追憶
作中の世界観・設定は、シェアワールド競作企画『テルミア・ストーリーズ+』様に準拠します。
※企画自体は終了。
町はずれの丘陵の上には、時の流れから取り残されたような古城が聳えている。
かつて一帯を治めた豪族の居城だったという遺構は、さながら年老いて死んだ竜の骸のごとき偉容で朝靄の湖から浮かび上がった。
丘陵が青々とした牧草の絨毯に覆われる季節になっても、羊飼いたちはけして頂上には近づかない。
老年の羊飼いによれば、王国に黄金の翼獅子が降り立ったころのいくさで、壮絶な籠城戦の果てに一族郎党が討ち死にしたそうだ。
おそらくは異界の勇者――建国王にまつろわぬ賊軍だったのであろう。いくさの後に町の名は書き替えられ、新たな領主が別の場所に城館を建てた。
いまでは賑やかな市街地は城館の周辺に移り、かつての城下では羊の群れがのんびりと草を食んでいる。いにしえの土地の名を密かに語り継ぐ者も減ってしまった。
年若い羊飼いの青年に尋ねても、肩を竦めて笑うだけだ。
「婆さまだったら知ってたかもしれねぇけど、俺の名前も忘れちまったからなぁ」
その晩は、青年の家に招かれて温かい食事と清潔な寝床にありつけた。せめてもの礼にと夕餉のあとにリュートを奏でていくつかの歌や物語を披露した。
いつの間にか吟遊詩人の噂を聞きつけた近隣の人びとが家の外まで集まり、歌声に合わせて手拍子を打ち鳴らし、足踏みし、ついには踊りだす者もいた。
それならばと、若き羊飼いたちが春の祝祭で男女入り乱れて輪になって踊る舞曲を響かせる。
軽快な旋律に誘われ、老いも若きも踊れる者はこぞって進みでて隣の相手と腕を組んだ。靴の踵で床を鳴らし、女たちはペチコートやドロワーズが見えるほど脚を振り上げる。
笑い声は夜半まで絶えなかった。
歌い疲れて寝床に潜りこむと、たちまち蒼白い夢の中へ迷いこんだ。
意識が肉体から解き放たれた浮遊感。あたりは薄ら明るい靄に包まれていた。
露の溶けた冷たい空気。風に揺れる草の波音。
靄が流れて緑の丘がするすると眼前に広がっていく。巨竜の亡骸のごとき古城が静かに自分を見下ろしていた。
竜の吐息のように風が丘を駆け下りてくる。草の香に紛れて「グリドウィン」と自分の名前をささやく声が聞こえた。
少なくとも生者のものではない、失われた遠い時代からの呼び声だった。
夢の中でも身に着けたままの、くたびれ外套の頭巾を外すと、限りなく黒に近い灰色の髪が風に靡いた。
あらゆる民族の混血であるヨルンの特性が濃く出たのか、グリドウィンはどこの生まれかひと目でわからぬ風貌をしていた。
肌は鞣し革のように浅黒いが、顔立ちはあっさりとして彫りが浅い。細い両目に嵌めこまれた瞳は赤みの強い紫色だった。
三十路に差しかかる齢だが、十代の若造に間違われることもしばしばだ。どちらかといえば大柄で体格のよいほうなのだが。
いや、いまは見てくれについて考えている場合ではない。
無精髭まみれの顎を撫でさすり、グリドウィンは靄に浮かぶ古城を仰いだ。緑の波間に頂きまで続く石畳の道が見え隠れしている。
迷いは浮かばなかった。
グリドウィンはゆったりとした足取りで緑に埋もれかけた道を歩きだした。石畳はひび割れて風化し、隙間から草葉が伸びている。
さぞ立派な舗装路だったに違いない。目視できる限り、馬車がすれ違っても余裕のある道幅だ。
わずかに残る轍のくぼみをたどって古城を目指す。
間近で目にする遺構は広大だった。
まず、石積みの城壁がぐるりと城を取り巻いている。崩れかけた城門をくぐると、苔の天鵞絨に覆われた石造りの廃城が現れた。
細目を見開き、グリドウィンは息を呑んだ。
近づく者がいないせいか、城影は過去の輪郭をほぼ留めていた。
屋根や物見台など高所の破損が激しい。城壁の内側も草が野放図に生え、じっとりとした薄靄が凝っている。
