ごとに四つしか部屋がないのだ。その分、部屋数は多くて4LDKという五人家族には少し大きいかもしれない。


「とりあえず、お風呂に入ろっか。あんまり汚れた状態じゃ気持ち悪いでしょ?怪我もしている人もいるし、簡単な手当てもしてあげるね」


 玄関を開けて、入ってすぐの扉をスライドさせると脱衣所が現れる。名織が言うように服の汚れは酷く、住んでいる ゆい達でさえも艶のある床に足を踏み込みのを躊躇ってしまう。


「あんたらが躊躇したらダメでしょ。後始末くらい私でも出来るから、入った入った」


 その様子にため息を吐いた名織は強引に沙月や舞花の手を引っ張り、脱衣所へ誘導する。きっかけがあれば、躊躇いも薄まる。二人を追うように雫も紫、ギャル達も入っていく。


「とりあえず…三人は怪我をしているみたいね」


 その場に止まる ゆい と南奈、詩織を見て、下駄箱兼倉庫から応急キットを取り出す名織。手招きをして玄関内に設置された座椅子に座らせ、傷を見ようとするが。


「それで、命を救ってくれた恩人に対して失礼かもしれないけど、貴方には一旦外へ出てもらってもいいかな?制服も脱がせたて手当てもするから男子の視線はまずいかなって。ごめんなさい」


「いえ、気にしなくて大丈夫です。外で待っていますので、お構いなく彼女達をよく診てあげてください。特に ゆい は重傷なので」


 扉を押して外へ出ようとする雲雀に、何故か遠くに行きそうな感じがした ゆいは自然に手が伸びる。


「神室さん…ど、どこにも行かないでください」


 立ち止まる彼は振り返り、心配させまいと笑みを浮かべながら。


「どこにも行かない。だがら安心して自分の身体を診てもらうんだぞ?」


 その言葉を信じて頷いた ゆい を見届けて、雲雀は扉を閉める。一連のやり取りを眺めていた名織からしては、初めて見る ゆい の乙女な姿に顔がニヤつく。


「おりょりょ?ゆいったら妙にあの人を事を気にかけているわね。も、もしかして惚れている感じ?」


「えっ!?」


「なっちゃん、いい加減なことを言ってないで手を動かして」


 名織の探りに威圧をしながら服を脱ぎ始める南奈。紅色の下着にしっとりとした肌を舐め回すように見ると、包帯で巻かれた腕に目が止まる。

 職員室で起きた爆発時に負傷した腕、既に応急処置が施されていたが既に包帯は真っ赤になっていた。時間が経過するごとに血を吸い過ぎ、吸い切れなかった液体が滴り落ちるほどの出血がまだ続いていたのだ。


 気にかけるべきだったと強く思う。色々なことが起きすぎて、一つ一つ処理しようと思うと人間は無意識に優先順位を決めて後回しにしてしまう。バスに揺られる中で包帯を変える作業だって出来たはずの時間を、自分は一体何をしていたのだと思い出す。


「挫傷が酷いし、水脹れもしてるね。冷却シートに痛み止めクリーム、新しい包帯とビニールテープで、とりあえず応急処置をするよ」


「そのぐらいなら、あたし一人でも出来るから卯鶴生徒会長の方をやってくれ」


 応急キットから言われた物を取り出すと、慣れた手つきで作業を始める。手先だけでなく色々な体の部位を利用して進めていく姿に、自分の存在意義に疑問を抱く名織。


 気を取り直して詩織の元へ寄り、南奈と同様に上を脱ぎ始め、彼女の紫色の下着から覗く豊満な胸が見えると、自分の胸と比較するように交互に見比べる動きをする。


「お願いします」


 傷口を確認すると左腕に小さく空いた弾痕から流血が止まらずにいた。弾は貫通しているが損傷箇所が悪く、二の腕もあってか筋肉の損傷が酷い。逆に骨の損傷がなかっただけでも幸運というべきか。


