第10話 『告白』
意識の覚醒は強烈な不快臭を嗅ぎ取るから始まった。
何か肉物が焦げたような、石や鉄が焼けたような、臭み抜き処理をされていない生物のような、この世のものとは思えないほどの様々な刺激が鼻を突き上げる。
「…─っ…─っ…─っ…」
鼻呼吸から口呼吸に変えて強烈な不快臭の回避に移るが、外部からの圧迫からか呼吸がスムーズとはいかない。そもそも一体、自分が何に圧迫させれいるかも曖昧なのだ。
視覚は、瞼は開いているのに真っ白で情報は皆無。触覚は、何か乗っている感覚はするも硬軟の度合いがまだ分からない。
視覚、触覚ともに駄目なら他の手段で情報に頼ろうとするが、聴覚の方は鼓膜を叩き付けた音があまりにも大きすぎたことで耳鳴り地獄。頭蓋にまで響いた音は延々に木霊し、ゆい は聴覚による情報に期待することを諦めた。
味覚も鉄錆に似た味や砂利による不快感で駄目、それ依然に味覚だけでは現状を示す情報は不十分すぎる。
「…────ぁはっ」
耳鳴りの隙間から自分の声が滑り込んでくることが確認できた。五感の回復が始まる。真っ白だった視界が徐々に色彩を取り戻していき、それまで知覚されなかった世界が飛び込んでくる。
「…──っ!」
感覚が戻る手足を動かすと同時に、身動きの取りづらい環境下に置かれている情報を取得。それと同時に身体に異常を来した警告音が痛みとして全身を蝕みにくる。
そして、聴覚と視覚の回復が現状を隅々まで把握が可能となった。誰かの苦痛の声が、助けを求める声が、混迷による怒りの声が、天井にぽっかりと空いた穴が、瓦礫に埋もれた人達を救い出そうとする生徒や教師達が、自分も瓦礫に埋もれていることも。
その膨大な情報量が呆けていた思考に電撃が走しり、目の前の惨劇に寸前の記憶が蘇る。
「…─…───ば、くは…つ」
この身が初めて体験した壮絶な破壊の威力を持った死への産物。
体中に走る激痛の正体は、きっと爆発による衝撃波と崩れた瓦礫のものだろう。問題はその二つのどれかによって、この激痛が骨折や打撲または火傷という重傷を負っている可能性があることだ。
体内の血を手足の指一本ずつにまで巡らせ、脳に送られる痛みの箇所を確認する。
全身だけあって正確さはないが、顔、特に額から発する熱と液体が流血を表す。左手の中指から送られる他の指とは明らかな痛みの違い。左足の太腿あたりからの強い圧迫感。そのせいで左足に血液がなかなか行き届かず、痙攣のような症状が起きている。他にも細かなものを含めれば埒があかない。
思っていたよりも重傷と考えた方がいいのだろう。幸い、両腕には力が入る。瓦礫を動かす分には問題はないと思う。ただ、自分がうつ伏せの状態かつ左足の圧迫は体制移動を困難とさせる。
「──…誰、か…」
一人での難しさに意志は折れ、瓦礫の隙間から手を出して誰かに救助を求める。知らない人に助けられる恐怖。手を掴んでくれる人がどうか南奈や舞花、沙月、雲雀であって欲しいと願っている自分がいた。
───南…奈ちゃんは?
親友の顔を思い浮かべた事で不安が過ぎる。傍にいた彼女の安否が気掛かりだ。自分に降りかかったものがこれ程なら、南奈の方もただでは済んでいない。
───さっちゃ、んは!?ま、舞花…ちゃんは!?神室さん…は…。
ゆい や南奈の近くにいた沙月、皆と離れていた舞花の身は大丈夫なのだろうか。一緒にいた雲雀の方も心配でならない。いくら彼でもこの突然の爆発に対応できる手段があるとも思えない。
考えれば考えるほど不安が広がる。誰の生存も確認できないこの状況が恐怖でしかない。これで、もし二度と会えないとなってしまったらと考えるだけで寒心に絶えない。
なんとか這い出なければという思いが自由さもない体を強制的に捻ったり、踠いたりして強引にでも抜け出そうする。体に掛かる負担が ゆい の意識を持っていこうとし、休憩を秒単位で挟みながら意識を保とうと試みる。
「──ゆいっ!」
震える ゆい の耳に求めていた人物の声が届く。直後にずっと生温かい空気に触れていた手に、はっきりとした温かみのある手が握られる。
「南奈ちゃん…」
「待ってろ、今すぐ出してあげるからな!」
流石、運動部の南奈だ。ずっしりと乗っていた瓦礫を次々と持ち上げ、ゆい を束縛から解放していく。身体の自由が利いたところで南奈の手を止めさせ、自分で這い出る。
鋭利な表面となっている瓦礫は素手で作業する南奈にとって、痛みを我慢できるほどものではない。掌から血を流していた彼女にこれ以上頼りぱっなしには出来なかった。
「ありがとう、南奈ちゃん」
服装の身なりを構っている暇もなく、起き上がる ゆい は身体を積まれた瓦礫に預ける。やはり、左手の中指は完全に良くない方向に曲がっており、とても見るに耐えない。額の傷は浅いが、場所が良くなかったせいか流血が酷い。ハンカチを当てた所で止まるかどうか。
幸運なことに痙攣を起こしていた左足は、本当に圧迫されていただけで血があまり通っていなかったのが原因だった。そこは心底安堵する。
全体的に見ても大きなダメージは少なく、露出している部分に傷は集中していたくらいだ。これなら歩行に支障はあまりない。ただ今すぐ歩けるかと言われれば、少しだけ休憩したいと思うほどの脱力感がある。
「ちょっ!?ゆ、指折れている…。待ってろ、今すぐ手当てしてあげるからな!」
指を見るなり血の気が引かせ、慌てた様子でハンカチとペンを取り出し、応急処置を始める。ボールペンを添え木代わりにする発想に行き着くあたり、彼女のスペックの高さを改めて実感する。
しかし、それ以上に ゆい は注目すべきものがあった。
「な、南奈ちゃんも…」
南奈の方も手当てが必要と思うくらい至る所に傷が目立つ。中にも視線を集めるのは右腕に巻かれた布、それはゆい の額以上の出血が物語っていたからだ。簡易的な処置は施されているが既に真っ赤に染まり、交換の合図を示していた。
それに顔に痣のような跡、綺麗な赤髪に塵が被ったせいでに濁り、カッターシャツには血と泥の汚れが酷い。
「こんなの、ゆい に比べれば大したことはない。骨折なんて唾付けとけば、なんて言ってられないからな」
「でも……」
ハンカチを程よい強さで締め付けたことで処置の終了を意味する。手当てを終えた南奈は顎にまで滴る汗を拭いながら。
「よし、これで簡単だけど終わりだ。…そんな顔をするなって ゆい、これでも今までと比べたら軽い方だし」
内面な気持ちは作り笑顔によって隠せられているが、外面の体の震えと滴る血液が彼女の本心を訴える。あまり無理をして欲しくはないし、休んで欲しいのが本音。言葉にして南奈に物申したいも、それが言葉として出なかったのは彼女の性格をよく知っているからだ。
だから、ゆい はそれ以上何も言わずに上を見上げた。天井に大きく空いた穴を観察し、その直下の一際焼け焦げた床や瓦礫を見つめる。
衝撃で体の至る所が折れ曲がった死体が転がり、丸焦げた死体が転がり、瓦礫に押し潰された死体が転がり、生々しい惨状が広がる。死体に対して顔を歪ませながら。
「舞花ちゃん無事かな…」
募る思いが声に出るほど不安が現れる。それもそのはず、ゆい達が居たのは爆心から数メートルとけして遠いとは言い難いも、不幸中の幸いで人の壁が盾となって直撃を免れることができた。
しかし、一方の舞花達の位置はそんな奇跡が起きるほど、ほぼ直下というは期待が持てないからだ。衝撃、熱、瓦礫などとその位置からすれば威力、温度、質量はとんでもないものになる。