荒れ果てた庭に踏み入ると、耳元でため息のような声がささめいた。
――城の中までおいでなさい。
グリドウィンは瞬き、草を掻き分けて古城の入り口を探した。
薄暗い城の中にはいくさの爪痕が散らばっていた。
打ち壊された扉や調度品の残骸。壁や柱には剣を振りかぶった傷が刻まれている。
グリドウィンが歩を進めるたび埃とも煤ともつかぬ粒子が舞い上がり、崩れた窓枠から射す光に儚くきらめいた。
いくつかの部屋を見て回ったが、古城の主は現れなかった。
やがて上層へと続く螺旋階段にたどり着いた。明かり取りの小窓から仄白い光が落ちて、点々と階を照らしている。
グリドウィンは直感の促すままに螺旋階段を昇りはじめた。
水琴窟の調べのように円筒形の石壁に足音が反響する。
ふと、階を照らす光が途切れた。グリドウィンは城の三階に当たる最上階へと進んだ。
唐突に視界が明るくなった。
大屋根が朽ちて薄陽が降り注いでいた。
まだらな陰影を描く床は雨風に晒され、靴底で踏み締めるとぼろぼろと砂礫に変わった。奥へと向かうグリドウィンの暗灰色の髪に光が滴る。
陽射しの帳をくぐり抜けると、薄闇が戻ってきた。
明暗の落差に辟易するグリドウィンの耳が弦を弾く音色を捉えた。
歌うたいのグリドウィンには聞き覚えがあった。ピアノやオルガンよりも繊細な――これはハープシコードの演奏だ。
広間の先には細長く廊下が伸び、奏者は奥の部屋にいるらしかった。腐敗した床板を踏み抜かないよう慎重に歩を進める。
廊下の突き当りに扉があった。傷んだ様子もなく、金色の把手はグリドウィンを待ち侘びていたかのように輝いている。
ハープシコードの音色は扉のむこうから聞こえてくる。グリドウィンは把手に掌を置いた。
「エセルバートの息子、ヨルンのグリドウィン。只今参上仕りました」
堅苦しい挨拶にさざめくような忍び笑いが返ってきた。朝の森を吹き抜けるそよ風に似た、女性の声だった。
入室を許されたのだと理解し、グリドウィンは扉を開けた。
ふわりと清々しい香気が鼻先をくすぐる。ラージデードと呼ばれる香木に熱を加えると発する独特の芳香だ。
一般に香木といえばラージデードを指す。産地であるウェルルシア女王国や周辺諸国では、古くから貴人が好んで身の回りの香りづけに用いてきた。
滲みるようなまぶしさに両目を眇める。
それほど広さのない部屋の中は、正面の大きな窓からこぼれる光に薄明るく染まっていた。光の紗幕に包まれて、窓辺にだれか佇んでいる。
明るさに目が慣れてくると、瀟洒な調度品のような鍵盤楽器の傍らに立つ人影が浮かび上がった。
すらりと背の高い女性だ。
袖と裾がたっぷりと長い、古風な臙脂色のドレスを纏っている。細かい編み込みを何本も作って結い上げた髪は白銀色の光沢を纏い、まばゆいヴェールとなって首筋から肩へと流れ落ちていた。
ちらちらと光が明滅する女性のかんばせは真白く、ひと目で人間ではないものの血筋であると知れる美しさを漂わせていた。直視しがたい美貌の中で、雪に落ちた一滴の血潮のごとき鮮紅色の双眸だけが脳裏に焼きついた。
グリドウィンは喉を鳴らした。
王国が興る以前、この地を支配していた貴種は天上の楽園を追われた妖精族であった。
妖精術と呼ばれる魔法が盛んに研究されている大陸の西側では、いまなお妖精の血を色濃く継いだ先祖返りがたまに生まれるそうだが、大陸の東側――特に王国があるレーテス海沿岸一帯では、御伽噺の時代の存在と化して久しい。
大陸の西側を旅したときに妖精族の末裔に会ったことがあるが、見た目は普通の人間だった。だから純血の――上古の妖精にまみえたのは、これがはじめてだ。
女性の、銀細工のごとき睫毛がゆっくりと瞬いた。
グリドウィンははたとわれに返った。女性がおかしそうにくすくすと笑う。
『よくぞ来てくれましたね、ヨルンのグリドウィン。わが氏族の梢に生まれし歌鳥の子』
