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絶望世界  作者: 春夏秋冬
第1章 『避難都市脱出』
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第12話 『脱出の壁』

『Z』が集まる駐車場から離れることができた一同は、周囲に奴らの存在がいないことを確認するとバスを路肩に停車させる。


『Z』の猛威から逃れるためにバスの上に避難した ゆい、雲雀ひばり匠海たくみを下ろすためだ。雲雀もまた、上から更に遠くの場所まで索敵していき、安全と判断すると怪我をしている二人を先に下ろす。


「ありがとうございます、神室さん」


「迷惑をかけて、すまない…」


 特に重傷の匠海はより慎重に降りてきた教師達と協力して下ろした。急いでバスの中に運び込まれる彼を見届けると、雲雀も飛び降りた時だ。


 先に降りていた ゆい は不意に体のバランスが奪われ、崩れそうになっていた。間一髪のところで支えることができ、乱れた前髪を整えて顔色を窺う。


「すみません…。安心したら倒れてしまいました」


「無理はするな。出血して時間が経過すれば貧血の症状があっても不思議じゃない。止血して、バスの中でゆっくり休むんだ」


 傷口を見ると、腕を貫通したというよりも肉を削り取られたという方が正しい傷だった。しかし、擦り傷よりも酷く、痛みは相当なものだろうと察することができる。それに撃たれた場所が悪いせいか、血は未だに止まっていない。


 痛みは数日、痕は一生もの。削り取られた部分が多く、人の修復力でも傷口を塞ぐ程度で元に戻ることはない。


「そ、そんなに見られるのは恥ずかしいというか、っあ…ぶ、無様というか」


 傷口を隠すように手で覆ったことで触れてしまったのか、痛みが声として反射的に出ていた。


「…この傷は ゆい の人生にずっと残るものだ」


「そう…ですね。でも、あの状況からこの傷で済んだと考えれば、安いものかもしれません」


「だからといって傷付いて良い理由にはならないです。傷付いて、もし後遺症が残ったりすれば、悲しいに決まっている。俺が心配するように、二人も同じ気持ちさ…」


 雲雀の視線が動きに合わせて体をある方向へ向けさせると、南奈と舞花が彼の後ろに立っていた。


恐ろしい焦燥な表情をした南奈に腕組みを足したことで更に怒りが強く現れ、それとは逆に何か落ち着かない様子で少し不機嫌そうにする舞花。


「何が『二人も同じ気持ちだ』だ。他人のあんたがあたし達を語るな、気持ち悪い。それよりも、いいから早く ゆい から離れろ」


「すまない。勝手なことをした…後は三人で話をしてください。色々と言いたいこともあると思えますし」


 雲雀は ゆい を二人に託すと、バスの中に入って行く。ゆい がどういう経緯であのような自殺行為を取ったのか分からないが、彼女一人で行かせるほど南奈なな達は優しくないはず。


それを察した雲雀は、この場の参加条件に満たされていないと思い、立ち去ったのだ。


 残された ゆい の前でも直らない腕組みは、怒りの矛先は自分であることを認識する。彼女達が自分に対して怒っている理由は一つしかない。


 ただ謝るという第一声がなかなか出てこなかったのは、怒られる恐怖に唇が震えて動かなかったからだ。


 だから、何もないまま沈黙だけが作られていく。


「とにかく、あたし達も乗るよ…ゆい」


 エンジン音に寄ってくる『Z』が迫り、場所を変えることにした南奈は ゆい に手を差し伸べる。掴む手は熱を持ち、感情が高揚していることを示しており、後々の出来事が本当に怖いと思えるほどに。


 三人がバスに乗ると出迎えてくれたのは沙月さつきだった。今にも泣きそうなくらいの顔は子を持つ母親のように、そして抱き付かれた瞬間に訪れる温かい包容感。


 それは昔、体験したような感覚。いや、幾度も体験したはずだった。母に抱き寄せられる自分が目に浮かび、懐かしさが込み上がってくる。


「さっちゃん…」


「ああ、ああああ…良かった。本当に…良かった…。ゆい、ゆいゆいゆいゆいゆい…」


 生きている温もりを味わうように強く抱き寄せ、何度も何度も名前を呼ぶ。義理とはいえ母親として、子供が生きて帰ってきてくれたことはなによりも嬉しいことだ。


「なぁ、ゆい…。あたし達のためと思って行動してくれたのは分かっている。そのお陰であたし達は生き延びることができたのも…」


 そっと肩に手を置いた南奈が口を開いた。感謝はあるものの、彼女の体は震えていた。それが何を指しているのか、ゆい には分かりきっていた。


「でも、だからって…ゆい が危険を犯す必要なんてない!そんな傷だらけになってまで。言ってくれば、行ったのに…。あたしが、あたしがもう少し周りが見えていたら…こんなことには」


 南奈にはきっと分かっていたのだろう。あの状況で相談できるほどの余裕がなかったことを。


だからこそ、ゆい の迅速な行動に怒りの言葉をこれ以上並べる事が出来ず、自分を責めることで怒りを鎮めようとしていた。


「私は…怖いです。ゆい がいなくなってしまうのではないかと思うと、震えが止まらなかったです。…お願いだからもっと、もっと自分の命を大切にしてください」


 抱き着く舞花まいかの言葉は重たく、心を締め付けさせた。自分のやったことは間違ってはいなくとも心配かけてしまったのは事実なのだから。


「ごめんね、舞花ちゃん。辛い思いをさせて…」


「私の事なんてどうでもいいんです。私達以上に恐ろしい目に遭っていた ゆい に比べたら全然…。でも、だからって全部…一人で抱え込まないで。自分一人で全部を背負わないで。私達に分けたってバチは当たりません。私は ゆい の怖いも痛いも苦しいも…全部受け止めたいのです」


「────っ」


 たくさんの『Z』の中を掻い潜り、何度も襲われた恐怖。額の傷、腕の傷や痣、足の傷は見るに耐えず、痛みだけが体を飲み込んだ。首を掴まれ呼吸困難に陥り、死をも受け入れたくらい精神をズタズタにされた。


 少女に植え付けられた恐怖は『Z』によるものとは違う気持ちが悪さがある。得体の知れない存在という認識のせいか。あるいは、人というそのものなのかもしれない。


 本当に雲雀に助けてもらえたことは幸運だった。あの状況が長く続けば匠海の命だけでなく、自分の命だってなかった。本当に本当に、自分は運が良かったのだと改めて実感する。


 その瞬間、瞳から涙が湧いてきた。色々な事がありすぎて感情が麻痺をしていたのだろう。実感した途端に感情が体で表現化され、解放された恐怖は次第に彼女の本心を見せ始める。


