28:終わりの始まり。そして、人斬り少女が、なすべきこと
囲炉裏の中では薪がパチパチとはぜ、その上に吊された鉄製のヤカンからはしゅんしゅんとお湯の沸騰する音が聞こえている。
睡蓮は龍進とともに、囲炉裏端で夕飯を取っていた。今日の主菜は、豚挽肉のつみれ。龍進の好みに合わせて、少し味付けを濃くしてみたところ、彼からの評価は上々だった。
いつも通り二人の間で会話が弾むことは無いが、睡蓮にとっては不思議なほど居心地の良い時間だ。
ただ、今日は少し気になったことがあった。気のせいかもしれないが、先ほどから龍進は、時折、茶碗を持ったまま箸を止め、どこか心ここにあらずといった表情をすることがあった。悩んでいることでもあるのだろうか。
料理については褒めてくれたし、どうやら味付けの問題ではなさそうだが、睡蓮が彼の顔を見たとき、違和感を覚えた。
頬に小さな米粒がついていた。
龍進にしては珍しい。
彼女は少し迷った末に、箸を膳の上に置くと、そっと身を乗り出して、右手を彼の方に伸ばす。
「どうした?」
怪訝な顔をする彼の頬についた米粒をつまんで取る。
「ついていました」
「そうか……、ありがとう」
相手がやや気まずそうな顔をした。
一方の睡蓮はつまんだ米粒をどうしようか迷ったものの、捨てるのも悪い気がして、結局、自分の口に運ぶ。
「………………」
途端、龍進が驚いたように、目を微かに見開いた。
「旦那様……?」
「いや、なんでもない」
自分はなにか変なことをしただろうか。
不思議に思ったものの、相手が少し気まずそうな顔をしたまま食事を続けたので、睡蓮もまた己の箸を手に取る。
食後のお茶を手に一服しているときには、既に龍進はいつもの冷静な表情に戻っていた。右手に煙草を持ち、口から吐き出した紫煙がゆらゆらと天井に向かって立ち上っていく。
それから、『毒薬』を龍進の手から直接、口に含ませてもらう。歯と舌に彼の指が触れた途端、その指の感触に、ピアノの練習のことを思い出す。
あの晩以降、龍進のピアノの音が聞こえる度に、彼女は離れに向かい、そして、一緒にピアノを弾くようになった。
彼の指が重ねられた手で、彼が幼少の頃から使っていたという古いピアノを弾く。それは、睡蓮にとっては暖かな家族を思わせるものだ。それが偽りのものであったとしても。
白湯を飲み、『毒薬』を咽下すると、龍進が視線をこちらにあわせ、口を開いた。
「既に知っているとは思うが、来週、西蘭共和国の女王殿下を迎えた舞踏会が催されることになっている。そこで、かねてからの約束通り、君には僕の婚約者として振る舞ってもらいたい」
「……はい」
そもそも、それが、彼が自分を偽りの婚約者として迎え入れた大きな目的だった。
「それで私はなにをすればよろしいでしょうか」
「なにか不審な動きをする者がいたら教えて欲しい。君の嗅覚は頼りになる。ただ、僕の隣にいて、静かに微笑んでいればいい。誰かになにかを聞かれても、声が出せないということにしておけば、問題は無いだろう。あとは僕が対応する」
「かしこまりました」
「それと、君のためにドレスを用意する必要がある。明日、昼過ぎに仕立屋が来るから対応してほしい」
睡蓮は小さくうなずく。
西洋の服を着た経験はないが、同じ人間が着るものだから、特段の問題はないはずだ。
「当日の段取りは後日伝えるが、なにか他に質問はあるかい?」
「ありません」
「そうか。ならば、先に風呂に入ってくるといい。僕はまだこれから少し仕事があるのでね」
「旦那様より先にお湯をいただくことは憚られます」
困惑した様子の睡蓮に対して、彼の顔が和らいだ。
