第11話 『「Z」に潜む異質者』
「皆、急いで!!」
群れを成す犬型の『Z』の猛威から逃れるべく、沙月と他の教師達によって場所の移動を開始した一同。
片思いだった柚季の別れを、告白を済ませた匠海は手斧を持って合流する。涙とともに赤く腫れた瞼が表情に悲痛さを与えさせ、ゆい の視線に気付いた彼は服の裾で涙を拭う。
ゆい にとって昔の記憶が引き出される要因となっていた。
鮮明に、両親の死を。南奈が『別れ自体が出来ない事だってある』と言っていたが、それは自分が経験したからこそ何か思う所があったに違いない。自分達は死の間際ですら親の顔を見る事なく、悲鳴だけが鼓膜を震わせて走り続けた残酷な別れ方だ。
「───っい」
何か引っ掛かりを感じると頭痛がまた襲った。過去の記憶を思い出す度に痛みを引き起こすのは嫌な部分が存在するからだろうか。
そんな記憶の中に現れる一際存在感を見せる黒い影。輪郭もぼんやりしており、そんな情報量だけでは男性なのか女性なのかの区別も付かない。
やはり結果的に拒絶反応からくる一種の自己防衛なのだろう。
今までそんな事はなかった。何かの拍子で記憶が刺激されたのならば、間違いなく『Z』の出現がきっかけとなる。一年も死と隣り合わせで生活を送り、あれから九年が経とうとしても根強く残った恐怖は奥底から蘇る。
「はぁはぁ…ゆ、ゆい、大丈夫?」
「え?あ、うん。…大丈夫なの」
痛みで頭を抱えたことで心配した舞花が声をかけてくる。今の状況でも不安しかないのに更に不安にさせる訳にはいかないと笑みを浮かべものの、舞花の愁眉は開かないままだった。
「貴方達、もう少し前との距離を詰めて。それと私語も慎んでほしいわ」
そんな短い二人のやりとりに注意した教師は少し怒りの色を表情に出していた。余裕さえもない現状に感情の制御は難しい。少しの不安を感じるだけで言葉に力が込もってしまい、それが怒っていると周囲が思い込む。
そういう人達を見てきた ゆい達は教師の精神面を悟りながら「すみません」と頭を下げる。
「分かればいいのです。こういう状況だから仕方はないけど我慢して生きることが出来れば、きっと日常は戻っ───バギャンンン!!
周囲の警戒を怠った一瞬、ゆい達の死角から突如として現れた犬型の『Z』が教師の足に噛み付く。
勢いのある回転力を持ったまま数秒の浮遊後、体は地面に叩き付かれる。教師の姿が視界から消えたことよりも体と地面が奏でる鈍い音に襲われた現実感を認識させる。
返り血を浴びた ゆい と舞花が息を呑んだと同時に前方を走っていた女子生徒が叫ぶ。『Z』はより高い音に対して敏感に反応する。雲雀が言っていたことが脳裏に過ぎっても、彼女の死を変えるのは難しい話であった。
その彼女は先程の一匹とは別の個体二匹に首と腕を噛み付かれたのだった。当然、近くにいた二人も巻き込まれて吹き飛ばされてしまい、噛まれた女性は下りでもないのに地面を転がっていき、最後は唸りにも近い短い悲鳴で途切れた。
密集して走っていたのが仇となってしまったのだ。
「ゆい、舞花!!」
少し前を走っていた南奈が叫ぶのが聞こえるが、籠った声で何かを言っているかは分からない。
視界がブレる。脳が震える。
受け身もままならない。最悪なことに指を骨折していた ゆい はぶつかった衝撃と倒れた衝撃で激痛が走り、たまらず声が漏れた。
近くにいることは分かっていたため慌てて口を手で覆い、声を遮ろうとしたが。
「ガァァァァァァァァァァァ!!!!」
その声ですら『Z』は逃さない。女子生徒に噛み付いていた一匹の犬型が ゆい に向かって走り出す。
惨たらしい、ゆい が犬型を見て思った一言だった。
目玉は飛び出し、垂れ下がった皮膚、剥き出した骨が肉の腐敗を物語る。それに表現に困るくらいの異臭の濃さは鼻を突き、嗚咽感を与えさせる。これまでの犬型とは明らかに腐敗の年数が違う。
そんな個体がいることに驚く。壁外ならまだしも、壁内でこの有様なら今まで出現情報が出ていなかったことが不思議でならないのだ。頭がいいだけで納得がいかない。
「───っ!」
走る犬型の口に刀が刺さる。ゆい に意識を向けられたことで隙が出来た瞬間に、駆け付けた詩織が攻撃を仕掛けたのだ。
犬型は自身の体に異物が刺さったことを理解したのか、体を捻ったり、異物に噛み付いたりして取り出そうとする。恐ろしい生命力だ。
けして、今までの『Z』が弱いわけじゃない。不死身というのは厄介なものだが、首を損傷すれば大抵は死んでしまう奴らに対して、この犬型は抗おうとしている。
更に驚愕なことに肉を突き破り、刀身には赤黒い血がやや固形化した状態で付着していたのだ。数多の『Z』を相手してきた詩織の中でより一層、この犬型に警戒心を見せる。
この状況は非常に不味い。握り締める柄は暴れ回れる犬型によって握力が失われつつある。かと言って、刀に噛み付かれて引き抜くことも出来ないし、自身の唯一の武器を手放すわけにもいかない。
いや、首を刺されても死なない奴が引き抜いたり、手放しでもすれば必ず此方へ襲ってくる。どちらにせよ、現状維持が一番いいのではと考える。
「──っぐ」
(斬れない…やはり肉の質感が他の『Z』と比べて硬い。筋肉が異常に発達してる)
握力の限界は近い。現状維持で先に力尽くのは自身であることは明白だ。ならばと斬るという選択をするが、刃で斬らせない厚い肉に阻まれ、秒で両断の選択肢は断たれる。
(卯鶴生徒会長さんが危ない…)
詩織の苦悶に満ちた顔に危機を感じた ゆい が咄嗟に掴んだ物はコンクリート片だった。
「卯鶴生徒会長さん!その犬を地面に押さえ付けて下さい!!」
言葉に戸惑うよりも先に彼女は残った力で瞬時に犬型を地面に押さえ付ける。
その隙に ゆい がコンクリート片を振り上げ、犬型の顔面目掛けて振り落とす。女性の力では致命打を与えることが難しいところをコンクリート片を追加するだけで威力は格段に致命打に値する。
悍ましさとは裏腹に高い悲鳴を上げ、潰れた時のトマトのように赤黒い血が飛散した。嫌気が差しながらも、まだ息の根がある犬型に何度も打ち付ける。
「ウオオオオオオオオオオンンンン!!」
一匹に気を取られている間にもう一匹が遠吠えを上げる。仲間を集結させるものと確信した二人はようやく動かなくなった一匹目から離れる。持っていたコンクリート片を投げ捨てると、舞花の元へ駆け寄った頃には既に南奈が駆け付け、傷の具合など確かめている真っ最中だった。
「南奈ちゃん、舞花ちゃん!!やばいよ、犬型がまた仲間を呼んでる。早く逃げないと!」
「ゆい、舞花が足を挫いて走れないんだ!手伝ってくれ!」
舞花の方を見れば、靴下を脱いで腫れた足首を押さえていた。表情からもかなり痛みが酷いというのは分かる。南奈が舞花を抱き寄せる所を ゆい は反対側から支えて起き上がらせる。身の危険は更に高まったとしても親友を置いていくことなんて出来ない。
それに、今回は三人だけじゃない。
「ゆい さん、周囲はわたくしが警戒しますので走る事だけに集中して下さい!」
先程の犬型相手に何も出来なかった彼女でも三人を置いて逃げることはしない。それは彼女の中にある正義感によって突き動かされているからかもしれないけど、今はその正義感がありがたい。
その間、舞花はずっと「ごめん」と謝っていたが、南奈は「気にするな」と返していた。ぶつかったのも偶然であり、挫いたのも偶然であり、何一つ彼女が悪いと言い切れるものはないのだから。
(……来た!)
