第9話 『名前の分からない感情』
「舞花ちゃん!」
ゆい の声とともに複数におよぶ携帯のライトが近付くと、顔がはっきりと現れてくる。三人の顔を見るのがこんなにも懐かしさを覚えてしまうくらい長い時間が経過したようだった。
実際には数分と短い間。こんなに長時間の感覚になるのは、やはり起こった出来事がそれほどのものだったと実感する。
自分の情けなさに浸る舞花は今の表情を顔に出さないように注意を払いながら、ゆい達を出迎える。
その──。
存在に気付いたのは、そんな直後だった。
「──ッ!」
ゆい達の背後に蠢く影が映り込む。位置的に考えても男性達とは思えず、反射的に『Z』と認識するのが自然。恐怖に怯えている暇などなく、舞花は親友の危機に声を張り上げる。
「後ろぉおお!!」
接近戦を得意とする匠海が反応はするも、ゆい達と舞花達の間にいる彼では間に合わない。唯一動けたのは遠距離を得意とする沙月だけ。矢を引く間もなく、瞬時に対抗できた策は矢をナイフ代わりにすること。
斬るには向かないが無いよりかはマシな判断だ。暗がりで本当に『Z』なのかと確認する余裕がない。その数瞬の迷いがリスクとなれば、躊躇っている場合ではないことは沙月も分かっているはず。
しかし、状況は一変する。
「助、けて……ァア゛…」
覇気の乏しい声でもきちんと言葉を発する者を前に、沙月の攻撃の動きが止まる。南奈がライトで照らすと、そこには傷だらけの女性が立っていた。
南奈を含む ゆい達はその人物が誰かは分からないが、ギャルや舞花にはそれが誰なのかすぐに判明する。
「凉…生きてたの?ほ、本当に……」
ギャルにとって親友が生きていた事実は涙が滲むほどの嬉しさがあった。けれど、舞花にとっては不安だけが積もっていく。
例え、暗がりであまり見えていなくても噛まれた証拠は悲鳴が教えていた。今の彼女はギャルが知っている彼女とは違う。だからか、舞花はギャルの手を掴んで、それ以上の進行を妨げる。
「な、何を…」
「貴方が一番近くにいたのですから分かっているはずです。彼女はもう貴方の親友である彼女ではありません」
舞花の行動に戸惑うギャルでも、その言葉には顔を引きつかせる。
「で、でもよ…服の上から噛まれただけってこともあるし…」
「いや、それだったら服に付着している血の量が異常だ。しかも…血は首元に集中している時点で諦めた方がいいぞ」
女性を照らすライトで、ある程度の状態を確認できた匠海はその可能性を否定した。ゆい達も同意見とあって頷き、ギャルは押し寄せる現実に悔しそうに歯噛みする。
「な、何もォ見ィえ…ない…。誰かァ…蓮音、真矢…誰でもィいがらァア返事じてェよォ…」
人が『Z』に転化するのは早ければ数秒、遅ければ数時間と個人差が出てくる。今のような彼女が陥っている症状こそが転化の前触れでもある。
ゆい達は見慣れた症状かもしれないが、沙月達にとっては情報にないものが目の前で起きている状況に絶句していた。
人間の皮を被った化け物と言い表すことを躊躇ってしまうほどに、それは人間にしか見えなかったからだ。あの手、この手で自分の身を守るために、誰かを助けるために殺してきた『Z』は人を襲うことを微塵も望んでいない無垢な人間なんだと事実が押し付けられる。
「お腹ァ、空いた…ァア゛ア゛。何か食べェ物ォオ゛、お肉でもォ何でもイイ…ガぁら゛ァ」
顔色が青くなり、呂律も怪しくなっていく。次第には自分の指の肉を噛み千切り始め、異常な食欲に駆られる本性が見え始める。このままでは彼女を苦しめるだけだ。
沙月は一度、蓮音を見る。その仕草が何を指し示すものなのか、察した蓮音は涙を溢れさせながら頷き返す。
沙月自身もまだ意識が微かに残っている者を殺めるのは心が痛む。治療法が見つかっていない今、彼女を救うことができるのは殺すことのみ。それは本当の意味で救いになるのだろうか疑問ではある。
少なくとも、これ以上の犠牲者を出さないためにも。そして、何より彼女に人を襲わせないようにするために。
弓に矢をつがえ、狙いを頭部に定める。出来る限り苦しませずに終わらしたい思い込め、矢を持つ指先の力を抜い──。
「ォォオオオ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛っ!!」
真横から突如として咆哮する『Z』は、棚の隙間から無理やり頭を通して沙月の腕に噛み付く。もう一人の存在に彼女達には認識できておらず、不覚を取られた沙月は苦痛を上げる前に持っていた矢を首から頭へ刺す。
口の力が緩んだ隙に腕を引き剥がし、『Z』から離れた所を最後に匠海が手斧を振り落として息の根を止める。
「さっちゃん!」
スーツで守られていたとはいえ、まず傷口を見たくては安心はできない。駆け付ける南奈はすぐに傷口を確認するために腕を捲る。母親代わりの沙月を失いたくない気持ちが先走り、目の前にいる凉の存在を忘れてしまう。
「南奈ちゃん、さっちゃん逃げてぇぇえ!!」
「っ!」
凉は食べ物を見つけたのか。じっとこちらを、目から零れる血の涙を流しながらうっすらと笑みを浮かべ。
「───────みィ…げェぇえェ……」
それはもう『Z』以外考えられなかった。飛び掛かってくる彼女の形相に人間らしさはもうどこにも感じられなかった。涎を流し、指を食いちぎったことで肉が口元に残る。視認したくないほどのグロさにライトを向けてしまった己を恨むべきか。
狭い空間では匠海の位置から反応しても間に合わない。誰も遅い。誰も手を出せない。
すると。
「─────ッ」
黒い影とライトによって銀色に輝くナイフがちらついた次の瞬間。『Z』化した凉の体が地面に押さえ付けられ、ちらついたナイフが喉元に突き刺さって動きを停止させた。
ゆい は光源を徐々に上へ向けて、その存在を確かなものとする。狩衣を着ていたと思いきや目に映ったのは体中の至るところにぶら下がっていたナイフ。
肩や腰、腿などと動きに支障があると思うくらいの場所にもぶら下がり、その数に唖然する。
「神室さん…でも、重傷を負っていたはずじゃ…」
ゆい達も匠海から雲雀は重傷を負っており、動けないと聞いていた。しかし、全体的に見ても彼にはそんな面影が正直ない。ただ額から流れる血が唯一その名残を残していただけだった。