「気にすることは無い。というよりは、逆に先に入ってくれる方がありがたい。仕事をしていても、君を待たせていると思うと、どうしても気になってしまうものでね」
「かしこまりました。そういうことでしたら」
彼女はそう答えると席を立った。
台所の片付けを終えてから、睡蓮は風呂場に向かう。
風呂場はしんしんと冷え込んでいて、素足を乗せたタイルから、初冬の冷気が上半身まで伝わってくる。
やや急いで身体を洗うと、丸い浴槽の中にその身を沈めた。
肩まで湯に浸かり、身体中の血の巡りが良くなってくるのを感じながら、ぼうと湯船に浮かぶ己の顔を見つめる。
切りそろえられた艶やかな前髪に、乳白色の肌、黒曜石を思わせる大きな黒い瞳。
眉尻が微かに下がり、戸惑いに小さく息を吐くと、水面に波紋が広がる。
殺しの仕事をしていたときに比べて、少し自分の表情が変わったような気がする。髪を整えてもらったせいだろうか。
睡蓮は両手でお湯をすくうと、ばしゃりと己の顔にかけた。
水面に映る、濡れた瞳の少女が、こちらを見つめている。
舞踏会に着ていくドレスをつくるために、明日、仕立屋が家に来るという。
ドレスを着た自分は一体どんな姿なのだろうか。全く想像がつかない。
湯船に映るこの濡れた鴉の羽のような髪の娘には、似合わないかも知れないが、出来れば、彼に……、旦那様に恥をかかせない程度の見てくれにはなってほしい。
少し気が重くなった睡蓮はそのまま天井を仰ぎ見た。木造の天井は湯気で曇っていて、ややあって、そこから冷たい滴がぽたりと彼女に額へと落ちてきた。
そして思う。
舞踏会が終われば、偽りの婚約者としての契約も終わりになる。
その後、きっと私は彼に殺されるのだろう。
拳銃で胸元を撃ち抜かれるのか。あるいは、刀で首を切られるのか。なんにせよ、仕立ててくれたドレスは、自分の死に装束になるのかもしれない。いや、そうならないように、殺されるときはドレスを脱ぐべきだろう。折角、彼が用意してくれた衣装を血で汚したくない。
とにかく、自分の命はわずかだ。
元々、一月前、はじめてこの家にやってきたときに自分は殺されていたはずだったのだ。それが、たまたま、自分に利用価値を見いだした彼の気まぐれによって延命させられたに過ぎない。そればかりか、自分が今まで知ることがなかった家庭生活の真似事まで出来たのだ。
せめてこの命が終える前に、彼に恩返しがしたい。自分に本当の家庭を教えてくれた彼に。
彼女は猫のように頭を震わせる。
――一つ、あるかもしれない。
それは、再び己の前に顔を出した隻眼の少年――石榴。
石榴は、きっとなにかをしようとしている。おそらくは、晩餐会の夜に。
彼は、その紋章が睡蓮の未来を定めるものだと言っていた。
それがなにかは知らないし、別にそれがこの国や首都にどのような騒乱をもたらそうが、正直、自分には関係ない。
ただ、もし、それが彼に――龍進の身に危険を及ぼすものであれば、そのときは己が盾になる。それが、己の役目であり、彼への恩返しだ。
睡蓮は浴槽の縁に両手をかけ、立ち上がる。水音とともに、細身の身体を伝って水滴が湯船に落ちる。そして、洗い場に出ると、彼女は唇を真横に引き結んで、窓の外に視線をやった。
夜空には冬の三日月がどこか寒々とした様子で、ぽかりと浮かんでいた。
と、同時に、家の中から、ピアノの音が聞こえてきた。仕事を終えた龍進が弾いているのだろう。いつにもまして、悲しく、寂しい音色。
楽曲名は、確か、月光。
今日は一緒に弾けるだろうか。睡蓮はタオルを手にとると、風呂場から出る。