それでも、ゆい の瞳は霞んでいなかった。絶望的な生存率と向き合い、生きていることを信じている彼女を前に南奈は少し安心を得ていた。
「とにかく、少し休んだら舞花を探しに行こうと思う。ゆい はそんな体だから動けないだろ?ここは、あたしに任せてゆっくり休んどけ」
「怪我はお互い様なんだから、南奈ちゃんも無理しないでね」
満身創痍さで言うならどちらも引けを取らない有様。南奈は ゆい の言葉の意味を噛み締めながら自分の腕を見てから頷いてくれた。
もう一度周囲の状況を眺める。ゆい にとって気掛かりなのは他にもたくさんある。沙月の事、詩織の事、匠海の事も心配していたのだが、どうやらその必要はなさそうだった。当の本人達は怪我を負っているものの生徒の救出や手当てで忙しいそうだったからだ。
自分自身よりもまず目先の人を助ける彼女、彼達に、まだ他人に対しての抵抗が若干残っている ゆい には他人事のように感じてしまう。
やはり、元々無意識での行動が多く目立った分、意識的に行動をしようとすると余計な考えまでも意識して躊躇ってしまう。そう簡単に恐怖を克服できるものでもなく、どれほど頑張っても時間は必要になる。変わろうとすることはそういう事なのだ。
──ガララッ。
周囲を眺める中で音が一つ鳴る。場所が場所であってか、疑問よりも驚きから感情が支配される。爆心の天井からほぼ直下の位置から聞こえたであろう音は続けざまに瓦礫が盛り上がる。
瓦礫が盛り上がったことで崩れる落ちて、その下から男性が姿を現わす。細かな瓦礫と違って大きな瓦礫を持ち上げていた男性の足元には更に人の姿が複数あった。
「っ!?舞花ちゃん!」
その中に安否が確認できなかった親友の舞花の姿も発見した。ゆい の声に南奈も振り向き、存在を確かなものにした瞬間、立ち上がった彼女の顔は喜悦さを感じさせる。
舞花もこちらの存在に気付き、手を振って二人に自分が大丈夫だということを伝える。その舞花の傍にはもう二人の存在、メイドと小学生?の姿もあったことに ゆい は関係性に疑念を抱く。
でも、今はそれよりも感謝が強く出る。爆心に近い彼女が無事でいられたのも傷を負ってまで守ってくれた彼のおかげなのだから。
その彼、神室雲雀は大穴の存在に気付くと見つめながら立ち尽くす。彼自身も思うところがあるのか、見つめる眼光に鋭さがあった。
「良かった…本当に、よ、かった…」
立ち上がったはずの南奈が膝から崩れ、涙ぐんでは安心からか強張った全身に力が抜ける。
「行ってあげて…南奈ちゃん。私はまだ動けそうにないから」
「分かった。すぐに戻ってくるからな」
立ち上がった南奈は急いで舞花の元に駆け寄る背中を ゆい は見届けて、体を預けていた瓦礫に更に体重を乗せて休息に励む。ゴツゴツとした面の心地は最悪で、休息に励もうにも背中のあらゆるツボに刺さって痛みしか生まれない。
かといって瓦礫に身体を預けるのを諦めても、床も散乱物で寝心地の期待は薄い。それも諦め、背中の位置を少しずつ変えることで痛みの箇所を減らす作戦で凌ごうとする。果たして休息とは一体何なのだろうかと考えさせられるほどよく動く。
休もうにも休めない ゆい は南奈達の再会シーンを眺める。こうしていると青春もののドラマを観ている気分だが、背景が残酷過ぎるせいか目移りしてしまう。
「──────ッ」
彼女の視界に入った瞬間、反射的に声にならない悲鳴を上げる。いや、予想できたことだ。爆発の影響で行動が予測しずらいとはいえ時間が経てば、こうなることくらい予想できたはず。
知らさないと、知らさないと知らさないと。だけど、誰に?一体、声を出さずにどうやって事態を知らせるのだ。周囲は救出作業に忙しく見向きもしないし、南奈達も雲雀も気付いていない。
誰かが気付けば、きっと悲鳴を上げるだろう。伝える手段が限られる中で、唯一迫る脅威に気付くことができた自分はどう判断するすればいいのか。
身体を引きずってまで南奈達の元へ進むべきなのか。近くにいる先生に伝えるべきなのか。二択を上げたところで考えるまでもなく、近くにいる先生に伝えた方が早く伝わる。それでも、ゆい は一択に絞られても前へ進んでいたのだ。
きっと雲雀ならこの状況をなんとかしてくれる。そんな勝手な思いが先走り、判断力を麻痺させていた。どこまでも雲雀という存在の大きさが調子を狂わせる。
「きゃあああああああああああ!」
教室内に響く金切り声が ゆい を飛び起こす。誰かが気付き、声を上げたのだ。
始まる、地獄が。
身体の痛みも忘れ、声の持ち主であろう女性に形振り構わず、それまで抑え込んでいた思いが魂の叫びとなって咆哮する。
ずっと天井の大穴で下を覗いていた複数の『Z』に威嚇するかのように。
「皆、逃げてぇぇええええええ!!」
「「「「ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"!!!!!」」」」
密室の空間に水が注ぎ込まれるような勢いで、奇声を上げる『Z』が降ってくる。
状況に理解が追い付けず、立ち尽くす者も複数いたような気がする。ゆい もその中の一人にならなかったのは、彼女の叫びにいち早く逃げ出すことができた雲雀達によって免れることができたのだ。
残った者を考えている暇なんてなかった。自分が南奈と舞花に連れられた頃には教室内に侵入した『Z』が生きた人肉を貪り始める。
呻き声と悲鳴が混濁して逃げ場のない空間を逃げ惑う人々。前回の侵入とは桁違いの数の屍が暴虐を尽し、数の増え方が勢いを増す。
「助けて!助けて!いやいやいやいややぁああ"あ"あ"あ"あ"あ"!」
「ひぃぃ!来るな、来るんじゃあがぁらばァあああ!!」
「────ァ…ァア──アァじにだぁぐ…かはっ」
「やめてやめてやめてやめでェぐらざぁあごがァ……」
生きた人間の気配が消えていく。消えて消えて消えて消えて、そして食欲旺盛な屍と化して蘇る。職員室の端に追いやられた生存者達の命も残り僅かなものだろう。そこに含まれる ゆい達も例外ではない。
恐怖に怯え、生きる気力さえも失うほど目の前の光景は外の世界と同じように見えた。ただ、こんな不利な状況下に立たされる経験がなかったことがここまで恐怖に煽られてしまう。
「……」
生存者達の前に戦闘能力に長けた雲雀が佇む。その存在は生存者達に密かな希望を待たせるも、この数を相手にできないと自分で言っていた彼に ゆい達は早急に脱出の手立てを考えた方がよさそうだった。
どう脱出を企てるべきなのだろうか。左右の窓は『Z』が徘徊する世界、ここよりかはマシにしても危険さは変わらない。爆発さえなければすぐにでも行動に移せただろうに。
爆発の影響で割れた窓ガラスの隙間から外の様子が伺える。窓ガラスの破片が体中に突き刺さっている状態で窓際に貼り付き、左右に動いて侵入を試みようとする『Z』が見える。その度に破片が肉を引っ張ったり、身体の奥へと入り込んだり、流血が絶えない悍ましさ。
「俺が合図を出した瞬間、中庭の方に走ってください!」
突然、雲雀から告げられる死を招くような言葉は自殺行為と受け取る生存者達は動揺する。走れと言われても、まずは窓に張り付いた『Z』をどうにかしなければ話にならない。誰かが理由を求む声を上げたが、その前に彼が起こした行動でその声も途絶える。