「こ、怖かった…死ぬかと思ったぁ…撃たれて、何度も転んで、何度も叫んで、苦しんで、それでも必死に生きようとしたのにぃ!死にたいと思うほど怖くて、すごく怖くて、諦めて死を受け入れたくなったぁ。怖い思いをするならいっそ死んだ方が楽だって…でもぉ…神室さんが助けてくれたぁ!助けて、守ってくれたぁぁ―――ぁあぁああ…!」


 いつの間にか沙月だけでなく、南奈と舞花も抱き着いていた。尽きる事ない感情の荒波は三人の手によって和らいでいき、そんな温かさに涙は止まらない。


 止まらず、ただただ制御のできない感情に身を任せるだけだった。喚いたって、泣いたって、いいんだ。怖いも、苦しいも、痛いのだって、無理して全部を背負いこむ必要なんてない。我慢なんてしなくていいんだ。


 南奈と舞花と沙月が優しく受け止めてくれる。変な強がりで心配されないように態度で示すよりも、洗いざらい言葉としてぶち撒ける方が余程に楽だった。


 それを気付かせてくれた舞花に感謝し、心配してくれた南奈に感謝し、親のように接してくれた沙月に感謝し、言葉は『ありがとう』へと変わっていく。


「………」


 雲雀はバスの後方でそのやり取りを眺めていると。


「神室様、少し宜しいでしょうか?」


 横に現れるのは御園紫みそのゆかり専属メイドの伊丹雫いたみしずく。両袖を捲り上げて、服装に似合わない血が付着したゴム手袋を装着する彼女は重苦しく話しかけてくる。


「郷道様の容体なのですが、あまりにも出血量が多く…恐らく長くは持たないかと。出来る限りのことはしたのですが…」


「……そうですか。伊丹さんも休んでください。疲れが溜まるのは良くないですから」


 雲雀は一番奥の席に横たわる匠海の元へ歩み寄る。バスにある応急キットの止血剤を使用して止血作業をした形跡があり、その止血剤も真っ赤に染まっている。


撃たれてから時間が経過しずきていたことや、撃たれた場所が内臓だったのも止血だけではどうにもならない理由でもあった。


 限りのある鎮痛剤でどうにか少し落ち着いているが、痛みそのものを抑制するほどの量はなく、苦しみは続く。それでも彼の瞳はまだ死んでおらず、生きることを諦めていなかった。


 匠海は雲雀の接近に気が付くと、呼吸を整えて会話早々に誠意を込めて。


「ありがとうな、こんな…無様な姿で、も救われた命だ。お前の…お陰で俺は、まだ……もう少し長生きしそうだ。短いか、もしれないが…な」


「礼を言う相手は俺じゃない。君が撃たれても助ける選択を取った ゆい にこそ、本当に感謝を伝える相手だと思うが。俺は遅れた分際だ。礼を言われるほどの事はやっていない」


「確かに、そうだな。でも、彼女がいてお前がいた…から助かったのは、事実だ。お前にもぉ…感謝をするの当然さ…」


「……」


 隣にいるはずの彼女の存在がいないことに、雲雀は彼の心中を察していた。


 教室内での二人のやりとりを見ており、彼女の立ち位置が恋人でも友達あるいは親友だろうと失った悲しみは同情しかねる。


 匠海は気を張っているが、その表情に引きずる悲痛さは隠し通せるものではない。


「こちらだって感謝をしたいんだ。危険を顧みずに ゆい を助けてくれたこと、本当にありがとう。君は勇敢だった。絶望の淵に落とされても心を強く持ち、立ち上がり、皆のために尽力してくれた。被害が最小限に抑えられたことが出来たのも、君がいたからだ。…正義と勇敢さ、優しさを持っている君を…いや、郷道匠海を俺は忘れない」


 彼の救いになりたい。大切なものを失い、自身の命も僅かなものとなった今。希望は潰え、絶望も湧かず、諦めをも通り過ぎて虚無の一時に陥っているのだろう。


 感情のない死こそ、無念の塊だ。


 彼には未練を残してほしかった。ご老体なら自分はしっかり生きることが出来たと胸を張れるかもしれないが、若い人には未来があった。


あったはずの先が途絶えたのだ。


 やりたいこと尽くしで未練はたくさんあるに決まっている。


 そんなことを思って漸く自覚する。自分に何が出来るのか、と考えるより先に言葉が声に出てしまっていたことを。


死に対しての恐怖を取り除くことは難しい。特に相手が望む言葉を選ぶことは何よりも難しいことだ。言葉一つで感情は大きく左右され、結果的に不安や更なる恐怖を植え付ける原因にもなる。


 慎重さが必要な場面で雲雀は先走ってしまった。これが匠海にどのような感情を植え付けたのか。瞳に映る彼の姿から離せず、のちの事を考えて脳内で言葉を形成させていく。


「…お前にそんな事を言われると、気持ち悪りぃな。……でも、そうか…俺は認められぇ、ているのか…。この様だから、勝手にそう思って、いたが………お前も赤髪の女性もぉ…俺を生かそうとしてくれて、いるのか…」


 赤髪の女性と聞いて思い浮かんだのは南奈だ。野洲川柚季(やすがわゆずき)が亡くなった現場に居合わせていない雲雀にとって、彼女の存在が出てきたのは驚いた。


他者に無関心で、他者を軽蔑し、他者の介入を拒絶する南奈が匠海に言葉をかけたのだ。信じられないと思う傍ら、表情には少し嬉しさを覗かせていた。


「ありがとうな…こんな俺を立ち上がらせる力をくれて。もし…彼女にも言えるタイミングあったら……その時はお礼を言わなくちゃ…な。でも………す、まないが俺は……少し、眠たい………」


「………」


 小さな寝息をする彼を見届けると、雲雀は後ろを振り向く。


「神室さん…ご、郷道さんはどうなったのですか?」


 ゆい は動かなくなった匠海を心配そうに見つめていた。助けてもらったお礼を含めて、何か話ができたらと思っていたのだろうか。


 寝息が聞こえずらかったことで、息を引き取ったのではと声が震えていた。


「眠っているだけです…。今はそっとさせておいたほうがいいと思う」


「そうですか…」


 寄り添っていた雲雀の言葉を聞き、覗き込むと寝息を立てる姿が確認でき、安堵のため息を吐く ゆい。

 しかし、安堵の表情は再び曇る。話を聞いていたというか、聞こえていたというか。彼があと僅かな時間しか残されていないことを知る。


 自分が勝手な行動したばかりに彼は命を落としてしまう。責任を感じている ゆい は何かできる事があるのではと考えていると。


「ゆい にとって、彼は信用に値する人でしたか?」


「え…」


「気になっただけです…答えたくないなら無理しなくて良い。ただ、彼の勇敢な行動は ゆい にとって何を感じさせたかと思ったんだ」


「………」


 自分と彼との接点は殆どない赤の他人同士だ。助ける義理もなければ、助けられる義理もない。そんなものだった。


 それでも彼は危険を顧みずに後を追いかけ、命を救ってくれたのだ。何のメリットもなく、命を賭けるほど自分は恵まれた能力があるわけではないのに。


 あの時、あの時も、あの時だって。誰も助けてくれなかった。私達が役立たずだからって囮に使ったり、笑い物にされたり、ストレス解消の道具にされたり、酷い目に合ってきた。

