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36:睡蓮の行方

 龍進は迎賓館を退出する人々を横目に、建物内で睡蓮の行方を捜していた。表向きは、まだこの建物にとどまっている大君の警ら業務ということで、平静を装った表情をしているものの、内心では自分でも驚くくらい焦燥に駆られていた。

 彼女の行方がわからなくなってから、まもなく一時間が経とうとしている。


「少佐、誠に、誠に、申し訳ございません! 私が無責任にも席を外したばかりに……!」


 二階堂が青ざめた表情で何度も頭を下げるのを、手で制する。


「いや、君が責任を感じることなど何一つない。そもそも彼女は、軍人の嫁になる女性だ。そう滅多なことにはならないだろう」


 それに、中佐の呼び出しとは言え、あの場で彼女を一人にしたのは自分だ。責められるべきは自分である。


「悪いが、もう一度、二階の各部屋を探してきてはもらえないだろうか」

「かしこまりました」


 二階堂が大階段を上っていくのを見届けると、龍進は再び一階の各部屋を探して周り、途中で三郎がいる小部屋へと訪れた。

 龍進が入ってくると、三郎が給仕に猿轡をかませて尋問を中断し、眉間に皺を寄せて肩越しに振り返る。


「彼女は見つかったのか?」

「いや、まだだ」

「ということは、奴が裏切った可能性もある、ということか……」

「そんなことはない!!」


 途端、龍進の口から出た感情的な言葉は、彼自身をも驚かせた。

 すぐに、はっ、としたように表情になり、気まずそうに言う。


「……すまない。声を荒げてしまった」


 三郎はしばらく沈黙したのち、幼少のころからの友人に対して、言い聞かせるように、静かに落ち着いた声で言った。


「なあ、龍進、おまえの気持ちはわかるが、あらゆる可能性を排除しないでほしいんだ。それがおまえに求められていることだ」

「君の言うとおりだ。ありがとう」


 龍進は短くうなずく。

 こういうときこそ、冷静さを失ってはならない。それを気づかせてくれた三郎に感謝すべきだ。

 三郎が続けて言う。


「大きく二つの可能性があるな。一つは彼女の意思で出て行った。もう一つは連れ去られた」

「ああ。前者なら、とらわれの身からの解放を目的に、ただ逃走を図ったか、あるいは、この期に乗じてテロリストと合流しようとしたか、だ。若榴という首謀者は未だつかまっていない」

「ただ、自らテロリストと合流を図った可能性は低いかもしれない。俺だったら、あの部屋にあった玉をいくつか持って行くだろう。折角の貴重な爆弾だ。彼女はそれをしなかった」

「とすると、後者の可能性を考えたい。二階堂軍曹によれば、彼が厠から部屋に戻ってきたときには、部屋の窓が開いていたということだった。第三者がそこから入ってきたか、あるいは、第三者に彼女が導かれ、窓から外に出たか、だ」


 龍進は背中が泡立つのを感じた。

 もし彼女が連れ去られたとした場合、それは人斬りとしての彼女以上の力量を持つ人間に他ならない。とすると、思い当たるのは現時点で一名しかいない。



「……う、うーっ!」


 そのとき、足下からうめき声が聞こえた。猿轡をかまされたまま床に転がされていた給仕からだ。


「うるせーぞ!」


 三郎が足蹴にしようとしたのを、龍進が「待て」と止める。


「なにか言いたいことがありそうだ」


 猿轡を外すと、給仕はひとしきり咳き込んだ後、青白い顔をして言った。


「あ……の……! 一つ思い出したことがありまして……! いえ、決して、意図的に隠そうとしていたわけではなく……」

「なんだ? 早く言え!」

「そ、その前に、軍人様……! 申し上げたら、私の罪は軽くなりますでしょうか……!? じ、自白、ということで、私には妻子もおり……」

「いいから、言えってんだ!!」

「ひいい!?」


 三郎に髪の毛をつかまれた給仕が、悲鳴を上げながら言った。


「お、男が、わ、私にっ……、い、依頼をしてきたとき、正確には、こう言ったんです! ……な、仲間が()()()()()()()()前に、逃げ出せ、って……! なんか奇妙だなと思ったのですが、とにかく早くしろ、という意味にとりました!」

