第八話 第四ピアノ室の謎
第四ピアノ室の謎
五日目の午後、無事に基礎学力試験の二日間を終えた。
部活紹介のあった三日目から高校入試の参考書を見直して、それなりに準備はしたし、大人の記憶と本来の十五歳の記憶が上手く合わさり、俺本人としては十分納得のできるだけの点数は取れていると思う。
特に英語の点数は、間違いなく高得点だろう。
英語圏を中心にした海外出張がそれなりにある会社に勤めていたのが、こんなところで役に立つとは、思わなかった。
入社後の苦労の一端が報われた気分だ。
もちろん、学校英語と実用英語は別物と言うくらいに違うので、そのあたりは、十五歳の俺の知識と十分照らし合わせて答案用紙を埋めていった。
あえて、この二日間で気になったことを上げるなら、秘密ノートの作成と録音作業が、ほとんどできなかったことだろう。
だが、学生の本分は、学ぶことなので、割り切るしかない。
音楽だけじゃ、生きてはいけないんだよ……。
とはいえ、あの作業はこの人生の命綱になりかねないので、日曜日にでもしっかり作業を進めておこう。
さて、ホームルームも終わり、本来なら下校するところなのだが、今の内に見ておきたい場所を一つ思い出したので、ついでに遠回りをしながら、校内を散策している。
おれたちが普段使っている教室棟から特別棟に入る。
どちらも、それなりの名前が付けられているが、この呼び方で理解し合えるため、本来の呼び名を使う者は、ほとんどいない。
特別棟には、茶室として使える和室や、おそらく接客対応を学ぶために作られた応接室など、普段の授業では全く使わない部屋とそれに付随する倉庫がある。
そして、俺の目的地となる場所もここにある。
それは、ピアノ室と言われる個人用の音楽練習室だ。
俺の以前の記憶では、吹奏楽部のパート練習や音楽科のある大学へ進学する生徒のために使われていたはずだ。
使用方法は、ピアノ室のある壁に、スケジュール表があり、そこに使いたい者が予約をする方法で使う。
予約の奪い合いや無理やり予約をねじ込んだという話は聞いたことがないので、それなりに利用者たちは、上手く使っていたのだろうな。
ここへ来たのは、ピアノを弾くために来たわけではない。
このピアノ室は、全部で四室あるのだが、俺の記憶にある限り、第四ピアノ室だけが、常に使用不可になっていた。
俺がこのピアノ室に始めてきた一年次のゴールデンウィーク明けには、使用不可になっていたのを覚えている。
三年次の卒業まで常に使用不可だったので、入学したての今なら、どうなっているのか、何かわかるかもしれないと思ってやってきたのだった。
まずは、スケジュール表を見てみる。
何ということだ!
すでに、使用不可になっているだと……。
ついでなので、他のピアノ室の予約状況を見てみると吹奏楽部のパート練習と三年生のクラスと個人名が書かれてあった。
音楽室は二つしかないが、吹奏楽部が一つを占有して、軽音楽部がもう一つか。
フォークソング部は、以前の記憶では、普通の教室でやっていた。
窓とドアを閉めれば、アコギの音や歌声もそう目立っていなかったのかもしれない。
あまり、積極的に音楽系の部活動に関わっていなかったので、以前の記憶でもあいまいのようだ。
軽音部とフォークソング部は、何か理由があって使っていないのかもしれないな。
防音室になっているピアノ室には、厚いガラス窓がドアに付けられている。
さて、再び第四ピアノ室の記憶を探ってみる。
防犯のために窓が付けられているのだと思うが、遮光カーテンが常にかかっており、ぼんやりとしか室内を見られなかったんだよな。
ピアノの事を想うと、遮光カーテンは当然だが、個室の防犯を考えると、あまり良いとは思えないが、こういう物だと思うしかないか。
ダメもとで、第四ピアノ室のドアにある窓を覗いてみると、遮光カーテンが、開いていた!