女性の声は煙のごとく朧げで、近くにも遠くにも聞こえる。グリドウィンは戸惑いを取り繕いつつ、胸に手を当てて腰を折った。
「母なるミアの長子、うるわしき不思議の御方。こたびはいかなるご用向きでありましょうか」
『母なるミアの末子、現と夢のあわいを旅する鳥よ。用向きはひとつ、同じ血を持つヨルンのそなたにこそ頼みたい』
鳩の血よりも紅いまなざしがハープシコードへ注がれる。袖口をふちどる房飾りの下から伸びた白い指がそっと鍵盤を撫でた。
『わが身はすでに喪われし昔日の幻。されど、敵に奪われることなく城に残されたこの子の記憶と、そなたに流るる血のえにしによって一夜の夢によみがえることが叶った。この機を逃さず、そなたに託したいものがある』
女性が鍵盤を押すと、澄んだ音が天井まで跳ねた。
グリドウィンは背に負っていたリュートを抱え直した。
「先ほど演奏されていた、妙なる調べでございましょうか?」
『ふふ。楽神の愛児から賛辞を賜るとは、なんとも面映ゆいこと。あれはね、わたくしがこの子と完成させた唯一の曲なのです』
女性はドレスの裾を捌き、ハープシコードの前に置かれた椅子に腰かけた。
『雲の上の都から落ちて地上をさすらい、一族とともにようやくたどり着いたこの地で。〈落月の王〉は都の再建を約束されましたが……輝かしき太陽は再び昇らず昏き闇の時代がはじまってしまった』
この地に流れ着いた妖精族は、失われた妖精郷を再び築こうとしていたとされる。
しかし、〈落月の王〉と呼ばれた最後の盟主が創造主たる天空神に背いて邪神の徒となり、悲願は果たされないまま長い暗黒の世に苦しめられた。
惨憺たる地上の有り様を憂えた天空神は異界より勇者を招き、聖なる剣カレトヴルッフを授けてこの地の救済を使命とした。
のちにリオニア建国戦争と呼ばれるいくさでは、勇者はこの地の土着のヒト族を率いて〈落月の王〉を打ち倒した。ほとんどの妖精族は滅びの運命を受け容れ、〈落月の王〉に殉じる道を選んだ。
ある者は毒の杯を飲み干し、ある者は自ら断罪者の前に首を差しだし、ある者は城を枕にして――
『わが一族は〈落月の王〉へ剣を奉じた武門。たとい暗君になろうと、あのお方は確かにわたくしたちの盟主だった。愛妃を亡くされ、都の再建という重圧と孤独に蝕まれて狂っていった吾が君をお諌めすることもお助けすることもできなかったのなら、せめて奈落の淵までお供仕らんと籠城を決めました』
「御前は、時のご当主の……」
『母に当たります。息子が融和のために迎えた妻は人間であった。碧き純血は失われたが――息子夫婦が子宝に恵まれたおかげで、孫ばかりか曾孫まで抱くことができました』
女性は、喪われた幸福を悼むように瞼を伏せた。
『息子の嫁も、孫たちも、幼い曾孫も。だれひとり城から逃げることを選ばなかった』
「誇り高い最期であったことでしょう」
『まことにそう思うかえ? われらの名も泡沫と消えた世を生きる者よ』
凍てつく月のごとき輝きを帯びた紅玉に射抜かれる。
グリドウィンは肝に力をこめ、飄々と受け答えた。
「涙は露に、骨は砂に。ミアが繰る時と運命の糸車を止める手立ては、妖精もヒトも持ち得ますまい。なればこそ、死の手が眼を閉ざす刹那まで己の生を真摯に見つめ続けた命を、その物語を、名もなき歴史の砂漠に埋もれさせておくにはあまりに惜しい」
吟遊詩人の無骨な手が軽やかにリュートを鳴らす。女性は双眸を見開いた。
「ゆえに、われらヨルンは無名の歴史の砂漠をさすらい、謳われるべき物語の断片を砂礫の中から掘り起こすのです。宝石細工の職人が時間を費やして美しい玉を磨き上げるように、何代もかけて歌い継いで物語を後世に送り届ける。過去を学び、いまを生きる私たちが、未来に生まれいずる子らが、いっとう明るいほうへ歩めるように」