 痛み止め剤を注入してから止血シートを被せ、南奈と同じような工程で包帯の上からビニールテープで覆っていく。


(ゆい はかなり彼の事を気にかけているけど、対して南奈は反感を抱いている。それに…舞花もふらつく彼をサポートしていたし、人嫌いだったこの子達に一体何があったの?めっちゃ気になるんですけど!ま、まさか沙月もかな…。後で少し探りを入れてみるか)


 雲雀の存在が普段他人に厳しい三人の変化に、その存在がどういったものかを知りたいのは当然の成り行き。一部の心は自身の興味によるものとは考えないようにした。


「南奈、彼とはどこで会ったの?」


「……あ?」


 威圧感のある聞き返し方に肩を縮める名織。


(やばい…なんで、そんな事を聞くんだ的な圧が、視線が痛い!)


「南奈、とにかく落ち着こう。これでも私だって彼に助けられたんだから。少しは気になるよ」


 触れてはならない話題だったと、何か別の話題を脳をフル回転させて探す。すると、彼の傷の酷さを思い出す。


「…でも、それ以上に視線を持っていったのはあの傷よ。黒服に身を纏っているとはいえ、変色した生地を見る限りだと怪我はすごく酷いと思う…もしかしたら三人以上に彼は重傷を負っているかも」


 ゆい はそんな言葉を聞いてバスの中での雲雀の傷を思い出す。特に腕と脚の損傷が激しく、銃弾で貫かれた手足や腕にできた捻れた皮膚が目眩を引き起こしたのを覚えている。確かに自身の指の骨折や腕の銃痕といったものと比較すると、軽傷に値するかもしれない。


 雲雀の傷は多くの命を守るための行動で負ったものばかり。自分の傷と比べるとのしかかっていた負担が明らかに違う。


「神室さんがいなければ、私達は学園から出ることもできなかったし、

 生き残ることもできなかったと思うの。でも…神室さんに任せっきりで負担を押し付けてしまったのかもしれない」


「ゆい が気に止む必要なんてない。あいつは勝手にあたし達を守って、勝手に傷付いただけだ」


「でも…」


「確かにあたし達はあいつに救われた。学園を脱出できたのもあいつの存在が大きかったのは事実だが、それで傷付こうが人を救うために行動している本人からしたら本望だろうし。あたし達がとやかく思う必要なんてない」


「言葉ではそう言っているけど、なんで言われる側の ゆい よりも南奈の方が苦しいそうな顔をしているの?」


 名織の指摘に南奈は慌てて顔をそむける。


「…してない、そんな顔は断じてしていない」


「あらあらぁ、嘘が下手なこと。南奈が髪を弄りながらそっぽ向く時は、何かを隠したい時の癖なのは私は知っているんだから」


「っ!?」


 更なる名織の指摘により自分でも気付いていなかった赤髪を弄る手を下ろす。


「南奈ちゃん…」


 ゆい の反応に対して答えずに、顔を伏せることで顔色を探られないような防衛行動を取る。明らかな動揺が見て取れ、葛藤している。これまでも時折見せていたが、今までそんな挙動はなかった。


 南奈は自分の感情を殺し、尚且つ表面にも出さないクールなイメージが強い。ゆい達でさえ何を考えているかも分からない時もあるくらいだ。


 そんな彼女が雲雀のことになると、隠すどころか今みたいに挙動も出てしまった。他人に関しては興味も示さずに、普段から自分の感情をコントロールしている南奈のイメージが崩れていく。


「まぁ、あまり詮索はしないけど、隠し事の一つや二つはあるでしょうに…それに比べて私は隠し事なんて何一つないんだから。…よし、卯鶴さんだっけ?いちようお風呂に入るからと思って傷口を塞いでおいたから、多分これで大丈夫と思うよ」