どういうことだと、疑問に感じながら、ドア窓から離れて、考え込む。
カーテンを開けたまま、長い時間、放置されていたという可能性は、少ないと思う。
スケジュール通りに、使用者は秩序を持って使うピアノ室なので、カーテンが開いていたなら、誰かが必ず、マスターキーを持っている教員やらに知らせに行くだろう。
ちなみに、おれはまだ第四ピアノ室のドアノブや鍵穴やらには、触っていないので、現在鍵がかかっているかどうかがわからない。
もし、使用者がいたなら、気まずいので、開ける素振りすら、見せていない。
廊下の壁にもたれながら、どうするべきかと考えていると人の気配を感じた。
誰もいない静かな廊下に、僅かでも足音が入るだけで、人の気配とわかってしまうほどに、この特別棟は、用事のある者しかこない。
スケジュール表に一年生の名前はないし、吹奏楽のパート練習は通常授業の後なので、俺のように無意味な散策に来た一年生か教師やらの職員ということになる。
もしかしたら、第四ピアノ室の使用者は、職員という可能性もあるのか。
正体は何者だと、気合を入れて、足跡の方に顔を向けると、そこには、東大路美鈴がいた……。
え、俺の中にある以前の記憶では、美鈴との再会は、もう少し後だったはずだが、ここで遭遇するとは、心の準備が出来ていないぞ。
どうしようと考えているうちに、美鈴は、俺の顔がしっかり見える位置までたどり着いた。
長く艶やかで癖のない綺麗な黒髪、強い意志を感じるまなざし、絹のようにきれいな肌をした美少女がそこにいる。
俺の現在の身長が、一七〇センチメートルだから、それと比べると、美鈴の身長は、一六〇センチメートルと少しといったところか。
ちなみに、俺の身長は、高校時代の間に、もう一段伸びて、ぎりぎり一八〇センチメートルに届く。
美鈴の体型は、グラビアアイドルのような体型ではないが、制服の上から見ても、出るところはそれなりに出ており、全体的にはバランスの良さそうな体型をしているのがわかる。
思わず観察をしてしまったが、そんなことをしている場合じゃない!
どうしたらよいかわからず、とりあえず、思い切り見つめてくるので、見つめ返してみる。
「……、私の事解る?」
これだよこれ!
この発言だけで、その後のかかわりが無くなったんだよ!
はっきり言って、切り捨てるのが早すぎだろう……。
だが、この見つめ合っている時間の間に、答えは用意した。
さあ、言うぞ、言ってやる!
「東大路さんだな。それとも美鈴さんと呼ぼうか。それ以外なら、すーちゃんが良いか?」
どや、ただし、イケメンに限る風なこの言葉。イケメンとは思わないが、不細工ともおもわない俺の顔で、これを言った後の東大路美鈴のリアクションはいかに?
スーちゃんというのは、小学生低学年の頃からの知り合いなので、愛称で呼び合っていた。
美鈴ならミーちゃんと呼ぶのがありがちだが、うちには、美月がいるので、俺だけがスーちゃんと呼んでいた。
美鈴の家族や俺以外の友達からは、ミーちゃんと呼ばれていたようだ。
「あっくん、会いたかったよー。おっきいあっくんだー!」
え?
「あっくんだ、あっくんだ、おっきいあっくんだ!」
跳びかかるように俺に抱き着き『あっくんだ!』と連呼しているこの生き物は何だ?
おっきいあっくん、というのはおそらく、最後に会った時から背が伸びて、それなりに男らしい体つきになったことを言っているのだろう。
「スーちゃん、落ち着こう。俺は逃げないから」
抱き着くのを辞めたかと思ったが、腕にしがみついて来た。
「はい、スーちゃんじゃなくて、スーでお願いします。私は、あっくんをあっくんとしかよばないと今決めました」
もうよくわからないが、逆らわない方がよいと直感がそういうので、大人しく話を合わそう。
「スーと呼べば良いんだな。了解した。ところで、スーはここに何をしに来たんだ?」
「スーちゃんって呼んでくれたのは、あっくんだけだから、あっくんは特別だったの。だから、あっくんを探して、ここに来ました」
もしかして、高校入学の動機を言っている?
