穴
ガタンッ
不意の音にハッとして目を覚ます。見れば卓上に置いたポケットラジオが倒れていた。
時刻は夜の0時半過ぎ、外では雨が窓を叩き、ノートの上には手に握られたままのボールペンが不規則な線を描いていた。
『……の為、一部通行止めになっています……』
どうやら寝落ちしてしまったらしい。
目を擦って水をひと口含むと、忽ちやるせなさとも虚無感ともつかぬものに襲われる。
資格試験に向けて勉強するのはいいものの、どうにも集中し切れず途中で寝落ちしてしまう事が増えていた。
若い頃は大丈夫だったのに――とは思うものの、やはり仕事の疲れは大きい。拭い切れない疲労感は容易く睡魔を誘い、気付けば日付が変わって数時間という事も珍しくなかった。
このままではマズいという自覚はある。
かと言って代案がある訳でもない。
夜が朝になり、昼は体に鞭打ち、疲労と共に帰って来てどうにかテキストと向き合うも、瞬く間に再び朝を迎える。
(……どうせ落ちるんだろ)
一度そう思い始めると、モチベーションというのは途端に下がるもので、活字が意味を持って頭に入らなくなってくる。
クソッ、と自分に悪態をついた拍子に、グラスに手が触れ思わず溢してしまう。
サイアクだ。
こんな夜中に掃除をしなければいけないなんて。
そう思いつつ手近にあったティッシュで拭きながら、椅子の下に垂れた水滴を拭っていると――卓の下に見覚えのないものを見つける。
穴だ。
若しくはシミと言った方が正しいのかも知れない。
懐中電灯の裏にひょいっと転がるようにして、それは口を開けていた。
拳程の大きさで、漆黒の闇に塗り潰されたように色調が感じられない。
そこだけ異界と繋がっているような、明らかに尋常じゃない色。
ひとつ被りを振って再度そこに目をやる。
と、シミのような穴のようなものは何処に行ったのか、跡形もなく姿を消していた。
(……疲れているんだろう)
再びテキストに向き合い、ボールペンで書き込みを入れていく。そうして暫くの間ウンウン唸っていると、
『……れでは予報の時間です。明日も全国的に雲が広がり、雨になる所が多いでしょう。土砂崩れが発生しやすくなる他、穴が顔を出すこともあります。充分お気を付け下さい』
ラジオの音声に違和感を覚える。
『穴』が顔を出すとはどういう意味か。
ついぞ天気予報でそんな言葉を聞いた事はない。
足元を見ようとして、ラジオが続けて言うには――
『……万が一『穴』に遭遇した場合は、速やかにその場を離れるようにして下さい。その場を離れられない、又はほぼ直下にある場合は、『穴』を刺激しないよう、出来るだけ無視するようにして下さい。水を好む性質がある為、水場の近くで拾ってきてしまう事もあります。充分お気を付け下さい。それではエンタメ情報のコーナーに……』
……おいおい、それだけかよ――と思わず愚痴を溢しそうになる。
再びアレが姿を現したらどうしろってんだ。
あんな得体の知れないものが足元に口を開けていたら、落ち着かなくてしょうがない。
再度ソロリと下を覗いてみる。やはり穴などどこにも見当たらない。苦笑を漏らしてテキストに戻ると、
◯
目の前に『穴』があった。
ベタ塗りの黒い、空間ごとはつられたソレ。
窓を叩く雨音が一段と強まり、じわりと汗が纏わりつくように滲み出る。
ラジオは何と言っていたか。
すぐ逃げろと言っていなかったか?
いや、目の前にあるくらいだから、刺激しないよう極力無視すべきか?
『……が新発売され、深夜にも関わらず多くの客が『穴』を求めて列を成しました。前日の朝から並んでいたという男性はとても興奮した様子で、早速自分の身体に使うという話です。既に逃げ出した『穴』も幾つか報告されていますが、販売元によると『穴』は製造物ではない為、不測の事態が生じた場合は責任を取りかねるとの事です。暫く経てば自然に還りますが、それまでは別のものに擬態したりなど取り扱いに注意する必要が……』
そこまで言って、不意にラジオの挙動がおかしくなる。
雑音が混じり一瞬音楽が混線したと思うや、いきなり意味を成さない言葉の羅列が流れてきて、最後にはザーッというノイズすら聞こえなくなる。
まるで目の前の穴が音を吸い取ったかのような――
……今、動かなかったか?
思わず腰を浮かしそうになったのを、意志の力で押し止める。
気のせいでなければ、ソレは少しだけこちらに近付いているようだった。これを無視しろとか刺激するなとか、どうやれってんだ。
それでも強いて視線を切って、一度横を向いてから、僅かに視線を戻してみる。
左手の上に、『穴』が、黒く闇のように染み込んで――
叫びを上げ慌てて手を振り払う。
左手は、そのど真ん中をはつられていた。
「……ハッ……ッ、……!!」
不思議と痛みはない。
血が出てくる気配もない。
恐怖心が意識を塗り潰し、何故か興奮がそれを上書きしていく。
自分の手の平に空いた大穴に、右手の指を恐る恐る近付けていく。
間違いなく貫通している。
それなのに、依然として左の指は自由に動かせられた。
息が更に荒くなる。
机の奥側に移動した『穴』はピタリと静止しており――隣にあった筈のポケットラジオが消えて無くなっていた。
あれは異界に繋がっているのか。
それとも触れるとブラックホールのように擦り潰されてしまうのか。
ヒューヒューと呼吸が浅くなるのに従い心拍数が上がる。
これ以上関わってはいけない。
本能がそう告げるが、両の目はなかなかソレから目を離せないでいる。
強いて目を閉じ、深呼吸を繰り返す。
再び目を開くとそこには――
テキストが転がっていた。
左手も元に戻っている。
恐る恐る周囲を振り返ってみるも、何も異常は見当たらない。ラジオも先程までと同じ位置で、普通に流れていた。
冷や汗がどっと噴き出してくる。
今更ながら事の異常さに身体が気付いたかのようだった。
グラスの水をひと息に飲み干すと、ようやく人心地が付く。
あれは一体何だったのか。
やはりラジオで言っていた『穴』なのか。
いや……そもそも『穴』ってなんだ、そんな珍妙なもの売っている訳がないだろう。
思わず笑い出してしまう。
幻覚に幻聴……やはり根を詰め過ぎるのは良くない。
テキストを閉じて顔を洗いに立とうとしてグラスに視線が落ち――
いつ水を注いだ?
次の瞬間、住人の姿は煙のように部屋から消えてなくなった。
――――――――
『…………次のニュースです…………在住の会社員が…………という事件が………………襲われ………………の内一名は軽…………損壊が多数………………は記憶がない…………『穴』の仕業……と意味不明な………………おり、警……精神鑑…………余罪がな……追及して――』
そこでプツリとポケットラジオの音が途切れる。
誰かが電源を切った訳ではない。
山中に放置されたそれは電池切れになったか、雨に曝され壊れてしまったようだった。
やがて黒い影がそれに近付き、ゆっくりとその下に滑り込んでいく。
『黒』の中にラジオが沈む。
ややあってから、黒い影ともシミとも穴ともつかぬソレは、動かないままその内側から音を発し始める。
『……の為の『穴』……記録的売上…………カー希望小売………………との事…………非お買い求めを……………………………………『穴』に入って自由な自分を手に入れましょう!』
時に人は、得体の知れない穴に人生を狂わされる……