実際に殴られた光景を見ていた舞花は驚きを隠せずにいるくらい衝撃を与えさせる。先程、助けてもらった時は弱々しい姿だった。棚を折り曲げることに力を使い過ぎて、肝心の止めは体を引き摺りながらナイフで刺していたからだ。
だから、まだ立てるはずがないと思っていた。傷口を見た舞花だからこそ、その衝撃も大きい。
「すまない…少し回復に時間がはっ…げぼ、かかってしまったァ」
明らかに無理をしていることが分かる。言動が一致しない姿に舞花は小走りで近付いて、不安定なバランスを保つ雲雀に肩を貸す。
「そんなに強がらないでください。貴方はまだ無理は出来ないのですから」
「分かっている………でも、今はそんなことよりも…」
雲雀の視線は腕を噛まれた沙月に向ける。スーツ越しとはいえ唾液が繊維まで浸透して傷口に入り込めば、もう助からない。場合のことも考慮してナイフを握る。
「いえ、感染は多分していないわ。腕に簡易的だけと雑誌を繰るんでいたから歯は通っていないはず。だけど、もう少し離れるのが遅かったら骨が折れていたわ」
父に準備は常に万端にしておくと注意を受けていた沙月。狩りに行く際によく言っており、狩りとは必ずしも自分が有利に立てる状況になるわけじゃない。時と場合では自分の身を呈して狩る必要もある、と。
その教え通り『Z』の騒ぎから雑誌を巻いて、いざという時にはと気を引き締めていたが、まさか自分からではない相手側から噛み付いて来るとは思もってもみなかった。
「心臓に悪いぞ、さっちゃん…。あたしはてっきり、もう駄目かと」
一番早く駆け付けた南奈は大きな安堵の溜め息を吐く。念のため雑誌を取り外し、腕の状態の確認も行う。特に傷痕は念入りに視覚と触覚で探る。
「大丈夫だ…あたしが見る限り、傷痕はないと思う。内出血は少し起こしているくらいで、特に体の異常はないぞ」
もう一度安堵の溜め息を吐く南奈に続いて、ライトを照らす ゆい と雲雀に肩を貸す舞花も吐く。
「それなら問題はなさそうです。それで…」
危険性は皆無と判断するとナイフをしまい、今度は別の問題点を指摘する。部屋の外から聞こえる悲鳴に耳を傾けながら。
「『Z』がここにいるなら、職員室の方もいるってことでいいですよね?」
「あぁ、あいつら補強を施していない小窓から侵入して来やがった。あそこまで利口だと、もう打つ手も限られ…っておいおい!そんな傷のお前に何ができる?!」
肩を貸す舞花から離れると、覚束ない足取りで出入口に向かう雲雀を匠海は止める。その場にいた匠海でも音だけでも聞く限り、動くのはまずいということは分かる。
「まだ諦めるには早いです…小窓なら少なくとも『Z』の数は数体の侵入で済む。だが、侵入した『Z』をなんとかしなければ、職員室は危ない」
「危ないっていう点については俺も賛成だ。お前と彼女を助けに行くのに野洲川先輩を置いて来ているんだ。居ても立っても居られねぇからな」
「なら、急がないと」
「だからって、お前は動くのも大変だろうが。俺が行く…お前は大人しく安静にしとけよ」
匠海の覚悟に敬意を払いながらも、雲雀は彼の手の力とは全く逆の力へ加える。
「お前…」
人の善意を受け取らない雲雀を匠海は睨むが、雲雀もまた覚悟を持っていることを赤い瞳が教える。
「君の覚悟は尊重しますが、それでも一人でどうにかなるような状況じゃない。一体の『Z』を殺すのに一分かければ、条件次第では一、二体は増える…それては遅すぎる」
職員室に侵入された状況を悲鳴でしか判断できない雲雀は、誇張した表現だったかもしれない。しかし、周囲の反応を見ると、あながち間違った表現ではなかったと認識する。
とはいえ、匠海の覚悟を尊重すると言ったが、迅速な対処をする分では後の言葉は力不足と伝えているようなものだ。直接的な言葉は避けたつもりだが、自覚しているからこそ、心を締め付けられる感覚が残る。
「だから、君には『Z』を引き寄せてほしい。『Z』は人の声よりも金属音や爆発音といった耳につんざくような音を好む。そこで、君は何でもいいから金属音を立たせてほしい」
目が不自由な『Z』は音に敏感なのはこれまでの出来事でよく知っている。ならば、その音を利用した戦法をとって、一人が注意を引いている間にもう一人が殺傷。男子生徒達が行っていたことと大差ない作戦に聞こえるが、職員室にいる全ての『Z』の注意を引くとなると相当な危険を買ってしまうことになる。
そうなると『Z』の猛攻を掻い潜る運動能力が必要になってくる。その一番の適任者は雲雀のようにも思えるが、現状の彼では難しく思えてしまう。
「なんか心なしか、めんどくせぇ役割を押し付けられた感があるが…まぁいい。これ以上、話し合ってもお前が折れることはなさそうだし。だが、囮を買うのはいいとして、俺も寄ってきた奴は対処する。少しでも数を減らしたほうがお前の負担も減るだろ?」
「構わない…お互いの負担をお互いがカバーすればいい。正直、俺の意識もいつまで持つか分からない」
「なら、話は終わりだ。頼むから戦闘中に意識がなくなるだけはやめてくれよ」
金属音を立たせるには、まず金属製の何かが必要になってくる。職員室ではその音を立てる物は色々あるが、拾っている時間は唯一視線が離れる。降りかかる猛威を注意しなければならない中では、危険すぎる。止まるのはもっと危険な行為だ。
そこで思い付いたのが先程、男性が雲雀を殴ったときに使用した鉄棒。これなら動き回りながら金属音を立たせ、状況に応じては武器としても扱える。
手斧と鉄棒を持った匠海は先陣を切り、旧資料室から飛び出して音を奏でる。それに続いて雲雀も出入口まで駆けようとするも、何かを思い出したかのように ゆい達の方へ歩み寄る。
「どうしたんですか、神室さん…?」
「嫌ならいいんですが、携帯を…それも二度と戻ってこない前提で、使わせて欲しい」
この状況下で携帯を使用するメリットがあまり思い浮かばず、理由を聞きたい ゆい だが、そんな時間は雲雀にはない。それは分かっているけど、それでも理由に納得したい自分がいる。
「私ので良かったら使ってください」