遠吠えする犬型の背後を見ると、他の犬型が姿を現してくる。数は約二十匹くらい、到底太刀打ち出来る数ではない。あれで全部なのか、更に増えるのだろうか。不安しかない恐怖に思考が溺れていき、震える。
それは歯軋りをする詩織も柄を握る手が震えていた。それが先程の交戦で柄を握りすぎての震えだとしても、その光景を前に恐怖を微塵も感じない人などいない。
仲間を集結させた犬型が逃げる ゆい達を睨んで吠え、それを合図に他の犬型が一斉に走り出す。恐ろしいのは一直線ではなく、何匹かに分散して複数の方向から襲おうという思考が見て分かったからだ。
このままでは詩織一人で三人を守り切れない。奴らは舞花が負傷したことを認識し、ゆい達を追い詰めるための策だとしたら悪趣味もいい所だ。
「くそくそくそ!!なんで、なんでなんでなんでなんで…こんな事になるんだ」
普段、冷静に物事を考えて行動する南奈でも生存確率がゼロという状況に陥れば、心が乱れるのは無理もない。
「南奈、ゆい!私を置いて行って!私が囮なれば、二十匹全部は難しくても数匹くらい注意を引くことはできるはずです!」
怪我により自分が足手纏いになったことで親友や沙月達を死に追いやってしまうのではという恐怖。なら、いっそ無駄死ではなく、皆の役に立った方が気持ち的にも楽に死ねるから。
舞花の衝撃的な発言に ゆい が一番に反応する。
「だ、駄目に決まっているの!舞花ちゃんがそんな事をする必要なんて何処にもない!怪我したら助け合う。それはずっと変わらなかったこと、これからだって!確かに私達には『Z』を一網打尽にする力なんてなくても知恵があるの。今回だってきっと生き残れる!」
嘘つきも程がある。言葉では強気でも表情が死に怯えていては説得力もない。知恵を振り絞っても自分達が出来る事は脅威から撒くための生存方法だけ。この状況下で三人が生き残れる最善な方法に選択などなく、あるのは全滅かの死の一択のみ。
その一方で、舞花の心は強く締め付けられていた。怪我をした事で迷惑をかけてしまった申し訳なさと、それでゆい達を苦しめてしまっている罪悪感、そして僅かに残った淡い神室雲雀《希望》。
不意に浮かんだ雲雀の姿に生きたいという心の奥にある願望が彼女を必死に引き止める。
「ガア"ア"ア"!!」
それを他所に真横から ゆい達に向かって、第一陣の一匹目が飛び掛かって来る。外側に立つ ゆい からしては自分が最初に襲われるだろうとは予想がつくが、その一撃を回避できたとしてもバランスを崩し、転倒してしまえば一斉に飛び掛かられるのがオチだ。
「─────っう!!」
詩織と犬型が接触する。飛び掛かってきた犬型に斬ったり刺したりと刀で出来る剣撃を封じ、彼女は自身の体を武器として体当たりしたのだ。
斬ろうにも斬れない可能性があるから。刺そうにも刺さらない可能性があるから。先程の犬型と同様な事態に陥っては対処が追い付けないと判断に至った。
ゆい から逸れた犬型は転がっていき、なんとか逃れること事はできた。ただ、肉質の硬い犬型に何度も体当たりするには身が持つものなのか。その疑問を前に詩織を見ると痛めた腕を押さえ、利き腕じゃない方で刀を持っている状態だ。
「わたくしに構わず走って下さい!!」
詩織を見ていた事で減速してしまった ゆい達に声を張り上げる。一陣の数匹が離れた詩織に狙いを定め、いつ襲いかかっても不思議ではない。まだ様子を窺っているのは少なからず武器を持っている彼女を脅威として見做しているからだろう。
それも一時的な認識に過ぎない。殺意を持たない刀を振るっていれば弱者と扱われ、慈悲もない殺戮が起こる。彼女はそんな紙一重の状態に立たされている。
駐車場が見えて来た。広い空間のおかげで『Z』の位置を把握するには問題はない。周囲を確認すると普段あるはずのハイブリットタイプのバス車両がなく、残っていたのは従来の軽油タイプの大型バスが一台駐車しているだけだった。
緊急事態警報が発令されると、避難所である体育館に運送する為に自動運転で全車が発進する仕組みになっている。近未来な技術が進む中で、一台だけ従来のタイプがあるのは保険だとか、そういう話を聞いたことがあるが。
とりあえず、バスが一台ある。それが何よりも幸運なことだ。この状況でなければ、もっと喜べただろうに。
(どうしょうどうしようどうしようどうしよう!!卯鶴生徒会長さんが、さっちゃん達も危ない。何とか…でも、この状況で私が出来ることって何があるの?!神室さんはいない!考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ!!!)
肺が痛く、呼吸さえもまともに出来なくなってきた。干上がった舌を唾液で湿らせても荒い呼吸ですぐに乾く。
時間は待ってくれない。必死に方策を考えている間にも死は近づき、恐怖が優先されて思考を錯乱させる。足にさえ恐怖の重みによって走る動作が、やがて歩くに近い動作に変わっていく。
疲労もあるかもしれない。ずっと走りっぱなしの日々というのはスポーツ選手でも辛いものだろうし、ゆい のような平均以下ならもっと辛い。
だけど。
(辛いから何なの!!もっと辛い事を卯鶴生徒会長さんはやっている!私がこんな事で弱気じゃ何も出来ない。出来るはずがない!!何か…何でもいい。何か思い出し────)
『考える時は下を向くんじゃなくて、周囲を見渡せばいい。そうすれば自ずと見えてくるものもある』
誰かが残した言葉が脳に浮び、ゆい は下を向いた顔を上げて周囲を見渡す。見落としている使えそうな術でも、『Z』の習性を活かせる術でも、とにかく下を向いていたら情報は何も入ってこない。
広く、死角もない駐車場。疎らに徘徊する『Z』。向かい側に建つ新設された校舎。掃除用具か車用品の倉庫。地面に転がる身体の一部がない遺体達。
………校舎…?
