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12:旦那様のご帰宅

 彼女は台所に三郎を置いて、玄関へ向かった。

 歩くと、髪を切ったことがすうすうと涼しい。

 玄関先で膝をついたところで、引き戸が横に開かれ、龍進が帰ってきた。


「お帰りなさいませ、旦那様」

「……ああ、ただいま」


 床に三つ指をついて頭を深々と垂れる睡蓮に、龍進はかすかに眉間にしわを寄せて言った。


「そんなに丁寧に出迎えなくてもいいと、昨日も言ったはずだが」

「いえ、私は己の仕事を全うしているだけでございます。旦那様の婚約者として、そつなく振る舞わなければなりません」

「…………」


 だが、相手はなにも言わずに、睡蓮の顔をじっと見つめていた。

 二人の視線が交差したまま、沈黙が落ちる。

 時間にして、十秒くらいだろうか。


「…………どうかされましたか?」


 不思議に思った彼女が微かに首を傾げて尋ねると、


「いや、なんでもない」


 そう言って彼は目をそらし、小さく息をついた。

 そして鞄を彼女に預け、靴を脱いで玄関に上がると、


「その髪、良く似合っている」


 すれ違いざまに、彼にしてはやや早口でそう言って、自室へと歩いていった。


「…………」


 なにかあったのだろうか。

 睡蓮はなんと返せばよいかわからず、鞄を手にしたまま、龍進の背中を見送った。


 夕食を食べている間、二人はいつも通り無言だった。

 龍進は空になった膳の前で両手を合わせる。


「ごちそうさま。おいしかった」

「お粗末様でした」


 そして、彼は微かに表情を緩めて言った。


「今日の旨煮だが、味が染みていてとてもうまかった。そうだな、家庭の味、というべきか。また作ってくれるとうれしい」

「…………ありがとうございます」


 深々と頭を下げながら、睡蓮は戸惑う。

 こんなふうに、誰かと一緒に食事をとることなど、今まで生きてきた中ではなかった。そして、この家に来たばかりのとき、彼は言った。偽りとはいえ、家族であるならば、食事をともにすべきだ、と。これが家族というものなのだろうか。

 と、不意に、遠い過去、幼少の草原の中で誰かに言われた言葉が蘇った。


 ――君は本当の家族が欲しいと思ったことはあるのか?


 なんだろう。

 今、目の前にあるのは本当の家族ではない。だが、この感覚は決して悪いものではない。


「どうかしたか」


 龍進の声に、はた、と現実に引き戻された睡蓮は、相手の顔を見上げて言う。


「いえ。旦那様、本日の毒をいただきたく」

「ああ」


 龍進が懐から、それぞれ白と黒の錠剤が入った小瓶を二つ取り出す。白い瓶の蓋を開けると、彼の細く白い人差し指と親指が、睡蓮の花の蕾のような唇を割り開き、舌の上にそっと錠剤を置く。

 白は解毒剤。昨晩の毒を消すもの。

一方の黒は毒薬。なにもしなければ、明日までに彼女の命を奪うもの。

彼女はそれを白湯で順番に嚥下する。毒なのに、煮詰めたような甘さが口の中に広がる。

これは二人の日課になりつつあった。

睡蓮が錠剤を飲み干したところで、またも彼の目線が、自分の髪に向けられていることに気づいた。

睡蓮が顔を上げるとついと視線が逸らされる。それから彼は、睡蓮がいれた食後のお茶を飲みながら、煙草に火をつけ、座卓に広げた新聞を読み始めた。


「…………?」


今日の龍進は、いつもと比べて、どこか落ち着きがないように見える。特に自分と目を合うと、自然に視線をそらしてしまう。いつも、感情を表に出さない彼にしては、とても珍しい反応だ。一体、どうしたのだろうか。

 それから、彼女が食器を台所に下げ、座卓を拭き上げているときだった。不意に龍進が新聞から顔を上げて言った。


「明日の休みは、君を日本橋に連れて行くつもりだ。その髪に似合う、かんざしを買おうと思ってね」


 睡蓮は困惑しつつ、整えられた己の髪を手で触る。


「私は……、別に必要性は感じておりませんが」

「いや。僕にとって必要なんだ。君が帝国軍人の婚約者である以上、それ相応の身なりをしてもらわなければならないからな」

「……そういうことでしたら、私は旦那様の指示に従います」


 彼女は小さくうなずく。契約を持ち出された以上、当然のことだ。

 とはいえ、昼間に日本橋に行くなど初めての経験で、正直、戸惑いの方が大きい。しかも、人通りのある中、どうすれば婚約者らしく振るまえばよいものかもわからない。彼がその場で適切な振る舞いを指示してくれるのだろうか。

 それを察したのか、龍進が付け加える。


「心配は無用だ。君はただ黙って僕の隣を歩くだけで良い」

「…………はい」

「明朝までに、三郎に新しい着物を用意させる。出かける準備も必要だろうし、今日は先に風呂に入って、早めに休むといい」


 睡蓮は深く一礼すると、片付けのために台所へ向かった。

 流しの前に立つと、困惑気味に柳眉を寄せ、胸に手をやる。

 どうしてだろうか。脈がいつもより早い気がする。

 彼女は金盥の中に張られた水に映った己の顔を見つめながら、思いを巡らせる。

 明日は、二人きりで出かける。

 だけど、単に、自分の生死を握っている相手から、一緒に外出するように指示をされたに過ぎないのだ。自分は彼の言うとおりに行動すればいい。なにも考える必要はない。

 彼女は深く息を吸い込むと、洗い物にとりかかる。

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