「……役者を、迎えに……」


 龍進は三郎と顔を見合わせる。


「そ、そうです! あ、あの……! 隠していたわけではないのです! さっき、軍人様達が、連れ去られたかも、などとお話になっていらっしゃったので、そのことを思い出して……! し、信じてください!」


 男は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら懇願してくる。

 役者……。この場合は、睡蓮のことを意味していると考えるのが自然だ。

 龍進の頭の中で、悪い予感が膨らんでくる。

 役者は、舞台の上で演じるのが生業だ。

 つまり、この後にも役者が演じる舞台が用意されているということだ。迎賓館が舞台の第一幕とするならば、この後、第二幕がある……。

 努めて平静を保ちつつ、男の顔をのぞき込みながら尋ねた。


「改めて尋ねていいだろうか? 君は、その男から、どうやって逃げろと指示されたんだ?」

「て、鉄道で……! 東京駅から乗れと言われて……! 切符も渡されました!」


 三郎が押収した切符を取り出して見せてくれた。

 券面に記載されていたのは、東京駅発 発車時刻は二十一時二十分。

 一方、懐中時計が刻んでいる現在時刻は、二十時三十五分。

 龍進は立ち上がると、三郎に、小声で、だが、鋭く命じた。


「今すぐに、東京駅を閉鎖するように伝えろ。――テロリストの残党が、女王陛下もろとも、駅の爆破を計画している」

「わかった」


 部屋の外に控えていた下士官達にその場を任せ、三郎が駆け出していく。

 一方の龍進は、控え室にいる大君へ報告すべく、迎賓館の廊下を走りながら、唇をきつくかんだ。

 迎賓館はおとりだったのだ。奴らの本当の狙いは、東京駅だ。

 今頃、東京駅の構内は、横浜方面に帰る晩餐会帰りの人々でごった返している。


「大君、急ぎご報告申し上げます」


 ノックもそこそこに控え室に入ると、窓際に立っていた大君が険しい表情をこちらに向けた。

 龍進の説明を聞くと、落ち着いた声で言う。


「そうか。まずは来賓の安全を最優先に対応してほしい」

「はい、三郎以下、信頼のおける者を向かわせました」


 と、大君が目を細める。


「兄さんもこれから向かわれますよね? 睡蓮様をお迎えに」

「…………」


 龍進は一瞬、言葉に詰まった。

 いや、なにを迷っている。ここでの回答は一つしかないはずだ。


「……いいえ、私はここに残ります。この国の元首たる大君をお守りするのが私の役目。東京駅ですらも、彼らの陽動の可能性がありますゆえ」


 その声は、自分でも驚くほど弱々しく、動揺の色が見て取れた。

 大君が沈黙し、龍進の目を見つめる。

 それからややあって、口を開く。


「それは、兄さんの本当の気持ちでしょうか。私には、とても、そうは思えません」

「…………しかし」


 語気を強められる。


「家族の絆よりも大切なものはないと、私は思うのです」


 不意に、龍進の脳裏に睡蓮の顔が浮かんだ。

 屋敷に来たばかりのときによく見せた、全てを諦めたような儚げな顔。

 一緒に百貨店や洋食店に出かけ、真新しいものを目にしたときの驚いた表情。

 夜遅く、二人でピアノを弾いているときに見せた、満ち足りたような笑顔。

 そして、ドレスを纏い、共にダンスを踊っているときに見せた、艶っぽく、大人を感じさせる顔。


「…………っ」


 息を呑む。

 気づくと、龍進はその場に片膝をついていた。


「陛下、お願いがございます。睡蓮を……、私の婚約者を助けに向かってもよろしいでしょうか」

「許可など不要です」


 龍進は深く頭を下げると、部屋を辞すなり、外に向かって廊下を駆け出していく。


「ようやく、兄さんも自分の気持ちに正直になれましたね」


窓の外、駅に向かって急発進する兄が乗った軍用車を見送りながら、大君は少し寂しそうな笑顔を浮かべた。


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