「──あ」
思考が加速する。自分が一体どんな危険な事をしようとしているか自覚しているつもりだ。思い浮かんだ術はたった一つ。失敗は許されないが、それでもこの方法が絶望から抜けれる唯一法だとしたらやる価値は大いにある。
(消火栓…確かボタンを押したら警鐘が鳴るはずなの。仕組みはどうあれ、その警鐘が学校全体に鳴り響くなら、『Z』は必ずそっちの方に反応する)
『Z』の視覚はほぼ失明な状態。人型なら聴覚、犬型なら聴覚と嗅覚。どの個体にも聴覚は『Z』にとっては必要不可欠な器官なのは間違いない。雲雀も言っていた甲高い音により反応を示すという情報は、詩織の爆竹でも確認は取れている。
惹き付けるのに警鐘は打って付けだが、すぐさま行動に移すには問題点にも気を配る必要があった。校舎は向かい側、その間には疎らに徘徊する『Z』が行く手を阻む。今はこちらの存在を認知しておらず、襲われずに済んでいる状態でもいつしか気付かれてしまう。
ただ、周囲の『Z』に関しては皆に注意を向けさせない方法がないわけではない。
そして、更なる問題は警鐘を鳴らした後の『Z』の動きが単調になる事だ。室内にあるだろう消火栓の場所から屋外に出るには、音に寄ってきた『Z』を掻い潜りながら脱出しなければならない。
少しでも触れたり音を立てたりすれば、命はないと思った方がいい。それ程、危険な作戦でもある。
ステルス能力なんて素人。失敗の可能性を惜しんでも九割が良い所、残りの一割は奇跡を信じるしかない。
(私に出来るの?南奈ちゃんに言えば、成功の可能性はずっと高……ううん…。話している時間がない。それ以前に南奈ちゃんがそれを許さない。私がやるしかない…私しか迅速に行動できないの)
ゆい は南奈の腰にあるシーフに納めたナイフを見つめる。丸腰で挑むのはあまりにも無謀だ。武器があるだけでも、自分の身を守れる確率が上がる。二人に自分の計画がバレてしまうのは避けられないが。
───それでも、やるしかない。
「南奈ちゃん、舞花ちゃん。ごめん…後でいっぱい怒られるから今だけは許して」
「ゆい?」
「一体何を……するつも──」
南奈の疑問を投げかけられる前に ゆい は彼女からシーフごと抜き取り、申し訳なさを胸に舞花を押し付けるような形で二人から離れる。
「待って、ゆい!!」
「ゆい、行っちゃダメ!!」
当然な反応だ。でも、後悔はしていない。それが少しの勇気を与え、静止を求む二人の声にも耐える事が出来た。
改めて ゆい は深呼吸をする。ここからが生と死の戦いが始まる。周囲は『Z』、助けなどない完全孤立状態。自ら望んだとはいえ、いざ一人になると思っていたよりも数十倍以上の不安に襲われる。
(今更、怖気付いても後戻りは出来ないの。みんなを助けるためにはこうするしかないけど、これだけじゃ足りない。今もみんなは犬型に襲われている。駐車場の『Z』にも気付かれれば、もう手も足も出ない。だったら…)
ゆい は胸ポケットから呼子笛を取り出し、震える唇に咥えると苦しい呼吸の中で一気に吹き込む。風船を口で膨らませる要領で、何度も同じ事を繰り返す内に酸素不足が原因で目眩を起こす。それは同時に平衡感覚や思考能力にも影響を及ぼしてしまう。
より一層、一歩踏み出す足に力が入らず、身体の重みが辛さを増す。臆病な私が今の自分に訴えているようだった。
『お前じゃ無理だ』
『諦めろ』
『潔く死ねば、案外楽に死ねるかもよ?』
悪魔の囁きは積もりに積もり、そこで初めて凶器と化す。
それだけで動揺を誘う。
しかし、動揺する心を彼女は肯定して。
(ずっと弱い自分のまま逃げて来た。それが正しいと思って誰も信用せずに、ただ生きていこうと思っていた。結局、根っこから弱い自分ならいつまでも弱い。それはずっと変わらない。でも、私は神室さんを信じようと思った。弱い自分を否定しているのに、違う私が肯定した。たった一回の変化でいい気になっているかもしれないけど、私にとって初めて弱い自分を否定したの)
陰た瞳に光が灯る。他人にとって小さな出来事だとしても、ゆい にとっては大きな一歩を生んだ変化だ。
数回と繰り返して音を鳴らした呼子笛を投げ捨てる。持つ必要性がもうなく、逆に音の原因を作ってしまう可能性があったからだ。四方八方から音に釣られた『Z』が集結したことで、ゆい の体は萎縮した。
より大きな音に寄って来る習性を利用して、この場にいる全ての個体を自分に向けさせたのだから。
周囲を見ると犬型も匂いよりも音に寄って来た事を確認できた。これで南奈達の安全も少なからず確保はできたはず。
後は──自分がいかに掻い潜れて、室内の消火栓までたどり着くかだ。走っても走っても縮む差に焦りを表情に滲ませる。止まる事は許されない。止まって息を潜ませれば回避できるかもしれないが、時間がそれを許さない。
(校舎に入れれば、外の『Z』はすぐには入ってこられないはず。そこが勝負どころ、後は私がすぐに消火栓を見つけられるかどうか…)
前方に聳え立つ校舎から入り口を探していると、何箇所か入口となる扉を見つける。校舎の中に『Z』がいるのは窓からでも確認でき、この作戦の難しさを改めて噛み締める。
幸運なのは校舎の中にいる『Z』が呼子笛に反応して、窓から外へ何体かは出て行ってくれたこと。室内の個体が少しでも減ってくれるのは気持ち的にも楽になって集中できる。とはいえ、時間に猶予がない状況下ではその気持ちも無駄になってしまうが。
ゆい は中央から比較的『Z』が少ない方へ移動して来たことで、相当数は真ん中の方へ誘われ、駐車場でいう端っこの位置で窓から校舎に侵入する。
ここも残虐非道な食事が行われたのだろう。あえて気にしなかった窓に付着した血飛沫や廊下に飛散した血肉がそれを根拠付けるには十分すぎた。
『Z』の位置を把握する。残飯を食い荒らしている最中に自分が鳴らした音に反応し、窓際に寄ってくれていたお陰で教室側の方は歩けるまでの空間があった。
それでも、この距離感に安心さはない。床に遺体の残骸が散らばり、血の溜まり場となった廊下を平然としていられず、濃度の濃い血の臭いで酔ったことで平衡感覚が危うい。
「───っ!!」
血の溜まり場となった廊下を歩こうとすると、跳ねる音が耳に届く。窓を叩く複数の中の一体が首を回してこちらの方を見られ、呼吸が止まる。数秒と訝しんだのち、また窓際に顔を向けたことで呼吸が始まった。
意をけして進もうとするな踏んだ時、上げた時にそれぞれ違う音を鳴らす度に反応されて、心臓が締め付けられる感覚が襲う。それと同時に疑問も湧いた。
『Z』は問答無用で音を立て、それこそ他の『Z』もいる中でも。なら何故、奴らは人と『Z』の区別ができているのか。視覚はほぼ皆無、正確に位置を補足出来るのは聴覚なのは誰もが知っている。だから疑問が湧いたのだ。声なら違いを判別できるが、音だけで区別できるほど奴らの聴覚は高性能じゃない。
もしも、『Z』同士で何か区別できる器官でもあるのとしたら。
否、そんな事を深々と考え込む前に目の前の状況を何とかしなければならないかった。この足場では音を鳴らさずに移動するのは困難であり、爪先で移動しようにも粘度のある液体では滑る可能性だってある。他のことを考える余裕があるはずがない。
──先を見る。地獄絵図のような長い廊下が続く、その途中。距離にして五十くらいに赤く点灯した目的の物が設置されていた。希望とは裏腹に ゆい が外で音を鳴らしてから数分が経ったことで、徐々に窓際に集まっていた『Z』が散り散りになっていた。
苦笑する。時間がないというのに尽く立ちはたがる。確かな時間はあった。それを余計な考察をする時間に有した己の痴がましさを後悔しながら呼吸を整え、粘度のある液体に躊躇なく踏み込んだ。
前へ前へ、とにかく前へ跳ぶ。全身が軋もうと、汗が目に入ろうと、骨折した指が痛かろうと、突き進め。
数体の『Z』が ゆい を捕捉し襲いかかる。雲雀のような跳躍はできない。ナイフを器用に使うのもできない。万事休すなのか────。
刹那、横からの一体が床に転がる遺体に躓き、ゆい の前を通り過ぎるとそのまま教室の扉に激突する。運はまだ味方をしてくれていたのを感謝しつつ、その隙に走り込むが咄嗟に背後を振り向くと。
後方の『Z』が一気に距離を詰めるためにリミッターを外し、タイミングを合わせて飛びかかって来ていたのだ。
(嘘嘘嘘嘘嘘!!なんで、いつもいつも息ぴったぉ
「きゃあ!!」
着地する度に滑らないよう力を込めた足は、ほんの気の緩みも力の加え方が変わる。後ろの振り向いたことで充分な踏ん張りが足らず、尻から強打して背中で滑る。内臓が揺れ、首を痛めそうになるも視界だけは終始を捉える。
飛びかかった『Z』は前方の『Z』と鈍い接触を奏でて倒れる。当たり所が悪かったようで動かなくなったことを好機と捉え、尻や背中のベトベト感を構うことなく立ち上がる。
(運が、運が良かった運が良かったんだ!!───あとちょっと!後ろから呻き声が近付いて来てる…。止まったら今度こそ終わり。不安はあるし、恐怖もある。でも…ここで意地を見せなくちゃ、いつ見せるの!!)
