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15:洋食店の二人

 時刻は午後二時を回っていた。


 百貨店で買い物を終えた後、二人は再び日本橋の町を歩いていた。

 睡蓮の髪には、先ほど買った紅色の髪ざしが挿されたままで、気のせいか、先ほどよりもすれ違いざまに向けられる視線の数が多いように思える。

 一方、龍進の手には百貨店の意匠が施された大きな紙袋が抱えられていた。結局、髪ざしだけではなく、オペラバッグや財布、ハンカチーフなども併せて買ってしまった。婚約者とはいえ、偽りの関係である以上、ここまでのことをする彼の考えがよくわからない。

 彼女は、どことなく落ち着かなくて、視線を周囲に巡らせる。

 午後になって、人通りがさらに増えたような気がする。歩行者だけではない。大勢の人を乗せた市電が道路の中央を走り、その脇を、自動車が時折クラクションを鳴らしながら通っていく。乗り合い自動車に、警察車両、そして、最近になって増えてきたという運送会社のトラック。三輪のトラックは、小口の荷物を乗せて、工場やオフィス、邸宅などを行き来しているのだという。

 そのときだった。ふと、睡蓮は違和感を覚えて顔を上げた。


 妙な臭いがする。これは……、火薬?


 またしても、あの火薬の匂い。三輪トラックとすれ違うときに、一瞬、強く感じられたような気がした。怪訝な顔で向こうに走り去るトラックを見やる。

 と、横を歩く龍進が視線を落とし、声をかけてきた。


「どうかしたか?」

「……いえ。なんでもありません」


 首を横に振る。そうは言うものの、今日、二回目だ。おそらく気のせいではない。一体……。


「そうか。……ところで、君、お腹は空いていないか?」

「え?」

「あそこにちょうど良いカフェがある。君さえよければ昼食にしたいのだが」


 龍進が指さした先、道路に面したところに、白い壁のこぎれいなカフェがあった。

 連れられるまま店内に入ると、中ではテーブルについた大勢の紳士淑女がお茶や食事を楽しんでおり、食欲をそそるような匂いが入口まで漂ってきていた。

 洋服にエプロン姿の女給が二人の前にやってきて、恭しく頭を下げる。


「いらっしゃいませ。お席にご案内いたします」


 こんな店に来たのは初めてで、睡蓮は思わず視線を周囲に巡らせてしまう。

 案内された窓際のテーブル席に座ると、目の前にお水とメニューが置かれる。メニューに並んでいる料理の名前は、半分くらい馴染みのないものだ。


「ええと」


 さすがに困ってしまって、龍進の顔を見上げる。


「私は、旦那様と同じものでお願いします」

「そうか。それなら君が気に入りそうなものを頼むとしよう」


 龍進が女給に注文して運ばれてきたものは、薄い生地状に焼いた卵黄で何かを包んだ料理だった。上には赤いソースがかかっており、スプーンで食べるものらしい。


「これは『エッグスオムレツ』という料理だ」


 龍進がスプーンで卵黄の薄い生地を割ると、中から湯気を立てて、炒めたご飯が現れた。それを卵の生地とからめ、口の中へと運ぶ。

 睡蓮もそれを真似して、スプーンで生地を割り、小さな口の中へと運ぶ。

 口の中にふわりとした甘い味が広がった。

 こんな味は、はじめてだ。

 思わず二口、三口とオムレツを口に運んでしまう。

 気がつくと、あっという間に平らげてしまっていた。


「味はどうだったかい?」


 龍進がいつもより少し柔らかな顔つきでこちらを見ていた。


「あ…………」


 と、次の瞬間、龍進の手が彼女の口元にのびてきて、手にしたナプキンで拭った。


「ケチャップがついていた」

「…………」


 彼女は固まってしまう。

 自分としたことが、つい、我を忘れるくらい食べることに夢中になってしまった。こんなことはここ何年もなかったはずなのに。


「いい顔をしているな。年頃の女性らしい、かわいらしい笑顔だ」


 にこりともせずにそう言われ、なんと返せば良いかわからず、うつむいてしまう。

 と、そこに女給が食後の飲み物をトレイに乗せて運んできた。龍進には珈琲で、睡蓮には紅茶。


「お客様、もしよろしければ、デザートなどはいかがでしょうか」

「折角だから、なにかいただこうか。君から選ぶといい」


 そして、睡蓮の目の前に広げられるデザートのメニュー。

 クリームソーダに、フルーツポンチ、ア・ラ・モードクレープに至るまで、どれも名前だけは聞いたことがあるが、実物は目にしたことがないものばかりだ。

 視線がメニューに釘付けになり、胸が高鳴っていく。

 なにがいいだろう。フルーツポンチに惹かれるが、ソーダの上に乗ったアイスも捨てがたい。

 迷った末に、人差し指をメニュー表の上に置こうとしたそのとき、聞き覚えのある音が、彼女の耳朶を打った。

 ピアノの音だ。

 店の隅に置かれた縦型のピアノの前に、淡い桜色のドレスを着た女性が座り、演奏をはじめたのだ。

 店内の人々が物珍しそうな視線を向ける中、奏者は軽やかな指使いで、明るい曲調の旋律を奏でる。まるで子犬が庭を駆け回っている情景が目に浮かぶかのようだ。心なしか周囲の人々の顔も綻んだような気がする。

 演奏が終わってお辞儀をするピアニストに、店内から大きな拍手が送られる。


「良い演奏だ」


 そう言って拍手をする龍進の横顔を見て、睡蓮は思わず言った。


「ですが、旦那様の演奏も、とても良いと思います」


 彼が、少し驚いた様子でこちらを見る。


「毎晩、寝床で聞かせていただいております」

「……そうか。ありがとう。とはいえ、子供の頃に習ったあとは、ほぼ独学だったから、そんなにたいしたものではない。耳障りだったらやめる。遠慮なく言ってほしい」

「いいえ。そんなことはありません。旦那様の演奏は、どこか寂しくて、もの悲しくて……。ですから、私にとっては、とても心地よい音色なのです」

「…………っ」


 微かに息を呑む音が聞こえた。

 それから彼がおもむろに口を開きかけたそのときだった。


 ――ドン!!


 突然、外で大きな爆発音が聞こえた。


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