すると、そう手を上げる舞花は取り出した携帯を雲雀に差し出す。理由を尋ねたい気持ちは一緒なのに、ましてや人との関わりを嫌がる彼女が起こす行動に驚く。
「い、言っておきますけど、これはあくまでも助けられた恩を返すだけですから。断じて…あ、貴方を信用したわけではありません」
そっぽ向いてツンツンとした態度だが、手に持つ携帯は確実に雲雀の掌に置かれる。
「ありがとう…。それでもう一つお願いがあるのですが、俺が合図したら誰かがこの携帯に電話を掛けて欲しい」
彼が何を考えての行動なのか、次第に理解できてくる。雲雀の指示に舞花は指紋認証と顔認証で開くと、設定からコール音量をマックスまで上げる。これを指すのは、おそらく『Z』を誘き寄せるためのものだろうと説明が付く。
「誘き寄せるなら危険性は格段に上がるじゃないの?それまで反応を示さなかった『Z』も誘き寄せることになるとあたしは思うんだが…。それが本当に最善な策?」
南奈の不安には最もな意見が詰まる。今はこれだけの被害で済んでいるものが携帯一つでも鳴らせば『Z』の数は更に増え、脱出のチャンスを逃すだけでなく、死へ繋がってしまうかもしれない。もう何が起こるかさえも分からない。
そんな南奈の言葉に対して舞花は。
「神室さんがやろうとしていることは、少なからず…ここの人達を救うことです。神室さんがそれが最善と言うのなら…私は何も言いません」
二人の思考がこうして相異なるのは懐かしさの一方で、あまり思い出したくない記憶まで呼び覚ます。二人は最初から仲が良かったわけではない。昔は軽い言い合いから、喧嘩まで日常茶飯事だった。ある時は拳で、ある時は木の棒で。昔は気が弱かった自分には止めることが出来ず、親が代わりに止めていてくれた。
そんは犬猿の仲とも言われていた二人か仲良くなったのも、やはり十年前の出来事が大きく左右される。
仲が悪いから協力しないからと、自分勝手な理由だけで命を落としたくないし、親友を失いたくない。時間は掛かったが徐々にお互いを認め合い、助け合い、信じ合い、そうして時が過ぎて親友と呼び合えるようになったのだ。
それを気付かせてくれたのは。
(あ、あれ?そう言ったのって誰だっけ?お姉ちゃん…?)
両親を失った ゆい達を言ってくれたのは ゆい の姉だと──思う。記憶が曖昧になっているのも昔の記憶を辿ろうとすると、どうしても体が過去を拒む。確かに辛い事しかなかったものの、部分的に一番薄いのは両親が亡くなってから何日間のこと。
鮮明に覚えている箇所がどこにもない。まるで記憶がその一部だけを隠蔽しているかのように何も思い出せずにいた。
「そろそろ行かないと郷道匠海が持たない。とりあえず、枝邑さん…合図したらお願いします」
ゆい が過去について疑問を抱いている間にどうやら話は進んでいたようだ。沙月が名乗りを上げ、いつでも対応できるようにと携帯を片手に持って待機する。
それを確かめると、金属音に集まる『Z』に向けて雲雀は駆け出す。
その後ろ姿に心配そうに見つめる舞花の思いの強さからか、胸に握りこぶしを当てる。彼女の中で雲雀に対しての感情に何らかの変化が見受けられる。
皆の視線は雲雀達に向けられ、事態の様子を窺う。すべては成功を祈って、出入口前で立ち尽くす。
「遅いぞ、根性だけじゃ抑えきれねぇ!」
ようやく雲雀が旧資料室から出てきたことを確認できた匠海は、迫りくる猛威を紙一重で避けながら声を上げる。周囲の床には殺したであろう『Z』が横たわり、彼の戦闘能力が確かめられた雲雀はナイフを抜く。
最初の一手は匠海に襲いかかる二体の『Z』の頭にナイフで投げて殺傷。続けて両肩から取り出す長めのナイフ一本を再び襲う奴に投げつけ、もう一本のナイフで小窓で暴れる『Z』の首を切り裂く。
自分よりも高い位置にいる相手に対し、彼は積み重ねる片袖デスクを踏み台にして、有利な高さまで登り詰めたのだ。
まだ数はいる。雲雀の攻撃は止まらない。
着地寸前、近くにいた『Z』をかかと蹴りで床に押し付ける。その音に間近に、それも背後にいた『Z』が飛び掛かる。それを胸ぐらを掴み、そのまま弧を描くように落下時点を先程の『Z』の頭めがけて投技で叩く。
鈍い音を響かせ、動かなくなったことを確認する前に次なる猛威が迫る。同時とあって、体勢とあって、状況は最悪なものだと思われた。
しかし、一体の『Z』の片足にナイフを斬り込んで転倒させる。もう一体は一体目を斬り込んだ勢いを殺さないまま、低い体勢で真っ向から喉へ突き上げる。
体勢が悪い状態からの逆転劇に周囲は圧倒される。もう駄目だ。無理だ。それらの言葉を否定するかのように雲雀の圧倒的戦闘能力に『Z』の数は徐々に減っていく。体幹がいいだけで成り立つものではない。柔軟性も大きく関わってくるものだ。
「───ッ」
雲雀は突き上げたことで刃先が脳まで達し、絶命した『Z』を投げる。刺し口から溢れる血を腕で受け止めていたため、投げた際には大量に飛び散る。足を負傷して倒れる最初の『Z』目掛けて投げていたことあり、その血がどちらのものかさえも分からない。
後は簡単な手順だった。この騒音で気付かなかった複数の『Z』を背後から斬り付けたり、投擲して仕留めたりする。
これで侵入してきた『Z』を全て片付けられ、生徒達にも匠海にも安堵の表情を浮かべる。疲れ切ったかのようにその場に座り込んで荒れた呼吸を整えようとする。
「やっぱ、めんどくせぇ役割を押し付けたなぁお前ぇ…。はは…やめておくべきだった」
安堵の束の間、この作戦を了承した過去の自分に呆れたように苦笑を漏らす。
「匠海君…」
そこに柚季が駆け付け、我慢出来ずに抱き着く。帰って来てくれたことに、生きてくれたことに嬉しさが込み上げてきたのだ。初めは混乱した匠海も心配してくれた彼女に応えるべく、優しく抱き寄せる。
「約束、守りました」
「うん…おかえり」
「まだ、終わっていません。また何体か侵入する可能性だってありますから、侵入経路を塞がないと…誰か段ボールを持ってきてください」
二人の心温まる雰囲気に割って入る雲雀の声。安堵に浸る暇なんてない。職員室内にいないとはいえ、壁や窓一枚で隔てた先には『Z』がいるのには変わりはないからだ。