「ありがとうございます。皆さんは本当に仲がいいんですね。日常が崩壊しても普段通りに接して、お互いを助け合っているのは…本当に羨ましいです」


「ここまで仲良くなるのには苦労したけどね。最初は普通に近づくだけで殴られたり、物を投げられたり、包丁を振り回されたりって大変だったなぁ」


 当時の思い出に浸っているものの出てくる内容からは、いい思い出と言うにはあまりにも殺意が剥き出されたものだった。


「あの時はあの時で殺意剥き出しだったが、それを容易くいなす方も当時の私達からしてはびっくりしたけどな」


「逃げ出そうとしていた時もあったけど待ち伏せされて、恐怖を感じたこともあったの」


 顔色を見る限りだと、彼女達の記憶にかなり恐怖が焼き付けられているのが分かる。


「見てくださいよ、今じゃ思い出の一つとして語られているんですよ?ゆい、傷を見たいから貴方も上を脱いで。見るからにこの中で一番重傷を負ってそうだから」


 ゆい と南奈が顔を見合わせる。名織の鋭さに驚きつつ、南奈は ゆい の身体を上から下へと視線を落としていって傷の多さに眉を顰める。それを見た ゆい は傷を隠すように身体を捻ったりする。


 名織に言われたように制服を脱いでようやく気付いたことがあった。校舎の廊下で背中から倒れたことで大量に血を吸っていたのか、脱いだ瞬間に感じる重さの変化に驚いた。


 ワイシャツにも血で赤くなっていており、特に撃たれた腕に集中する。こんなに血を流しても貧血程度で済んでいるのも、自分は案外タフな身体でもしているのではと思ってしまう。


 名織は手始めに骨折した指の方から診る。


 外観からでも分かるように左手の中指が第二関節から上へ折れていだと思っていたが、改めて見ると中指は元に戻っており、爆発直後のエグさには至らなかった。それでも中指全体が青く腫れ上がっていた。


 爆発直後にそれを南奈の応急手当てで指を固定してもらった。まだ痛みは続いているが、治った時には元の位置で後遺症も残っていないと願いたい。


「うんうん、教えたことをやっていてくれて私は嬉しいよ。ちゃんと骨折した指を固定しているわね。感心感心。結びの癖から見ると南奈がやったのかな?」


 教えた張本人からしたら一人前になった我が子の成長に感無量だった。


「この指で済んだのが奇跡なの」


 爆風で吹き飛ばされ、瓦礫の下敷きになっても指以外の骨折または打撲いった怪我はしなかった。瓦礫と瓦礫の間に挟まったおかげで、覆い被さった瓦礫が ゆい の身体を潰さずに済んだ。


「その分、膝の擦傷やら…特に腕の傷が酷いけどね。身が削り取られたような痕だけど、何をどうしたらこんな傷が出来るの?」


 下着を残して上着とワイシャツを脱いだことで現れる ゆい の身体の傷に疑問を持つ名織。


「えっと…それは……」


 ゆい は視線を南奈と詩織を交互に合わせる。説明しても信じてもらえるかどうか。けれど、実際に被害にあった三人が説明すればなんとか信じてもらえるのではと思ってもいた。


