20:下瀬火薬
受け取った書類のページをめくる。
中に記載されていたのは、先の日本橋における爆発事件で使われた火薬に関する鑑定結果だった。几帳面な文字が並び、ところどころに化学式が差し挟まれている。
「参りました。教授はなんでもお見通しですね」
「君とは長い付き合いだからな。それよりも、最後の頁を見て欲しい。そこに君の求めている答が書かれている」
促されて頁をめくり、龍進は眉をひそめた。
「現場で使われたと想定されるものは……、『下瀬火薬』……」
「そうだ。とはいえ、君も薄々は感じていたのではないか? 大量の火薬を百貨店に運び込むのは難しい。だとしたらわずかな量でも驚異的な爆発力を持つ火薬を持ち込めばいい。そして、そのような条件を満たすものは、今の我が国において一種類だけ存在する」
そう言うと、彼女は裾に入れた小さな透明な瓶を取り出す。
瓶の底には、うっすらと黒い粉が入っていた。
龍進は思わず息を呑む。
「安心しろ。さすがにこれだけなら爆発はしない」
「……ですが、海軍において厳重に保管されているものが、市中で使用されるとは、にわかには信じがたかったのも事実です」
下瀬火薬は、帝国海軍によって開発された火薬で、現時点で世界一の爆発力を誇る。その威力が世界に示されたのは、十年前の北部連邦との戦争においてであり、当時、世界最強と謳われた北部連邦艦隊を打ち破ることが出来たのは、この火薬によってだった。
従来より遙かに少ない量で劇的な爆発力を誇る下瀬火薬の存在と、それによる北部連邦に対する勝利は世界中を驚かせ、この国が列強諸国の仲間入りをしたことを国内外に印象づけた。
その一方で、下瀬火薬は、人が持ち運べる程度の量に対して、わずかな衝撃を与えるだけで爆発を引き起こすことから暴発事故も多く、海軍内では極めて厳重に管理されていたはずだ。保管場所についても海軍のごく限られた者しか知らされていない。
そんな下瀬火薬が、日中堂々と、新時代主義者達によるテロに使用された。
もしそれが事実であるなら、政府にあたえる衝撃は計り知れない。
柳本総長は、焼き菓子をつまんだ指の腹を舌でなめると、楽しそうな口調で言った。
「ちなみにうちの研究所に鑑定を持ち込んで来たのは、警視庁に出向している海軍の技官らしい。対応した研究員によればひどく顔色が悪かったそうだ」
「そうでしたか」
帝国海軍は警察と同様、南前藩出身者が多い。
この事実から想定されるのは、下瀬火薬の盗難にあった海軍がその事実を隠蔽すべく、同じ南前閥である警察にも協力を仰ぎ、秘密裏に処理しようと動いていたのではないか、ということだ。
もしそうであるなら、ここ数ヶ月のテロ行為に関する捜査について、警察がしきりに陸軍の介入を拒んでいた理由も説明が出来る。
すべては、下瀬火薬が新時代主義者達の手元に渡ってしまったという事実を、隠し通すためだったのだろう。いや、それだけではない。もしかすると、新時代主義者達と南前閥の間にはなんらかの関係があるのかもしれない。龍進は、四谷の拠点に、南前閥の家紋が残されていたことを思い浮かべる。
柳本総長がティーカップをテーブルに置いて、愉快そうに言った。
「さて、大君の間諜たる如月龍進君。この後はどうするんだい? 警察と海軍に、事実を明らかにするように迫るのか?」
「いえ。まだ早いでしょう。下瀬火薬の盗難という件は、想像の域を出ません。確たる証拠をつかむ必要があります」
それにこの段階で、テロ組織との関係を追求しても、白を切られるだけだ。
「証拠集めか。策はあるのかい?」
龍進は首を横に振る。
「いえ。現時点ではなにも。陸軍の信頼のある者たちだけで、地道な捜査を行うしかありません」
そして、龍進は紅茶を飲み干すと、ソファから立ち上がった。
「とはいえ、教授のお力で、疑問は確信へと変わりました。結果は改めてご報告に上がりますが、ひとまず、お礼を申し上げます」
「いやいや、私はなにもしていないよ。実際に手を動かしているのはうちの優秀な研究者たちだ」
「そうでしょうか。彼らが忖度無く自由に行動出来るのは、柳本教授が、総長として自由な学問の場を守っていらっしゃるからです」
「ふふ。それが私の役目だからな」
彼女は部屋の外まで見送りに出てくると、龍進の顔をまじまじと見つめて言った。
「君も色々、大変だな。どうだ? いつも言っているが、我が帝大で研究の道を歩む気はないか? つまらぬ俗世間と関わらずに生きられるぞ」
「お気遣いはありがたいですが、教授と同じく、私にも役割があります。大君が治めるこの国を護るという役目が」
それでは、と深々と頭を下げ、きびすを返し総長室を辞すると、出口に向かって廊下を歩く。
とは言ったものの、これからどうやって証拠を集めるべきか。もし下瀬火薬が盗難されたのが真実なら、それが保管されている場所を突き止めるのが一番確実なのだが、今のところこれといった手がかりは無い。
建物の外に出ると、既に日は傾き始めていた。銀杏並木の向こう側に、燃えるような夕焼け空が広がっている。風は冷たく、地面の上を乾いた落ち葉が音を立てて転がっていく。
一度、司令部に戻るか、あるいは、このまま自宅に帰るか。
彼にしては珍しく迷いながら校門を出たところで、不意にどこからかカレーの匂いが漂ってきた。周囲の住宅からだろうか。
そういえば、今朝、出掛けに、睡蓮が夕飯はライスカレーにしてみる、と言っていたのを思い出す。なんでも日本橋で入った西洋料理店で、初めて見たメニューに少しばかり刺激を受けたのだそうだ。
今、司令部に帰ったところで、さしたる案は浮かばないだろう。それよりも、早めに家に戻り身体を休めた方が、結果的に妙案を導くことになるかもしれない。
赤門から出た龍進の足は、自宅へと向けられる。睡蓮が作っているであろうライスカレーに、彼自身も自覚しないくらいの、微かな楽しみを覚えながら。