その応急処置として段ボールとは、また防御力ないものだった。しかし、早急な手段で保護できるのはそれぐらいしかない。とにかく、音を限りなく消し、開いているという認識を遅らせることが最重要。
雲雀の指示に動く男性達は資料室から大量の段ボールを運び出す。その間に小窓に引っかかる『Z』を匠海と共に殺め、廊下側へ押し込んで小窓を掃除する。
それを終え、雲雀は動く。一箇所だけ開いた窓から身を乗り出して、職員室に並行して伸びる廊下を見る。『Z』の数はかなり多くなり、呻き声が人と人が話すくらいの大きさまでに達していた。この量が職員室に雪崩れ込んでくると考えると、鳥肌が立つくらい死と隣り合わせなのが分かる。
彼は携帯をより遠くに投げる。投げた衝撃で壊れないように『Z』に当て、速度を落としてから床に滑らせる。
「枝邑さん、お願いします」
身構えていた沙月が画面をタッチして、大音量のメロディーが流れ出す。『Z』の注意がそちらに向けられ、音の方へ集まり始める。小窓から確認できるだけでも数十体と下手をしたら百をも超える量が一斉に動き、職員室内が揺れるのを感じる。
他の音を出さないように手振りで段ボールを小窓に貼り付ける指示を送り、男性達は新たに入ろうとする『Z』に警戒しながらも作業を進めていく。
ある程度の補強を施したことで置かれる事態に変化が起きるわけではない。しかし、時間を稼ぐ点においては重要な役割を担っている。この時間を無駄にしてはいけない。
「これで侵入経路は断てたが奴らが段ボールと認識すれば、また襲ってくるだろう。数十分は稼げると思いますが…今後の方針をもう一度決め直さないと」
危険である覚悟で生徒達に固まった屋上へ避難する案は、この光景の前では到着する前に全滅の恐れを感じる。作戦を提案した匠海にもその難しさに諦めるしかなかった。
「分かっている…だけど、今すぐにでもと思うが、その前に皆を落ち着かせないとな。さっきので心身ともにダメージを負ったんだ。少し休ませるのも、これからのことを考えると大事だ。それにお前も血を何とかしろ。皆が怖がる」
これだけの出血に対しても平然としている彼にざわめく生徒達。ここで初めて出血がかなり酷い状態であることを認識する。舞花を守るために負った傷とは別に、額から顎にまで垂れ落ちていた。
気が抜けた途端に流れ始めたのか、戦闘中に傷口が開いたのか。確かにこれでは話を聞いてくれる状態ではない。匠海が言うように恐怖を与えさせるだけだ。
第一印象の不審者から命を助けたヒーローとして、彼の立場が逆転する。もう誰も彼を責め立てる者はおらず、一人の生存者として戦士として協力の意思を見せ始めている。
今後の方針について求む生徒はたくさんいるだろう。あまり残されていない時間を傷の手当てに費やすことに躊躇いはあったりする。
「…そうさせていただきます」
謝辞を述べ、受け取ったハンカチを傷口に当てる雲雀は生徒達が開けた道を進み、残った片袖デスクに腰をかける。
雲雀の休憩に伴い、匠海が指示を出して怪我人の応急措置を行う。『Z』の猛威によって怪我の具合は軽傷から重傷と多種多様なものとなり、数十分と短い時間では全員を処置するのは困難だろう。それに、応急手当てに必要な消毒液や包帯も全員分あるわけではない。
より重傷者を優先して手当てにすると、その分時間もかかってしまう。
(何が数十分稼げるだ…今ので確実に、場所は特定された。本来ならすぐにでも行動を移さなければだが、怪我人を無視できない。どうしたら…)
彼が最も警戒しているあの存在の動向だ。あれが職員室に乱入してくれば、只では済まされるはずがない。何十人の命が失われ、何人の命を救えるかなんて分からない。
必ず助けられない命があることに非力さを感じる。
逆に優先順位を考えるのは邪道だ。それこそ全滅の可能性が高いと自ら肯定しているようで気持ち悪い。しかし、どうにか策と言われても、この袋の鼠状態では安全な策を見出だす方が難しい。
多少危険な策でも、それで多くの命が──いや、自己欺瞞するのは後から恐れをなしてしまう。
そんな都合のいい状況を作れるほど奴らはお人好しではない。皆の相談なしで決められる問題ではないことを前提で判断を委ねるのはこの場の全員。
今回の一件でそれまで脱出に賛同していた人達も揺らいだはず、中にはこの場に残ると言い出す人達まで現れてくるだろう。三つの選択肢、意見を出し合えばもっと増える。徐々に薄れていくのは間違いなく脱出の案、最も危険な橋を渡るのだから当然の成り行き。
とにかく、今後の方針について話し合うことから始めなくては。まだ感覚的に血が出ているであろうと感じながらも、迫る時間の中で呑気に止血している場合ではない。
「どこに行くのですか、神室さん?」
片袖デスクから降りようした矢先、応急箱を持った舞花が声をかけてくる。深刻な状態にも拘わらず、何かのために動こうとしていた雲雀に少しムッとした彼女は。
「駄目ですよ。何を考えているかまでは分かりませんが、貴方は少しの時間でも安静にしなくてはいけません。ほら、座ってください」
応急箱から包帯とガーゼを取り出しながら、座るように強制する舞花。傷を負った原因が自分にあることをまだ引きずり、その責任から傷の手当てまで買ってでたのだ。
「このくらいなら、すぐに傷は塞がる。舞花がそこまで責任を感じる必要なんて…」
「あるんです。神室さんがなんと言おうと私は助けられた分、きちんと恩は返したいのです」
責任感というより彼女の性格がそうさせるのだろう。旧資料室の一件の時も同じようなことを言っていた気がする。時間の猶予はないが、それでも彼女の好意を無視するわけにはいかない。
「……分かりました。それではお願いします」
「瞬間冷却シート、ガーゼと包帯なので簡単な応急手当てしかできません。なので、後はきちんとした医者に診てもらってください」
腰を落とし直す雲雀に歩み寄った舞花は、包帯とガーゼの他に瞬間冷却シートを取り出して作業に取りかかる。
「額の傷口には…消毒液でどうにかなるのでしょうか。でも……」
額の傷口もそうだが、触診する限りだと雲雀はかなり傷を負っていることが判明する。体を包帯で巻いているような凹凸感。一際、腕や腹部に関しては穴でも空いているのかくらいの傷が指から伝わってくる。