勇気の度合いがナイフを握り締める強さで示す。消火栓が目の前まで迫る。非常ベルのスイッチを押すというより刺すという表現の方が正しく、ゆい はタイミングを合わせて体を捻る。
直後。
後ろからガラスが割れる音が響き、横目で一瞬だが石のような物が投げ込まれていた。誰の魂胆かは知らないが、ガラス音を立てたことで後ろの『Z』がそちらに注意が向けられたのは大きい。
(お願いだから、ちゃんと作動してよ!)
願いを込めた一撃は透明なプラスチックの蓋ごと突き刺し、目標のボタンまでも破壊したのではと怖くなって冷や汗をかく。不安真っ只中の精神状態を他所に鼓膜へと強烈な音響が襲い、不安は見事に掻き消してくれたが度重なる音に耳が痛い。
頬が上がる。表情に浮かび上がるほど『Z』は校舎中に響き渡る警鐘に、行き先が定まらずに同じ所を回っていたからだ。効果は的面、ゆい は急いで近くの窓から外へ脱出して思考を切り替える。
作動後の問題点を振り返りながら、接触と音を立てないことを注意して移動を開始する。追跡者の動向は気になるが、脱出を優先して窓から外へ逃げる。
すると。
「おい、怪我とか大丈夫か?!」
予期せぬ呼びかけに距離を離すように真横へ跳ぶ。心臓が飛び出ちゃいそうなくらい驚いた ゆい は呼びかけた人物を睨んだ。敵という認識で鋭く睨んだものの、その人物に危険性がないと分かると安堵の溜息を吐き、並走する。
「(郷道さん、もっと声を抑えてください。『Z』に気付かれてしまいます……)」
その人物の名前を呼んで注意を促す。知っている人とはいえ、少し恐怖があるのは匠海の容姿によるものだと解釈し、断じて信用していないわけではないと言い聞かせる。
それにしても彼が普段のような声を発したのにも拘らず、『Z』が反応しないのを見ると、想像以上に警鐘の音が声を消してくれているようだ。真横を通り過ぎる『Z』が頷けるヒントにもなり、声を殺す必要がないと判断した ゆい は匠海がいる疑問に話を移し変える。
「というか、どうして郷道さんがここにいるんですか?さっちゃんと一緒にいたんじゃ…」
思い人を失った悲しみを持った心はそう簡単に切り替えられるものではないし、自信の喪失、戦意の喪失はもっと時間をかける必要だってある。それほど、今の彼は非常に不安定な状態なのだ。
そんな彼がここにいることに驚くなか、彼は当然のように。
「一緒にいたが、君が一人で校舎に向かう姿が見えたから追いかけて来たんだ。ったく、一人で無茶をしやがって。君が『Z』に追いかけられていた時はマジで焦ったぞ。石を投げなかったら死んでいたかも知れないんだぞ」
匠海の根本はなんも変わらない。柚季が居なくなっても、彼のやるべきことに揺らぎはないということなのだろう。
本当に信念から強い人なのだと改めて、その凄さに圧倒される。雲雀とは違う強さが、彼に対しての印象を変えさせる。
ただ、この行動が自暴自棄じゃないことを祈りたい。
「さっきのは郷道さんだったんですね。あの、その件については本当にありがとうございます。助けてもらえなかったら私はこんな所で息をしていません。郷道さんに借りが一つ出来ました」
流石に走りながら頭を深々と下げれないので、会釈する程度のお辞儀で感謝の意を込める。対して匠海は浮かない顔で、
「お前も、お前の親友もどうして借りとか言うんだ。別に借りを作らせようと助けているわけじゃなく、単に俺が助けたいから助けている。もっと気楽に生きたって文句は言われないぞ?まぁ、生き方は色々あるし、これ以上君達を詮索するのはいかんか。…んで、これからどうするんだ?」
「私の目的は『Z』を校舎側に誘き寄せること。それも成功したので、さっちゃんの元へ戻るだけです」
「なら、援護する。と言いたいが、まったく俺達に目もくれねぇから必要なさそうにも見えるが」
二人の話し声すらも無視して校舎の方へ一目散に駆ける『Z』に、匠海の手斧を握る拳が和らいでいく。警戒心が薄くなっていく彼に、ゆい は周囲の警戒に意識を向けながら。
「何事も警戒は怠らない方がいいです。そうやって死んでいった人も大勢いるの」
「外の世界から来た奴は皆そう言っているな。まぁ、説得力は言い返せないくらいあるがな。…そろそろ、話しづらくなってくるぞ」
校舎との距離が離れれば警鐘の範囲からも遠ざかっていく。今の声量での会話も『Z』に見つかってしまうリスクが高まり、いよいよ気を引き締める時がやってきた。
(注意を払うのは聴覚に加え嗅覚を備える犬型の『Z』。ここまで走って確認出来ただけでも十匹くらいだけど、まだ見つけられていない個体を合わせると安心なん…て………)
校舎に走る犬型を目視していると、校舎に群がる『Z』の中に一際目立った異質な人影を目撃する。
『異質』というなら『Z』と例えるはずの言葉が思いもよらない形で使ってしまったが、その人物に申し訳なさに浸ることもなく、それが正しいと直感しての言葉選びだ。
他の個体とは明らかに、整い過ぎていた。顔や肌、ましてや白と水色を基調とした制服にも破れもなければ血の汚れもない。可愛らしい原形を留めた制服を着こなした少女が佇んでいたのだ。
自分と大差ない無邪気で無遠慮な年頃の女の子。普通なら助けを求めたり、パニックに陥るものを無防備で無警戒で笑みを浮かべるほどの余裕さ。
この身に起こる戦慄さえも彼女は笑みで済まさせるものだろうか。
そんな少女が動く。大胆さのない小さな動きはありふれた生活の中の一コマのような。彼女の手にある物が拳銃でなければ、そういう風に見えたのかもしれない。
上げた腕はこちらの方へ指して、銃口は更に標的を捉える。本来なら向ける相手は『Z』のはずの銃口は確かに ゆい の真横を走る匠海に標準が合わされていた。
「危ない!」
悪意をもち、殺意を持ち、放たれる乾いた銃声と同時に隣を走る匠海を押し退ける。当の本人が見聞きしたのは銃声と ゆい の声と衝撃。一瞬の混乱の末、血飛沫が額を汚すと明確な恐怖へと塗り替えられる。
ゆい の声が震える。
左腕を撃たれた感覚だけを残し、バランスを崩した身体は地面を転がる。全身の痛みが激しく、一際熱を持った腕の傷口の具合を確かめる暇さえも惜しい。
点と点が結ばれた。これまで起きた出来事の全ての元凶が彼女である確証が得られた。廊下で起きた音撃、脱出後に投げ飛ばされる『Z』、教室で起こった放送と爆発、それらが殺戮という名のお遊びでやっていたと思うと身の毛がよだつ。
「おい、しっかりしろ!どこを撃たれた?呼吸はできるか?一体、何が起きたんだ?!」
「は、早く離れないと…。奴が来る。早く!」
匠海の言葉一つ一つに反応なんて出来なかった。恐怖がまず彼女を侵食させ、逃げる一択を取る。立ち上がった衝撃は骨を軋ませ、激痛を伴いながらも再び歩き出す。訳も分からない匠海はそんなおぼつかない足取りで進む ゆい に肩を貸す。
「なんだよ、一体!?どうなっているんだ一体!?」
「喚かないでください!『Z』を遮蔽物にして、とにかく逃げてください。説明している時間がないの…このままじゃ状況が更に悪化してしまう」
音は『Z』以外も誘き寄せてしまうことを冷静に考えれば、奴の介入は予測できたはずだ。目の前の出来事だけに注視した結果、最も脅威となる存在を召喚してしまった悔やみが血を流すくらい唇を噛む力が入る。
自分が成した功績が悲劇を生む。これ以上ない精神を抉り取られる感覚に気が狂いそうになる。
それらを無理矢理にでも振り払い、背後の脅威を睨む。奇跡的に一発の弾丸を最後に弾切れを起こしたようで続け様に撃たれることはなく、対向から走る『Z』を肉壁として蛇行する余裕があった。少しでも狙いが逸れれば万万歳、無傷なら尚更。とにかく走り続ける。