「なになに、三人とも見合わせて黙っちゃうの?何かあったことは分かるけど、他にも何かあったの?」


 信じてもらえるまで説明を続ける覚悟して、ゆい は体験した恐怖に震えながら唇を開く。


「……なっちゃん、驚かずに聞いてほしいの。今から言うのは妄想でもなくて現実に起きたことなの、それを分かってほ──?」


 説明の途中に扉から突然、衝撃と音が聞こえてきた。そこまで大きなものではなかったが、外にいる雲雀が不用意に音を立てるとも思えない。


「神室さん!!」


 嫌な予感がした。彼が傷だらけなのは知っていた。酷いくらいに皮膚が捩れた腕、銃弾で撃たれた箇所からの流血、その他にも打撲や脱臼といった外傷がいくつもある。


 致命傷には十分すぎるものだ。そんな怪我を負っているにも拘らず、戦闘を行うという追い討ちが仇となったのか。


 扉を開けると倒れる雲雀が目に入る。出血が酷い。白い通路を赤い液体が広がっていく。


「か、神室さん?神室さん、神室さん!」


 反応がない。顔も真っ青になっている姿に後悔の念が強く出てくる。彼の言葉を信用して、身体の心配を疎かにしてしまったことで招いた事態。


 雲雀自身も身体が危険な状態なくらいは分かっていたはず。それを言わなかったのは単に ゆい達を心配させたくなかったからだろうか。


 嫌だ。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。


 ゆい は涙ぐんでいた。他人の死に対して拒絶することなんて、ここ十年でなかった。そんな自分がこんなにも頭の中は否定を意味する言葉で埋め尽くされるなんて、どうしたらいいのか軽いパニック状態に陥っている。


「ゆい は下がってろ!なっちゃん、さっちゃん達を連れて来て!」


「分かったわ」


 南奈が駆け寄ると名織に救援を呼ばせ、彼女は雲雀の手首に指を当てて脈拍を測る。


「南奈ちゃん、神室さんは………」


 依然として雲雀の意識は弱い。ゆい の視覚、聴覚、触覚で感じる呼吸の間隔、鼓動の間隔、体温の低下などがどれも死に繋がりかねない要因を拾う。


「…脈が弱い。まずい……」


 正常値でも一分間に六十から百回が目安と考えると、明らかにリズムが遅い。南奈の顔が歪む。医療関係者じゃなくてもその異常さは見て取れ、極めて危険な状態であることくらい分かる。


「南奈も下がっていいわよ。後は私達でなんとかするから。沙月、準備はいい?!」


 応援に駆け付けた名織と沙月、舞花達が雲雀の状態を見るなり、顔色を変える。


 ただ…。


「準備は全然良くはないわよ!私、下着姿よ?!なんとかする前にせめて上に何か着させて!」


 タイミングが悪かったことに申し訳なさそうに、とかはなく、問答無用で沙月は連れて来られていた。


 スーツを脱いだ彼女は意外にもスレンダーな身体をしており、とてもではないがサバイバル生活を叩き込まれたとは思えない。腕で色々と隠そうとしているが、綺麗で潤いのある肌と長い足が色気が更に増している。


「人命がかかっているのに呑気なことは言わない!後、色気を使わない!」


 下着姿だろうと裸だろうと容赦はしない名織。


「使ってないわよ!」


「わたくしも何かお手伝いします」


 メイドもスカートは脱いでガーターベルトと下着姿で駆け寄る。豊満さでいうのであれば、一番の大きさを持っているのは明白だった。


「メイドさん、ありがとう。じゃあ私が彼の上体を起こすから、二人は両側から支えながら立ち上がらせて」


 的確な指示のもと、配置につく三人は合図を送る名織に合わせて力を入れていく。


「一、ニ、三!」


 掛け声と共に持ち上げる三人は移動を開始する。


「どこに運ぶのですか?」


「私の部屋よ。スチールラックに手動式の呼吸器があるからベットに移した後、すぐに服を脱がせて人工呼吸を行うわ。南奈、扉を開けて」


 南奈に開けてもらうと広がるのは、女の子の部屋にしては違う意味でドキドキするような家具や器具が並んでいた。ゆい達にとっては見知った部屋ではあるが、初めて入るには抵抗があったり、中には興味があったりと色々あるだろう。


 床を血で汚そうとも気にせず、お気に入りの茶色のベットに寝かせても特に嫌な顔も一つせずに、名織は取り出したペンライトで瞳孔散大を確認する。これで光の増大によって瞳孔が収縮していることを確認できれば通常の反応を示してるため、まだ命を落としてはいない。幸い、収縮の確認は取れた。


 その間に沙月がスチールラックから人工呼吸器を持ってくると、すぐさま処置に取り掛かる。胸部が膨らむことを確認しながら、ゆっくりしたペースで毎分十二から十五回の割合でバックを握っていく。