 思い出す悪夢のような過去。自分達が他者に対する心を閉ざした大きな出来事で、全ての人は悪人という考え方を持ったのもこの時からだ。


 この数年間、それが普通の人間の性質なのだと断言していたくらい嫌っていた。


 しかし、普通だと思っていたものが匠海の行動で考えを改めなければと思えてきていた。彼は真っ直ぐで、誰にでも気遣いができ、こんな能力もなく、人を嫌悪している自分をも救おうと来てくれた。


「……一度っきりとはいえ、危険を犯してまで『Z』の中を潜り抜けて助けようとは思わない。助ける義理もない赤の他人である私なら、諦めるのは簡単のはず。でも、彼は助けに来てくれた。自分が傷を負っても、私を最後まで気遣ってくれたの。少なくとも、そんな人を悪い人だとは私は思わない…信用するかは、また別かもしれませんけど」


「そうか…」


 雲雀が求めるような答えは出せたは分からないが、それでも心に変化があったことは伝わって欲しかった。


 人と関わること自体をしなかった自分が踏み出した小さな一歩。その一歩が確実な成長を実感させ、人との関わりに対する意識が変わろうとしている。


 人の善悪は見た目では分からない。きちんと向き合うことで初めて相手のことを知ることが出来る。だから悪い人ではないと判断したのも匠海と関わったことで、その人の本質を理解することが出来たのだ。


 見た目が好青年でも本質は、自分よりも能力が下の者に対して嘲笑ったりする人かもしれない。


 見た目が不良そうでも本質は、正義感が強く、困っている人を助けたりする人かもしれない。


 その逆だってありえるし、全く異なる本質を持っていることだってある。自分に合う会わないは必ず存在すること。それを見つけられるのも人と言葉を交わし、気持ちを共有することでしか知り得ない見分け方。


 人間誰しも善悪は持っている。それを恐れ続けては、いつの日か大きな壁となっていくのだろう。


 今、思うと沙月が遠くない未来に社会進出する自分達を不安視していたのも頷ける。大人になれば、人との関わりは避けて通れないものだから。


 雲雀との出会いがあったからこそ、そう考えられるようになった。倒れた彼を助けようと思ったのも、そういう変化が関係するのかもしれない。


 本当にどうしてだろうか。初めて雲雀と出会った瞬間、本能的に悪人ではないと理解した。


 声を聞いたから?

 校舎間を跳ぶ姿を見たから?

 調理室で『Z』と戦うのを見たから?


 分からない。彼と直接話したのも僅かな時間でしかない。なんなら、南奈達に説得した時点では会話すらしていなかったはずなのに。


 だからなのか、彼の事をもっと知りたい。もっと話したい。もっと関わりたい。もっと信じたい。


 こんな気持ちにさせる彼に興味が湧いてくる。ゆい の左胸が妙な弾みをした。何かの情が沸き、動悸を打ち始める胸を珍しそうに手を当てる。


 特別な感情を抱いている。それは言葉で表すのには余りにも不鮮明だが、この気持ちに今までの拒絶などない。




「──っ!!まずい!」




 何か視界に入ったのだろうか、突然と血相を変えた雲雀が前席へ走っていく。ゆい は走り去る彼の背中を目で追いかけ、その行き先が運転席の近くにいる詩織と運転する先生なのだと理解する。



 問題は彼が動くほどの事態が起きていることだ。ゆい が気付かない何かが、それこそこの場にいる全員の生命に関わることなのか。



 それは、前触れもなく襲ってきた。



 ──ッ──ッ──ッ──ッ!!!!!


 四発の凄まじい乾いた音ともに車両が左に移動し、例外なく乗っていた数十人は右へ吹き飛ばされた。なんとか座席にしがみ付いて窓に激突するのを避ける人もいれば、そのまま激突して怪我を負ったのも数人におよぶ。


 運悪くその数人に含まれた ゆい は、窓に激突した事で鼻血が止まらなくなっていた。鼻の骨は折れていないが、それでも痛みとしては強烈なものだ。ましてや折れた指が倒れた衝撃で元に戻っていることにも気付かないくらいに。


(──違う。そんな事はどうでもいいの!)


 痛みがどうか、他の人の怪我の具合なんて今は些細なことだ。ゆい は痛みに耐えながら鼻を押さえ、運転席の方に目をやる。偶然にも一部始終を見てしまった彼女は居ても立っても居られなかったからだ。


「卯鶴生徒会長さん!」


 運転していた教師は頭を()()()()ことで既に絶命し、詩織は流れ弾が命中して倒れたが生きていた。致命傷にならずに済んだのは、運転していた教師が咄嗟に庇ってくれたからだ。しかし、致命傷は避けられたとはいえ銃弾を受けた痛みは容易に体験するものじゃない。


 脱臼や骨折とは違う。体内を破損させるように徐々に広がってくる気持ち悪い感覚。

 そんな激痛を味わい、意識が朦朧とする中でも彼女はハンドルがこれ以上回らないように刀で回転を止めていたのだ。


 横転しなかったのも彼女の決死の判断によるもの。それを良いと思わない元凶は銃口を詩織に向ける。


 なんとかして注意を向けさせることはできないだろうか。ゆい の脳裏に過った瞬間、考えるより先に行動を移した者が二人いた。


 雲雀は走った勢いでそのまま窓に体当たりして、窓ガラスの破壊と同時に元凶を突き飛ばす。もう一人の沙月は弓を番えるのではなく、詩織を守るように自分の体を盾にする。


 互いの意思の疎通はなく、己の役割を把握した結果だ。


 サイドミラーを足場にしていた元凶は突き飛ばされたことで、バスよりも後方へ転がっていった。単なる人間なら地面と転がった衝撃で重傷は免れない。速度が出れていれば更に命の危険さえもある。


「誰か、運転を頼む!」


 雲雀の表情から安堵が読み取れない。危機は去らない。脅威が迫る。遅れてきた教師に運転を任せて、彼は席に佇む ゆい 達に向けて叫ぶ。


「窓から出来る限り離れるんだ!」


 窓と言われても四方が窓の乗り物に離れた場所なんて限られる。皆は彼の言葉に戸惑うのも無理もない。


 その直後、窓の外に人影を目撃した。


 鈍い破壊音とともに一枚の窓ガラスを突き破り、その存在が露になる。狂ったような不気味な笑みを浮かべて窓枠を掴んで身を乗り出したと思いきや、そいつは手始めに近くにいた生徒を掴む。