素肌が見えない部分は一体どんな状態になっているのか。その全容を知ることが舞花は恐ろしく怖かった。知った時、自分がどんな反応をするのかが、全く予想が出来ないからだ。
(触っても特に反応に変化はない…古傷?あまり触るのもあれですし、とりあえず見えている所だけでも手当てをしましょう)
再度、応急箱の中にある消毒液の量を確認して、包帯に何滴か染み込ませる。額の傷はこの処置でいいはずだが、挫創の処置の仕方に関しては間違っているかもしれない。
しかし、何もしないよりかはマシだと思った。今の雲雀には不恰好な姿でも戦士としての証を残すことで、皆の先導者となって欲しかった。
複数の『Z』をたちまち殺していく姿に皆は、この人は他の人とは違う何かを持っていると確信が得られたはず。
誰もが彼の言葉に注目して、誰もが彼を必要としてくれれば、こちらの注意も手薄になる。舞花達の中心に彼は必要ない。彼がいなかったら助からなかった事も多いも、恩を返せればこの気持ちも軽くはなるだろうと思った。
(そうだとしても…一言だけ、一言だけ何かお礼の言葉を言わないと。何も言わないのは逆に失礼よね…。でも、一言だけのも…それはそれで失礼なような)
一度ならず二度も三度も助けられたなのに、「助けてくれて、ありがとうございます」だけは助けた側としては満足感はないと思う。
何かを差し出すのが相手にもその誠意は伝わる分には手っ取り早いものの、そんな準備の前に謝礼品そのものがなければ話にならない。
(も、もしかしたら体で支払えって言われるかもしれない。あんなことやこんなこと、何度も何度も体を混じりあっわはぁわわわわわわわわ!!破廉恥、破廉恥です私が!!どうして神室さんとそんなのが浮かぶんですか?!わ、わわわわ私はとんだ変態です!って、わぁ?!)
自ら招いた動揺から作業の手が慌ただしくなり、気付いた時には雲雀の頭だけでなく、顔にまで包帯が行き届いて乱雑なミイラ男状態になっていたのだ。何も言わない雲雀はこれが彼女なりの配慮と勘違いでもしたのだろうか、特に気にした様子はない。
「す、すみません。ちょっと考え事をしていたら、こんなことに…本当にすみません。やり直しますので一旦解きますね」
彼が気にしない素振りを見せられても、流石にこれでは先導者としては不格好すぎる。舞花は急いで口まで巻かれた包帯を解いていき、もう一度、今度は卑猥な考えを持たず再び巻き始めようとすると。
「お困りでしたら何かお手伝いたしましょうか?九条舞花様」
「…………誰、ですか?」
突然と投げ掛けられる声に舞花は後ろを振り返り、そこには制服を着た女子生徒でもなく、スーツを着こなした先生でもなく、黒を基調としたヴィクトリアンメイドを着たメイドが立っていた。
ホワイトブリムの髪飾りを付け、オーソドックスでクラシックな雰囲気に身を包む。背筋に曲がりがない綺麗な立ち姿はメイドの理想を体現しているようだった。
さらに麦色とは、黒を基調としたメイド服によく似合っている髪の色だ。これがまた違った印象を引き出して、より美麗さを際立たせる。
だが、そんなことは些細なことでしかない。それらの特徴は全て踏まえた上で舞花の心をより掻き乱したのは──。
なぜ彼女が名前を知っているのか、だ。
初対面の、はず。いや、初対面だ。ここでの学園生活は小学生から始まり、高校へ大学へと続く。政治家や社長などの子供も大勢いる。ただ、メイドを連れてくるとなるとこの現代社会では稀な方だ。子供の趣味によるものだとしても、目立つ意味によるものだとしても。
その人物と話す機会があったのなら、絶対に覚えているはずなのだ。
「おや?あっ、そうですね…。いきなり後ろから声をかけたら驚かれてしまいますね、これは私の失態です。失礼いたしました」
舞花の警戒の色に気付いたメイドは綺麗な姿勢を保ちながら、そのまま腰から曲げて頭を下げる。一つ一つの動きに称賛したくなるほどの美しさ、ますますメイドの理想が跳ね上がる。
「それと、もう一つ…恐らく一番警戒していると思いますが、私は別に怪しい者ではありません。私は紫お嬢様と友達になってくれそうな人を探すのが日課でして、名前を知っているのもそれが理由です。九条舞花様と紫お嬢様はきっといいお友達になると思いまして、そう思いますよね?紫お嬢様」
声の矛先はメイドの背後、名前を呼ばれたことで肩をびくつかせた少女が怯えながらも顔を覗かせる。
幼い。始めにそう思えたのは顔立ち、身長と外見から判断した結果だ。ところが、豊満な胸を除いては果たして幼女とも言えがたいもので、舞花は困惑の色も浮かべる。
少女はじっと様子を窺うように見つめ、少しでもこちらが動くとメイドの背後に隠れようとする。その度にメイドが移動して少女の隠れスポットから引きずり出す。
「すみません。紫お嬢様は人見知りなもので、挨拶も私以外とはあまり。それでも、メイドとして、友達くらいは出来た方が将来も安心するものですから。…おっと、話が逸れてしまいましたね」
自ら膨れ上がらせた会話を断って、本題へと持ち込む。ある程度、少なからずは様子見として舞花はようやく唇を開く。
「お気遣い感謝してますけど、特に困っている事はありませんので」
「おや、そうですか?私はてっきり包帯の巻き方が分からないと思っていましたが、早とちりな私をどうかお許しください。ですが、勝手ながら、一つだけアドバイスさせていただいてもよろしいですか?」
引き下がらないメイドに少々躊躇った舞花は言葉ではなく、頷く反応することでまだ警戒していることを示した。
「むむむ、余程警戒心が強いようですね。過去に何かあったのか…詮索するつもりはないですが、あまり人のご好意に嫌悪しては自分の印象が悪くなる一方ですよ。その点、私は皆様のご好意に甘えていたら尻軽なんて言われましたから」
言葉の意味を理解した舞花は顔を赤くする。羞恥を感じさせない堂々と胸を張るメイドだが、至って胸を張れる事ではなく、むしろ印象としてはもっと最悪なのものだ。
「ふふふ、半分は冗談ですので気にしないで下さい」
色気全開にした仕草にその短い言葉の半分が冗談だとしたら、きっと尻軽は本当なんだろうと思った。違う意味でどんどんメイドを敵視していき、警戒心をより一層高めて身構える。