「それで、ちゃんとあっくんに会えたら、スーちゃんからスーに呼び方を変えてもらおうと思っていたのです。ちゃんと会えましたので、これからは、スーになりました」
言葉使いも落ち着き始めているように聞こえる。
俺に会えたことで、瞬間的に幼い時の美鈴に戻ったのかもしれないな。
ですますが入るのが、今の美鈴の話し方のようだ。
「スーは、俺に会いたかったってことがよくわかった。俺も会えてうれしい」
「はい、スーは、あっくんに会いたくて、ずっと会える機会を待っていました。本当にうれしいです!」
「会えなくなったのは、俺がクラシックピアノを中学校に入るときに、辞めたから?」
「その通りです。でも、スーは、ちゃんと知っていました。あっくんは、クラシックピアノを弾かなくなったけど、ジャズピアノを弾くことにしたのです。あ、ジャズピアノ聞かせてください!」
美鈴は、しがみついていた俺の腕を引き、第四ピアノ室に入って行く。
第四ピアノ室の主は、お前だったのかよ!
「第四ピアノ室は、スーの専用になっているのか?」
「はい、お祖父さまが、私が入学する時に、張り切ってしまったようで、寄付金を多めに出したそうです。そのお返しに、この部屋は、私の自由にして良いそうです。でも、スーは、この高校に、ピアノを弾きに来たのではないのです。第一は、あっくんと再会すること、第二に、しっかり勉強をして、経営者になるための基礎を固めること、第三は、あっくんに会えたので、もう完了です」
「第一と第三が、同じようだが、第三は、どういう内容なんだ?」
「旦那様探しです。でも、これは、大学時代を通してなので、長めにお祖父さまは見ていたようですが、あっくんなら、問題ありません」
はい、俺に嫁候補が出来ました……。
「おれなら問題がない理由を聞かせてもらえるか?」
「旦那様の条件は、グループに貢献できる人、何かの才能がある人、スーを愛してくれてスーも愛せる人の三つです。あっくんは、全て当てはまっています」
一つ目のグループに貢献できるかどうかは、正直解らないが、スーは何を見てそう言っているのだろう。
二つ目は、音楽の事を示しているのは、わかるが、以前の俺では、無理だったと思うし、今でも半分は博打のようなものだと思っているのが現状だ。
三つめは、まあ、四十歳まで独身だった記憶がある俺としては、恋愛はうまいとは言えないが、それなりの経験もあるし、スーなら何とかなる気がする。
「俺の何を見て、グループに貢献できると思った?」
「スーは、これでもそれなりの御令嬢様なのですよ。少し見れば、いろいろとわかります。あっくんは、あっくんのままだけど、昔と違いすぎます。大きな隠し事がありますよね?」
「その大きな隠し事が、グループに貢献できると言うんだな?」
「はい、個人には大きすぎる決意をあっくんから感じます。まだ、お話はしなくても良いので、その時が来たら、お聞かせください」
本当に何かがわかるようだな。御令嬢様というのは、こんなにすごい生き物だったのか!