 生徒の抵抗は虚しく、体を軋ませながら引き寄せられ、そのまま首に齧り付く。



 涙を流しながら悲鳴を上げる生徒をひと噛みで解放するが、出血の量は太い血管の損傷を表していた。


 そして元凶、いや少女は血の付いた口元を拭わず、今度は真っ赤になった歯を剥き出しながら笑い、取り出した銃をこちらに向ける。





「さあ、パーティーの始まりだぁ」





 銃を乱射する。発砲音と硝煙と悲鳴が地獄絵図を作り上げる。しかし、撃たれる瞬間に ゆい は南奈と舞花を床に押さえ込んで、弾幕を回避していたのだ。


 これから起こる悲劇に身の危険を感じたのは事実だが、行動に移せたのは雲雀の補助があってこそ。彼の指示がなければ、三人も巻き込まれていたかもしれない。


「ふぁふぁふぁ、あははは、ぁあぁあ滑稽滑稽。校舎から離れられたから安心かとぉ思っていた場所がこうも地獄と化すと、人間ってぇどんな行動を取るんだろうねぇ。神室雲雀(英雄さん)


 少女の意図が読めない。銃を乱射をしてもそれで死者が一人も出ておらず、撃たれたのは腕や肩といった痛みはあるも歩行が可能な箇所ばかりなのだ。


 ゆい にはそれが違和感しかなかった。匠海の時は距離が離れていただけでなく、『Z』による遮蔽物もあった。なのに、匠海の腹を銃弾を貫いた。


 少なくとも銃の扱いには長け、命中率もそれなりの持ち主なのは分かる。


 その相手が至近距離の標的を一人も殺すことができないのはおかしい。おかしいからこそ、何かがある。それは少女の言葉の中にも潜んでいる。


 すると、噛まれた生徒が這いつくばりながら少女から離れようとする。流血は止まらない。一刻も早く手当てをしなければならない。近くにいた腕を撃たれた教師が少女に警戒しつつ、生徒へ寄りかかろうとする。


「駄目だ、彼女から離れるんだ!彼女は、彼女はもう…!」


 雲雀は危険を知らせるが手遅れだった。


 手を伸ばした教師の腕に生徒は噛み付き、教師の悲鳴が反響する。引き剥がそうとするも生徒は抵抗するように、腕を両手で掴んで離そうとしない。その間にも喰ら付く勢いは増し、教師はくぐもった声を漏らしながら助けを乞う。


 やむを得ず近くにいた教師が取った行動は、両腕をナイフで斬り付いて無理矢理引き剥がそうとする。


 生徒の変化に恐怖を覚えたのか、斬り付くまでの行動に迷いがなかったように見える。


 そのおかげで抵抗の力が弱くなったところを、教師二人掛かりで隣の座席に突き飛ばす。あまり良くない響き音が聞こえたが、生徒は動じることなくゆっくり立ち上がった。


 乱れた髪を整えるわけでもなく、動揺する様子でもなく、それが当たり前かのように唇に付着した血を舐め回す。


 不気味に下りた両肩に猫背が加わるだけで、それはもう恐怖を象徴する。低い呻きを漏らす生徒はゆっくりと顔を上げ、噛んだ教師に再び襲いかかる。



「ァァア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!」



 モーションのない突然の出来事に対処もなく、教師の抵抗も虚しく肉を食い千切られる。隣にいた教師は怖気ついて腰を抜かし、巻き込まれまいと徐々に離れる。


 あまりにも驚愕な光景に唖然とする。幾度も噛まれた人が『Z』に変わる瞬間を目撃してきたはずでも、感染者以外に噛まれたことで『Z』になることに衝撃が走った。


 世界で認知している情報と体験して知った情報の二つにもない。全く未知なる情報が目の前に飛び込んできたのだ。


 悲鳴のない時間が訪れる。その反応に少女は満足げに高笑いをする。容姿は普通の少女、だけど正体は『Z』という受け入れ難い真実を前に絶望する。


 ゆい は思い出す。初めて対面した駐車場で起きていた少女を取り巻く環境。銃を発砲しても『Z』は見向きもせず、溶け込んでいるというよりも『Z』として奴らは認識しているかのように。


 そして、なにより首を掴まれた時の衝撃。あれが一つの可能性を見出せていたことが南奈や舞花、沙月と詩織などの人達が受ける衝撃よりも和らいだ理由になるかもしれない。


「最初はぁ優秀な生徒さんにぃ邪魔されて苛ぁ立っていたんだけどぉ、まさかこんな最&高ぅな状況になるとは今ではぁ感謝しているぅくらいだぁ。さあさあさあ、大変なことになっちゃったよぉ?あの子達を助ぅけるのかぁ、その子達を守るのかぁ。でも命の重さは平等なんでぇしょ?だったら、全員を救ってみーてーよぉ。こっちもいっぱい邪魔してあげぇるからさぁ、ねえ?ねえ?ねえ?」


 窓枠に座り込む少女は無邪気な子供のように足をバタつかせ、雲雀に選択を迫る。襲われる教師達を助け、この場にいる全員を守ることは状況的に不可能だ。


 少女が誰一人として殺さなかったのは、痛みで声を上げさせて襲わせる目的なのだろう。雲雀が『Z』を対処すると ゆい達を殺し、ゆい達を守り続けると『Z』が量産される。


 最高のシナリオが少女の中で組まれ、それを実現するためなら手段を選ばない。自分が満足するまで弄び続ける少女の性格からすれば、これはただのエンターテイメント。楽しさ以外、少女にはない。


「あっ、そうそう。一個言い忘れたけどぉ、私ね…銃の扱いが下手でね。蛇行運転しぃたり、急ブレーキをかけられるぅとぉ誤って殺しちゃうかぁもしれないからぁ。気を付けてねぇ」


 銃を見せびらかす少女は、この場にいる人達は自分の掌で踊らさせられていることを主張する。隙あれば先手を打とうにも銃とナイフとでは差がありすぎ、投げようとする頃には既に弾は肉を抉り取る。


 だから、動かない。動けない。背中で語られる彼の焦りが、ゆい達を不安にさせていく。


「神室さん…」


 逼迫したプレッシャーが伝わり、背筋に伝う怖気だけが感触に残る。猛烈な死の気配が幼い少女の形をして居座るだけで、止まらない汗は背中をびっしょりにさせる。


 打開策はどちらかを見捨てること。そうすれば状況は動き、雲雀もこのプレッシャーから解放されるのだが。それは許されない。助けない命なんてないのだ。

 