 続いて名織が服を脱がそうとするが、ボタンのないシャツでは腕を通さなくてはと手間がかかる。消去法ではあるもの、ここは早急な治療の為にも躊躇ってはいけない。


「服は弁償をするからナイフを借りるわね」


 太腿のところに隠し持っていた小さめのナイフを取り出す。生地用の刃物ではないのに、切れ味に違和感のない感覚を覚えながらシャツを裂いき、観音開きのように脱がしていくと。



「「「「ッ!!」」」」



 あまりの衝撃に部屋にいる誰もが息を呑んだ。


 現れる傷が、量が異常だった。少なくとも上半身だけでもその量はかなりもの。名織が思っていたよりも最悪な状態だ。彼が呼吸する度にドクドクと無数の傷口から血が垂れ、止血をしようにもどれから手を出せばいいのか分からなくなる。


「な、なんて傷なの…どの傷も致命傷を負っている。簡易的な処置は施されてるけど、それでも足らないくらいの傷の深さよ。それに打撲とか下手したら骨折しているところもあるかもしれない」


 傷口を一つ一つ具合を確かめていくと、ある傷口に目が止まる。


「これは…弾痕?………ねぇ、沙月達に一体何があったの?!教えて」


「私達の身に何が起きたのか、ちゃんと話すわ。元々、あんたに隠そうと思っていないから」


 沙月はこれまでの経緯を簡単に話し始める。その間にも人命救助を欠かさず、出来る限り名織を混乱させないようにする。間に ゆい達の身に起きたことも説明し、雲雀の出会いからここまでをより鮮明にさせる。


「そんな事が…じゃあ、彼のこの傷は少女によって負った傷…。いや、応急処置の経過を見ると大抵のものがそれ以前から負っていた傷に見える。腕や足、横腹の真新しい弾痕とかは少女によるものだろうね。…でも根本的に、こんな傷で彼が動いていたことが信じられないわ。この傷の量、歩くどころか呼吸するのも激痛だけよ。それを走ったり、戦ったりって異常よ」


 納得できるには時間も必要だが、出来れば手を止めてじっくり聞きたいことを尋ねたいのが本音。それでも目の前の存在を無視はできず、話を聞いている間にも止血剤を一枚ずつ傷口に被せていっていた。


「神室さんは助かるのですか…」


 ゆい は不安で仕方がなかった。この傷を見て、助かる可能性が絶望的だということは知識がなくとも分かる。外の世界にいれば、そういう場面にも何度か遭遇したことがあったからこそ不安は大きい。


 現にそれを聞かれた名織の表情は曇ったままだ。


「……傷口を塞いだとしても内出血している可能性だってあるし、仮に内出血していなかった場合でも輸血しないと死んじゃう。けど、それには大きな問題がある…」


 不安は積もっていく。


「彼の血液型が分からないこと。本人に聞こうにも意識がない状態じゃ会話もできない。間違った血を輸血すれば、どうなるかくらい貴方達でも分かるはず…」


 つまり助かる見込みがない、と言われているようなものだった。ゆい達は受け入れられない現実に胸を締め付けられていた。


 ずっと苦しかっただろう。身体が引き裂かれるような痛みの中で、ゆい達を助けるために戦い続けることが、どれほど過酷なものか。倒れようと思えばいつでも倒れたはず。それでも雲雀は安全が確認できるまで弱った自分を見せないように振る舞い、この瞬間まで耐え忍んでいた。


 事情を知らなかったとはいえ、ゆい達は彼を頼りすぎていたのかもしれない。


(どうしよう…私は何もできない。でも、なんとか…なんとかしないと。どうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう!!)