こちらを嘲笑うかのようにコメディ感溢れる動きで、装填から再び銃口を向ける姿は狂人と例える他ない。
狙いがどっちかであれ、蛇行していては狙いが定まらない。ましてや障害物がある中では相当な技術がないと当たらないはず。
───パァァンン!!と二度目の発砲音が響く。
その瞬間、ゆい に肩を貸していた匠海が崩れ、二人仲良く地面へ強打する。
全身に痛みがあり過ぎ、手で押さえ込んでいる場所が本当に痛いのかも曖昧だ。そんな時に隣の方で吐血する匠海を見ると飛び起きて、痛みを走らさながらも彼の傷の具合を確かめる。
撃たれていた。
急所は外れているとはいえ、腹部から流れる血の量はかなりのものだ。放っておいても出血多量で命を落とすと見て止血をしようとするが、布ような物を探そうにも見つかるはずもなく、自分が着ていた制服で代用することにした。
傷口を押さえるなり、匠海の喉が震える。音を出してはいけない状況下であることを理解して、痛みを必死に堪えながら唇に力を入れる。
「無理は承知ですが、声を我慢してください。弾は貫通しているので、後は止血なんですけど私だけの知識じゃこれしか出来な
「後だぁぁあ!!」
「ッ!?」
匠海の叫びから後ろを振り向く数瞬、僅かに視界に捉えたのは黒い靴だった。次の瞬間には打撃音と浮遊感、そして腹部に強烈な激痛を走られせ、今いた場所から八メートルくらいまで飛ばされてしまう。
意識は健在、だが腹部の打撃が彼女の苦しめる。痛みによって息が思うように吸えず、吸えたと思いきや今度は逆流してきた胃液が呼吸を拒みにくる。
「ごほっ…がは、げほっ……!』
匠海が遠い。止血の必要な彼を放置出来ず、痛みに耐えつつ這いつくばって進む。だか、その先には彼の他にもう一人の存在が ゆい の頭を沸騰させ、歯を剥き出した状態で叫ぶ。
「逃げてえぇえ!」
「逃すと思ってらっしゃるぅ?」
どことなく愉しげな女の声には幼さがあった。逃げようとする匠海に対して、少女は薄っすら笑みを浮かべると負傷した腹部目掛けて踏み付ける。
痛みに耐えることが出来なかった匠海は血の塊を溢れさせながら悲鳴を上げる。それに味を占めた異常者は唇を舌でなぞる。苦しむ姿に愛おしげに見つめて、踏み付けた足でなぶるように刺激する。
「ぐぅぅぅうう…あぅ、うぐ……!」
片方の手で口を塞ぎ、もう片方で踏まれる足首を掴んで抵抗する。どんなに痛かろうと叫ぶ不味さを理解している匠海は、必死に口に親指を咥えて耐え凌ごうとする。
しかし、それさえも少女にとっては幸福そうに笑い、命を刈り取ろうと追い討ちをかける。
「ねぇねぇ、痛いでしょ?苦しいでしょ?楽になりたいでしょ?ふふふ、大丈夫大丈夫ぅ。もっと虐めて壊して、泣き喚いて命を乞えば、殺してあげるからねぇ」
異常だ。頭がおかしい。人としての道理すらもない狂人は辛そうにする匠海をもっと近くで見ようと膝を折る。その際に体重がのっかったことで腹部が強く圧迫され、食いしばる口から唸りを上げる匠海。
「彼から離れろ、異常者!」
そんな光景を前に ゆい は必死になって体を起こそうとする。それだけで体内の至る所からメキメキと、骨に異常を来たしているような音が連続した。外傷からではない凄まじい激痛は無視できないが、少女の前ではそんなものを待ってくれない。
ゆい は咆哮と共に立ち上がる。
腰に収めていたナイフを抜いて、素人地味た身構えで少女と対峙する。痛みと恐怖と怒りと、どちらにでも当てはまる体の震えは少女にとっては滑稽なものだろう。それでも ゆい には匠海を助ける義理がある。
「弱々しい細身な体ぁ、でも胸はあるぅ。何をどうしたら、そんな体型にぃなるのか不思議だなぁ」
気を引くことは出来たが、返ってくる言葉に警戒心なんてなかった。友人と何気ない会話をするような、少女にとってはその程度の相手。
「それでぇ、そんな素人ちゃんはぁナイフを手にどうするつもぉり?彼を助けるぅ?私を殺すぅ?正直言って、勝てる見込みなんてないとぉ思うし、大人しく私に殺されれば?私の楽しみを少しぃ邪魔されたことに怒ってもいるかぁら、手加減はできないかもねぇ」
踏み付ける足を匠海の腹部から離し、不機嫌には見えない声色に確かな重みが感じられた。少女の言う通り、勝てる見込みなんてない。簡単に捻り潰されるのがオチだ。
でも。
「そう簡単に死ねないの。私を待ってくれる人がいるから意地でも生き残る」
震える手は彼女の本心を表す。
「へぇぇ。たった今、素人ちゃんはぁ死の宣告をされたのに逃げないなんて、覚悟だけは認めてあげぇる。でもねぇ、技術も知恵もない素人ちゃんは覚悟ぉだけで私に敵うと思っているなら思いやがらないでぇね」
地面を蹴った。
少女が警戒心を最も持たない瞬間を狙い前へ進む。前屈みになって少しでも空気抵抗を減らし、距離を縮めに行く。行き当たりばったりとはいえ、プランを何も考えていないのはリスクが高過ぎる。
そう思ったとしても少女とはもう二メートルもない。ゆい は切歯扼腕し、咄嗟にある物を少女の目の前に投げ付ける。
ここまでの行程で異常者は銃を撃ってこない。下に見られているからこそ、その使用の必要性を感じられないのだろう。
それでもいい。彼が逃げる時間を作れるのなら、それは好都合。
「へぇ、随分と俊足なんだねぇ。それにしてもぉナイフを投擲ねぇ。自らの武器を早速ぅ使うなんて余程の馬鹿なのかぁ、あるいは利口なのかぁ」
少女はナイフをはたき落とすが、同時に違和感を覚えた。はたき落とした瞬間、ナイフがしなったような気がしたのだ。
(ナイフじゃない。これはぁ…鞘?じゃあ、本物はぁ?)
「ッ!」
視線が鞘に送られたことでもう一つの脅威に気付くのに遅れが生じた。再び、視線を ゆい に向いた頃にはナイフが眼前に迫っていた。はたき落とすには十分な猶予がなく、少女は眉をひそめながら顔の位置をずらして避ける。
二段階の攻撃法に ゆい の姿を一瞬見失うが気配を察知した少女の視線は下へ向く。姿勢を低くして懐に飛び込む ゆい、少しでも発見を遅らせれば自分の一手を確実な強打にする魂胆なのだろう。力を込めて下から突き上げるように放った拳は、少女の顔面目掛けて伸びる。
素人ながらも自分の身を守るために教わった護身術が役に立つ。そこに少しアレンジを加えて、更に攻撃性を増したものは、果たして少女にとこまで通じるのか。
「どうやら、素人ちゃんは利口だったようだぁ」
そう言った直後には、いとも簡単に腕を掴まれ防がれてしまった。渾身の一撃が入る拳一個分が遠く感じる。少女は最初こそ驚いたものの、表情にはやはり愉しそうにしていた事が恐怖でしかなかった。
そして、何より ゆい を恐怖で染まらせたのは。
「自分が弱いことを知っておきながらぁ、なお立ち向かう意思は称賛しよう思ったのだけれぇど。なかなかぁ、どうしてぇ、かなり意外な結果だったよぉ」
もう片方の手で首を掴まれ、体が高く持ち上げられる。両足が地面に着かずに自分の体重分が首へとかかり、より締め付けられて苦しい。抵抗しようにも受け付けない少女の頑丈さに恐怖が加速する中、ゆい はそれでもこの状況とは異なる異常なまでの恐怖に意識が向かれる。
───そんな事あるはずない。
「細い腕だしぃ筋肉もあまり無さそうに見えるぅ足だし、この体にどこにあんな力があるのかぁ不思議。少し驚いたんだよぉ?そりゃあ、二段階攻撃なんてぇ素人が出来るものじゃないけどぉ、私は特に素人ちゃんの脚力に驚いたんだぁ。普通ねぇ、スタートダッシュからトップスピードで走れるなんてぇ陸上選手でも無理だからぁね。それを加速無しでって…まったく世間は広いなぁ」
───だって、そうじゃないとおかしい。そうじゃないといけないの。でも、なんで、どうして、こんなにも…
この人は冷たいの?
