14:日本橋へのお出掛け
翌日、日曜日。市電を乗り継ぎ、龍進に連れられた睡蓮が、日本橋に着いたのは午前十一時前だった。
買い物をする人々でごった返し、その合間を市電や人力車が行き交う休日の繁華街を、龍進と睡蓮は連れ立って歩く。
今日の龍進は、白いワイシャツにカーキ色のズボンという洋装。一方の睡蓮は和服ではあるが、今の流行りを取り入れた、白と薄紫色を基調にした着物に、パステル調の花が地に描かれた塩瀬の帯。
雑踏の中でも、二人の整った容姿はよく目立ち、すれ違う人の中には時折、驚いたように目を釘付けにしている者もいる。
どうにも、落ち着かない、と睡蓮は心の中でつぶやく。
彼女は、人混みが好きではない。人斬りである以上、人目を避けて動くことが多かったし、それ以上に、雑踏に紛れるということは、すなわち、自分が誰かに死をもたらすことを意味していた。
だけど、これも偽りの婚約者としての務めである以上、仕方のないことだ。彼女は表情を変えることなく、黙々と歩き続ける。
と、不意に彼が声をかけてきた。
「人が多いな。大丈夫か?」
彼の手が差し伸べられる。
「つかまれ。決して、離れないように」
「はい……」
困惑したものの、主人の命令だ。拒むことは出来ない。
彼女がゆっくりと伸ばした手を、龍進が握ってきた。その手は大きくて力強く、そして温かい。
皮膚から伝わってきた彼のぬくもりに、睡蓮はどう反応すればいいかわからず、そっと彼の横顔を盗み見る。いつもどおりの軍人らしい生真面目な顔つきに、彼女は当惑の感情を抱く。
昨晩、家の中から聞こえてきたピアノの旋律のことがずっとひっかかっていたからだ。
どうしてこの人は、毎晩あんなにもの悲しく、寂しい音色を奏でるのだろうか。あまり人の思いに興味を抱くことのない睡蓮ですら、違和感を覚えるほどであった。
そんなことを考えながら、睡蓮は引っ張られるまま前へ進む。
そのときだった。
「…………?」
ほんの微かではあるものの、火薬の匂いがすることに気づいた。
鼻の奥でなにかがはじけるような特徴的なこの匂いは、昨日、家の前の坂を上がっていたトラックから匂ったものと同じだ。
どうしてこんなところで?
奇妙に思って周囲に視線を巡らせていると、龍進がこちらを振り向いた。
「どうした?」
「……いえ、なんでもありません」
「そうか」
気のせいだろうか、と頭を振り、視線を前に戻す。火薬の匂いは既に消えていた。
やがて、二人の目の前に五階建ての白い建物が現れた。
古代ローマ建築のような左右対称型の意匠で、中央にあるアーチ状の入口には、雑踏の人々が次々に吸い込まれていく。
建物の前はちょっとした広場になっていて、そこには、小さな泉と、口から水を吐く獅子の彫刻が置かれていた。親に連れられた子供たちが、手を泉の中に入れたり、獅子の口に手をいれたりしてはしゃいでいる。
物珍しさに、睡蓮は思わず目を大きく見開く。
「このデパートに来るのは初めてか?」
「はい」
数年前に有名な呉服店が百貨店なるものを作ったということは聞いていたが、実際に間近で見るのは初めてのことだった。その大きさはもとより、ルネサンス様式の外観は、別の国に来たかのような錯覚を覚えさせる。
彼は目を細めて言った。
「君も、子供のように目を輝かせることが出来るんだな」
「…………」
どう答えたらよいかわからず口ごもっていると、龍進が手を引き、店内へ入るよう促してくる。
デパートの中は吹き抜けになっており、中央には自動で昇っていく階段が据え付けられていた。ためらいつつもそれに乗って二階へ上がると、婦人用の雑貨がところ狭しと並べられているのが目に入った。まるで万華鏡のような色の洪水に、睡蓮は目を白黒させる。
そして、その一角、女性用の髪飾りが陳列されている棚に向かうと、二人に気づいた洋風の制服を着た女性店員が笑顔で近づいてきた。
「いらっしゃいませ。なにかお探しですか?」
「ええ。彼女のこの髪に似合う髪ざしを選びたいのです。いくつか見繕っていただけますか?」
「かしこまりました。それではおかけになってお待ちくださいませ」
しばらくして、店員はトレイの上に、色の異なる三つの髪ざしを持って二人の元に戻ってきた。
鮮やかな紅色に、野の花のような黄色、そして、藤棚を思わせる藤色。
「奥様の黒く艶やかで美しい御髪を引き立てるものをお持ちいたしました」
『奥様』と呼ばれたことに戸惑いつつ睡蓮は龍進を見上げるが、彼は「好きなものを選びなさい」と言うだけ。
迷いながらも、小さな手を伸ばし、紅色の髪ざしを手に取った。
鮮やかな紅――血に似た色が一番、自分に馴染みがあるからだ。
「そちらにいたしますか」
店員が微笑み、睡蓮を姿見の前に連れて行くと、髪ざしを黒髪の間に丁寧に挿し入れてくれた。それから、微かに息を飲み込み、感嘆のため息とともに言った。
「奥様……、とてもよくお似合いです」
姿見に映っていたのは、美しい日本人形だった。
鴉の濡れ羽のような艶やかな黒髪の中に、一点、鮮やかな紅椿を咲かせることで、完成品となった人形。
睡蓮は戸惑いに、長い眉毛を震えさせながら、鏡の中で視線をさまよわせる。
と、龍進と目があった。彼にしてはめずらしく目を見開き、なにかに魅入られたように睡蓮の顔を見つめている。
「……どうなさったのですか?」
「いや……。なんでもない」
我に返ったかのようにわずかに目を逸らすと、
「とても、よく似合っているよ」
そう言うと、笑顔で控えている女性店員に向き合って言った。
「それではこちらをいただきます。それと、オペラバッグなどの小物も見せていただけないでしょうか。これを機会に一式揃えた方がいいと思いまして」
「かしこまりました。最近流行りの柄でおすすめのものを取りそろえておりますので、ご案内いたします」
店員に連れられて売り場の奥へと進もうとする龍進の袖を、思わず引っ張ってしまった。
「旦那様、私は、そんなに……」
彼は一瞬、ちょっと驚いたような表情を見せたが、すぐにいつもの生真面目な顔つきになり、
「構わない。偽りとはいえ、君は僕の婚約者なのだから、これくらいはさせて欲しい」
そう言って彼女の手を取ると、鞄売り場へと向かった。