それをゲーム感覚で楽しむ少女には鬼畜という言葉が相応しいほど、暴虐の限りを尽くしている。命の重さなんて踏み潰すくらいのものしか思っていない。


「だんまりはぁなしだよぉ。何か行動を起こぉさないと死んじゃう人ぉが増えるだけだしぃ、メリットなんて一つもないんじゃないのぉ?早くぅ早くぅ早ーく。……そっちが動かないのならぁ、こっちがカウント五秒後ぉに一人ずつ殺しちゃうよぉ?」


 あまりにも期待通りに動かない雲雀に対して、焦らし飽きた少女は選択の余地を与えさせない方法に切り替える。カウントを数え出すと銃口も移動する。誰にしようかと、楽しそうに選ぶ少女はやはり狂人以外の言葉が見つからない。


 意識は覚醒しているはずなのに、張り詰めた空気に飲み込まれ、吐き気や目眩がする。高鳴る心臓の鼓動は死への拒絶を示し、雲雀の背中に寄り掛かる。


 何とかしてくれる。そんな淡い期待が ゆい の中で渦巻く。伝わる彼の鼓動に身を預けるしかなかった。


「ほらほらぁ、早くしないとぉ誰かが死んじゃうなぁ『四』英雄さんはぁ手の届く人しか救えなぁい『三』ただの口先だけのぉ哀れな気取り野郎ぅかな『ニ』はぁ、がっかりだよぉ。英雄さ────ッ!!??」


 少女の声が途切れた。車両から落ちたわけでもなく、銃に何かしらの不具合が起きたわけでもなく、顔面に何かをぶつけられたからだ。


 顔面を主に目を押さえ付けているというよりも、擦って異物を取り除こうする動き。少女の身に起きたイレギュラーはカウントを止めるだけでなく、視覚を奪うことができた千載一遇のチャンス。


 ゆい達は視界の端から現れたのを目撃していた。何かとまでは分からないが、首を捻り、それを行った存在を目で捉える。


「枝邑さん…」


 意外さがあって、声が出たのは雲雀だった。

 そんな喫驚する彼を他所にスリングショットを手にする沙月は目を見つめ、「行って」と口が動く。彼女が『Z』の相手し、雲雀が少女の相手をする。それが選んだ答え。


 一瞬の葛藤があった。


 沙月は戦闘員ではないただの一般市民で、普通なら守らなければないならない存在。それでも彼女は彼女で譲れない守らなければならない存在がある。


 ゆい達を見て、葛藤した自分を振り払い、戦うという選択肢を取って生き残るために武器を取る。



 彼女の意思を、彼女の願いを裏切らないように雲雀は飛び付く。



やっと掴んだ好機を逃すわけにはいかない。銃を持つ手を掴み、胴体を押し込んで窓から突き落とす。自分諸共、身を投げて ゆい達から脅威を引き離そうとする。


 しかし、少女は掴まれていないもう片方の手を窓枠に掴み、落下を凌ぐ。結果的に地面に叩き付かれることはなく、車両側面に打ち付け、互いのダメージは軽傷にもならない。


 雲雀はすぐさまワイヤー銃の鉤爪を車両に撃ち込み、自身を固定しようとする。重力に逆らえない体は車両を伝って落ちていき、最初に雲雀の足が地面と接触したからだ。


 靴底が摩擦で削れていき、焼けた臭いが鼻を突く。バランスを崩して転倒すれば、重傷程度で済むものではない。何より少女が上で雲雀が下の状態にでは意識してもその危険性も増す。


 そんな危機的な状況下で、視界が回復した少女は動き出す。塞がった両手は置いとき、膝で雲雀の腹にめり込ませて、車体に打ち込んだ衝撃でボディーが凹む。


 込み上がってくる血の匂い。腰を捻り、なんとか膝蹴りによる圧迫から体を解放するが痛みは残る。


 すると、少女は窓枠を掴んだ手を離した。突拍子のない判断かと思いきや、片足で地面を一蹴り。


「う……!?」


 一瞬の衝撃と浮遊感が襲う。視界は空が広がり、片隅に少女が笑みを浮かべていた。自分に起きた事態を理解するのに時間はかからず、思考が再起動する。


 バスよりも高く、そして前へ。走幅跳び選手でも高跳び選手でも憧れる跳躍を魅せた少女。雲雀は自由が利く右腕で体勢を取りながら抵抗を試みようとする。

 幸いなことに先に撃ち込んだワイヤー銃が少女の跳躍を制限でき、屋根から高さ数メートルしかなかった。着地に失敗しても大怪我は避けられる。


 なのだが、少女はそれを許さない。高く上げた握り拳は抵抗しようとする雲雀の手が届かない。咄嗟にわざと体勢を崩して攻撃を回避しようとするが、振り落とされる拳の方が早かった。


 骨が軋む感覚、内臓が圧迫される感覚、あらゆる痛覚が引き起こされる。空気を裂きながら下へ吹き飛ばされる体を、ちらつく意識下の中でまともに受け身を取れる自信がない。


 少女は遠のき、視界に五体が映り込む時には車両の天井を押し潰す。衝撃からの呼吸困難、内部損傷からの吐血、激痛からの震える声はどれも吸うタイミングなんてなかった。


 少女は後方へ着地する。すぐに次なる手段を取らないのは気まぐれによるものなのか。

 どちらにせよ、体勢を立て直すには充分な猶予だった。お陰で口元の血を拭い呼吸を整えることができ、鉄の味が残る口に嫌気が差しながら対峙する。


「守るものがぁ多いと本当にぃ疲れるよねぇ。どうしてぇ自分がこんな目に、どうしてぇ自分ばかりが傷付かないといけないのかぁ、どうしてぇ他人を守らないといけないのかぁ。いいんだよぉ?英雄さんがぁ苦労しなくても結局人類は滅びるぅ運命、守る必要なあまんてないんだからぁ」


 揺れる車体に体が泳ぐことがない驚異的な平衡感覚で立ち続けるが、少女の意識は手元で遊ぶ銃に集中していた。目の前に雲雀がいるのにも拘らず、まるで万全な状態に回復するまで待っているかのように。


「君の意見は分かった…それで、それが俺が諦める理由になるとでも思っているですから?生きようと努力している人を助けるのは当然だし、そうじゃなくても人を助けないのはおかしい」


「なら思わせてぇあげちゃうよぉ。死にたくて死にたくてしょうがないくらいにぃ、これでもかというくらいに絶望へ堕としてあ•げ───


 銃を持ち直す瞬間、雲雀はナイフを投擲する。しっかり握られる銃把グリップと弾き金にかかる指を目撃し、発砲される前に向けられる銃口を逸らす。

 

