第五話 明晰夢から現実へ
明晰夢から現実へ
けたたましいアナログベルの音で目が覚める。
ぼんやりとしながら、ベッドの上部に手を伸ばし目覚まし時計を静かにさせる。
慣れ親しんだデジタルの目覚ましの音ではないことに気が付く。
目が急激に覚めて、現状の確認を始める。
体は、高校時代の俺の体だ。
部屋を見渡すと、こちらもやはり高校時代の実家の俺の部屋だ。
カレンダーを見ると一九九五年四月となっている。
ということはだ……、明晰夢は覚めなかったということになる。
これは、明晰夢と言う考えを一旦捨てて、現実の世界と認めたうえで、やり直し人生が始まったと思った方が良さそうだな。
もし明晰夢だとしても、いつ目覚めるかわからないのなら、そう考えていくしかないだろう。
一階に行き、ダイニングで、母親と美月に朝の挨拶を済まし、手早く朝食を頂く。
洗面台で身支度を済ませ、登校の準備も早々に終わらす。
何を急いでいるのかと言えば、確かめておかなければならないことがあるからだ。
俺の基本的な人格は、二〇二〇年の俺だと思っている。
では、一九九五年の俺の人格は、どこへ行ったのか?
昨日から、薄々は気が付いていたが二〇二〇年の俺の人格に統合されてしまったような気がする。
用事が済んでも本棚に並んでいた高校入試の問題集を手に取り、問題を眺めていく。
現代文は、大人の知識もあるので、わかるのは理解できる。
だが、古文や漢文は、大人の知識で理解できるというには苦しいはずなのに、わかるようだ。
他にも、大人の俺では、厳しいが、高校入試では、知っておきたい知識を見ると問題なく理解できる。
これが一九九五年の俺の人格がある証拠だな。
どんな不思議現象の結果こうなったのかわからないが、音楽の呪縛を辛く感じていた俺が、呪縛を祝福に変えられる時代へ精神だけが時間逆行して、一九九五年の俺の体に入り、元々のこの時代の俺の人格と統合したと考えた方が良いだろう。
ということは、俺の今の人格は、二〇二〇年の人格のように感じているが、実際は、高校生の俺の人格の影響も強く受けているということになっている可能性は非常に高い。
だが、元々が両者とも俺なので、違和感をあまり感じていないというところか。
それに、四十年生きた人間と十五年しか生きていない人間を比べたなら、知識や経験が大人の俺の方が大きすぎて、高校生の俺の存在が薄くなり、大人の俺が主導権を持つことになったというのも考えられるな。
試しに、高校生までの俺の記憶を強く思い出そうとすると、鮮明に思い出すことが出来た。
ここまで鮮明に思い出せるのは、二〇二〇年の俺では、記憶があいまいになりすぎていて、無理に感じる。
この一九九五年の記憶があれば、とりあえずの高校生活は、なんとかなりそうだ。
逆に二〇二〇年ごろの記憶や一九九五年から二〇二〇年までの記憶を強く思い出そうとして見ると、こちらも以前より鮮明に思い出すことができるようだ。
この現象は、若い脳に、この先の二五年分の情報が書き込まれた結果、思い出しやすくなったという可能性がありそうだな。
人の脳の使用領域には、まだまだ余裕があるとか、きいたことがあるから、二五年分の記憶が強制的に刻まれたとしても、ダメージは、受けていないと信じておきたい。
その証拠に、おかしな記憶の混濁は、起きていないのだから、問題ないとしておこう。
いつか脳の検査もするべきだと思うが、急ぐ必要もないだろう。
記憶や俺の状況を思考しているうちに、登校時間になったようだ。
自転車の前かごに、カバンを入れて、出発する。
自転車には、自転車登校許可のシールが貼ってある。
入学手続きをしているときに、送られてきたシールで、このシールがある自転車以外は、構内への乗り入れ禁止となっていたんだったな。
のんびり行けば三〇分で高校へ到着するが、雨が降ればもっと遅れる。
レインスーツの準備はできているし、いざとなれば、バスも使えるのだから、何とかやっていたんだった。
問題なく高校に到着し、駐輪場に自転車を置いて、昇降口で靴を変えて、教室に入る。
二日目とはいえ、グループが出来始めているようだ。
将来の親友たちを探すと、上杉は、まだ初めのグループにいるようだな。確か四月中には、あのグループから離れるんだったな。
席が比較的近い大江に話しかける。
「確か大江だったよな。桐山だ。よろしく」
「あ、ああ。大江で合っている。よろしくな。一人でいるのは、苦痛を感じない方なんだが、さすがに高校生活を一人で過ごし続けるのは、いろいろ困りそうだから、話しかけてくれて助かった」