逆効果と悟ったメイドは一度喉を鳴らして、場の雰囲気を一旦整える。唐突な展開に彼女の警戒心を煽ってしまった失態を真摯に受け止めながら。
「少々、お話が逸れてしまいましたが…私が言いたいのは包帯の巻き方についてです。まぁ、職業柄こういうのに少しうるさいもので、彼に包帯をするのであれば鉢巻帯をお勧めしたいのです」
「鉢巻帯ですか?しかし、それでは激しく動かれる神室さんには不向きなのでは?もう少し、しっかりした巻き方の方が…」
ズレを防止するためのに片目を覆う巻き方がある。それでも利点の裏腹に片目を失えば戦闘に支障が出てしまう欠点も浮かぶ。となると顎紐を用いた巻き方のほうが支障はなくて済むはずでは。
「あるにはあります。ですが、彼は急いでいる様に見えたもので、難しさよりも簡単なもののほうがいいと思いました」
メイドの言葉に過ぎる記憶。片袖デスクから降り、今まさに生存者達を助けるための打開策を皆でまとめようとしようとした彼の背中を。分かっていた上での自分の行動に胸の痛みが襲いかかる。
「……そうですね。確かに神室さんは何か行動を起こそうとしていることは分かっていました。ここで時間を浪費しては神室さんにはいい迷惑ですね」
「そんなことはありません。時間がないのは事実でも少しでも休憩することは別に悪いことじゃない。リフレッシュする事で頭の中を一度リセットでき、落ち着くことで今まで見えなかった視野まで注意が向けられるメリットだってある。休憩にデメリットなんてない。そう気付かせてくれたのは舞花のおかげです。ありがとうございます」
自分に非があると責める舞花にすかさずフォローを入れてくれる雲雀。昔の自分なら真っ先に否定する彼の言葉が、今では嬉しいの感情に上書きされていく。
攣ったように戻らない上がった頬を両手で解すも、見られていない事に気付いて。
「ま、また呼び捨て…」
声色は平常心を装って、表情は嬉しさを隠すことをやめていた。
「……すまない。わざとじゃないことは分かってほしい」
彼が振り向こうとした時にはそっぽ向き、表情を見られないようにする。自分の威厳を損ねたくないというよりかは、恥ずかしさが優っている。
「べ、別に…分かってます。なんだか何度言っても呼び捨てされそうなので、もう舞花でいいです。貴方にそう呼ばれるのは癪ですが、今はそれでいいです」
そんな二人の戯れにメイドは。
「二人はお付き合いでもなさるのですか?」
見たことをありのまま思い、言葉を生んだ。メイドの一言に顔を赤くした舞花が真っ先に否定と強く訴える。
「ぶふっ!!ち、違います!ありえません!わわわ私とこの人が恋人なんて絶対にありえませんから!」
「あらあら」
メイド視点ではフォローされたことに嬉しそうな顔をする舞花が見え、満更でもないことは分かっている。だから、彼女の否定的な言葉の内には嬉しさがあるのではと想像させられる。
そこから面白くなったのか、暫くの間二人の会話は続いた。片方は楽しそうに、もう片方は恥ずかしさに怒りを露わにしながら三、四回と続けられる言い合いは終わる気配がない。
「あの、お聞きしたいことがあるのですが…話しても大丈夫な感じでしょうか?」
タイミング見計らった雲雀によって会話を遮られ、二人は彼を見つめる。対して彼はメイドを見つめていたことで話の主軸が彼女であると舞花は察し、雲雀と同じ立場として話を聞く。
「はい、私で答えられることなら何でも聞いてください」
「貴方は何が目的で俺達に近付いてきたのですか?」
雲雀の声色は先程とは打って変わって警戒心を剥き出し、問い詰める。そんな鋭い眼光にも動じないメイドは冷静に。
「一応、何故そう思ったのか聞いてもよろしいですか?」
「貴方はさっき舞花が包帯の巻き方が分からないと思って呼びかけたと言っていたが、なぜ他の人には何も呼びかけなかったのですか?」
息を呑んだメイドはそれでも口を開かなかった。何かあることは確信した雲雀は続ける。
「手当てをしている人ならたくさんいる‥中には包帯の巻き方が分からない人だって大勢います。手伝うなら俺達よりも優先するべきと思うのですが。少なくとも外の世界を体験している舞花の包帯の巻き方は他の人と比べても明らかに手慣れている方、手伝いをする程のものじゃない。 だからこそ、明確な目的があるから俺達を優先した…そうじゃないと貴方の行動は不自然なんです」
周囲は怪我人で埋め尽くされている。手当てを求める声は引っ切りなしの中、それに応えれる人はあまり少ない。雲雀が思うように手当てに不慣れな人が行えば、怪我人も不安が募っていくだけだ。
そんな事態にメイドは、しかも自分の性格を知っておきながらも助けることなく、雲雀達を優先した。それが何より不信感を与えた理由の大部分を占める。
数秒とメイドは黙ったまま彼を見つめ、観念したかのように小さく息を吐いて。
「お気付きでしたか。…そうですね、私の目的は神室様に関係したことです。今までのは私の警戒心を解くための話題作りのようなものと思っていたのですが、警戒心を解くどころかより警戒させてしまったことには私もまだまだ未熟者ですね。さて、本題はここからです」
「……」
舞花の視線が雲雀に向けられる。メイドの目的が雲雀であることを話の中から話題がのぼってきていたからだ。
「話は聞くつもりですが、俺が急いでいることに気付いているのでしたら、手短に済ませるつもりと思っていいんですよね?」
「そうですね。神室様にはお時間は取らせません…手短に済ませるつもりです。申し遅れましたが私は伊丹雫と申します。そして、こちらの方は御園紫、御園財閥の令嬢でございます」
御園財閥と聞いて、まず脳裏を過ったのはこの避難都市にいる幹部の一人の名前が御園と言われていたような。目の前にいるのが御園財閥の娘さんだとしたら、メイドの目的は予想だにしないものかもしれない。
「それで、貴方の目的は?」
「簡潔に言うのであれば、勧誘です。神室様…紫お嬢様の護衛役として私達と一緒に行動しませんか?もし、紫お嬢様を安全な場所まで護衛できたあかつきには、高額な報酬金を用意します」