「二つ目は音楽の事だと思うが、俺はまだ高校一年だし、何もまだスーに聞かせていないぞ?」
「小学校の頃のあっくんは、お母さまの事を辛く感じているように思いました。でも、今は、吹っ切れているように感じます。単純にスーの知っているあっくんが、本気になったなら、どれだけになるのかを予想しただけです」
スーの言っていることは、多分その通りだと思う。母親の事をすべて受け入れて、その道で本気になったなら、以前の俺でも、それなりのところまで、行けたと俺でも思うのは事実だ。
「三つ目のことで、聞いておきたいことがある。大切なことだから、必ず答えてほしい」
「はい、大丈夫です。スーは、本気で、あっ君をお婿にもらうのですから!」
「もし、おれが、スーのことを忘れていたら、どうするつもりだった?」
スーの瞳に、涙が浮かび始めるが、じっと答を待つ。
「は、はい。スーは、スーじゃなくなって、美鈴として生きます。すっきりさっぱり、スーのことを忘れてしまったあっくんのこともすべて忘れます。多分、孤独になるでしょうが、美鈴は、そういう生き方ができる娘なので、大丈夫なはずです」
「辛い質問をして、ごめんな。現実は、この通りだから、安心して良いんだからな。さっきの答で、気になったんだが、スーと美鈴は、違うのか?」
美鈴にハンカチを手渡す。
「スーは、あっくんのことを、忘れられなかった私です。美鈴は、孤高に生きようとする私です。両方とも私で、人格がどうとか、そういう意味ではないのです。表現が難しいのですが、弱い私と強い私を用意することで、気持ちを切り替えられるのです」
自己啓発の一種に、そういう手法があることは知っている。
あえて感情を切り離した自分を演じることで、オンとオフを切り替えやすくするとか、そんなところだったはずだ。
のめり込みすぎると、別人格が出来上がらなくても、嗜好が、オンとオフで完全にわかれたりするようになるんだったか。
やりすぎ注意な危ない方法だが、効果は危険に見合うだけの物のようだな。
ということは、以前の俺が知っている美鈴は、俺の事を完全に忘れた美鈴で、その後に交流がなかったのも、この自己啓発の手法が原因ということになる。
以前の美鈴と今の美鈴は、別人と考えて付き合った方が良いかもしれない。
俺のことを忘れた以前の美鈴には、申し訳ないことをしていたんだな。
あの一回のやりとりだけで、全てを決めた美鈴にも問題はあると思うが、俺にも責任があることは理解した。
これから、美鈴のことを改めてよく知って行こう。
「スー、気持ちは分かった。急ぐとよくないこともあるから、今は、高校生の俺たちをお互いに、よく知って行こう」
「はい、スーは、今までのあっくんの事も、これからのあっくんの事も、知って行きたいです。あっくんにも、スーのことを、いろいろ知ってほしいです」
「それじゃあ、一曲、弾いて見せようか。俺たちの再会を、これから意味のある物にしような」
第四ピアノ室にあるアップライトピアノを開き、音を確かめる。
美鈴が、すでに調べていたのか、問題どころか調子は良さそうだ。
演奏するのは、今年、千九百九十五年に放送されるロボットなのか、巨大人造人間なのか、よくわからない人型兵器が活躍するアニメ『神巨兵エヴァリオン』の挿入曲に使われた名曲で、月にふわふわと飛び立つように連れて行ってほしくなるような雰囲気が心地よい一曲だ。
一回目のメロディでは、わかりやすいようにスタンダードに弾いていく。
二回目では、コードだけ合わせて、雰囲気を壊さないように丁寧にアドリブを重ねていく。
三回目は、スタンダードを重視しながらも、明るくそれでもしっとりになるようにアレンジをして、弾き終える。
後ろを振り向くと、涙を流している美鈴の姿があった。
「……、どうだった?」
「あっくんで、間違いないと思いました。こんなに好きを感じてしまったら、どうしたらよいのかわからなくなります」
「好きを感じた時は、笑えば良いと思うよ。それだけで、俺もうれしくなる」
「はい、笑顔は良いと思います。好きだから幸せになれます。幸せだから笑顔になれます。あっくん、ありがとう!」
それから、俺が数曲、ジャズのスタンダードナンバーを弾いて、美鈴もクラシックのお気に入りを数曲、弾いて、この日の再会は幕を下ろした。