リュートの音色は徐々にある調べをなぞっていく。それは先刻グリドウィンが耳にしたハープシコードの旋律に違いなかった。
人並み外れた聴力と音感、そして記憶を持つヨルンならば、いちど聞いた音楽をそっくり模倣することなど造作もない。
女性が嘆息する。
『いつ見ても、そなたらヨルンの妙技には驚かされる』
グリドウィンは演奏する手を止め、恭しく一礼した。
「始祖アウィス、はじまりの一羽より受け継がれし血が成せる力にございます。ヨルンに生まれし者は、いかなる貴人、咎人の血が混ざろうと、ヨルン以外の何者でもありませぬゆえ。家名も故郷も財産も持たず、旅路に生まれ旅路に果てる渡り鳥――それこそがヨルンの使命。ヨルンの定め。ヨルンの誇り」
静かに燃える暁色のまなざしに、妖精族の奥方は柳眉を下げて苦笑した。
『そうか……そうだな。ヨルンこそ、その身に流るる血の宿命を知る者であったね』
彼女の指摘どおり、グリドウィンの系譜を遡ると大陸の西側から渡ってきた魔女に行き着く。おそらく、女性が属する氏族の血はその魔女が齎したものだ。
ほんの一滴の魔女の血に宿った記憶を、同族たる女性は読み取ったのだろうか。
魔女が愛したヨルンの歌うたいは、焚書によって失われかけた物語を守り抜いて命を落とした。歌うたいの形見となった物語は次代に託され、一言一句損なわれることなく受け継がれた。
――最愛の夫を奪われた魔女が復讐者となり、歌うたいを火刑台へ送った宗教都市を焼き滅ぼしたのは、また別の話だ。
『わが血脈に連なる者が魅せられし吟遊詩人の裔、永久の歌を魂に宿す青き鳥よ。その声で、そなたが生きる世に、遥か遠き明日に、わたくしの歌を届けてはくれまいか。わたくしが愛したものたちの記憶とともに――末永く』
ハープシコードの鍵盤を撫でながら、女性が切に訴える。
グリドウィンは力強く頷いた。
「確かに承りました。ヨルンのグリドウィン、身命を賭して御身の歌と物語を子々孫々に至るまで語り継ぎましょう。太陽が昇り、月が満ち、星ぼしが輝く限り」
女性がほう、と吐息を洩らした。
それは数百年のあいだ古城に澱んでいた悲嘆と怨嗟の闇を溶かすような、あえかな解放の安堵だった。
彼女の背後から射す光が紗の窓帷のように揺れる。しろがねの髪、白珊瑚の膚からきらきらと光の粒が飛び散る。
『ありがとう――グリドウィン』
ラージデートの香りが清かに燻る。
瞬く光のむこう、鳩の血色の瞳がほほ笑んでいる。
その表情が、少年時代に別れた母を思いださせた。
……ヨルンの使命に殉じて火刑台送りになった父を追い、復讐の末に自らも炎の中に消えた母が、まだグリドウィンのやさしい母であったころの。
西方の魔女の血を継ぐ歌うたいは、甘やかな感傷を飲みこんで目を伏せた。
ヨルンのグリドウィンとして、一音たりとも欠かすことなく時に忘れかけられた歌をよみがえらせるために。
明くる日。
グリドウィンはひとり、丘陵の上の古城を訪ねた。
草葉に埋もれたかつての舗装路をたどり、崩れかけた城門をくぐる。
グリドウィンは糸のように細い目を瞠った。
城壁の内側にあったのは、巨大な建造物が倒壊したとおぼしき廃墟だった。
砕けた石や木片などの瓦礫が散乱し、城壁の影に沿って苔の敷布が広がっている。日当たりのいい場所には、城壁の外から入りこんだらしい牧草が生い茂っていた。
原形を留めていた城壁に阻まれて外からは視認できなかったが、城そのものはとうの昔に朽ち果てていたのだ。しばらく立ち竦んでいたグリドウィンは思考を立て直し、夢の痕跡を探し回った。
苔を払っては瓦礫をひっくり返す。じりじりと位置を変える城壁の影の下を歩いていたグリドウィンは、脚を止めた。
瓦礫の隙間から細長い木片が覗いていた。てのひらに収まるほどの長さで、白っぽい塗装が施されている。
間違いない――あのハープシコードの鍵盤の一部だ!