掴むために視線がナイフへ移った瞬間を見逃さず、一気に距離を縮める。少女はナイフを素手で掴んで防ぐが、出遅れた反応を『Z』の力で補い銃口を再び向ける頃には、目の前で雲雀が次なる一手を仕掛ける瞬間だった。


 少女が掴むナイフごと押し込み、肩へ突き刺す。それでも歪まない表情は『Z』特有の痛覚という概念が存在しない証拠。しかし、痛みを感じなくても体には負傷した事実は残り、動かしづらくなれば動かせなくなったりする。


 ただ唯一の想定外は勢いのまま押し倒し、少女に不利な状況を作るまでが目的だったのだが。押し倒すどころか直立不動の姿勢は保たれたままだった。


「あららぁ、刺されちゃったよ。痛いなぁ痛いなぁ、か弱い乙女の体に傷を付けるなんて最低ぇ。責任とってもらわないとなぁ」


 少女は不気味に笑みを浮かべると、上半身を捻る。一番阻止したい武器を持っている手が一番遠い位置に移り、更に懐に飛び込む必要が出てしまう。罠と知りながらも、危険と知りながらも対処しなければならない。


「ッぐゥ!!」


 予測は的中する。少女の腰の位置から三発発泡。予測していたとはいえ、弾道予測は間に合わず、反射的に身を屈めて対処するも、一発の弾丸が横腹に撃ち込まれる。


 くぐもり声を漏らしながら少女の膝に拳を打ち込み、バランスを崩した所に服を引っ張って強引に天井へ叩き付ける。


 それでも足りない。少女は弾数を惜しむことなく、立て続けに乱射して雲雀との距離を確保する。少女自身も接近戦を避ける為の処置として、やむを得なかったのだろう。


 殺意のない銃弾でも避けるには体力もいるし、体を使わなければならない。横腹の傷口は広がり、全て避け切った後に訪れる激痛には耐れることができなかった。


 膝を着いて押さえ込んでも止まらない血液を見ては、自分の限界が近いことを悟る。少女は動かない雲雀を前に弾切れのマガジンを落とし、新しいマガジンを装填するまでの時間が作れた。


「痛くてぇ痛くてぇ痛くてぇ痛くてぇ痛くてぇ痛くてぇ痛くてぇ痛くてぇ、疲れちゃうでしょ?意識を保つのも大変だしぃ、いっそ楽になったらぁ全ての重みから解放ぉだってされるよぉ?全部ぅ、私に任せされればいいんだぁ。彼女達のこともぉ英雄さんのこともぉ、この世界の行く末さえもねぇ…」


 下を差し、雲雀を差し、そして手を広げて世界という大きな存在を表現する。


「まぁ、私が手を加える前にぃ全滅するかもだけどぉ。…それにしても彼女達ぃを置いて英雄さんは私と戦っといていいのぉ?心配ならぁ助けに行ってもいいんだよぉ。もちろん、私の邪魔付きぃ」


 可愛らしくウインクや仕草を混ぜて、少女は色気を使う。ただ持っている物が銃でなければ、可愛い少女として振る舞えたはずだった。


 するとモーター音が響き渡り、落下を防ぐために車体に撃ち込んだはずの鉤爪を巻く。


「自らの命綱を断つなんてぇ…馬鹿じゃないのぉ?」


「君と戦うのに動きを制限しては勝てないと思っただけだ。馬鹿かどう、かは自分の目で確かめみればいい」


 両手にナイフを構え、横腹の傷に見向きもしない姿勢で、揺れる車両に立つ雲雀。少女は口元に付いた血を拭い、少し変わった構えに興味を示しながら銃口を向ける。


 何かがくる。そんな期待が笑みを浮かばせ、共通の合図のない、互いのほんの些細な動作が火蓋を切った。




 ────○────○────○────○────




 銃声と天井を踏む音が室内に響き、上の戦状が激しさを増していることが分かる。しかし、上だけに注意を向ける暇なんてない。避難誘導で運転席側の方へ移動する中で一体の『Z』に気付かれ、襲いかかってくる所を矢が頭部を射抜く。


 続けて襲う『Z』には矢を番える暇もなければ、矢を抜く暇さえもない。蹴り飛ばして距離を稼ぎ、番える時間を確保しようにも更に一体が迫って抜けない。


 生徒に噛まれた教師が『Z』化し、他の教師や生徒に襲いかかって数を増ふやしていっている。怪我をした詩織は動けず、弓矢を持った沙月が対処にあたっているが、番える時間が惜しい。


 少女の脅威は雲雀に任せ、車内の「Z』の相手する選択を取ったものの、これでは意味がない。


「枝邑先生、これを使ってください!」


 状況を理解した詩織は自身が持っていた刀を投げ渡す。一瞬『Z』から視線を外し、受け取った時には室内にいる三体が彼女達の位置を捕捉する。


 声を上げたのが原因だろうが、刀を手にした沙月にとって弓とは違う立ち回り方になる。まず先頭の一体に首から腰まで深く斬り付き、倒れた個体を押し退ける一体に下から上へ斬り付ける。


「アアアアアア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!」


 無力化した個体をさらに押し退けて、体を無理矢理ねじ込もうとする。


 心臓が、筋肉が萎縮する。まだ二体目の肉に残る刀身では三体目を斬り付ける間合いがない。だから脳裏に身を呈する考えが浮かぶ。雑誌を巻いた左腕で噛ませれば、少なくとも時間は確保できる。問題は腕が衝撃に耐えれるかだ。砕かるか、折れるか。


「ッ!?」


 天井から銃声が鳴り響き、『Z』がそちらの方へ耳を傾ける。その影響は大きなものだ。勢いの低下どころか足を止めてくれたことで、最後尾の一体を首に斬り付けられた。最後に最初の一体が急所を外して再び襲いかかろうとした所へ頭部を突く。


 三体の『Z』が完全に動かないことを確認して、沙月は止めた息を一気に吐き出した。安心したからの震えなのか、それとも刀に伝う生肉を切ったかのような感触による震えなのか。


 一度、周囲を把握する。怪我人を含め、生き残った人の様子を見るまでは緊張した体が解れそうになかった。鼻血を流す ゆい は舞花に手当てをしてもらい。流れ弾が左腕を貫いた詩織は雫に手当てをしてもらっていた。


 その他に怪我を負った者達は、互いに手当てをし合いながら軽傷か重傷かを見る。助けられなかった『Z』化した三人と、車両が左へ大きく移動したことで吹き飛ばされ、当たり所が悪く亡くなった四人。


 大きな爪痕を残して、これでも脅威はまだ上にいる。簡単に感情を切り替えることは難しいのかもしれないが、何はともあれ助かった。今はそれだけでも緊張を解せる理由である。


