人であることをやめた勇者と、他人の死を嗤う悪女
「……引き返すつもりなんて、端からないさ」
口から出た自分の声は、低く、まるで何重にも重ねられた金属が擦れ合うような、気味の悪い音だった。ヘルヴァーナの侵食が進んでいる。肘までを覆ったどす黒い異形の皮膚は、もはや自分の血肉と完全に融け合い、指先を曲げるたびに冷酷な駆動音を立てていた。
目の前の地面には、キマイラ・ロードだった「黒い染み」が広がっている。
三年間、オレの心を抉り、悪夢に現れ続けた仇。そいつを、信じられないほどの呆気なさで蹂躙し、消滅させた。
だが、胸に湧いたのはカタルシスなんかじゃない。ただ、冷え切った泥のような空虚だけだ。どれだけ怨敵の血を啜ろうが、リアラが戻ってくるわけじゃない。オレのこの乾きは、魔王グラビデ・バビロンの首をねじ切るまで、いや、世界にのさばるすべての魔物を絶滅させるまで治まりはしない。
「やりすぎ、か。お前こそ、ずいぶんと嬉しそうに鎖を操っていたじゃないか、リィン」
オレはゆっくりと振り返り、冷徹な視線を背後の少女に投げかけた。
リィン──自分と同じく「呪具」に魅入られた亜人の女。
彼女は、黒く蠢くゲシュペンストの籠手を愛おしそうに撫でながら、ふふ、と喉を鳴らして笑った。その緋色の魔眼は、キマイラの無惨な死を憐れむどころか、極上の見世物でも見たかのように爛々と輝いている。
「あら、心外ね。私はただ、あなたの復讐を『お手伝い』してあげただけ。あんな汚らわしい獣、一瞬でも生かしておく価値なんてないでしょう? ……それに、悲鳴をあげて肉が爆ぜる瞬間って、何回見ても美しいもの」
リィンは小首を傾げ、薄い唇を歪めて妖艶に微笑んだ。
その瞳の奥にあるのは、純粋な狂気と、他者の苦痛に対する底知れない悦楽だ。暴徒たちに囲まれていた時、こいつは弱者を装っていた。だが実際は、自分を虐げようとした人間たちをどう料理してやろうかと、呪具の爪を研いでいたに違いない。
冷酷非道。他人の命を、文字通り「自分の道具」としか思っていない悪女だ。
だが、今のオレにはその狂気すらも都合が良かった。
綺麗事を並べる奴は、オレの隣には立てない。この呪われ、すべてを枯らす鎧の隣に立てるのは、同じように魂を闇に売り払った、こいつのような悪辣な女だけだ。
「……お前の歪んだ趣味に付き合うつもりはない。だが、魔王の元へ行く障害を排除するためなら、その狂気、いくらでも利用させてもらう」
「ええ、大いに利用して。私も、あなたという『最高の玩具』が、どこまでこの呪いに耐えられるか見届けたいもの。……さあ、次はどの獲物を壊しに行きましょうか、勇者様?」
リィンはオレの漆黒の鎧にその細い指先を這わせ、楽しげに囁いた。彼女の籠手から流れ込む暗く冷たい魔力が、ヘルヴァーナのシステムを刺激し、脳内の紫色のゲージを静かに脈動させる。
『警告:パートナーシップ・リンク安定。マスターの精神変容に伴い、出力効率が最適化されます。』
最適化。それは、オレが人間に戻る道をさらに狭め、魔へと近づくことを意味していた。
だが、構わない。
オレは身の丈ほどもある大刀剣を引き抜き、肩に担いだ。一歩踏み出すと、やはり足元の土が黒く死に、不毛の轍を描く。
「北だ。魔王の首を狩るぞ」
「ふふ、喜んでお供するわ。血の這いずる道の果てまで、ね」
光を失った勇者と、愉悦に飢えた悪女。
二人が歩む跡には、ただ黒い死と、絶望の静寂だけが残されていった。




