34:火薬と玉突場
大量の香水の匂いが充満していた部屋を抜け出しさえすれば、三郎と、微かに火薬の匂いをつけた給仕を追うことはたやすかった。
階段を降り、ロビーを通り、廊下を奥へと進む。
そして、開け放たれた扉の先の小部屋に入ると、箱ごと積まれた沢山の野菜や果物の間で、三郎に取り押さえられている給仕の姿があった。
「おとなしくしやがれっ……!」
龍進は騒ぎが起こっていることを他の客に知られぬよう後ろ手で扉を閉めると、手早く懐から布を取り出し、相手の手足を縛り上げる。
やがて男は、観念したようにぐったりと床に転がる。その顔は蒼白で、わななく唇は真っ青だ。
「貴様、なにをした! 白状しろ!」
「ひ、ひぃっ……!!」
三郎が襟元をつかんで揺さぶるのを、龍進が手で制すると、おびえきった男の目を見て静かに尋ねた。
「事情を聞こう。君はなにか知っているのか?」
「も……、申し訳っ、ございま……せん……!! ただ……っ、私は、言われたとおりにしたまで、でしてっ……!」
男の口から脈絡のない言葉が出てくる。
「君は、誰に言われて、ここに火薬を持ち込んだのか?」
「か、火薬……? し、しりません! 全くわかりません! ただ、私は、荷物を運ぶように言われただけでして……! それで、隙を見て会場を抜け出せと言われて……」
龍進と三郎が顔を見合わせる。
「荷物だと?」
「君は、それをどこに運んだのかい?」
「は……、はい! た、玉突場へと……!」
途端、龍進が立ち上がり、三郎に「その者への尋問を続けろ」と言い残して、小部屋の外に出る。
異変を察した二階堂軍曹と小野少佐とともに玉突場――ビリヤード室や撞球室などとも呼ばれる部屋へ急いで向かう。
中に入ると、そこには数名の男女がいた。舞踏会場から気晴らしのために降りてきたのだろう。
彼らは、突然現れた軍人達にいささか驚いたような表情を浮かべたものの、その中に先ほど華麗なダンスを披露した龍進と睡蓮がいることに気づき、途端に笑顔に変わった。
長い棒と白い玉を手にしたちょび髭で恰幅の良い紳士が言う。
「これはこれは、如月少佐殿……! 先ほどは大変素晴らしい踊りを拝見させていただきました!」
龍進は相手に気取られないよう、穏やかな笑みを浮かべて頭を下げる。
「近江参事官殿、過分なお褒めの言葉をいただき大変恐縮でございます」
「いやいや、お世辞ではないよ。本当に目が離せなかったんだから。あなた方のダンスは帝都一だな! 海外帰りの者が多い我が大蔵省はもちろんのこと、外務省にも」
周りの人々も口々に誉めそやす中、龍進が睡蓮を紹介する。
「皆様、改めまして、こちらが私の婚約者、睡蓮でございます。どうぞよろしくお願い申し上げます」
偽りの微笑みを浮かべた睡蓮が、中腰になりスカートの裾をつまんで、人々に向かってお辞儀をする。
「お人形のように可愛らしいこと! どちらのお生まれなんでしょう?」
「お二人はどなたのご紹介でお知り合いになったのですか?」
「式はいつ挙げられるのでしょう!」
矢継ぎ早に質問が繰り出される中、睡蓮はうつむいたまま、龍進にだけ聞こえる声でささやいた。
「男の方が手にしている、白い玉の中から火薬の匂いがいたします」
「…………」
龍進の手が微かに動いた。
「それ以外の赤や青……、おそらく、全ての色の玉の中に火薬が詰め込まれています」
「……わかった」
キューによって勢いよく突かれた玉は、台の上で互いに激しくぶつかりあう。その結果、起こることは一つだ。
龍進は、二階堂を呼び耳打ちをする。彼の顔からみるみる血の気が引く。それから二階堂は裏返った声で、人々に向かって言った。
「み、皆様、ご歓談中のところ、誠に恐れ入ります……! すぐにこの部屋から、ご、ご退出いただけますでしょうか……!」
突然の言葉に、人々は面食らった様子で軍人達を見る。
粟を食っている二階堂の代わりに、小野少佐が、いつも通りひょうひょうとした様子で言った。
「こちらの部屋ですが、皇城の者曰く、本日は手違いで開けてしまったということです。大変恐縮でございますが、ご協力のほど、お願いできませんでしょうかねえ」
キューと手球を手にした大蔵省官僚が、不機嫌さを隠さずに言った。
「いやいや、なにを言うかね。そんなことは聞いとらんぞ。それに玉突きをするくらい、別になんの問題はなかろう」
「で、ですが……!」
官僚は二階堂を無視し、笑顔に戻って龍進に言う。
「そうだ、如月少佐、一ゲーム、どうかね? 手合わせといこうじゃないか」
「いえ、参事官殿、私は本日、警備の職務を兼ねておりますのでご遠慮申し上げます。さしつかえなければ、お持ちの手球をお預かりいたします」
「まあまあ、そう細かいことは言わずに、今日はめでたい席だ。うんと楽しまなきゃなあ。君も嫁さんを持つんだ。いつまでも堅物なのはよくないと思うんだがなあ」
手を振りながらそう言うと、官僚はビリヤード台の上に手球を置き、キューを構える。
仕方ない。龍進はとっさにキューと手球の間に、右手を差し入れた。
「…………!」
「ご無礼を働き、大変申し訳ございません。先ほど、皇城の方から我々に連絡があったのです。ビリヤードは、玉同士をぶつけること、すなわち衝突させるということで、本日のような国同士の友好を深める場にはふさわしくない遊戯だとの大君殿下のお考えがあるようです。不手際をお詫び申し上げます」
「お、おお……、そうか……。殿下がそう仰せなら」
その隙に、龍進は左手で火薬入りの手球を取り上げ、回収する。
「…………っ」
途端、睡蓮が驚いたような表情を見せて、なにかを言いかけた。
だが、それよりも先に小野少佐が軽い口調で客達に向かって言う。
「皆様、申し訳ありませんねえ。折角のお楽しみに水を差すような真似をしてしまいまして。皇城側には連絡の不徹底について抗議をいれておきますよ」
客達がぞろぞろと撞球室から出て行くのを確認して、龍進は手球をそっとビリヤード台の上に戻した。
それを見て、睡蓮は小さく息を吐いた。
そして、室内には緊張した面持ちの軍人三名と睡蓮だけが残される。
「僕は水原中佐のところへ報告に行ってくるよ。こうなった以上、体裁はどうであれ、会の中止を進言した方がよいだろうしね。もっとも、中佐のことだから、だいぶしぶるとは思うけど」
小野少佐はそう言って肩をすくめると、部屋から出て行った。
二階堂軍曹は、今更になって腰が抜けたのか、へっぴりごしになって、ビリヤード隊から離れた壁際へと後退しつつ、震える声で言う。
「ば……、爆発はしないんでしょうか。我々もここから逃げた方がいいのでは」
「衝撃を与えない限りは大丈夫だ。それ以前に、我々が来賓を差し置いて安全な場所に移ることは許されない。場の保全と監視は軍人の仕事だ」
「は、はい……」
それから全員が口をつぐみ、室内は静まりかえった。