右手に掴んだのは爆発で吹き飛んだ瓦礫の一部。驚くのはその大きさにあった。身近なもので瞬時に大きさを思い浮かばせるのは難しいが、例えばバランスボールと聞いて大きさを連想させるのは個人によって異なるも、大体の人は膝よりも少し大きいくらいと思うはず。
そこに、石を詰めたと考えればその重さは片手で持つには重すぎるものだ。ましてや上から鷲掴んで持ち上げるにはそれなりの握力だって必要になる。
だが雲雀の場合、握力が強すぎてか掴んだ所がめり込むという化け物級を見せる。ゆい はその行動の意味を察して。
「ま、まさか…」
そのまさかだった。腕を下からすくい上げるように投げた砲弾級の豪速球は窓へと直撃する。加えてコントロール性も兼ね備えており、一気に二枚の窓と数体の『Z』が瓦礫と一緒に吹き飛ぶ。
底が知れない雲雀の能力。上着となっていた黒い狩衣を脱いでいたことでその鍛えられた筋肉質な体を観察することはできる。筋肉のなんたるかも知らない ゆい でも、あの細い身体での筋肉であそこまでの剛力を振えるのは無理がありそうな気がしたが。
現実に起きているからには、人は見た目で判断するなということなのだろう。
「ここで俺がなんとか食い止める隙に走るんだ!」
そんな事を言われてもがむしゃらに逃げても意味がない。目的を持って行動しないと逃げ惑うだけでは疲労を重ねるだけ。そう思うのはほんの一部であって、何も考えずに今の状況に耐えられなかった他の生存者達は一目散に職員室から逃げる。
「とりあえず、この周囲からは離れるぞ!悲鳴やら爆発やらで『Z』が集まっているんなら、ここから離れて安全な場所で話し合った方がいい!とにかく、ここはもう駄目だ!」
「分かったわ。皆さん、とにかく走り続けてください。私達が道を作り、皆さんを守ります!さぁ、行って行って!!」
匠海の意見に賛同する ゆい 達、脱出の手立てを考える時間はなさそだ。匠海の言う通り、今はとにかく離れることが最優先だろう。
沙月の掛け声と共に残った生存者は破壊された窓から中庭へと飛び出す。ゆい は万全とはいかなくても走れるくらいまでには回復し、自力で走る事を選ぶ。心配で仕方がない南奈と舞花を先に行かせて、一人で残る雲雀に。
「神室さん、必ず…必ず!また戻ってきてください!」
万全な状態でない彼にとって、この数を相手にするのは無謀な挑戦でもある。それをたった一人でとなると、更に難易度も跳ね上がる。
そんな過酷な状況下でも『Z』を睨む瞳には陰りはない。
「…あぁ、必ずだ」
体の至る所に仕舞い込んだナイフを取り出して、声を頼りに襲ってくる四十以上の『Z』と激突する。数が多すぎナイフでの殺傷が間に合わないが、それならばと殺傷は余裕のある時に限り、肉弾戦で『Z』の体を壊しにいく。
膝を反対方向に折り、腕を回し折り、顎を膝でかち割り、頭を足で踏み砕き、背骨をへし折り、ありとあらゆる方法で動きを鈍らせてチャンスを作り上げる。
激化する戦闘に ゆい は身の毛がよだちながら雲雀の無事を祈り、南奈と舞花の後を追いかける。外で待っていてくれた二人と詩織、先に出て行った沙月や匠海は先陣を切って皆の誘導と襲ってくる『Z』の処理し回る。
他の先生方もそれに続いて生徒を守るように戦うが、外に出た事で四方八方から『Z』の群れが襲いかかり、陣形がすぐに崩れ始める。守られる生徒達の中にも侵入していき、悲鳴と咀嚼音が増産されていく。
「ゆい、早く!これ以上離れると私達が危ないです!」
「ごめん、今か─ッ!?舞花ちゃん後ろぉぉ!!」
外で声を出すという行為がどれほど危険なものなのか、洗礼はすぐにやってきた。反応を示したのは一体、しかも、まだ小学生くらいの子供という心を刺す現実がのしかかる。無知な子供達は奴らの存在はお話でしか聞いたことのないのに、今日初めて会っただけでなく、その身で血肉を喰らうことになるとは思わなかっただろう。
生きる術である知識さえも持たなければ、こういう結末になっていたに違いない。運が良かったのだ、自分達は本当に。
「オ"オ"オ"オ"オ"オ"ァア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"!!」
咆哮の質は少し若さがある。とはいえ、その小さな体に似合わない力を持っている。掴まれれば骨を砕かれるのは過去が教えてくれている。それが脅威であると判断できるが、それだけだ。飛び付いてくる『Z』に成す術がない。
舞花では何もできない。だからこそ、彼女が動く。
舞花の背後に位置する『Z』に俊敏な動きで間合いを詰めてくる人物がいた。明らかに最初に助けてもらった時よりも素早い立ち回りで、長い黒髪の先端が重力で落ちきる前に首を刎ね落とす。
残った体は力を失い、舞花の横を通り過ぎて地面に転がる。
「貴方達はわたくしが守りますので、走ってください!」
「あ、ありがとうございます!卯鶴生徒会長さん!」
助けられた舞花は詩織にお礼を言うと、三人揃って前を行く集団を追い掛ける。詩織はその三人の背後から周囲を警戒して、いつでも行動が移せるようにと刀は抜いたまま走る。
追い掛けるにはかなり出遅れてしまった。二、三十の距離くらいの大したことはないのだが、先頭組は『Z』の怒涛ごとき猛威を受けて近付こうにも近付けられない。
ゆい達は真後ろから追い掛けることをやめて、少し角度を変えて進むことにした。真後ろに居続けると先頭集団で襲われた人の巻き添いを食らう可能性があるための対応策。
実際、襲われている人は必死の抵抗と暴れ回り、運悪く当たった人が転がって襲われているという連鎖が起きている。
「っ?!おい、嘘だろ…」
南奈は上を向いたまま声を震わせる。二階、三階から甲高い音が聞こえたと思いきや、『Z』が窓ガラスを突き破り、下いる生存者に襲いかかろうとしていたのだ。足音や悲鳴が左右の校舎に木霊しているせいで、音の伝わりが早く、広範囲の『Z』が反応してしまっている。
もっと最悪なことに度重なる攻撃によって、行動の範囲が制限されている集団の上に落ちれば、気付けた所で避けようがない。例え、避けれたとしても注意が逸れて、今度は下からの脅威から逃れなくなる。
最早、陣形を組み直しても無意味だ。上からも下からも連携を取っているような襲い方に対処のしようがない。
肉を喰い千切られ、皮を引き千切られ、骨を粉砕され、死に方は様々だった。もう前へ進むことさえも躊躇い、先頭集団の人達はバラバラに逃げ始める。沙月や匠海は残った生存者を守る為に今も戦い続け、消耗戦となっていた。
ゆい達は先頭集団に追いついたものの状況の悪化にこれ以上近付くことも容易じゃなく、草木に隠れて息を潜める。
「(どうしよう…これじゃあ全滅も時間の問題なの)」
「(どうしようにも『Z』をなんとかしないと、さっちゃんと合流だって出来ないだろうな。今の戦力、と言っても卯鶴生徒会長だけだが…それでもあたし達の唯一の戦力だし、慎重に作戦を練らないと)」
「(作戦を練ると言いますけど、具体的な策を練る時間は無さそうです。神室さんがいない今、私達でここを切り抜けないと)」
外の世界で生き延びてきたように、協力していかなければならない。ただ少し違う所があるとしたら三人の誰かではなく、他の誰かの為に命を張ること。生きる意味を持たせてくれた沙月を、死なせたくないという強い意志が三人に感じられる。
「(作戦がありますが、提案しても宜しいですか?)」
小さく挙手をする詩織に三人の視線が集中すると、制服のポケットから何かを取り出す。小さな赤い筒が板状に十個くらい並べられ、導火線ようなものが束となって付き、それが三、四セットと出てくる。