 沙月は天井を見上げ、激化する戦闘を足音だけで聞き分け、油断した所に銃声が鳴って肩をびくつかせる。


 戦闘は続いている。それだけで彼が生存していることは分かる。唯一不安なことは、情勢が不明な点。重い軽いの足音だけでの判断は体勢次第で変わってしまう。


 ここから行える支援は当然ないだろう。


 優勢なのか。劣勢なのか。


 それを知る術はなく、祈る以外ない。


 優勢であると願いながら、揺れる車両の座席に体を預ける沙月に南奈が駆け寄る。


 ────その時。

 重量のあるバスに横方向の衝撃が加わり、大きく揺れた。安堵していた分、床や座席に座っている者達は反射的に物に捕まり、動揺の色を剥き出す。ついさっき『Z』による恐怖から解放されたというのに、立て続けに脅かされる命の危機。


「枝邑さん、来てください!」


 運転している教師が声を上げる。沙月は立ち上がったことで状況を理解し、外の様子を見ながら運転席まで進む。


「数は増えてる?」


「増えてます、それも徐々にというより急に」


 校門に近づけば近づくほど『Z』の数は増えていくとは思っていた。生徒が逃げるために四ヶ所の出口には人が殺到し、それを聞き付けて集まってくるからだ。もっとも学園内だけで起きていればの話だが。


 壁外の事態を把握する術がないからこそ、何が起きているのか分からない。仮に壁外もこのような状況になっていれば、避難所としても登録されている学園に避難民が大勢押し寄せる。


 何も知らない避難民に待っているのは地獄。助けたいという気持ちが薄れるほどに。


「これは不味いと思います。この辺りがこの数なら校門付近は倍以上はいるはず、バスで突撃しても密集していたら失速どころか停止してしまいます」


「つくづく何で創設者は出入口を四ヶ所しか作らなかったのか、本気で恨みたくなるわ。でも嘆いていても仕方ない…私達はできる事をやるしかない」


「そうですね。あの子達だけでも救わなければ」


「自分だけが助からなくてもっていう考えは駄目だわ。みんなで生き残れるように互いが助け合わな、っ!城門寺じょうもんじさんブレーキブレーキ!!」


 城門寺は前方からの危機かと思い、急ブレーキをかけながら前を向くが、沙月が指したのは前方でなく右方だったのだ。すぐに右へ振り向いた時には、既に跳んで来た『Z』が窓ではないフレームに激突し、血を飛散させながら路上に垂れ落ちていた。

 もう少しズレていたら窓を突き破って、自分が被害を受けていたに違いない。それこそ軽傷とか重傷とかでは済まない結果になっていたかもしれない。


「いたた…み、みんな…大丈夫?!」


 声をかける暇もなく、急ブレーキをかけてしまったため被害は無傷とはいかない。座席に座っていればある程度の衝撃には耐えられるが、通路にいた者は前へ転がってしまう。


 止まるわけにもいかず、周囲を確認したのち再び走り出すと後ろの方で。


「な、何…どうして止まったの!?なんで、なんでなんでなんで!?」


結菜ゆうな、落ち着いて…。大丈夫、私が傍にいてあげるから」


 座席で背を丸くして恐怖に顔が上がらない結菜を宥める絹代きぬよ。しかし、その背中を撫でる手は恐怖による震えが心境を表す。怖いのは皆同じこと。それでも彼女はそれ以上に恐怖を抱く結菜を放っては置けなかった。


「ほら…呼吸が楽になったでしょ?焦らなくて良いから、自分のペースで落ち着こう。今は色んな人に迷惑をかけて良い…怖いのは皆同じ。誰もこの状況を理解できていないんだから」


「絹ちゃん、絹ちゃん…。どうして、どうしてこんなことになったの…私達はただ普通に生活していたのに、ただ普通に楽しい毎日を過ごしていただけなのに。なんで、あいつらは生まれたの?あいつらさえいなければ、こんな酷いことにな


 事は自然の出来事かのように、ガラスの甲高い音が割り込んできた。飛び散った破片から身を守ろうとしたが、それと同時に絹代は突き飛ばされる。訳もわからず、衝撃で通路まで飛んだ体を調べるよりも先に結菜の事を気にかける。


 自分に起きた事が彼女にも起きないはずがない。顔を上げて、彼女の安否を確かめるが。上げた途端、絹代の顔は真っ青になった。


「結、菜…」


「あ…あ゛ぁ、ぁぁぁぁ。…ぎぬぅちゃ、ん……」


「嫌…待って、行かないで……!」


 ガラスを破ったのは『Z』であり、上半身には破片が刺さって痛々しさを残すが、その口はしっかりと結菜の首を噛み付いていたのだ。制服は彼女の血なのか、『Z』の血なのか血塗れになり、命を奪うのには十分すぎる出血量だった。


 呼吸が浅く、ごぽごぽと泡立ちながらも彼女の必死の叫びと伸ばす手を絹代は掴もうとする。


「駄目!」


 近くにいた ゆい がそれを阻止する。どんなに苦しくても悲しくても手を掴めば、彼女に噛まれるのは必然だ。首を噛まれれば少なくとも脳はすぐに感染する。恐らく一番早い感染パターンだろう。


 掴まれた怒りで絹代の表情に殺意が浮かぶ。


「離して!今ならまだ間に合う…きっと間に合うに決まってる!」


「何をしても一度噛まれたら感染は避けられない!それは貴方も知っているはずだし、これから起きる事も分かるでしょ!」


「お願いだから助けさせて!もう、嫌なの…失いたくない。ずっと一人だった私が、ようやく手に入れた幸せを奪わないで!」


 感情だけが先行して冷静さを失った彼女に、床に押し付けられて首を絞められる ゆい。躊躇もない正真正銘の殺意だけで邪魔者を排除しようとしていた。


「あああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!」


 ゆい に意識が向かれている間に『Z』が結菜をバスから引きづり落とす。縁に残ったガラスに彼女の肉片が取り残され、猟奇的な殺人現場を作り上げて姿を消す。絹代は一目散に窓に駆け寄り、汚れる制服を気にも留めずに身を乗り出した。


「いやああああああああああああ!!」


 勢い余ってとかではなく、本当に連れて行かれた結菜を追いかけようと半分以上、身を乗り出したのだ。殺されかけたとはいえ、本来の目的は絹代を止める事。


 ゆい は落ちかける彼女を引っ張り上げようとするが、暴れて思うように上げれない。そこに追い討ちをかけるように一体の『Z』が走り込んで来る。その周囲には夥しい数の『Z』がいて、他に走り込んで来る奴はいないが、一体だけでも十分脅威だ。


 焦る中でも、これ以上落ちないように維持するのが限界だった。『Z』は更に追い討ちをかけ、走り込んで来る『Z』が飛び込んで来きたのは予想外だった。しかも、恐ろしい事にバスが進むタイミングをきちんと把握した上で、ゆい達がいる窓に飛び込む。


