愛子の味噌汁
食卓に並んだ朝ごはん。炊き立てのご飯に納豆、一切れの焼き鮭、新鮮なレタスとプチトマト。そして、具材をたっぷり入れたお味噌汁。私は2人分の食器をテーブルに並べ、たっくんを呼ぶ。眠たげな目をしたたっくんがゆっくりとした足取りでやってきて、いそいそと椅子に腰掛ける。いただきます。手を合わせ、私とたっくんが並んだ食事に箸をつけ始める。
「ねえ、たっくん。私、幸せだよ」
「……どうしたんだよ、急に」
「たっくんも一度会ったことあるから知ってるだろうけどさ、うちのお父さんっていわゆる反社会勢力の人じゃない? 今ではすっかり丸くなったけど、私が子供だったころは家が本当に荒れてて、地獄だったの。だからね、テレビで見るような温かい家庭、例えばこんなふうに向かい合って座って、毎日お嫁さんが作った味噌汁を一緒に飲むっていう生活にあこがれてたの。だからこうやってさ、たっくんと一緒にいられて幸せだよ」
たっくんがそうだなと相槌を打つ。しかし、その同意の言葉を言った瞬間、反射的に私から目を逸らしたのを私は見逃さなかった。
「たっくんのためだから、おいしい料理を作れるし、たっくんのどんなことだって許すよ。例えば、先週の木曜日の夜のこととかさ」
私の言葉にたっくんの表情が一瞬で固まる。私は味噌汁のお椀を持ち上げ、一口だけすすった。
「山崎あいりさんがたっくんの直属の部下だってことも、彼女の方からたっくんを口説いてきたってことも、二ヶ月前に初めて身体の関係を持ったってことも全部知ってるよ。でもね、私は別にそのことを怒ってないよ。たっくんがそういう人だってことは付き合う前から知ってるしさ、それを承知で一緒にいたいって思ったんだもん」
「なんで……なんで知ってるんだ?」
「お父さんの舎弟の人たちってね、昔から私をかわいがってくれてたの。だから、そういう情報があったらまっさきに私に教えてくれる。でも、安心して。お父さんにこのことを言ったりすることはないし、そういう人たちを使って脅したり、暴力を奮ったりすることはないから。それに、途中で他の女性に寄り道しちゃうことも悪いことじゃないと思ってるの。最終的にたっくんが私のもとに帰ってくるって私は知ってるから」
たっくんがテーブルに箸を置く。手は小刻みに震え、顔を俯かせている。
「愛子のそういうところが……そういうところがもう無理なんだよ」
たっくんの絞り出すような声が食卓に虚しく響き渡る。
「始めはよかったよ。寂しい生活を送ってたんだなって同情したし、俺が守ってやんなきゃなって思ってた。愛子の親父がヤクザだってことも、もちろん最初は怖くて怖くて仕方なかったけどさ、それでも自分を奮い立たせて向き合ったさ。だから、こうして同棲を始められた時はすごく嬉しかった。毎日作ってくれる料理も美味しいしさ、本当に親身に尽くしてくれる。でもさ、なんだか愛子とこんなふうに同棲をはじめてから、ずっと息苦しいんだよ。常に愛子から監視されているような感じがしたり、何もない場所で突然愛子の声が聞こえてくるようになったり。夜なんか突然不安な気持ちに襲われて眠れなくなったり。どれもこれもきっとストレスのせいなんだよ。もうたくさんなんだ。別れよう」
「ごめんね。たっくんがそんなふうに私を重荷に思ってたことに気づかなかった。私も悪かったんだね」
しかし、たっくんは私と目を合わせることもなく、ただただ力なく項垂れるだけだった。そして、意を決したように拳を握りしめ、そして、おずおずと顔を上げ、私の目を覗き込む。
「もうたくさんなんだ。出ていかせてくれ」
「うん。わかった」
私の返答にたっくんが一瞬固まる。「止めないのか?」と恐る恐る尋ねてくるたっくん。