人として、あるべきものが欠けていた。体温の極度な低下は生物の活動を鈍られるだけでなく、生命に危険を及ぼしてしまうほどに熱というのは重要な役割を担っている。
それが、ない。少女から伝わってくる冷気に ゆい は人ならざる存在が目の前にいる恐怖で染まっていた。
「うぐぅ、あうあ…んっ…」
そんな恐怖は苦しみ、痛みによって意識が強制的に変換される。話す少女の握力が絶えず力が込められていき、首が締め付けられたことで反射的に声が漏れる。そんな姿を見るなり少女は ゆい への関心から捻じ曲がった感情が表に覗かせていた。
「あらぁあらぁ、素人ちゃん苦しい?苦しいでしょ?苦しいに決まってるよねぇ?はぁはぁ、その顔が最高に素敵ぃ!私の心が満たされていく感じがぁ本当に堪らないのぉ!!もっとぉ、もっともっとぉ、もっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっと悶えてぇぇ!!!私を満足させてよぉ!」
最初の感情がどこか行ったかのように、ゆい を自らの欲を満たすための物扱いと変貌する少女。制御の効かない感情の高ぶりは常に ゆい を危険に晒す。
少女の陰た瞳に映る自分の姿に痛々しさを覚える。抵抗も受け付けない力の差に体力が削られていき、充分な呼吸ができないことへの危機感に犯される。
「……ぅ、あ」
視界が明滅し、そう認識するための脳機能も低下していく。少しずつ呼吸の音が短くなっていくのに、恐怖はとめどなく押し寄せてくる。
自分の理解の範疇、ひいては知識の範疇を越えた『死』。
死んだらどうなるのか?死んだ魂はどこに向かうのか?
『死』に対する知識がない、つまり『未知なる恐怖』が人の中では理解できずに延々と恐怖は纏わり続ける。
逃げられない ゆい は懇願する。このまま生きているかさえも分からず苦しみ続けるのならば、もういっそ殺してほしいと。
生きている意味がない。全てがどうでもいい。早く死にたい。終われば、楽になる。
───死なせて。
「親友が待っているだろうがぁ!」
声が聞こえた。歪んだ視界は声の方へ向けると、手斧を手に持って必死に這いつくばり、少女の足元まで進んだ匠海のものだった。止血しきれないほど出血が酷く、動くだけで命を削り取るようなものなのに。
それでも、彼は ゆい の諦めかけた心を奮い立たせようとする。
「戦う意志を常に相手に見せつけろぉ!」
匠海は自分がまだ戦えることを示すように、立ち上がろうとする。それに対して少女は目を細めて睨む。
「あらぁあらぁ、女の子のスカートの中を覗くぅなんて変態さんねぇ。でも、今は変態さんの出番じゃないから…あっち行っててぇ」
少女にとっては恥じるまでもない些細な出来事だったとしても、邪魔をされたことは少女にとって不快で、不愉快で、向かっ腹で、殺意を抱いても不思議ではない。
蹴り上げた足は数センチに対し、匠海が飛ばされたのは二メートルを超える距離まで蹴り飛ばされたのだ。モーションに合わない飛距離と衝撃に匠海は悲鳴を上げ、転がった先でズタズタにされた体を抱きながらのた打ち回る。
「ぎゃーぎゃー、うるさいなぁ。私が話している時に勝手に入ってきたぁ変態さんの自業自得なんだよぉ?」
そう言って ゆい の腕を掴んでいた手が離れたと思いきや、取り出した物を見るなり ゆい は再び抵抗の意志を見せる。腕を掴んで引き剥がそうとしたり、体に蹴りを入れたりとあらゆる方法で抗う。
全くもって無意味な抵抗だった。少女の体はそんな騒いだ程度では微動だにせず、こちらに注意さえも向けることのない余裕さを見せる。
ゆい は腰に装備していた銃に反応したのだ。向けられる彼から少しでも邪魔ができないかと、多少だけでも影響を与えさせるようしていたのに。
「あまり動かれるとぉ手元が狂ってぇ、変態さんの頭蓋に穴を空けるかもよぉ?それともぉ、素人ちゃんもお腹に風穴を空けたいのぉかな?まぁ、冗談だよ。最初はいい遊び相手かなと思ったけどぉ、ちょっとウザくなってきたかぁら…もう殺してもいいよねぇ?」
声色が変わる。どのタイミングで匠海を撃つのか、抵抗を続ける ゆい は焦りでいっぱいだった。彼は見知らぬ自分を追い掛けて来てまで助けようと努力し、ついさっきの事だって彼は助けようとしてくれた。
これが動かずにいられるはずがない。なんとしても死から彼を助けなければ、彼の思いも無駄になってしまう。
それなのに。
「はいはい、暴れなぁい暴れなぁい」
たった一握りで ゆい の動きを封じられる。不利な状況から引っくり返す力もない者にとって何かをする事自体が無意味となる。歯軋りを鳴らし、己の成すべき事でさえ出来ない弱者は流れる時の中を、ただ傍観するだけの存在なのだと思い知らされる。
動きが鈍くなり、正確な標準が可能となった銃は真っ直ぐと匠海の頭蓋に向けられる。
遠退く意識の中で、ゆい は名前を呼んだ。希望を乗せて、一粒の涙を流して。
(…神室さん)
パァァンン!!と、木霊した。
希望さえも掻き消すような銃声は匠海の死を表していた。目を開ける事を躊躇うほど、火薬の臭いと耳に残る音が情報を拒絶する。
「…これはぁこれはぁ」
少女の声が、死に対して感情さえもない悪魔の分類に近い少女の声が聞こえる。ただ、その声色に死を漂わせるにしては、あまりにも驚きが強く出ているような気がした。
「彼女を離せ…。この腕を折られたくなければ」
心臓が大きく鳴った。溢れ出るのは歓喜の涙、滲み出るのは首を締められている恐怖。どちらも本心から譲れない二つの感情だが少女が手を離した事で、恐怖からには解放された。
咳き込むのに必死で肝心の酸素がなかなか入ってこず、全身を襲う痺れで思うように動かせない。
しかし、顔を上げるくらいなら出来れば、声の主の存在を確かめられる。だけど、もう分かっているはず。その声を聞いた瞬間から分かっているはずだ。でも、この目で捉えた時の安心感は計り知れないものだったから。
ゆっくりと顔を上げて、足りない分は目玉を上に向けると。
ゆい を離した手が腰に装備していたもう一丁の銃に、手を掛ける瞬間を目撃する。
「神室さん、危ぁッ!!!」
声は掻き消される。至近距離での発砲音は衝撃と化し、四つん這いの状態でもバランスを崩してしまうほどに体が大きく揺らぐ。咄嗟のことで反射的に目を瞑り、耳を塞いで鼓膜の負担を少しでも減らそうとする。
そんな足元の状況にも気にしない少女は、歯を見せながら笑みを浮かべて。
「さあさあ、素人ちゃんは離したよぉ。後は私と神室雲雀との一騎討ちだよぉ」
「早々に銃を撃ってくるあたり、まだ話し合いに応じる意志をはないようだな」
雲雀は誰かに向けられる前に少女の手首を掴み、銃弾による被害を防ぎながら唇を開く。近くにいた ゆい でも耳鳴りのせいで何か言っているかは分からず、雲雀が一瞬こちらを見たこと以外の情報はなかった。
「あるわけないじゃん!こんな機会なんてぇ滅多にないんだからぁ、殺し合いを楽しもうよぉ」
「ゆい、俺に構わず郷道を連れて逃げるんだ!!」
彼の存在に、より愉しさを擽られた少女は最初に動く。両腕を封じられ動きが制限された状態でも足の自由は利き、少女の膝蹴りが雲雀の鳩尾を狙う。軽やかで柔軟さがある攻撃に雲雀が動く前に。
