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黒い生き物

 以前、よく知りもしないで駅の地下通路で適当な扉を開けて、見るんじゃなかったと後悔するようなものに出くわしたことがある。金具が錆び切っているのか、少し力を入れたくらいではその扉はびくともせず、僕の侵入を拒んでいるかのようだった。それをどうにか体重を預ける格好で押し開けたところ、まず目に入ったのは黒くて平べったい、横長でいくぶん楕円のように丸い輪郭をした、布のようなものだった。部屋は広く、平べったいものは床のあちこちに張り付いている。扉の先にあったその部屋は、床も壁も安普請の公衆トイレみたいにタイルばりで茶色く汚れていた。僕は直感的にその絨毯みたいな何かが、生き物だと思った。全く微動だにしない横長の黒いそれは本当にただの黒い何かで、一見手足とか目とかは無いようではあったが、だが僕は自分が扉を開けた瞬間奴らがこちらに矢のような注意を向けてくるのを感じ取ったのだ。

 眼球が表面にない以上視線なんてものも当然あり得ないのだが、生きている何かの気配をそいつらは吐瀉物的な汚れのあいだから有り余るほどに放っていた。丸っこい輪郭のどの部分も動いてはいないのに、僕は床にひしめく黒い連中が今にもその外縁の一端を伸ばしてくるのではないかという錯覚のような幻影に取りつかれた。足を鉄釘で打ち付けられたかに棒立ちしたまま、実際に見えている奴らの輪郭を目で幾度もなぞって、タイルの模様の位置と比較しながら本当に外縁が伸びてきていないだろうことを願うように確かめていた。もし、この黒い物体の背に泡がたったり、盛り上がったりしたら、と想像する。そうなったら、自分はこれに取り殺されてしまうだろうか。部屋の暗さが、幕が降りるように増していく。

 数秒ほど呆然としたあと、僕はその景色を不快に感じていることを自覚した。そして扉を閉め、背後を二度三度振り返って、誰かがついその時までの一部始終を目撃していなかったらしいことを確認した。都市には時々、立ち入ることが望まれていない禁忌を固めて閉じ込めたような空間がある。だが、そっと扉を閉じて、知られることなくその場を後にしてしまえば、何もなかったことにできるわけだ。足早に僕は立ち去った。息を吐くごとに、少しずつ意識がこの世に戻って来ているようだった。嫌な寒気がした。十分に扉から離れたころ、僕は改めて考え始めた。あれは一体、本当に生き物だったのだろうか。

 果たしてやつらは生き物だった。後日、死神のユウに用があって地獄にお邪魔したおり、仕事の話の合間にさりげなく聞いてみたのだ。汚い部屋に平べったいものが敷いてあったと──つまり、それが非生物であると思っている体で──ふと思い出したようにあのとき目にしたものを話に持ち出すと、ああそれならと何でもないかの風にユウは僕の手を軽く引いて街外れまで案内した。

 殺風景な荒野をしばらく歩いたところにあったのは、草に覆われた古びた小屋だった。そこに到着するまでの間には、うち捨てられた古い自転車や、もう何年も使われていなさそうな遊具が佇んでいる公園の跡地、それから途中で先がなくなっている線路などがあった。それら一連のものが撤去されることもなく、砂っぽい地面の上にただ残り続けているさまは最早哀れですらあった。その光景が存在しているというだけで、僕は胸の奥がしくしくと痛んでくる気がした。しかしユウが住むあたりはそういう、意味とか使われ方を忘れられてしまって久しい何かにあふれた場所なのだから、彼女はきっとそういうものに生活の中でいくら出会っても平気なはずだった。そのことを踏まえて考えると、彼女は本当に体の芯から気の毒なやつなのではないかとの疑いが脳裏に首をもたげてきた。けれどもそんな思いも、文字通り小さいその小屋の天井を彼女が指差し、僕の頭上すぐそこにあの黒くて平べったいものがへばりついているのが見えた瞬間に霧散してしまった。

 血の気が引き、そしてわっと叫んで僕は飛びのき倒れ込んだ。草地に手をついたはずが、しかし指先にはなにやら柔らかいものが触れていて、それがまた同じ黒い物体だと気づいた僕は逃げるように駆け出していた。が、襟を後ろからユウに掴まれて、反動で再び転びそうになった。

「何を怖がっている。職業柄、多少奇妙な形の残滓は見慣れているはずだろう」

「やめろ、こいつは無理だ、キモい」

「そうか? じゃあいいものを見せてやる」

 僕を引っ掴んだままもう片方の手を伸ばしたユウは、天井にへばりつく残滓を指でつまんで剥がしてみせた。瞬間、シダの葉っぱみたいに枝分かれした茶色い何かがめくれたところから飛び出した。それは病人の痙攣した指みたく小刻みに震えて、広がったり閉じたりしている。天井にへばりついていた裏側の面にそれは隠れていたらしかった。

「これが足だ。ムカデとかクモとかに似ていると思わないか」

「思わない、思わないから、やめてくれ」

 さっきまで痛んでいた胸の底が、残滓の足がつくるたくさんの枝分かれにかき混ぜられるような気分だった。

「ふん、斎僚が聞いて呆れるな。こいつらは乾燥した気候の地方で、特に日陰に集まって生息しているんだ。決して珍しい生き物じゃない。マイなんかよくこいつらを捕まえて食べるくらいだが」

「やめてくれよ、考えたくもない。マイの悪食にもちょっと程度ってものがあるんじゃないか、体に悪いよ」

「こんなもので体を悪くするなら、とっくの昔に死んでいるだろう」

 まったくその通りだった。僕は斎僚(さいりょう)とはいえ、結局はただ役所勤めしている人間でしかない。それが単に名目上、天使に代わって実務をやっているというだけの話だ。しかしこのユウという黒い服を着た何者かは紛れもなく死神だし、ユウといつも行動を共にしているマイだって同じく死神だ。だから残滓とかいう例の戦争の遺物については僕よりももっと詳しいし、得体の知れないものを食べたってびくともしない。

 辺境──都市から離れたこのあたりは、天使と死神の領土の境界が一部明確に決められていない。だからこうして、天使に仕えている身の僕も比較的堂々とユウに会うことができるし、また彼女も気兼ねするところなくこうして案内してくれる。

 だがほんの少し、もうほんの少し都市に近づくと、そこから先には緊張がある。何人(なんぴと)にも抜き差しを許さない、語り継がれる古代の戦争以来続いているどす黒い怨念が、僕たちを包み込んでしまう。ユウは押し黙ることを強いられ、僕は折り目正しく振る舞う斎僚として生きることを強いられる。死神と面識を持つその前と後で、僕の持つ認識、自由という言葉への認識はきっと大きく変わっただろう。それは、僕が好き勝手に彼らと会うことができない不自由さについてのことではなく、不自由を嫌だなあと思う気持ちよりはむしろ、嫌なことを嫌だなあと思ってもいいという自由を僕は、死神とこうして会わなければ実感できないということが嫌なのだ。

「なあ澄川(すみかわ)

 ゆっくりと振り返りながら、ユウは僕に尋ねた。

「なんだい」

「この残滓、絨毯虫って言うんだが、もしよければ今度佃煮を貰ってくれないか。家に余っていてな、マイが作りすぎてしまったんだ」

「遠慮しておくよ」

 草地の荒野を僕は後にした。空模様は悪く、雨が降り出しそうだった。

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