「(爆竹ですか?)」
受け取った舞花はその形状にすぐに正体が分かった。
「(はい、新設された資料室もとい倉庫の中にありました。わたくしでも刀を四六時中使えるわけではありませんから、逃げる用にと持っていました。あっ、ちゃんとライターも一緒に入っていたので持ってきています)」
「(大量の火薬の中に火元のライターを一緒に入れているなんて、最悪な保管状態なの)」
「(今となってはいいさ。それよりも、これさえあれば望みが出てくる。『Z』は甲高い音により反応しやすいし場所が好都合な分、下手するとこの場の『Z』が大移動するぞ)」
反響する環境、『Z』の特殊能力、それぞれの特徴を生かした策には確かに望みが出てくる。
ゆい達にも手間がかからない点、安全な実行が可能になる。四十個の爆竹ならもって数十秒の間は音で稼げられ、その時間なら合流して、その場からの移動も視野に入れられる。
「(じゃあ、作戦はこうでいいのかな?南奈ちゃんが反対側に投げて、爆発したと同時に走り出すで)」
「(それで決まりだ)」
ゆい がまとめた作戦に出番の南奈は肩を回して調子を確かめる。この中でも運動神経がいいのは咄嗟に出ても南奈くらいと思ったが、詩織の能力値もかなりもので言った後に彼女の意見も聞いておくべきだったと後悔する。
「(わたくしもそれで異論はありません。もし、不慮の出来事があった場合に備えて両手は空けておきたいですから)」
納得してくれた詩織の刀を握る手に力が込もり、守ろうという意志が伝わってくる。そのありがたさに感謝しつつ、作戦の実行は南奈の合図で始まる。
ライターで導火線に点火して、職員室のある普通教育棟と対面する理数教育棟側の方へ投げつける。交戦している雲雀を避けるために投げた爆竹は曲線を描いて『Z』の中心に落ちた瞬間。
破裂音が中庭を反響し、『Z』の動きが変わる。音が反響しているのに奴らは音源を特定するのが早く、迷わず爆竹が落ちた場所へと集まり出す。移動する『Z』に注意しながら、こちらも移動して沙月達の元へ急ぐ。
その都度、破裂音を確認しながら新たに爆竹を投げて絶やさないようにする。沙月達の周りにいた『Z』も爆竹の音に反応して移動をしていたことで合流は割と安全にすることが出来た。
しかし、あれ程いた生存者が『Z』の猛攻で殺されたり、散り散りになったりして今で二十人程度しかいない。散り散りになった人を助けようにもこの大群では身動きも取りづらいし、生きている保証すらない。
諦める選択をせがまれる沙月は悔しさを顔に出しながら、残った生存者を第一に考えて一緒に中庭を突っ切る。合計四十連の花火を使い果たしたもののそれから襲われることはなく、あの一角に集まり過ぎていた『Z』は音が消えた途端、普通教育棟と理数教育棟に散らばっていく。
当面の間、進行方向の『Z』の数はまばらになっているだろう。
しかし、まばらとはいえ一旦、小休憩を挟んだ方が良さそうだった。死から逃れるため必死に全力疾走した分、その疲労はかなりのもの。半分以上の人は息は乱しているが過呼吸になっていないだけマシな方かもしれない。
問題なのは恐怖による錯乱状態に陥っていること。今は先生達が宥めて最小限までの声で抑えられているが、再び走れるには少々時間が必要であった。
ここまで恐慌し、狼狽し、心労している周囲に対して ゆい達には冷静に物事を考える余裕があった。研ぎ澄まされる感覚、先を見据え始める思考、忘れかけていた外で経験した緊張感が蘇っていくのが気持ち悪い。
最初なんて警鐘が鳴っただけで動悸がして悩乱していたが、今ではもう慣れてしまっている。
「(南奈、ゆい、舞花、卯鶴さん、ありがとう。貴方達のお陰で助かることが出来たわ。本当にありがとうありがとうありがとう、ありがとう)」
物陰に隠れて数秒後、四人を強く抱き締める沙月の感謝の言葉が止まらない。抱き締める強さが感謝の度合いを表し、大切に思ってくれているんだと思うと心嬉しかった。
「(さっちゃんを助けるのは当たり前だし)」
「(そうそう、私達にはさっちゃんが必要なの)」
「(さっちゃんがしてくれたように私達も絶対に見捨てません。それに爆竹を使う案を出してくれたのは卯鶴さんですから)」
「(い、いえ…わたくしはあくまでも爆竹を提案しただけで、作戦を考案したのは南奈さん達ですので、特に何もやっていないようなものです)」
抱き締め返されたり、優しい言葉を投げかけられたりと沙月は三人に本当に大切に思われているんだと思うと嬉しいさが染み出てくる。
こうして三人とまた合流出来たのも詩織のフォローのおかげ、感謝してもしきれない。危険な目にあった後だからこそ、更に抱き締める腕に力が加わり、またしても「痛い」と言われて若干心が痛くなったりもした。
そんな感動に声を掛けづらそうにしていた匠海が意を決して話しかける。
「(枝邑先生、空気が読めないかもしれませんが、かなり『Z』が減ってきたんでこれからの方針を聞いてもいいですか?)」
数は少なくとも下手に声を上げる事を避け、小言で沙月に方針を尋ねる匠海。沙月は皆の疲労を確かめるように眺めると、ゆい達から離れて匠海と向き合う。
「(皆の体力面を考えるなら校門までは持たないと思うわ。でも、かと言ってここに長居するのは危険だから…)」
あれ程走ったにも拘らず、校門までの距離は大して変わっていない。今のような『Z』が沙月達を見失っている状況が続けばいいのだが、奴らの音の敏感さがどの程度までか分からない今は油断できない。
それに、太陽の傾きを考えると急ぎたい気持ちが強く現れて来る。夜の行動は死角の多さや『Z』の発見の遅れが命取りになってしまう。なんとしても夜までにはここから脱出して安全を確保したいのだ。
となると、残された選択肢は一つしかない。元々、発案者だった彼女にはそれ以外考えていなかった。
「(バスで強行突破するしかないわ。また何処かで立て籠もるにもバリケードを作る時間が足らなさすぎるし、この学園に『Z』とは違う勢力がいるのは明らかよ。正直、この学園にいるよりも外の方がマシだわ。貴方もそう思っているはずよ…)」
「(……あんな、あんな事をする奴の気が知れねぇ。同じ人間とは思えないほど残虐非道だ。俺もあんな奴と同じ場所に居たくわないですが、同じ目に遭っている人を放って置くわけにもいきません。一人でも多く人を助けたい)」
自然に起きる爆発にしてはあの放送とタイミングが良すぎる。
考えすぎだ、ただの偶然だと思うこと自体を断ち切るような紛れも無い意図的な攻撃だった。その身で体験した匠海は恐怖を隠し切れず、同感の意志を見せる。
彼の正義感の強さからか。散り散りになった生存者達の心配だけでなく、助け出したいと訴えてきた。自分が持っている手斧の刃の状態を確かめながら、すぐにでも行動を移せられるように準備を整える。
やはり、男性であり匠海だからこそ、正義に基づいての行動力が働くのだろう。率先してくれることには有難いのだが、沙月は止める。
「(駄目だわ。貴方が生徒だからじゃない…また、あっちに戻るなんて自殺行為よ。今まで生き延びれたのも運が良かっただけで、次も大丈夫なんて保証はないの)」
「(だからって、指を咥えて見ているだけなんてもっとできないです。少しでも可能性があるなら、俺はそれに賭けたい)」