 それが成功する可能性なんて数十、数百回実践して一、二回の確率。そんな低確率の可能性が何故か、成功すると直感した ゆい は更に焦りが積もる。


「ゆい、あたしがこっちを持つ」


「私はこっちを持ちます」


 すると、応援に駆け付けた南奈と舞花が絹代の体を掴む。三人分の力でタイミングを合わせながら引き上がようとするが、すぐそこまで『Z』が迫る。あまり時間をかけている暇もなく、南奈が歯軋りを立てながら。


「あぁ、くそが!あたしが一気に引き上げるから、二人は腕を持ってくれ!」


 そう言って絹代の制服を掴むと、暴れようが持ち前の筋力で一気に引き上げる。上体が反ると二人が掴んでいた腕を引っ張り、なんとか室内まで入れる事が出来た矢先。


 飛んで来た『Z』が窓枠を歪ませる程の衝撃と共に、室内に侵入してくる。運が悪く着地時点には生徒が一人座席に座っており、女子生徒からしては一瞬の出来事だっただろう。


 バスの揺れが衝撃がいかに凄まじかったのかを物語り、押し潰されて中身が出た残骸に目を背けたくなる。


 しかし、『Z』は健在だった。膝は曲がり、腕も逆方向へ曲がる程の衝撃でも死なない生命力。


「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛アアアアアア!!!」


 室内に響く雄叫びに再び恐怖の時間が始まる。


「不味い、入ってきたわ!」


 詩織は利き手を負傷した事で十分な戦闘は出来ない今、動ける者は沙月以外いない。しかし、押し寄せる人の波に番えた矢を放つどころか、近づくことさえも出来ない。


 そんな人の波に南奈達がいない事に気付くと、血相を変えて掻い潜ろうと試みる。ただでさえ、狭い空間に密集されると手を人と人の隙間に入れるのも苦労する。


 進まない体に苛立ちを覚える中、恐怖は加速する。


 突然、運転席の方からガラスが割れる音が聞こえる。沙月は真っ青になった。想像したくない。今、起きるべきではない。その直後に車両が小刻みに左右に揺れ、次第に大きくなっていくと手すりに体を預けるようになる。


 バランスを保ちながら急いで運転席に戻る沙月の視界に広がるのは、先程まで居たはずの城門寺の姿はなく、残された手だけがしっかりハンドルを握り締めていただけだった。


 運転席のドアガラスは中心から大きく破壊され、座席に散らばったガラス片と水溜りのように血が残り、吐き気が込み上がってくる。


「ああああああああああああああ!!」


 それでも吐いていられないほど状況は切迫していた。叫いて無理矢理押し殺した吐き気。喉に気持ち悪さを感じながらも運転席に座り込んで直進を保とうとハンドルを握る。


 南奈達を助けに行くことも、生き残っている生徒を守ることも出来なくなった。クラッチ操作のバスは学生には運転は困難だから沙月以外の適任者はいない。


 みんなを救う方法が何もない。この運転を止めれば、周囲の『Z』に囲まれて全滅。運転を続けても室内にいる南奈達や生徒達は侵入した『Z』に全滅。


「いや……待っ、て…。なんでなの…なんで……」


 気が付けば涙を流していた。希望さえもない脱色した風景に絶望に打ちのめされたのだ。怒りが湧く。ギシギシと歯軋りを立てながら、自分自身の不甲斐なさにハンドルを何度も何度も殴る。


 もう会えなくなるかもしれない。


 十年という歳月は本当に短かったと今でも感じる。出会った頃は小学生だった三人を育てることは、けして楽なものではないと思っていた。


 実際に酷いものだ。近付こうとしただけで威嚇され、しまいには物を投げられて色々と滅茶苦茶だった。子育ての大変さは母親から聞いてはいたが、事情もあって更に過酷なものとなっていた。周囲に経験者がいなかったこともあり、見よう見まねでやっていけば失敗も多かった。


 同居人の名織(なお)と相談して協力しながら、やってきた十年。


 時間をかけて、三人は少しずつ心を開いてくれて、ようやく幸せと感じさせることが出来たと実感している。向けられる笑顔、向けられる好意が本当に堪らなく嬉しかった。


 何より、この十年で自身の心境の変化だってあった。最初は子育てを嫌々承諾して、生きていく上で必要な知識や常識などを教えるだけの教師と生徒のような関係から始まった。


 時間が経過していく内に色々な困難があり、辛い時期が長く続いたこともあった。それでも互いが助け合って乗り越えいく内に三人を心の底から愛し、大切な家族だと認識してしまったら、もう手放したくなかった。


 なのに、現実はそれを奪おうとする。


(誰か、誰でもいいから。私の代わりに南奈達を助けて…お願い)


 願望は届かない。唯一の可能性があった雲雀でさえいない中で、この状況をひっくり返す人なんていない。



「――――――ッッ!!!!」



 すると、咆哮が後ろからした。その直後、激しい音ともに『Z』の呻き声が震える。沙月はルームミラー越しで後ろで起きている事態を把握しようとすると。


「ご、郷道さ…ん」


 姿が映ったのは致命傷を負ったはずの匠海が、南奈達を助けるために『Z』と戦っていたのだ。下側の状況は見えないが止めを刺そうと、大きく手斧を振り上げている。しかし、『Z』は暴れて彼が天井にまで吹き飛ばされた光景には声が漏れる。


「っが、あばっ…!はぁはぁはぁ、まだまだぁぁあ!!」


 床に落とされる匠海の傷口は激痛が走るに決まっている。そればかりか動くだけで傷口は開き、出血は止まらなくなり命が刈り取られてしまう。それを本人が一番理解しているのにも拘らず、隙を見せないように直ぐに立ち上がって『Z』に掴みかかる。


 そのまま持ち上げると座席に叩き付けたり、窓に叩き付けたりと何度も攻撃を行い『Z』を怯ませる。元々、手足が使えない『Z』は匠海に掴むこともしがみ付くことも出来ないため、抵抗の力は弱い方だ。


 そうして絶えず攻撃を繰り返していくと、ダメージの蓄積で『Z』が動かなくなった。単純な力任せとはいえ、無力化に成功したのは大きなこと。


 沙月の胸にのしかかった絶望が軽くなり、気が付けば安堵のため息を大きく吐いていた。南奈達が助かったことと他の生徒達も助かったことの、二つの感情が同時に表れる。


(ありがとう、本当に…ありがとう郷道さん)


 止まらない涙に止まらない感謝の思い。


 霞む視界に何度も袖で拭っても頬まで伝い続ける。何とかして泣きじゃくった顔を見せないように止めようとするが、ルームミラー越しで沙月に手を振る三人の姿を見るなり、嬉しさが加速して結局止めることを諦めていた。

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