「同じ中学出身のやつは、クラスにいないのか?」
「いないな。桐山はどうだ?」
「俺の方も他のクラスになっているみたいだ。
「そうか。ところで、桐山は、部活に入る予定はあるのか?」
この高校は、部活動は、盛んな方だ。スポーツ特待生もいるくらいだから、全国レベルの部活もある。
音楽の呪縛をどうにかするのを俺個人としての目標とするなら、やはり音楽系の部活にはいるべきだな。
確か、吹奏楽部、軽音楽部、和楽器部、フォークソング部それに直接演奏はしないが、ダンス部と演劇部が、音楽に通じていたな。
吹奏楽部は、全国レベルだから手軽に入って適当にやるのには向いていない。
軽音楽部は、わるくはないが、どの楽器をやるか大いに迷う。それに素人ばかりのバンドに俺が入るのも辛いかもしれない。
和楽器部は、琴に三味線、尺八、和太鼓やらをパート分けしてやるんだったな。和楽器をやるなら母親から教わるほうが良いだろう。
フォークソング部は、なぜ存在するのかよくわからなかったが、アコギで弾き語りをやりたいならここだな。だが、部員のほとんどが素人で、お遊び気分でやるなら丁度良い感じだったか。
ダンス部は、女子ばかりで、男子が孤立していたのをよく覚えているから却下だな。
ここの演劇部は、音響が良いんだよな。確か、音響の様子を見させてもらったことがあり、殆どの演劇の音楽は、音響担当の生徒が、作曲していて、無駄にハイレベルだったんだよな。
「うーん、決めかねているのが本音だな」
「候補はあるのか?」
「軽音部にフォークソング部、、それに演劇部を考えている」
「音楽をやりたい感じなんだな。演劇部も音響があるからな。よさそうだな」
大江の一年次は、俺たちに付き合ってバンドでベースを弾くことになるんだが、二年次では、クラスメイトに強く誘われて文芸部に入るんだったな。
かく言う俺も、二年次では、空手部の友人がクラスメイトにできて、さそわれるままに空手部に入ったんだった。
アクション映画の名シーンを再現しようとか、そんなことばかりやる空手部で、基本的な動きを覚えてからは、たまに真面目なことをしても、ほぼ遊んでいたのをよく覚えている。
「部活紹介を見てから決めるつもりだ。どこかには入るつもりだから、大江もどこか良さそうなところがあったら、教えてほしい」
「ああ、わかった」
それから、時間となり、今日の予定を消化していく。
教科書と補助教材を一通りもらい、中を見ると、記憶が刺激され、高校一年の頃の理解度が、何となくわかってきた。
うーん、留年や極端な悪い成績にはならないだろうが、今のままじゃ、慶大推薦は無理としか言えないな。
以前の俺の記憶をベースにして、底上げをして慶大推薦のラインを超えないと、やり直し人生の意味がなくなる。音楽の呪縛以外にも強敵が現れた気分だ。
せっかく慶徳義塾大学付属の高校にいるんだから、やれることは、積極的にやって行こう。
次は、委員決めか。
以前の俺は、何かを変えたくて学級委員に立候補してしまったんだよな。
今思えば、音楽の呪縛から、どんな形でもよいから逃げ出したかったんだろう。
それなのに、すぐに学外バンドを結成するとは、本当に何を考えていたんだか……。
学級委員の男子は、毒にも薬にもならないという印象の榊原となり、女子は、面倒見が良いことでママというあだ名が付けられる水野が決まった。
水野は、以前の俺が無謀にも学級委員をしていたときの相棒でもあるので、クラスの秩序はある程度守られそうだ。
教科委員というのが、決められていく中で、徹底的に音楽と関わるのならと、音楽委員に俺はなることにした。
以前の記憶にある音楽委員は、そんなに忙しくなかったはずだ。
音楽室に比較的自由に入れるのが特典だったな。
一通りの委員が決まると、残った者たちは、美化委員や図書委員などの人数がいれば助かる委員に振り分けられて行くシステムなのが、ここで明かされる。
これを知らずに最後まで、どこの委員にもならなければ、何もしなくても良いと思うやつが、毎年、ひどい目に合うわけだ。
中川たちは、美化委員に強制的に収容されたようだな。これも以前と一緒だ。
もしかしたら、以前の中川たちは、自分たちが不本意なゴミ拾いをしているのに、生徒会質や会議室で、作業をしている学級委員の俺たちに、的外れなひがみを感じていたのかもしれないな。