脳裏に蘇るこれまでの出来事は地獄そのもの。その一部の地獄絵図を作り出した張本人である匠海は我慢できなかった。自分の弱さが、判断ミスが、人を殺してしまう。それが正義感を駆り立てていたのだ。
そんな正義感に釘を打つように、沙月の言葉は鋭さを増す。
「(貴方一人だけでどうにかならないし、個人の私情だけで皆を巻き込むわけにはいかない。それに、あの子達はもう…助からないわ)」
今の沙月は散り散りなった生存者達よりも南奈達を含む、この場の生存者達を第一に考えていた。相当な混乱と不安が思考に余裕を奪い、その結果、散り散りになった生存者達を諦めて自分の手が届く生存者達だけを助けられれば良い。
それしか、出来ない。今はそれが精一杯なのだ。
今の言葉にどれほど、彼を傷付けてしまっただろうか。その震える握り拳に彼の怒りが伝わり、沙月の体が強張る。
「(………貴方は教師として失格だ)」
「────ッ!!!」
何を言われても耐えれるように身構えていた。でも、『教師失格』と守らなければならない生徒に言われるのは上司に言われるよりも鋭く、その心構えも簡単に切り付けられる。
泣きたくなった。自分は精一杯頑張っているつもりでも、それが認められない悔しさが体に震えを与えさせる。
「あんたねぇ……!」
我慢出来なかった南奈が匠海に何をするか予想できた ゆい と舞花は、その衝動を抑えるために押さえ込もうとする。けれど、動揺していたのは彼女達も同じようだった。押さえ込む力に止めようとする意志が感じられず、南奈の進行を止める事が出来ていなかった。
普通の日々を維持することは出来ない、とよく溜め息混じりで呟いていた沙月。信頼されていた故、よく生徒達の相談を受けていたからだ。その大半が学園の環境下にストレスを抱え込んでいる生徒だったのも口癖の要因でもあった。
生徒には快適な学園生活を送ってもらいたいと、出来る限りの要望を聞き入れた。売店に様々なスイーツが売られていたのも、一つの例だ。ただ、対人関係のストレスは言葉一つで変われるものではない。
本人が変わろうとする意志があるかないかで変わってくる。一つが解決すれば、次へ。また解決すれば、次へ。終わりの見えない不安、疲労な日々を彼女は『普通の日々を維持することは出来ない』と漏らしているのだ。
そればかりか、生徒に深入りしずぎたせいで教頭などに注意を受けることも何度かあったらしい。それでも彼女は生徒達に寄り添い続けたのは、守らなければならない存在であり、教師として生徒には未来の光景を見てほしいと言っていた。
教師だからこそ個人に固執せず、みんなを未来へと送り出せる素敵な職業だとも笑顔で言っていた。
だからこそ、諦める事がどれほど苦痛だったのか分かってしまう。
一発殴るくらいじゃ収まらない怒り。彼は沙月の苦労や思いを知らない。それは仕方がないことだろうが、『教師失格』は何を言われようと許せない発言だ。
パァァン──!と頬を打たれる匠海。
『Z』を気にも留めない豪快な破裂音を立てて、前に立つ野洲川柚季が睨む。
「(頭を冷やしてください、匠海君。何も出来ない、何もさせてくれないからって枝邑先生に当たるのはやめて。先生は匠海君を思って言ってくれているの…これはもう、匠海君一人でどうにかなるかの問題じゃない…誰も助けることも出来ません。……もし、神室雲雀のようにと思っているのなら、思いやがるのはいい加減にしてください)」
柚季は止めなかった。いや、止めきれなかった。彼の強い正義感で救われた命も確かにあったが、同時に危険が常に紙一重であったことを理解しながらも。
正義感が彼の絶望に僅かな光を灯しているのであれば、それを絶ってしまうと心が壊れしまうのではという恐怖があったから。強い言葉で言い返すことも出来なかったし、慎重に言葉を選んでしまっていた。
彼を傷付けないようにと。
自分の弱さが彼の正義感を更に強めさせ、歯止めが効きづらくさせていたと責任を感じる。彼を思うことは悪いことではなくとも、自信が付きすぎた結果がどう繋がるか…柚季は知っている。
昔、子供の頃の話だ。同い年で仲の良い男の子がいた。その子も正義感が強く、誰構わず助けてしまうようなお人好しだ。自分もその一人で助けてもらってからというもの憧れを抱くようになり、一緒にいる時間が増えた。
彼が誰かを助けるたびに周りの人は褒めていた。勿論、自分も格好いいなどと一緒にいることが多くなったことで、その子も嬉しそうに照れていたことを覚えている。今、思うとそんなギャップをする彼が好きだったのかもしれない。
だけど、そんなある日。悲劇が起きた。
六人で川遊びをしていた時、一人の男の子が溺れてしまったのだ。少し急流だったことで、子供ではどうすることも出来ないと悟り、大人を呼ぼうとしていたのに。
彼は助けると言い出した。彼はそれほど自信があったのか、なんの躊躇いもなく川へ飛び込んでいく。周りの人は『戻ってこい!』『危ないよ!』と叫んでいたのに、自分は信じていたのだ。
きっと、何もかもうまくいく。そう願っていた。
でも。
二人は死んでしまった。
結局、彼は溺れている男の子に辿り着くことも出来ずに。
あの時、止めていたら…きっと彼は助かったかもしれない。だけど、それで彼との関係に亀裂が入るのではという恐怖が止める選択肢を与えさせなかった。
そんな身勝手な思いで失うはずのなかった命が失ったのではと後悔しかない。周りにどんなに優しくされても、この悔いは一生消える事はなかった。
だから、結果的に自分は人との関わりが苦手になっていた。あんな思いをするのなら、いっそあまり友人を作らないほうが幸せなのかもしれないと。
比較的部員が少なく、会話のない文芸部が丁度よかった。本は嫌いではなかったし、物語に入り込めば、色々なことを考えずに済む。この時間が自分にとっても心のケアにもなっていた。
そんな時に郷道匠海が来た。彼の第一印象はとても怖く、目付きも顔立ちも不良というオーラが漂い、自分と正反対の存在が憩いの場に踏み込んで来たことは衝撃だった。部室を開け渡せと脅迫させられるのではと思い、不安と恐怖で汗が止まらなかった。
しかし、彼は何も言わず、本を読むわけでもなく、空いている席に座ったのだ。その真意は分からないが、こちらに危害を加えないのなら安心はした。ただ、見るからに不良少年という感じの彼に気が散って、本の内容が頭に入ってこなかったことを覚えている。
それから毎日、通うようになってから次第に言葉を交わすことも増えてきた。一緒にいる時間も長くなるにつれて彼の性格などが分かってくる。何の因果関係か、彼は亡くなったあの子にそっくりなところがあった。
正義感が強く、優しいところだ。容姿を気にしていたが、困っている人を放っておけずに助けしまう。その度に怖がれてしまうのもお決まりの展開だけど。
それでも、彼は自分と向き合っていた。どんな容姿でも人助けを怠る理由にはならない。
そんな彼に自分は惹かれていた。一緒にいて楽しい気持ちになれるし、それを支えたいと思えた。
いつまでも過去から逃げてはだめだ。
向き合おうと決めたのだ。
今度は絶対に止めないと。
「(匠海君はあの人のようにはなれないです。力不足だし、判断力も足りません…あれは何度も同じ境地を乗り越えなければ辿り着けない領域の存在です。…もう一度、言いますね。匠海君一人で助けることは出来ません。枝邑先生が言う通りにしましょう。これは…もう正義とかの問題じゃないんです。だから、命の恩人にそんな言葉を使わないでください)」