権力や財産を有する者からの提案は当たり前のように金の話が出てくる。お金があれば、どんな人でも従えられると思っているのだろうか。けれど、お金というのは生活するためにはどうしても欠かせないものだ。いらないと言うと嘘になる。
選ぶのは雲雀であって、舞花ではない。彼の内に秘めるお金の欲求がどう働くかなんて知ったこと。他人の決断に口を挟む必要などない。
なのに、なのに、この心の締め付けが酷く痛い。その考えでいいはず、元々人との関わりを避けてきた自分に今の状況が考えられない。そうやって生きてきたはずなのに彼を突き放そうとすると、わけも分からない初めての感情が襲う。
理解ができない。初めての感情に戸惑いが隠し切れない舞花は胸の痛みに手を当てる。こんなことで悩まされる自分はどうかしている。きっと、まだ助けられたことに浮かれているんだと思うことが舞花が納得できる唯一の感情だった。
「断らせてもらいます」
そんな中で雲雀の答えが下される。意外と言えば意外な決断だった。彼のことだから金に目が繰らんで、欲求のままに承諾するかと思ったりもした。
伊丹雫は勝手ながら承諾してくれると思い込んでいたのか、断られた瞬間に表情が少し引きつる。
「…理由を聞いてもいいですか?確かに値段を言わなかったのは此方のミスですが、結局…値段を言ったところで神室様の考えは…」
「変わらない。俺は誰か一人のために戦おうと思わない。皆が平等です。そもそも同じ人間として命の重さなんて天秤にかける必要性がありません」
雲雀の意見には重々しさがあったと思ったのは直感的な判断だ。声色で判断できるようなものではないが、舞花にはその重々しさと中には更に怒りも混じっている気がした。
「そうですか…それは残念です。しかし、正直なところ神室様が全員を助けるとお考えになっているのでしたら、それは無理な話だと思います。この状況が、既にその可能性を低くしていることは貴方も分かっているはずです」
「……」
伊丹雫は今の雲雀の心境を見据えたかのように言い放つ。偶然の発言とはいえ、図星を突かれた雲雀は言い返すことが当然できなかった。確信のない答えを出して、更に伊丹雫から色々と指摘されると皆の不安を煽ってしまう。
慎重な言葉選びが必須だ。
横にいた舞花は雲雀達の会話に不快に思う。伊丹雫の発言に対して、本当に雲雀の助力を求む目的なら、この会話自体が意図とは全く異なっていることは分かる。これでは、雲雀の信頼を落としかねないことも。
そんな中で自分に出来ることはないのだろうか。自分が余計な突っ込みを入れて雲雀を更に困らせてしまうのは怖い。
でも、雲雀が困っている姿に身も心も耐えられず、後先考えずに動いていた。
「た、確かにこの状況下で全員を助けるっているのは馬鹿な話です。それこそ、誰か…数人単位なら可能性はあると思います。ですが、神室さんはその可能性を捨てて、全員が生き残れるように一%の可能性を必死になって模索しているのです。それを断られた腹いせなら、やめてください!」
「舞花……」
叫ぶ、と言えるほどの声量ではないが、それでも職員室にいた全員が驚いて舞花を見ていた。声量の調節を誤り、これで『Z』を呼び寄せる切っ掛けをまた作ってしまったかもしれない。
けれど、今はそんな事はどうだっていい。彼女は真っ直ぐ、雲雀の立場を救うためにメイドの雫を睨み付ける。
思い詰めた表情を見せる雫は周囲の状況も確認した後に、改めて姿勢を正して。
「…私の言葉で神室様を追い詰めていたのなら、それは深くお詫び申し上げます。けして、悪気があっての発言ではないことに分かってくださいとは言いません。私も紫お嬢様を守ることに必死になっており、後先考えずに口走ってしまいました。本当に申し訳ありません…」
深々と頭を下げる雫に舞花は少し言い過ぎたのではと反省する。彼女は紫お嬢様を守りたい一心で雲雀に協力を求めた。誇りを捨て、自分だけでは守り切れないことを認め、どこの馬の骨だが知れない者に命を預けようとした。それがどれ程恐ろしく、信用性がないかは舞花自身がよく知っている。
あまり確信のないことを言うのも、相手に失礼なものだと自重する気持ちになった。
自分でもこんな気持ちになること自体が信じられない。人を疑い、人を信用する意思を持たなかった自分に相手の気持ちを理解しようとしたのだ。
何か、大きく変わろうとしている自分がいる。それが戸惑いとなり、今まで通りの自分と変わろうとする自分が葛藤し合う。
「いえ、謝る必要はないと思います。貴方の言う通り、ここから全員を助けることは難しいのは事実です。だから、ここにいる全員で話し合いたい…ここからの脱出法を」
おもむろに立ち上がり、全体を見渡す雲雀に皆の身体が強張ったように見え、空気の変わりようが伝わる。
「話し…合うですか、度々否定的な言葉を挟んで申し訳ありませんが、先の事態で皆さんの心境に変化が起きたのは確実です。それまで持っていた自分の考えが否定的になる一方で、一層強まる人だって中にはいるはずです。より説得するのは難しく、意見の食い違いが時間を消費させていく。それでも話し合いをなさるつもりなのであれば、何か決定的なものでもあるのでしょうか?」
雲雀自身も時間を気にしなくてはいけない。あの存在が、どこまで時間の猶予をくれるか分からない中、長期戦の論議は危険。簡潔に、それ故に皆の同意を得られる核心な意見が必要だ。
それを彼は──。
「決定的なものは確かにあるにはありますが、間違いなく皆に恐怖と不安を植え付けます。これが逆効果になって、皆の戦意を完全に失わせてしまうかもしれない。だけど、これでも現状を把握するには一番だと思っています」
「そうでしたら、私達も神室様のお言葉に心して聞かないといけませんね。神室様の案に賛成しているとはいえ、そのお言葉に私達の心境に変化が起きないとも限りませんから」
雲雀を中心に集まり出す一同、物言いたげな生徒が何人も前に出て、これから行われる論議に参加の意志を見せる。意見は様々だ。雫が言うように先の事態で気が変わった人も中にはいるはず、より難しさは増してはいる。しかし、話し合うことには確かな意味を持つ。