「今回の件は私も悪かったもん。それぞれ一人の時間を取って、色々と反省したほうがいいと思うの。その方がさ、これからもっと長い時間を過ごすにあたって、ずっとずっと大事になってくると思うから」
「勘違いしてるかもしれないからもう一度言っておくぞ。出ていくって言って、もう帰ってこないこともありえるんだぞ? 愛子がどう思ってるのかは知らないけどな、正直俺はもう寄りを戻すつもりはこれっぽっちもないぞ」
「ううん。私は知ってるよ。たっくんがまた私のもとに戻ってくれることを」
そうか、おめでたいな。たっくんは吐き捨てるようにそれだけをつぶやくと、飲みかけの味噌汁を乱暴に一飲みし、自分の部屋へと戻っていった。部屋の中から箪笥の引き出しを荒々しく引っ張る音が聞こえてくる。私はその音を聞きながら、食器の片付けを始める。
*****
それから一週間。私はたっくんと同棲していた日々と同じ生活リズムで毎日を過ごした。朝は同じ時間に起きて、二人分のお米を炊いて、二人分のおかずを用意して、それから二人分のお味噌汁を作った。もちろんそれは、たっくんがいつ帰ってきても大丈夫なように。
そして、ひとりの時間で私は色々なことを考えた。いくら面倒見がいい人たちだからって、お父さんの舎弟さんに甘えっぱなしになるのは駄目だよな、とか。たっくんの言い分にも一理あったから、もう少したっくんにもプライベートな時間を取らせてあげないとな、とか。たっくんは私と一生一緒にいる運命にあるのだから、付き合いたての時みたいに浮気を疑ったりするのはできるだけ表に出さない方がいいだろうな、とか。
私は焦げ付かないようにお味噌汁をかき混ぜながら、そんなことを考える。たっくんが戻ってきたら、ちゃんと私から謝ろう。そうすればたっくんも私の不安とかそういうのをきちんとわかってくれるはずだから。お互いの不満とかを言い合うようにすれば、きっとよりよい関係を結び直せるはずだから。
ピンポーン
玄関のチャイムが鳴る。私はその音を聞いた瞬間、たっくんが帰ってきたんだということが直感的に分かった。火を止め、手をタオルで拭き、エプロン姿のままで玄関へ行き、扉を開ける。玄関に立っていたのはやっぱりたっくんで、私の家を出ていったときと全く同じ服装をしていた。出て行った時と違うのは、顔色が青く、瞳孔は開き、そして指先が激しく震えているくらいだった。
「味噌汁を……愛子の味噌汁を飲ませてくれ……」
私はたっくんに肩を貸しながら、優しくお帰りなさいとささやいた。たっくんの身体はブルブルと震えていた。私は身体を支えながら、リビングまで連れていき、いつもの席に座らせる。ちょっとだけ待っててねと私はたっくんの頭を優しく撫でた。
私はキッチンに戻って、たっくんのリクエストしてくれた味噌汁を再び作り始めた。具材を入れ、味噌を溶かし、ゆっくりと味を染み込ませる。それから私はお父さんから特別に分けてもらっている魔法の白い粉を食器棚から取り出した。それをひとつまみ分だけ手で掴み、味噌汁の中へ入れていく。お玉で中身をかき混ぜ、軽く味見をする。少しだけ舌がしびれるような、そんな私の家庭の味。これならきっとたっくんも喜んでくれるはずだった。
私は一人分の味噌汁をもって食卓へ戻る。机の上には突っ伏した状態のたっくんが顔を上げ、私が手に持ったお椀を見る限りろれつの回らない言葉で何かをつぶやく。
「たっくんが家にいない間にね、私も色々反省したんだ。だから、もっとたっくんが好きになってくれるような女性になれるように頑張るね」
「早く……早く……」
「たっくんは私にとっての生きる意味だし、たっくんにとっての私もそうでありたいと思ってるの」
「早ぐっ!!」
たっくんが手をのばす。私はたっくんの震える手にお味噌汁の入ったお椀を渡しながらつぶやいた。
「こんな私だけど、これからもどうかよろしくね」