瞬時に膝を下げ、腰を屈めて雲雀の首を噛み千切ろうとする。両腕は封じられているのは相手も同じ条件だが、先手を打った方が有利に立てる。この攻撃では片方の腕を解放して防がなければ対応は難しい。もちろん片方の腕が解放すれば、こちらの片方も解放され、次なる一手がワンテンポ早く繰り出せる。
選択肢が限られた窮地で躊躇うと死、防いだとしても重傷は避けられないという詰みだ。
「――――ッあ!?」
勝利の目前に口角を上げる少女に衝撃が襲う。視界が眩む中で攻撃をされた自覚をした少女は、何かによって攻撃を受けたのか視覚を頼りに探す。複雑に考えて巧妙な手段での攻撃かと思いきや。
左に、真横に目玉を向けると雲雀の肘が少女の頬に打撃を与えていたという単純な手段だったのだ。
噛み付きは空振りで終わったはずなのに驚きを半分、興奮を半分混じわせた表情を浮かばせる。
体を少し捻り、それだけで動きに余裕と範囲が広がる。雲雀は冷静に攻撃を分析して最短な動きで繰り出す。それが結果的に少女が予想もしなかったものとなり、驚きを隠せずにいた。
少女が劣るというより、純粋に今までの経験値が彼に選択肢をもたらしただけだ。
「まぁ、一瞬だけどねぇ!」
一度は怯んだが、次なる攻撃を仕掛けようと動こうとした時だ。
「―――ッんあ!?」
今度は視界が揺れた。上下の感覚を狂わせ、何かをされたと認識した頃には既に体は硬いアスファルトに叩き付かれていた。一度目の顔による打撃で重心が右に少し傾き、雲雀は掴んでいた右腕を引いて転かしたのだ。
息継ぎさえもろくに出来ないまま雲雀がこちらに左回転で体ごと振り向くと、その回転を利用して少女の腹部に向けて右拳が伸びる。少女は咄嗟に伸びきる前の拳を足の裏で受け止め、彼の意識がそちらに向けられている一瞬に自由の利く片方で銃を構える。
狙いは苦しみもないまま安らかに死ねる、頭部へ。その距離はわずか数十センチという短さ、驚異の反射神経を持ってしても避けることさえも諦めてしまう。逆に銃を奪おうにも迂闊に両手を離すことも出来ないだろうと踏んで。
降伏を求めたり、遺言すらも残させず、なんの躊躇いもなく引き金を引いた。
その直前に少女の手首を掴んでいた左手を離し、拳を止められた右手で足首を掴んで少女ごと移動させる。
完全に不意を突いたはずの弾丸は頭部を撃ち抜かれることなく、雲雀の髪を掠っただけだった。撃たれる直前にどこに向けられているのかを判断して、行動を移すだけの冷静さがあの境地にあったのだ。
しかし、少女の表情に半分は驚きと興奮が入り混じった不気味な造形が彫られていた。両腕が解放されたことで戦闘で重要な攻め方の自由度が更に上がり、雲雀にとっても不覚と言える状況だった。
少女は体を捻り、うつ伏せの状態から両腕の力だけで、雲雀の身長を超える高さまで体を跳ばす。無理やり腕を動かされたことで関節が悲鳴を上げるだけでなく、自分の足が地面から離れそうになるくらいの強い力に初めて雲雀の顔が歪む。
その顔を拝めた少女は嬉しさのあまり引き笑いが止まらず、更なる絶景を求め、もう片方の足で頭部を踏み潰すように落とす。対応が早い雲雀でも、受けた途端に襲う少女らしかぬ驚異的な力を腕一本では防ぎ切れない。
危機感からすぐさま体を使って力を受け流し、掴んでいた足も離す。無理やり体を捻ったり、関節を外したりと強引さがあったが、それでも片腕が犠牲にならなかったのは大きい。
問題なのは何より注意を払い、保ってきた少女との距離をとってしまったことだ。
腕を掴んでいれば少なくとも、相手の筋肉の動きで次の攻撃が読める。体を動かす上で捻ったり、跳んだりなどの動きには必ずバランスをとる腕の存在が欠かせない。その腕の動きを制限するだけで相手にプレッシャーや苛立ちを与えることだってできる。
だから、そのくびきから逃れた少女が、今後何を仕掛けてくるのかなんて、予想ができないことが雲雀は何より怖かった。
「あれれぇ、もう終わりなのかなぁ?これじゃあ私は満たされないし、やり足りないよぉ!!」
地面に着地と同時に少女の回し蹴りが、距離をとったはずの雲雀の横腹にめり込む。蹴り飛ばされた体はくの字に曲がり、倒れなかったものの更に距離は遠ざかってしまう。受けたダメージの代償がなんであれ、吐血するほど人体に悪影響を及ぼしているのは確かだ。
膝をついた雲雀は口から漏れる血を拭い、相手を睨み付ける。少女はそこから距離を詰めるわけでもなく、首を傾げては蹴った足を見つめる。
「……??」
恐らく、今の一撃で勝負をつける予定だったのに、彼が立っていることに疑問を抱いていたのだろう。感覚がない『Z』からしては、全ての攻撃が相手には死を与えさえるものという認識でいるからかもしれない。
「…心底、凄いと思うよぉ。これだけ攻防をしてぇ私の満足といくぅ結果にならなかったのは初めてだなぁ。その身体能力はぁ、間違いなく英雄と言われることだけあるってことねぇ」
この時間が何を指すのか。
雲雀は警戒を続け、特に銃の動きを重視する。『Z』の脚力なら今の距離も簡単に縮めることも出来て、それ自体が脅威になるはず。
それでも、彼が銃を警戒するには理由があった。
それは背後にいる ゆい達だ。射線が被っている以上は避けるという動きが出来ない。ナイフを強く握り、残されたナイフの数を意識しながら神経を尖らせる。
そんな思考の攻防が繰り広げられている間、ゆい は二人から離れて匠海の元へ駆け寄っていた。撃たれのが腕だけであってか、走る分には問題なかったが彼を起き上がらせるためには片腕では足りない。
警鐘はいつまでも鳴り続くわけもなく、数分を目安に考えた方がいいだろう。残された時間が数字化されないだけで不安は積もっていく。
「はぁはぁ……俺はどのみち死ぬんだ。俺を、置いて行け…少なくともお前が助かる可能性は上がる」
「残念ですけど貴方を置いて行くつもりなんてありません。何度も助けてもらっているのに逃げることなんて出来ない…私が貴方を助けるのは当然なの。それに、貴方は野洲川さんの為にも生きないと」
「……それを、言うのは卑怯だな」
「力が漲りますね」
怪我人相手に向ける言葉ではなかったことは自覚している。彼の危機的な容体は目の前にいる自分がよく分かっているが、一人では持ち上げることさえも難しい有様では匠海には自力で動いてもらうしかないのだ。
冷酷で無慈悲などと、どんなレッテルを貼られようと納得のいくものばかりだろう。半端開き直った状態で彼の腕を軽く何度か引いて、起き上がらさせようと促す。
匠海は乱れた呼吸を深呼吸で落ち着かせ、痺れる筋肉に力を加えていく。自力で動こうとする彼に ゆい は補助をしてあげて、ゆっくりと確実に起き上がらせる。
女性が男性を支えるにはあまりにも体格の差がありすぎ、平衡の取りづらさはどうにもならない。一歩の歩幅は小さく時間はかかるが、自力で動いてもらっているのに何か言える立場でもない。
時間がもう少し必要だっていうところなのに。
「───っ!!ま、まずいの。音が、警鐘が…!」
不安が現実化するのは本当に絶望でしかなく、警鐘がいかに ゆい達にとって命綱だったのかが分かる。その役割が切れた今、『Z』の動きは大きく変わろうとしていた。