「………O型だ」


「え?」


「…こいつの血液型はO型だ。私の血を使えばいい」


 思いもよらない声に唖然とする一同を除いて、発した張本人である南奈だけは表情に変化はない。


「職員室で手当てをしている時に偶然そんな話をしただけだ。傷だらけなのは本人も分かっていたし、もしもの時にはって…」


 その理由を聞いて納得する一同。


 それと同時に、あれほど雲雀に対してきつい態度を取ってきた南奈が、自ら進んで自分の血を提供しようと持ちかけたことに少し嬉しくなる ゆい。


 彼のことを少しずつ信用してきているのだろうと思える場面であったが、流石に「彼のことを信用してくれてるの?」なんて聞いたりすれば、本人は間違いなく否定はすることも読めたりできる。


「それなら舞花、輸血パックを冷蔵庫から出して。私は今から傷口を塞ぐから…多分、けっこう時間がかかると思うし、みんなは先にお風呂に入ってていいわよ。ここは私に任せて」


「でも…」


「私なら大丈夫…だから」


 より一層に名織の顔色は陰る。額や首元などに溢れる汗が止まらず、自然に呼吸までも余裕がなくなっていく。それに見兼ねた沙月は人工呼吸を止めてしまう申し訳なさに耐えて、親友の肩に手を置く。


「大丈夫って言うなら、そんな不安そうな顔で言わない。そんなんじゃ心配されるに決まってるわ。できることは少ないし、邪魔になるかもしれないけど私も一緒に手伝うわ。名織だけに責任を押し付けたりしないから」


「………沙月」


 親友の過去を知っているからこそ、自分にできることが少なくても支えたいと思える。何時ぞやの自分を重ねて、名織がしてくれたことの恩返しのつもりで。


「南奈、ゆい、舞花はみんなを連れて先にお風呂に入ってて。ここに大勢のいても願いだけで助かるわけじゃない。なんとかして私と名織で神室さんを手当てしてみる」


 知識的には沙月は豊富でも実践経験が少なく、名織に関しては数々の人々の命を救ってきたベテラン。しかし、勘違いしてはならないのは医療器具が充実しているからこそ、選択肢がいくつかある中で治療ができる。医療器具が揃っていない現状では、その選択肢もない。応急手当て程度しかできない。


「…心配されるのは分かっているけど、何もしないよりかは何かをしないと助かるものも助からない。後悔なんてしたくないわ。それに、いっぱい助けられた恩返しをしなくちゃね」


 人工呼吸を絶やさず、沙月は ゆい達を見つめる。これ以上の不安を取り除けるような言葉なんて見つからない。ゆい達にできることは、本当に祈るだけなのだ。


「……さっちゃん、なっちゃん、神室さんをよろしくお願いします。舞花ちゃん、今は二人に集中してもらわないといけないから、私達はとりあえず身体を綺麗にしないと。だからそんなに、服を引っ張らないで。不安なのは分かるから」


 舞花はバスの中で雲雀の手当てをしていた。手足などをあらかた済ませると服を脱がそうしたら彼に抵抗され、何度も繰り返すうちに舞花の方が折れて断念していたことを思い出す。


 あの時に強引にでも脱がせて、事態を把握していれば止めれたかもしないという後悔が今の状況を作り上げているのだろう。


 しかし、この場でどんなに責任を感じても、彼女にできることは何一つないことに、悔しさも込み上がっているに違いない。


「…絶対に、絶対に死なないでください。まだ、私は貴方に恩を返しきれていませんから」


 悔しそうにそう言い残して舞花は脱衣所へ戻っていく。それに続くように一人とまた一人と名織の部屋から出て行き、最終的に残ったのは ゆい と南奈と雫の三人だった。


「伊丹さんも、ここは私達に任せてください。多分、貴方が行かないとあの子もずっと行かないだろうし」


 雫が振り向くと扉に半分くらい顔を出した状態で、こちらを覗く紫の姿があった。人見知りな彼女にとって一人でお風呂に入ることに、心細さわ感じたりもしているのだろうし。それが他人の家ともなるとより抵抗も増す。