だとしたら、音楽委員になった俺へは、そんなに絡んでこないのか。いや、そのうち、あいつは何かやらかすはずだ。
それから、校内見学に出かけ、一通りの施設を眺める。
特に使い方がわからない施設もないので、大江と道中に道連れに捕まえた矢沢と三人で、無駄話をしながら、散歩気分で終わらせた。
矢沢は、基本的に、人懐っこいところがあるので、声さえ掛けたら、あとは何とかなる。
安田を除いた未来の親友で残るは、上杉だけだが、上杉がフリーになるまで、もう少し時間がかかるはずだから、それまでは、クラス内の足場を固めないと中川一味に絡まれたときに面倒になる。
其処だけは注意しておこう。
このころには、実質のスクールカーストというやつが存在していたんだろうな。
スクールカースト上位になるには、目立ったうえで、一目置かれる存在になる必要がある。
以前の俺は、古き良きヤンキー集団の守護者であるところの中川の対抗馬にされるような立ち位置だったから、スクールカーストが低かったわけではないのだとおもう。
だが、とにかく面倒でたまらなかったのはよく覚えているから、関わり合うのは、最低限にしたいと、心から願うばかりだな。
軽音部に入ったなら、そのあたりでは、有利になりそうだ。
俺の記憶にある軽音部の面々は、目立っていた記憶があるから、軽音部の先輩たちや後に入って来る後輩たちと一緒に目立ってしまえば、悪目立ちをしないで済みそうだ。
目立つのは、辛いところだが、高校生で、楽器が上手いというのは、羨望の眼でみられやすいからな、フォークソング部も捨てがたいが、軽音部にしておくべきかもしれないな。
この時代の弾き語りは、地味な印象が強いんだよな。
これがユズキがデビューしてから、空気が変わる。
今はまだ、その時代じゃないから、明日の部活紹介を見て最終判断をしよう。
今日の日程を終え、下校する。
帰りに、この時代で、暮らし続けるなら、いくつか買い物をしておきたい物がある。
ショッピングモールと言うには、心もとないショッピングセンターに入り、必要な物を買っていく。
ノートを教科の分と余分に数冊、マーカーペンは、どうも俺と相性があまり良くなかったので、黒赤青のボールペンを数組、シャープペンやらは、今までので問題ないだろう。
その他にも、いくつか文房具を仕入れる。
次に、ハンガー用の芳香剤とスプレータイプの消臭剤だな。
後は、ヘアワックスだな。髪は入学前に整えられていたが、元がサラサラな髪で、短い坊ちゃん狩りみたいに見えそうで、あまり気に入っていない。
ヘアワックスで、これで無造作にも見えるが、整っている髪型にする。
ついでにこのころは、細い眉毛が流行っていたから、そるつもりはないが、眉毛や顔のケアグッズも購入する。
消毒液も一応買っておこう。
極端に眉毛を細くするつもりはないが、ピンセットで、眉毛や顔の無駄毛を抜くと、後で腫れあがることがあるから、消毒液は必要なんだよな。
男性用ケアグッズがそれなりにあって助かった。
T字の髭剃りも一応買っておくか。
髭が濃くなりやすい体質ではなかったが、必要になった時にないと困るからな。
まだまだ必要な物は、あると思うが、必要と感じたら、すぐに仕入れよう。
ああ、そういえば、アコギの弦も買っておかないといけなかった。
ショッピングセンターには、楽器屋も入っていたので、そこで、アコギの弦だけではなく、テレキャスの弦と数枚のピックと数本のカセットテープも買っておく。
テレキャスの弦は、この先、作曲をするなら、アコギよりもエレキギターの方が、指の持ちが長いので、長時間を引き続けるなら今の俺の指では、エレキギターの方が都合が良い。慣れて行けばアコギでもそう変わらなくなるのだが、それには時間がかかりそうだ。
ピックは、自分用があると単純に助かるという理由で、カセットテープは、二〇二〇年までの覚えている限りの楽曲を録音するためだ。
鼻歌でもよいので、録音しておけば、この先の俺の行動に必ず役に立つはずだ。
このころは、MDもあったが、あまり俺には使い勝手が良いと感じなかったんだよな。
カセットテープは、二〇二〇年でも、ひっそりと使われていたので、信用度はMDよりもはるかに高いと俺は思う。
あとは、ギブソン・レスポールの値段も調べておく。
まあ、ギブソン・レスポールといってもピンキリだから、大体の値段で良いだろう。
本気で買うなら、母親が、薦める店でしか買えないんだよな。
そうして、買い物を終えてから、自宅への帰路についた。