10:双頭の龍
それから、大君はなにかを思案するかのように視線を落としてしばらく沈黙した後、呟くように言った。
「……大赦ということも出来なくはありませんが」
「いいえ。今でさえ、私は己の立場を乱用し、本来は死罪となるべき咎人を利用しているのです。法から逸脱した行為に及んでいる以上、最後は自ら処理します」
「しかし、叔父上にはどう伝えるおつもりですか?」
「急な病で死んだということにします。晩餐会さえ乗り切れれば良いのですから」
「兄さんはそれで良いのですか? 罪の件はどうとでもなりますし、なによりも、兄さんがこの先、生きていくにあたって、将来の伴侶は持つべきではないのですか?」
「いいえ、その必要は微塵もありません。なぜなら、私は大君の間諜だからです。既に自分は、我が身を、この国の発展に――大君の治世のために捧げることを決めております。私は独りで生き、独りで死んでゆく。そのような者に家庭などというものは不要なのです」
複雑な表情を浮かべた国家元首が、なにかを言いたげに一瞬口を開きかけたものの、すぐに閉じる。その目にはどこか悲しげな色が浮かんでいた。
それからややあって、ため息交じりに言う。
「わかりました。兄さんが決めたことですから、私が口を挟むべきことではありません。……ただ、一つ、お願いがあります」
「なんでしょうか」
「手を下す前に、一度、彼女を連れ立った上で、ここにお越しいただけますでしょうか」
「なにゆえ……、ですか?」
大君は一瞬、言いよどんだ後、
「……彼女の身体に彫られているという、『双頭の鴉』が気になるからです。この目で実際に見ておきたい」
「かしこまりました。ただ、その件は、現在、帝大の柳本教授に調査を依頼しています。結果を待ってからでも良いかと存じます」
「ええ。兄さんに、任せます」
それから、龍進は立ち上がると、テーブル脇の壁に掛けられた巨大な絵画の前に立った。
そこに描かれていたのは、群青色で描かれた大きな紋章。天上に向かって、雲海を突き抜けて昇る『双頭の龍』。
阿吽のように、右側の龍頭は大きく顎を開いて咆哮し、左側の龍頭は口を閉じている。鷹のように鋭い爪は大きな丸い宝玉をつかみ、鱗を纏った巨大な尾は力強く大気の中を泳いでいる。
龍進はその紋章を見上げながら静かに言う。
「本邦において初めて統一を成し遂げた我らが先祖は、古代から先の維新に至るまで、この『双頭の龍』の御旗のもと、数多の『まつろわぬ民』と争い、大君に忠誠を誓わせることによってこの国を守ってきました」
大君は椅子に座ったまま、双頭の龍の紋章と龍進の横顔を見つめ続ける。
「しかし、すべての『まつろわぬ民』を征討出来たわけではありません。未だ、この国土のどこかに隠れ潜み、機に乗じて反乱の狼煙を上げようとしている者たちも多く存在しています。維新を経て、近代国家の道を歩み始めた今、そのような勢力に足下をすくわれるわけにはいきません。さすれば、我々はすぐさま西欧列強の餌食になることでしょう」
そこで龍進は小さく息をつくと、自席に戻りながら静かに言った。
「睡蓮の……、彼女の身体に入れられている紋章も、かような『まつろわぬ民』のものである可能性が高いと考えております。調査結果については、彼女を処分する前に、ご報告させていただきます。……これも、大君の間諜として、軍部に属している自分の役目ですから」
「心強く思います」
大君の静かな言葉に、龍進は最敬礼する。
「それでは私は職務に戻ります。本日は大君のお時間をいただきましたこと、改めてお礼を申し上げます。失礼いたします」
そう言って部屋から出て行こうとしたとき、大君がその背中を呼び止めた。
「兄さん」
「…………はい」
足を止めて身体ごと振り返った龍進に、大君がためらいがちに言った。
「この世に生きる限り、我々が様々なしがらみから逃れることは難しいものです。その中でも、『血族』というしがらみは最たるものでしょう」
「…………」
「ですが、人と人との結びつきはしがらみとなる一方で、ときには、人をそのしがらみから解き放つものだとも、私は思うのです。そのことは、兄さんが最もよくわかっていらっしゃることではないでしょうか」
龍進は困惑がちに、相手の目を見る。その瞳にはどこかさみしげな色が浮かんでいる。
大君の真意は図りかねた。だが、その言葉が、大君としてではなく、弟としての気遣いから出た言葉だということはわかった。
「……もったいないお言葉、ありがとうございます」
龍進はもう一度、深々と頭を下げると、部屋を辞する。
御殿から回廊に戻ると、朝に比べて空を覆う雲は厚くなっており、今にも雨が降り出しそうだった。風も時折強く吹き、庭園を彩る紅葉の葉擦れが大きく聞こえる。
――兄さんが最もよくわかっていること。
龍進は最後に弟から言われた言葉を頭の中で反芻する。どうなのだろうか。人はどこまでいっても、己を取り巻くしがらみからは解放されない。逃れようとすればするほど、まるでそれは蜘蛛の糸のように己を絡み取るようなものではないか。
彼は小さく頭を振って思考を打ち切ると、回廊で控えていた侍従に先導されて、己の車まで戻る。
そして、ハンドルをゆるやかにきりながら皇城の門へと車を向かわせていると、バックミラー越しに、侍従が龍進のいた場所に塩をまいているのが見えた。
思わず苦笑いを浮かべる。
皇城にとっても、清めの塩ごときで、『忌み子』というしがらみを断ち切ることが出来るなら、どんなに楽だろうか。