隙間に手を伸ばして木片を引っ張りだす。
汚れて黄ばんだ塗装は、本来は優美な真珠色だったはずだ。艶めく黒褐色の鍵との対比がとても美しかった。
グリドウィンは木片を布で包み、恭しく接吻した。
「あなたの歌はわが血肉となりました。ヨルンの血があなたの物語を、あなたの想いを歌い継ぎましょう。われらは時を渡る記憶の方舟、秘されし歴史と物語の運び手。いつかあなたの想いを受け取る者が現れる日まで――」
布にくるんだ木片を懐にしまい、外套の裾を払って立ち上がる。
赤みの強い紫の瞳を眇め、晴れ上がった空を仰ぐ。
妖精たちの楽園が失われて久しい天上には、変わらず太陽だけが輝いていた。
数年後、レーテス海沿岸部である歌が聞かれるようになる。
やさしくゆったりとした曲調は子守唄のようでありながら、どこか物悲しく郷愁を掻き立てられる。耳慣れぬ異国の言葉で切々と歌われる内容は、過去を惜しみ愛する者へ別れを告げるものだという。
ヨルンの吟遊詩人によって広まった挽歌は、市井から上流階級まで多くの人びとの心を掴み、長らく愛唱されて歴史に残った。
後年、ヨルン伝承文学の研究者らによって歌詞の現代語訳が試みられた。
それにより、歌詞に使われているのは古西方語の起源である妖精族の古語だと判明する。
幻の種族の言語でいかなる流麗な詩が綴られているのか――期待に胸を躍らせる研究者たちは不意打ちを食らった。
解読された歌詞は至って素朴な、まるでうら若き少女が訥々と語るような文体をしていた。それがいっそう曲調を引き立て、翻訳された挽歌を耳にした人びとの心を震わせた。
また、同じ研究によって長らく謎とされていた曲名と作者が判明した。
曲名は『追憶』。作者はアニムェスのヘルグレタ、そして『彼女の友』。
『アニムェス』は妖精族の氏族のひとつ、『ヘルグレタ』は古西方語にも見られる女性名である。作者の片割れはアニムェス族に属するヘルグレタという女性と特定されたものの、『彼女の友』に関して研究者たちは手がかりを掴むことすらできなかった。
御伽話の時代を生きたヘルグレタと『彼女の友』の存在は人びとの空想を駆り立て、挽歌を彩る創作物がいくつも生まれた。
それらの中には、リオニア建国戦争時の世情を丹念に調べた上でヘルグレタやアニムェス族の実像に迫る作品もあった。歴史の敗者である妖精族の再評価を行おうとする機運が高まっていった。
挽歌を広めた功労者であるグリドウィンの足跡は、確かな記録には残っていない。
西方へ渡ったとも、大海のむこうを目指したとも云われている。数多くのヨルンの民が無名の歌うたいとして生涯を終えたように、いずこかの地で次代を儲け、父祖から受け継いだ膨大な記録を託したのであろうと推測できる。
唯一確認できるのは、『追憶』とその派生作品を編纂した文学者の手記である。
筆者によれば、妖精族の末裔が多く暮らす西方のとある町に不思議なハープシコードが残されているという。
所有者である老婦人に由緒を尋ねたところ、以下のような逸話を教えてくれた。
何十年も昔、暗い髪の吟遊詩人が妖精の血を引く職工を訪ねて大陸の東からはるばる旅してきた。
グリドウィンと名乗ったヨルンの吟遊詩人は古びた木片をひとつ差しだした。
――これを鍵盤に使って、ハープシコードを作ってくれないか。
かつてこの町で妖精族の職工が手がけたハープシコードの残骸であり、どうにか同じ楽器を再現できないか試してほしいのだという。
聞いたこともない依頼に理由を尋ねると、グリドウィンは暁色の眸を細めて呟いた。
――もういちど、彼女の友の魂とめぐり会えるように。
縁あってハープシコードの持ち主から歌を託され、旅をしながらあちこちの土地に広めてきた。いつか西まで届いた亡き主の歌をよみがえったハープシコードが奏でられるようにしてやりたいのだと。
グリドウィンの心意気に胸打たれた職工は、持ちうる限りの力を尽くそうと約束した。
木片を職工に託し、グリドウィンは歌を広める旅を再開した。試行と月日を積み重ね、とうとうハープシコードは完成したが――かれがその町を訪れることは二度となかった。
美しいハープシコードは職工の死後、町の名士である商家に買い取られた。
商家の代々の主人はハープシコードの逸話を重んじ、元の持ち主の歌を奏でる日まで家宝として守り伝えてきた。
老婦人の代に至り、ハープシコードの元の持ち主が『追憶』の作者ではないかとわかった。古い時代の資料を調査したところ、妖精郷から落ち延びたアニムェス族が流離の一時この町に留まっていた事実に行き着いた。
アニムェスのヘルグレタが友たるハープシコードとめぐり会った場所こそ、この町に違いなかった。
老婦人はそこまで語ったあと、ぜひ彼女たちの歌を聞いてほしいとハープシコードの演奏を披露してくれた。
曲の題名は『追憶』。大陸の西で出会い、ともに長い年月を流浪し、やがて大陸の東で戦火に引き裂かれたふたりが愛と別れを告げる悲歌である。
だが、ハープシコードの音色には幸福が満ちて――まるで歓喜の歌を謳っているかのようだったそうだ。