「分かりました。枝村様のお気遣いに甘えさせてもらいます」


 軽く会釈すると雫は紫を連れて脱衣所へ向かう。


「南奈ちゃん、私達も行こ」


「……あぁ」


 最後に残った二人も部屋から出ていき、残された沙月と名織は依然と意識が戻らない雲雀を見つめる。人工呼吸器の音と二人の息遣いが部屋に残り、静寂な空間が出来上がっいた。


「沙月、人工呼吸を続けて」


「聞いても絶望的なのは分かるけど、助かる確率はどのくらいなの?」


「出血量が分からない以上は輸血をしても足りない可能性だってあるかな。感染症も疑わしいし、それに内臓が傷付けらて腹膜炎とか合併症とかになっていたら…もう手に負えない。総合的に考えても、最高で1パーセントくらいの確率よ。手当てを先に受けていれば話は少し変わるけど」


 身体に何十枚と貼った止血剤は全て真っ赤に染めて、重みも増していた。新しい止血剤と南奈が言った通りにO型の血液パックを保冷庫から取り出す。


 保冷庫の中には同じ血液パックが大量に保管され、それぞれ誰の血なのかを分りやすくするためにラベルが貼られていた。もしも時に備えて十年前から続けてきた供血は、名織の前職が前職であって管理は徹底的にしてきた。


「…彼の傷は全部、誰かによって作られたものばかり。刺されたり、切られたり、撃たれたりって普通の生活をしていてできるものじゃない。きっと彼は何かとずっと戦い続けていたと思う。私達が今日まで怯えながらでも普通に近い生活で暮らせていたのも、彼のような人がいたからなんじゃないかな」


 点滴スタンドに血液パックと輸血セットをセットして、雲雀の腕に針を刺す。


「そうね…なんとなく、そんな気がしていたわ。自衛隊のような服装をしていないし、銃も所持していない。明らかに『Z』を意識した戦い方だったから。学園が襲われることを分かっていたのも組織的な理由が絡むのなら、納得がいく行動もたくさんあった」


 雲雀が初めて現れたのは教室での出来事。生徒の誘導していた沙月はその場に居合わせなかったが、放送で一連の会話を聞いていた。


「肉弾戦なんて命知らずもいいところだけど、それで私の命は助かった。彼は命の恩人よ」


 名織と雲雀とのファーストコンタクトはこのマンション。命からがら逃げ込んできた沙月達を助けようとするも『Z』の猛威になす術なく、一度は死さえも覚悟したくらいだ。それを断ち切ったのは空から降って来た雲雀。


「あんたもあれ以外の戦闘を見ていれば、もっと彼の凄さが分かっていただろうね。ナイフもそうだけど、肉弾戦だからこその利点だってあると思う。まぁ、相当な鍛錬を積む必要があると思うけど」


「威張って言うなし。後、もうワンテンポ早くして」


「分かった…傷の具合はどう?」


 会話をしながら簡易的に縫われた糸を切っていき、手作業で傷口を開いていく名織。本来なら超音波検査やCT検査といったものを行い、その情報と身体診察の結果から、必要な治療法を進めていく。生憎、そんな何百、何千万クラスの機器は持っていない。


 無数にある傷を一つ一つ慎重に診ていき、修正が必要な箇所はひと手間加えていく。


「…内臓まで達しているけど、いい名医だったのかな。ちゃんと手術が施されてるよ。やっぱり、完全に完治する前に戦闘をしたから傷口が開きかけてる」


「その様子だと助かる望みがある言い方ね」


「助かる望みが少しは上がるけど、出血量が多いから依然として危険な状態だよ。油断は許されない」


「それでも、どんなに可能性が低くてもやるしかないわ。彼がしたように…」


「そうね」


 何時間もかかるであろう作業、それを苦と思わないのは彼が沙月達にしてくれた大きさに感謝をしているからだ。怪我を負っても最後まで諦めずに、救ってくれた恩をここで果たさなければならない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