意見を出し合うことで初めて利点と欠点が把握できる。それによって新たな思考が組み上げられ、より可能性のあるものに導き出される。
「まず、俺は…いや、俺達は学園の脱出を提案する。そこは確かにしてほしい」
皆に向けて、意志の変わりようがないことを告げた雲雀。一度、後ろにいる ゆい達を見たのは、本当にその意志に変わりないかを確かめるためのもの。一目見て、表情からの判断で複数人いたことにより『俺』から『俺達』と訂正したのだろう。
「まだ、そんな馬鹿げた事を言っているですか?現状を見てください。今ので『Z』は周囲に集まっている…これでは屋上へ避難することも出来なければ、貴方達が考えている学園の脱出さえも不可能じゃないですか。ここまでの事態に陥れば移動すら困難どころか、身動きすら取れませんよ。大人しくしているほうがより安全だと思います。それに、助けだって来るはずです。ここに僕達がいることは政府の方も知っているはず、時間が経てば…」
一人の男子生徒による学園の脱出や屋上の避難にも該当せず、この場に残る提案を持ちかける。雲雀の思っていた通り、第三の選択肢の発案。そして、その選択肢によって皆の心を大きく揺らし、難しさの意味を改めて噛み締めながら。
「…確かに、リスクの少なさを考えるならば、その判断は正解なのかもしれない。だが、奴らとて馬鹿じゃない。俺達がここにいることは既にバレている。次に仕掛けてくるのも時間の問題だ」
結局、お互いの主張はどちらも正しい。学園からの脱出、屋上の避難、職員室に残る選択も、それが自分が生き残れる最適な方法なのだと信じているからだ。
「次に仕掛けてくる?ふざけた事を言わないでください。それでは、まるで奴らが次に攻撃を仕掛けるタイミングを窺っているような口振りですが…そんな馬鹿げた話があるわけ…」
戯言と受け取った男性は不快さを隠し切れず、強く非難する。その言葉には皆の中にも強く現れて非難の視線が集まっていき、事態の収拾が付きづらくなる。
「なら、『Z』はどうしてあの小さい窓からの侵入を選んだと思いますか?正面から突っ込めば自身が負うダメージは大きいと判断し、天井近い小窓から侵入すればダメージは比較的少ないと判断したからです」
「……は?それは憶測でしかないでしょうが。『Z』にそんな芸当なんて出来るわけがない」
信じてもらえるはずがない。この情報は一切公表されていないものだから。
「君達が相手をしているのは映画や漫画の世界のゾンビではない。俺は現実にいる『Z』の話をしている。固定概念は捨てるんだ…それが死を呼び寄せる。外の『Z』は視界が見えなくても明暗の判断は付けられる。俺達が下を中心に防御網を張り、上の方には何も置いていなかったら…当然、上の方は明るくなる。それを少なからず理解し、殆どの『Z』が上の小窓から侵入することを実行した」
「………。な、なんなんだ…貴方は。一体、何者なんだ?」
すらすら、と言葉を並べる雲雀に恐怖する一同。妄言として受け取れる話だが、大声が原因で奴らの注意を引いただけでは侵入経路の説明は付かない。
実際にこの目で起きた小窓からの侵入に納得するには十分すぎる内容でもある。
「俺は神室雲雀と申します。対『Z』種対策特殊───」
『あー、あー、職員室にいる迷える子羊達ぃ。どうかなぁ、私が与えた時間を有意義に使えているぅ?』
声は突然やってきた。聞いていると思わず笑みを浮かべてしまうほど幼く、愛嬌のある声。なのに、そんな可愛らしさを打ちのめすかのような恐ろしさが職員室内を凍り付かせる。
救援を求む生存者ではなく、当事者視点で吐かれた言葉に理解が追い付かない一同を除いて、雲雀は鳥肌を立たせて顔を真っ青にしていた。
最も恐れていた事態。やはり、あの存在は既にこの場所に逃げ込んだことを認知していたのだ。これから何が起こってもおかしくない状況の中で判断を誤れば、それだけで大きな被害を受けてしまう。
何か行動を移さなければ。今からでも遅くはないはず、奴の居場所は明白ではないが放送室のような場所はそう多くはない。少なくともこの階にはここ以外なかった。
まだ、時間が残されている。幸いなことに奴がこちらの動きを認識するには条件が悪すぎる。あらゆる窓や扉には段ボールや片袖ディスクで塞いでいるからだ。
まずは、騒然とする皆を静めて話が出来る環境を整えなければならない。
そこまでの猶予はあると思っていた、が。
『使えているなら、それはそれでぇ私としても嬉しいよぉ。でも、残念ながら時間は待ってくれないのが現実ぅ。私も心が痛いわぁ、でもそれ以上に苦しむ姿を見るのがとても快感なのぉ』
本当に嬉しそうな声色が伝わり、雲雀の汗が止まらなくなっていた。
『だから、時間切れ。ばいばい…さてさてぇ、一体…何人の人間が生き残るか楽しみだよぉ』
放送はそこで終わり、職員室内に漂うのは静寂を装った不安と恐怖だけ。
「は?悪ふざけにも程があるだろ…自分が安全な場所にいるからって」
「何なの、あいつ…」
「性格悪すぎっしょ」
周囲の反応はむしろ当然の反応なのだろう。この状況下で発する内容とは思えないからだ。それに加えて、声の幼さときたら更に『狂気』という単語が似合い、皆を動揺させるには十分すぎる攻撃力だ。
そして、誰も少女の言葉の意味を理解出来ていなかった。誰もが目立ちたい人の妄言だと受け取り、危機感を持つことはない。それが間違いだととは言わない。
けれど、雲雀はその存在がいかに危険な存在か知っている。
少女が口にした言葉一つ一つに心臓を抉るような刺し傷を残していく。多くの人が死ぬ予感が身体を包み込む。その予感が大量の汗となって噴き上げてくる。悪い物を取り除くように、萎えない汗に気持ち悪さを覚えながら震えた唇で。
「駄目だ…今すぐ、ここから離れないと…。食料だとか怪我人だとか、そう言っている暇なんてない。今すぐにここから逃─────
げろ
───────ッ!!!!!
音と衝撃が同時に体を蝕みにきた。鼓膜を劈く強烈な音撃、上から容赦ない瓦礫が職員室にいた一同に襲いかかった。爆発の規模なんて測れやしない。そこまで意識が向けれるほど突然は優しくはない。
ただ、そんな刹那に唯一脳が痛みと認識できたのは、ゆい が気を失うほんの僅か前のことだった。