「……」
匠海は黙り込む。睨んでいた彼女の瞳からは涙が流れていたからだ。彼女は何度も止めようとしてくれた。
それは、いつでも自分の安否を思ってのこと。
「(あんたは何も分かっていない。あの状況下で生き残れること自体が数パーセントの可能性しかなかったんだ。普通なら統一性がなくって誰かじゃない自分だけを守ろうする。散り散りなれば自分の事しか頭に入れなくて済むからな。そんなリスクを背負ってまで助ける道理なんてない。でもな…さっちゃんはあんた達の前にずっと立ち続けた。諦めずに守ろうした。教師だから、今まで生徒に寄り添って思い続けたさっちゃんだからこそ、可能性の高いあんた達を守る事に徹したんだ。それがどんなに辛い選択だったかも…まあ、あんたには分かりっこないと思うけど)」
南奈の怒りが少し静まったのも柚季のビンタが影響されたのかもしれない。並べられる言葉は違えぞ、彼の発言に対して怒ってくれたことが南奈に冷静に考える時間を与えさせてくれた。
ゆい は穏便に収まったことに安堵のため息を吐く。乱闘騒ぎは洒落にならないし、ここで人間関係に亀裂でも入れば、今度に響くことだってありえたからだ。
「………」
沈黙の中、遠くの方から女性の悲鳴が聞こえてくる。あの群衆とは少し離れている場所から察するに散り散りになった生存者達のものだと思うと沙月の言葉が現実化しているようだった。
握り拳の力が弱まり、腫れた頰に手を当てながら。
「(…もし、神室って奴が俺と同じ事を言っていたのなら、枝邑先生は希望を持てて助けに行っていたのでしょうか?もし、あいつがいたら、今の俺はもっと冷静になれていたのでしょうか?)」
ここで雲雀の名前が出るのも唯一無二の存在感を見せつけていたからだと思う。
彼のような複数の『Z』相手にも驚異の強さを誇る戦闘能力があれば。
彼のような状況の分析から指揮まで驚異の早さを誇る判断力があれば。
また違った展開になったかもしれない。
「(あの人は凄い。匠海君と彼を比べても仕方がない。…でも、今はその彼がいない。なら、私達は私達なりに頑張るしかないのよ)」
正直、自分は出てくる場面ではなかったと柚季は思っていた。戦えるわけでもなく、判断力のない凡人中の凡人が匠海に偉そうな事を言っている自覚があったから。
もし、あの時に彼が黙る一択を取らずに言い返していたら、きっと負けていたに違いない。
それを見越してなのかは不明だけれど、隙を与えさせずに挟んできた南奈にはありがたさを感じていた。
「(野洲川先輩…俺……)」
「(不安で怖いのは分かります。自分に何が出来るのか、常に考えなければいけませんしね。…私はコミュケーションが苦手な方でこんなことしか出来ませんけど、匠海君はいつもの匠海君じゃないと私が不安になっちゃいますから。)」
彼女は抱き着いた。互いの鼓動を感じ、不安を共有し、この温もりを感じてほしかった。
彼の全てを否定しているわけではない。これを一番に伝わってもらえば、この行動に確かな意味を持つ。
「(難しいのは分かっているつもりですよ?こんな状況でいつものようになんて出来る方が馬鹿げています。でも…意地悪なことを言うと、私はいつも匠海君が好き、ですから)」
匠海の赤く腫れた頰を撫でながら柚季は笑みを絶やさず、励まし続ける。彼の中で彼女がどういう存在なのか知らないが、少し照れているところを見ると意識しているのだろうと頷けるものだった。
そんな二人のやりとりに溜め息を吐く南奈に沙月が寄り添う。
「(ありがとう、南奈)」
教師失格と言われ、ショックが隠し切れなかった沙月を心配して怒ってくれた南奈。三人の中で仲良くなるまで、一番時間がかかった彼女が起こしてくれた行動に、状況に似合わず感動してしまったのだ。
自分がやってきたことは無駄ではなかったと、改めてそう思えた。
「(お礼なんていいよ…。あたしはさっちゃんが傷付けられたから怒っただけ。それに、先輩が先にビンタしなかったら乱闘になっていたかもな)」
「(それは駄目だけど、本当に素直に嬉しかったの。だからね、ありがとう…)」
「(……どういたしまして。だけど、お礼を言うのはあたしだけじゃないと思うぞ)」
沙月は南奈の視線の先を見ると、柚季に押される匠海が近付いて来ていた。彼女にもお礼を言わなければいけないと分かっていても、彼の前だとさっきの事もあって表情が引きづり、反射的に南奈の背後へ怯えながら回ってしまう。
(うぅぅぅ、南奈に迷惑をかけている事は分かっているわ。でも、凄く気不味い…。そりゃあ、これからの事を考えれば仲直りした方がいいのだけど、ま、まだ…心の準備がぁ…)
自分の行動を理解しながらも踏み出せない意志に情けなくなる。一方の匠海にも気まずさがあってか、対面する形になると沙月を直視できずに目を逸らしてしまう。
その様子に仲介役の二人は溜め息を漏らすと南奈は沙月を前に押し出し、柚季は匠海の肉を摘んで仲直りする事を促してくれた。
意を決した二人は相手の様子を窺いながらタイミングを見計らっていると。
───────────────ガサ。
ふとしたというより、ただ呼吸をしていただけのごく自然な行為だった。
咄嗟に息を止めた沙月が感じ取ったのはこれまでの血臭といったものとは違い、慣れ親しんだ獣臭と獣から放たれる独特な腐敗臭を同時に嗅ぎ取ったからだ。
その直後。
茂みから突如として現れた異形な生物が飛びかかって来た。
真っ直ぐ、匠海を狙って来る異形な存在の正体が小型犬と認識したのはすぐだった。小型犬に似つかない強靭な足、長く尖った尻尾、口からはみ出した牙、そして拉げた顔に異形の言葉以外に思い付かない。
気付いていない彼に今から声をかけても、今から引っ張っても間に合わない。最悪な結末が待ち受ける。
「──あ」
そんな危機的な匠海はいつの間にか沙月の胸に飛び込んでいた。ただ、彼が行動したとは違う。体勢があまりにも崩れており、まるで彼とは違う意識が加わったような感じだった。
沙月の視線は匠海から正面へ向けられるとそれの確信が得られる。柚季が小型犬の接近に気付き、彼を沙月側に押していたのだ。恐らく反応できたのも偶然のものだろうが、彼女の表情には安堵の笑みがあった。
これで彼は助かる。
けれど、自分はどうなるのか。
安堵を他所に溢れる涙が直面する死に対しての恐怖を表していたように見えた。
「野洲川──さ、」
鈍い音が声を掻き消し、そこにいた筈の柚季は真横へ大きく飛んでいく。顔に返り血を浴びる沙月は彼女の最後を見る前に、勢いを殺しきれず尻餅を付いたことで視界がブレる。
「ぁぁぁぁあああああああああ!」
柚季の苦痛な悲鳴が聞こえ、一番に反応したのは助けれた事をまだ知らない匠海。衝撃で離れた手斧を再び掴んで振り返り、彼女が成した結果を実感することになった。
「や、……………………………野洲、がぁ川先…輩……」
倒れる柚季の上に乗りかかる小型犬は彼女の首を半分に噛み付き、それに飽き足らずに内臓まで貪り尽くしている光景に、顔面蒼白する匠海の心臓ははち切れそうになる。
友人の死よりも激しい怒りや殺意が芽生え、彼の中で何かが切れる。
「あぁ……あああ………あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!!」
周囲に気を配る余裕さえもなく、怒りと殺意だけを感情に乗せて無造作に斧を振り回す。冷静さは皆無、怒号や大きな身振りで威嚇にも取れる行動に『殺傷』の二文字はあるのだろうかと疑問に思う。