死闘を繰り広げる雲雀と少女、銃声や打撃音は『Z』を誘うのには充分といった音源だ。つまり、校舎側に集まっていた『Z』がすべて襲いかかってくる。
集まった声は咆哮と化し、瞬く間に囲まれてしまう雲雀。依然として少女の攻撃の手は緩まず、彼は防御一択を迫られる。もはや少女を注視している場合ではなく、『Z』の対応にも追われ、無防備のまま攻撃を食らう回数が増えていく。
次第に雲雀の安否の確認も出来なくなったことが心配でならなかった。
何か奴らの注意を引くような策であれば良いのだけれど、現状で行動を移すにはあまりにも負傷した体が響く。ゆい はまだしも、匠海に関しては走る事もままならない。
(きっと大丈夫、大丈夫に決まってるの。神室さんは銃相手だって怯まずに戦えていたし、複数の『Z』にだって負けるわけない。それに…)
生存者を第一に考えている雲雀にとって、二人を逃すために『Z』が彼に敵意を向けられいるのは好都合と思っているはず。だから自分が何か行動を移せば、それが彼に余計な手間をかけさせてしまうだけでなく、不利な状況を作りかねないかもしれない。
ゆい はずり落ちそうになる匠海の腕を持ち直し、襲われないうちに少しでも距離を稼ぐために歩みを続けた先は───。
「(あぁ、くそ…)」
そんな好機に招かれるように奴らは立ちはだかる。ゆい達の行く手を阻むのは嗅覚にも優れた犬型が三体も。音を無視して、いや銃声には反応しているが全く興味を示さない。唸りと身構えが自分達が標的であることを表し、後退る度に距離を詰めて来る。
急ぎたい事情を奴らが了承してくれるほど優しくない。一か八かという決断にはあまりにも結末が見えていた。自分が犬型に喰い千切られる想像をすると惨たらしく、きっと痛いという概念さえも忘れてしまう。
「(本格的に俺を置いて行かなくちゃ、ならねぇな…)」
足手纏いの立場からしては辛い現状だろう。舞花も辛そうな表情をしていたことを今でも脳裏に浮かぶ。
「(その話はもう終わったはずです。諦めずに最後まで生きる望みを捨てないで下さい)」
「(……かっこいいな、お前は。神室といい、お前といい…本当に強い。俺が小さく見えてしまう)」
「(強くなんてないです、私なんか…硝子のような脆い心を必死に破られないようにしているだけなの。だから、これは意地みたいなものです)」
(とはいえ、状況を打破できる方法がないの)
襲いかかってくるタイミングが掴めず、迂闊な行動は命取りになる。匠海を説得できたかは分からないが、ゆい の首に回した腕はまだ離れそうにはなかった。
援護はなし。
武器は手斧一丁。
二人の内、一人が重傷、もう一人は軽傷。対して敵は複数。笑いが出そうなくらい最悪な状態だと思う。
何もできないまま時間だけが過ぎていき、睨み合いが続く。今の状態がどこまで維持できるかにしても、襲われない根拠は見当たらない。
必ず奴らは襲ってくる。
次の瞬間。
窮地に立たされていた二人の前を大きな排気音と駆動音と共に、バスが『Z』の群れに突っ込んできた。数字に表すには萎えるほどの大勢の『Z』が吹っ飛ばされたことでその衝撃の凄まじさを物語る。
目の前にいた犬型は轢かれたというより吹き飛ばされた『Z』の下敷きになってしまい、なんとか目の先の危機から逃れることはできた。
「さっちゃん!それに…」
運転席を見ると運転していたのは沙月で、その後ろでは窓に貼り付く南奈と舞花の姿があった。その他にも詩織やメイドに、生徒、教師と誰一人かけることなく乗り込めていた。
「無駄じゃなかった…」
満身創痍であっても、命を賭けてまでやり遂げた甲斐が確かにあったのだ。自分が犯した行為を呪い、死でさえも受け入れるほど絶望の淵まで落とされた。
あの瞬間が報われたような気がした。
「ゆい、後ろぉ!!」
そんな悠長に浸っている場合ではない。背後から近付いてくる『Z』の存在に二人はまだ気付いておらず、沙月達の声により後ろを振り向く。
咄嗟に ゆい は手にしていた手斧を振るも首を狙ったつもりの刃は肩へと刺さり、致命傷に欠けてしまう。もっと問題なのは、殺傷できなかったことで『Z』の足が止まらなかったのが痛い。
勢いを殺すことができず、歯を剥き出しにした状態のまま ゆい に噛み付こうとする。
(まずい、このまま押し通られるの!)
「ゆい、斧を離すんだ!」
どこからともなく雲雀の声が耳へ届く。言われた通り手を離した途端、『Z』の後ろから雲雀の手が伸びて体に刺さる斧を引き抜き、もう片方で首を掴んで地面に打ち付けた。
絶命にはもう一手間を加える必要があり、彼は止めの一撃に頭部目掛けて斧を振り落とす。
一つの危機から去っても雲雀に安堵の表情はない。頭部から斧を引き抜くと、今度は声に寄ってきた二体の『Z』の首を両断する。宙を舞う首に気にも留めず、続けざまに投擲する二本のナイフは、確実に襲いかかる個体の頭部へ突く。
音へ音へと寄ってくる大量の『Z』に、雲雀が相手をしている隙にバスへ向かおうとする二人の進行を阻害する。数の多さは二人を守る雲雀からしては押される一方で、バスに至っては身動きが取れなくなる。まさに、時間との勝負である。
だから彼が動く。『Z』を無視し、立ち往生する二人に駆け寄り持ち上げると、二人分の体重をもろともしない跳躍でバスの上へ着地する。
「(上に乗った?さっちゃん、出して!!)」
南奈の声が中から聞こえるとバスが急速で動き出す。『Z』を轢き殺す度に衝撃が襲い、死体を踏み潰す度に車両が上下に揺れ、掴むところがないバスの上は雲雀の支えがないと簡単に振り落とされてしまう。
「か、神室さん…彼女はどうなったのですか?!」
雲雀の足にしがみ付く ゆい が叫ぶ。彼が助けに来られたのも、あの脅威を無力化したからだろうか。
「死んではいない。撃退してもいない。死体の下敷きになったが、それだけじゃ倒せるわけじゃない。どちらにせよ、足止めくらいにはなっているはずだ。それよりも、二人の手当てをしないと…」
「私は腕だけなので大した事はありません」
双方の傷の具合を確かめ、心配そうに見つめる雲雀に ゆい は服の上から傷口を見せる。ただ、言葉では大丈夫だと伝えても、赤く染まったシャツからはそうは見えないだろう。
「すまない。もう少し、早く気付いていたら助けられたかもしれないのに…」
雲雀は謝る。非があるわけではないのに、あたかも自分に責任があると言う。ゆい はそんな申し訳なさそうな表情をする彼に首を横に振る。
「私の意志で危ない橋を渡ったんですから、神室さんが謝る事はありません。結果的にあれを呼び寄せしまったことで、郷道さんも自分自身も怪我を負ってしまいました。…でも、無駄じゃなかったんです。みんなを助けることが出来た…私にも出来ることがあるんだって、そう思えたんです」
「───」
向けられる笑みに不意だったからか、雲雀が息を呑んだ。記憶の中で今までそんな表情を見せたことがない分、衝撃に大きさがあったのだろう。
まだ完全に敵意が抜けているわけではないが、それでもその笑みには変化の予兆を表していた。
彼女の中で何かが変わろうとしている。そんな成長を前にして、雲雀は薄っすらと笑みが浮かばせ。
夕刻が近付く空を見上げた。