今の匠海の思考なんて分かりっこない。何を仕出かすさえも予測が付かない。
休んでいた生徒や教師は初めて見た形相をした『Z』に声を我慢出来るわけでもなく、感情は爆発していった。一人が集団から走り去っていくと続くように一人、また一人と逃げ出していく。
武器を持つ教師はまだ踏み止まれているも、どう対処すれば分からない状態だった。
「駄目よ、一人で行動しないで!」
沙月の声は届かず、恐怖に耐え切れなかった生徒は後を経たない。無理矢理でも引き留めれば良かったのだろうが、目の前の危機を見過ごすわけにもいかずにその考えまで至らなかった。
沙月は背中に背負う矢筒から矢を取り出して、聞いているか分からない匠海に指示を仰いで矢を放とうと状況を確認しようとするも。
小型犬は軽快な動きで匠海の届く攻撃範囲から逃れ、反撃の隙を狙っているように立ち回っていたのだ。あまりにも人間種の『Z』とは異なる動きに、衝撃を受ける沙月は矢をつがえる事を忘れてしまう。
「枝邑先生!!」
詩織の声とは逆の、足音がする方へ視線を向ける。
小型犬が自分に向かって飛びかかろうとしていたのだ。矢をつがえていない状態では弱々しい矢を腕の力だけで振るうものしかない。
だが、尻をついた状態から攻撃モーションに移るまでの時間が足りない。飛びかかって来た相手に対して腕の力だけでは確実に負けてしまう。
あまりにも不利な状況に成す術が───否。
沙月は矢をつがえる事も腕の力だけで矢を振るう事も諦める。ただし、決して自分の命を諦めたわけじゃない。一つの対策法を見出して、それに賭けた。
「───ッ」
全身を捻り、その少ない遠心力を利用して、不気味な顔面に横蹴りを一発かます。肉質がどうかよりもほぼ骨のような頑丈さに足に痛みを感じながら、蹴り飛ばした小型犬の行方を見る。
咄嗟の判断で対処したとはいえ、誰もいない所へ飛ばせたのは奇跡に近かった。地面を転がっていく小型犬はその勢いで僅かな宙に浮いた瞬間、体勢を直して綺麗に着地するという目を疑いたくなる光景を目の当たりにする。
しかし、それは一瞬の驚きだった。次の攻撃に備える分には十分すぎる時間で矢をつがえる。唸り声を上げて威嚇のように見せる小型犬だが、その一歩を踏む事はせずに此方を窺っていた。
あちらが動かないなら好都合だ。狙いがブレるだけで命中精度は大きく変わり、一発で仕留めるのは困難になる。
「お願いだから動かないでよ…」
これ以上の犠牲を出さないようにも、確実な一発を放つのに必要な力まで弦を引いた瞬間だ。
小型犬は突如、自分が来た方向へ走り去っていったのだ。その直前に耳が何かを聞き取ったように動き、行動したようにも見えたため、警戒心が薄れずに走り去った方を見つめる。
他にも仲間的な存在がいる可能性がある中で気を休められない。教師陣や詩織は小型犬がいなくなったことで、態勢を整える時間が作られ、周囲を警戒する余裕ができた。
沙月は他の教師に周囲の警戒を任せ、膝を付いた匠海の元へ駆け寄ろうとする。その彼が見つめる先に痣だけの顔に首や腹を喰い千切られた野洲川柚季が仰向けに倒れ込んでいた。
呼吸をしている気配はなく、真っ青になった顔が彼女の死を表す。
目の前で起きた柚季が死ぬ間際、その時の表情の変化までも焼け付いてしまった光景が脳裏から離れない。
「…………」
声をかけることさえも躊躇うほどに、彼の背中から悲しみが伝わってくる。自分の能力のなさが大切な人を失い、自分に対する自信を失ったりと心に深い傷を負ってしまっている。
こういう時、教師としてどんな言葉をかけたらいいのか。返って、反発されないかと不安になれば、顔に出てしまい相手側も不安になる。慎重な言葉選びは必須。
いや、かけるというより話を聞いてあげた方が彼の中にある気持ちを吐き出させることが出来るだろう。そうすれば、少しでも楽になるかもしれない。
沙月はそっと寄り添うように匠海に近付こうとした時、自分よりも早く彼に寄り添おうと踏み出した者がいた。
「南奈…」
他人には辛口で、嫌悪感を抱いている南奈が自らの意志で他人に関わろうとしていたのだ。それが驚きとなって踏み出した足が止まり、二人のやり取りの様子を見る。
「もう、お別れは済んだか?」
第一声から相手を刺激する言葉に沙月の心臓が大きく高鳴った。確かに自らの意志で行動したとはいえ、必ずとも慰めるための行動とは限らない。
彼女の性格を考えるならば、その期待は薄いことくらい分かっていたはず。それでも同じ境遇を経験した者同士で何か思うところがあるのではと、もう少しだけ様子を見ることにする。
「守れなかった…。守れなかった守れなかった守れなかった守れなかった!!はぁはぁはぁ……み、みんなを守る、ん…ことも出来なければ、大切な人さえも守れないなんて、俺は…俺は、所詮口先だけだった!!野洲川先輩はこん、な俺にぃ…きっと恨んでいるに決まっている!そうだぁぁあ!ぞぉう゛に決まっている!!」
助けられた自覚をしたことで無力さや喪失感が自分を卑下するような言葉が漏れてしまう。彼を慰める彼女はもういない。彼女の支えが彼の支えならば、そのショックは大きいことくらい南奈も分かっているはず。
「あんたの気持ちを話されても、どうもしてあげられないし、どうでもいい。ずっと泣かれても死んだ人は帰って来ないのに、いつまでそうしているつもりなんだ。奴らはお前に合わせなんかせずに、問答無用で襲ってくる。今この時間が無駄なんだよ」
匠海と柚季の関係性など南奈にとっては興味がない。
「時間の無駄だと?お前は、これを…みみ見て何も感じないのか!?部活の先輩でもあって、一緒に戦ってきた人に対して悲しまな、いわけがねぇだろ!それに野洲川先輩は──」
南奈は彼の発言を断ち切るように目の前にある物を見せる。
「な、なんだよ…これは」
「あんたにどう思われようと知ったこっちゃないが、彼女には借りがある。それを使って終わらせろ。それがあんたの償いでもある」
南奈が見せたのは護身用にしては刃先が長いサバイバルナイフだったのだ。職員室で何かを探していた姿を目撃していた沙月だが、まさか護身用の武器を探していたとは思わなかった。
持たせていた護身用のナイフを三人は身に付けておらず、その心配からだと思う。武器があるとないとでは、心構えが違う。
南奈もそういう意味を含め、二人を守る為に手に取ったのだろう。
「死んだ人に対して、これが償いなんて…。俺にそんな責任を…。いっそ、俺が死ぬべき、なんだ。もう生きる価値も…ない俺が死んだって誰、も…」
差し出されるナイフに戸惑い、悩んで、また弱音を吐き、死さえも脳裏に浮かぶ。どこまでも軟弱な匠海に目を細めて、苛立ちを見せながらも冷静さを保とうとする。
「今のあんたは彼女を人間として殺してあげる事が償いだ。遅かれ早かれ彼女は『Z』化して、あんたに襲いかかる。だけど、当の本人はそれを望んでないんかいない。なら、あんたが人間として殺してあげれば、彼女は人間として見届けられてもらえる。そんで、あんたは彼女に生かされたのなら、最後まで彼女の思いを背負い、自分の弱さを噛み締めろ!」
「…それで、野洲川先輩が報われるなんて…」
悲観的な考えは変わらなかった。絶望に圧せられた心はそう易々と立ち直れるものではない。
「いつまで落ち込むつもりなんだ!彼女の事をよく知っているのはあんただろうが!あんたがそれを否定したら、彼女が助けた意味がなくなる。それこそ、報われない!泣くのは別にいい。嘆くのもいい。だけど、自分に生きる価値がないなんて言うな!彼女が助けたのは生きてほしいからって事は忘れるな!あんたの記憶の中に彼女との思い出は無価値だって本気で思っているのか?それを知っているのはあんただけだ…。それを思い出させるのも、あんただけだ。まぁ、あんたがどう思うか勝手だが、彼女の行為を無駄にするような事だけは止めろよ」
南奈は知っている。同じ経験したから同情出来るに決まっているのに、彼女にとって過去の自分は嫌悪を抱いており、それが苛立ちを爆発させるものなった。
けれど、優しかった。その発した言葉に彼を突き放すような言葉が一つもないからだ。
「………」
暫く、と言っても数秒くらい南奈を見つめる。会ったばかりの他人のような自分をどうしてそこまで怒れるのだろうか。分からない。考えたところで分かるはずもなく、匠海はもう一度横たわる柚季に視線を落とす。
「ウオオオオオオオオオオオオオオオオンンンンンンッ!!!!」
犬の遠吠えが聞こえる。方角から見ても『Z』化した小型犬のようにも思える。しかし、この遠吠えの意味に顔色を変えたのは動物に対して最も経験が多い沙月だった。
「不味い…みんな!!奴らはおそらく大群を率いて来るわ!私達の居場所も特定されているから、急いでここから離れましょう!」
『Z』とはいえ、一つ一つの動作に連携を取ろうとする意志があるのは、もう人間的な本能の一つなのだろう。そして、その本能の中に群れを成す習性があった場合、遠吠えは仲間とのコミュニケーションを取る為の手段だ。
犬の起源は狼と言われている。実際に狼を観察していると、仲間が引き離された時に決まって遠吠えをして呼び戻していた。いくつか遠吠えには目的があるとは聞くが、多さで言うなら仲間を集結させる目的の方が多い気がしたのだ。
沙月はそう受け取り、皆を集める。時間の猶予が明確化にされない中で、迅速に動かざるを得ない。ただ声かけ一つで、人が統一な行動を起こせるとも限らない。動ける者から対応しないと遅れるだけで万全な態勢が出来なくなってしまう。
そんな一瞬で成り立つ思考から行動を起こして、こちらに呼び掛けるまでの僅かな時間。
「……奴らはあんたに合わせたりしない。この世界でのお別れは一瞬で終わる事だってあるし、お別れ自体が出来ない事だってある。あんたはこの僅かな時間を無駄にするつもりなのか?」
南奈は一向に動かない匠海に告げる。数秒、数十秒と一分にも満たない残り時間を彼を追い詰める。
「本当に、この世界は残酷だ…」
容赦ない。こちら側の都合なんて問答無用で展開は進んでいく。二年間と決して長くない時間を共にした彼女と積み重ねてきた思い出に対して、別れが一瞬というのはあまりにも酷すぎる。
深呼吸をした匠海は南奈からナイフを受け取り、その刃先を柚季の喉に当てる。後は下に押し付ければ、彼女は本当の死を迎えられる。簡単に見えるほんの一瞬の力の加減でさえ、今は簡単なものではなかった。
「…………ぁ」
涙が頬を伝って蒼白した彼女の頬に落ちる。蘇る楽しかった日々が脳で映像化されていく。
出会ってから時期が経っていなかった頃の話だ。自分の容姿を気にしずきて、他の人と話す事を躊躇っていた時期でもあった。人から逃げるように運動部から比較的自由な文芸部に入部して、密かな学校生活を送るはずだったのだ。
野洲川先輩と出会うまでは。
出会った当初は互いに会話もない静かな部室だった。ページを捲る音と彼女の吐息だけが聞こえ、自分もどことなく落ち着ける空間だったのも今でも覚えている。
それが、いつしか自分は彼女を目で追い、話しかけるタイミングを探している自分がいた。側から見れば変質者と訴えられても言い訳の余地もない。実際に怖がれたのは本当にショックだった。
それでも諦めずに、部室に出入りして彼女との日々を過ごしていく内に、少しずつ会話が成立する時が何度かあった。不器用なまでに割とどうでもいい内容だったのもコミュニケーションの無さが堪える。
そんな日々も一年を経つと成長の実感が湧いてきていた。彼女との会話も和気藹々として、一番の大きな変化は彼女の家にまでお邪魔するようになったことだ。
気付けば彼女と一緒にいる時間が増え、四季折々のイベントにも二人で過ごせば自然と好意を寄せていた。
ただ自分は昔から怖い容姿で周囲の印象としては近寄り難い存在だった。それが性格に現れるようになり、陰キャラと化し野洲川先輩と隣で歩く時も周囲の目に不安になるくらい自信を持てていなかった。
彼女と釣り合うはずがない。自信のなさが彼女の魅力を自分で掻き消しているではないかと思い込む始末。
そんな時、不安が顔に表れていたのか。部室で彼女が放った言葉に心を打たれた。
『自分の見た目を気にしても、私は知っているんですから。匠海君が優しくて頼りなって、傍にいて安心することを。私にとってかけがえのない大切な人ですから、遠慮せずに自分を棚に上げてもいいんですよ?でも棚を上げるからって着飾ったら、それはもう別人。私は本当の貴方と一緒にいたいです』
あの言葉があったからこそ、これでいいのだと思えた。見た目を変える必要も、性格を変える必要も。ただただ、自信を持って彼女の隣に立とうと心に決めた。
これからもそんな彼女をどんどん好きになっていくのだろうと思っていた矢先の───。
死。
もう彼女を見ること聞くことは叶わない。
あの横髪を耳にかける姿やあの会話の中で生まれた笑顔、あの透き通るような声を、部室の窓際で読書をする姿を、帰りのゲーセンで聞いたことない悲鳴を上げた時のリアクションを。
どんなに恋焦がれても、この青春に終わった。
「野洲川先輩…!」
ある日突然、彼女から『一度でも良いから貴方の小説を読んでみたいな』と期待と興味を含めた提案を持ちかけられた。表現は人それぞれ違う。それを文字することでこの人がどんな人かが読めるからとも言っていた。勉強嫌いな自分にとっては物語の構成以前に国語力の無さが難題なものになっていた。
考えた末に、自分と先輩の物語を書こうと思い付く。一から物語を構成するより、ノンフィクションであればリアルな心情も書ける点から比較的に書きやすさがあったし、何より楽しかったからだ。
そして、同時に告白もしようとも思っていた。
言えないままの数ヶ月間に終止符を打つ。その心構えから少しロマンチックにするために最後の告白文を『柚季』の名前にして告白する予定だったのだ。
それが今日、発表する日だというのに彼女に思いを伝える前にこんな事になってしまうなんて。
結局、彼女は自分の事をどう思っていたのかが分からないまま。永遠に埋まらない心の穴ともどかしさが混濁していくのであった。
それでも彼女の思いを無駄にしたくない。彼女がくれた思い出を忘れたくない。なら、自分が出来ることは己の弱さを肯定して生きることだ。彼女を守れなかった罪を背負いながら、彼女の生きてほしいという思いを背負いながら。
───野洲川先輩、俺は貴方と会えて…本当に…良かっ、た。
「────俺は柚季の事がずっと好きでした。これからも貴方と一緒に、未来を作るために傍にいさせてください」
匠海の最後の別れの言葉は柚季に対して抱いていた恋する少年の告白。ロマンチックなシチュエーションを考えていた割にはシンプルな言葉だが、その中には彼女との思い出がたくさん込められていた。