そして2人は幸せに暮らしました
「う……」
うめき声をもらしながら、ラーウは目を覚ます。知らない天井だった。ぼやけていた視界がクリアになってくると、同時に刺されたことも思い出す。傷口を確認しようと起き上がろうと肘を立てたところで、違和感に気づく。起き上がれない。何かで縛られている訳でもない、肘の力で軽く上体を起こした私は、思わず確認した。自分の、足があるかどうか。
布団の膨らみを見て、足があることを確認出来た。上体を起こしていた肘の力が抜け、柔らかいベッドに身を預ける形になる。血の気が引いていくのが分かった。足の感覚がーーない。なくなったかと疑うほど、動かそうと考えることすら出来ないほど、私の足の感覚は自然に消えていた。
扉が開く音と共に、男が現れた。
「起きた? ラーウの綺麗な体に大きな傷はつけたくなかったけど、仕方ないよね。……ラーウの体は、汚れているんだから。でも大丈夫、僕がちゃんと綺麗にしてあげるよ」
だから、安心して? そう言ってニッコリと優しく微笑む男は、あの日悪魔のように笑った人間とは思えないほど、慈愛に満ち溢れている。それが、たまらなく恐ろしかった。近付いてくる、怖い。体が勝手に震える。でも、心が求める。額に落とされる、優しいあの口付けを。
ーー私は、確かに覚えていた。つらい現実から目を背けたくて、忘れようと必死になっていただけで、頭の隅にしっかりと残っていた。幼い私の髪を梳き、額に口付けを落としてくれた相手を。それは、双子の兄ーーーーウルガだ。
「……ラーウが、悪いんだよ。僕のことを忘れて、1人で幸せになるから、悪いんだ。僕はずっと覚えていたのに、ずっとずっと思い続けていたのに。また2人で一緒に暮らせることを胸に、騎士団に入ってまで頑張ってきたのに。ラーウのこと、憎かったよ。一緒に死んでやろうとも思った。でも、それは違う。僕が望んだものとは、違うんだ」
「ウルガ、あなた、はーー」
ラーウの言葉に、ウルガはパッと嬉しそうに笑う。無邪気な笑顔は、幼い頃に見た優しい兄の顔、そのものだった。瞳の奥に憎悪と狂気を潜め、ベッドに沈んだラーウの髪を優しく梳く。そして、額にそっと口付けを落とした。満面の笑みで、鼻歌でも歌い出しそうなほど上機嫌。
「ラーウ、思い出したんだね! 嬉しいよ、これでようやく2人で幸せになれる。ーーねぇ、僕がラーウの夫を殺した理由、言わなくても分かったでしょう?」
『1人で幸せになるから、悪いんだ』
先ほどの言葉を思い出し、ゾッとする。それだけ? たったそれだけの理由で、関係のないあの人をあんなに惨たらしく殺せるものなの……? ラーウの顔が青ざめていく。翡翠色の瞳には憎しみが燃え、恍惚とした表情で髪を少しすくい上げ、愛おしそうに頬にすり寄せる。
異常者の姿に、酷い吐き気と嫌悪感に襲われる。全ての元凶を目の前にして、大人しく寝ていられるほど、今のラーウは穏やかじゃなかった。壊れ物でも扱うようにそっと髪をすくい取った手を乱暴に払い除け、夫であるジーネストを殺された憎しみをぶつけるように叫ぶ。
「殺してやる! 私はお前を絶対に許さない、殺してやる! 殺してやる!」
「……あ、はは。ははは! やっとだよ、やっとだ……! アレだけに向けられていたラーウの瞳、全部僕のもの。憎しみでもいい、殺意でもいい、ラーウの瞳に僕が映るなら、どんな感情でもいいよ。アレを処理するのは大変だったなぁ、僕がラーウの双子の兄って聞いてからの動きはとても鈍かったよ? おかげで、ラーウの瞳に映っていた、ラーウの耳に残っていた、全てを壊すことが出来たなぁ」
ケタケタ笑い狂う様に、血が沸騰するような感覚になる。飛びかかって、今すぐこの手で殺してやりたい。ジーネストのことを人として扱わない呼び方も、ジーネストの、私の全てを奪った男を、許せない。だけど、ウルガはそれを望んでいる。自分だけに向けられる憎しみ、殺意、嫌悪、全てに幸せを感じている。
ーー私が、巻き込んだ。心から愛した人を、私が殺したようなものだ。優しかった兄に何があったのか、知らないし知りたくもない。それでも、額に落とされる優しい口付けは何一つ変わっていなくて、壊れた心は変わってしまった。
ラーウの涙が、目尻を伝って枕に染み込む。怒りや悲しみ、憎しみや殺意、様々な感情が胸の中を埋めつくして、声をこらして泣く。何度手の甲で拭っても、涙は止まることなく溢れ続ける。優しいウルガ。優しいジーネスト。2人の人生を、壊してしまった後悔に押し潰されそうになる。
ウルガはそんなラーウを愛おしそうに見つめ、緩やかに唇を三日月の形に歪める。そして、そのままラーウに覆いかぶさる。泣きじゃくる大切で殺したいほど憎い妹の額に、優しく口付けを落とす。それだけで、ピタリと泣き止む。ここだけは、変わっていないなぁ、泣きそうな顔でウルガは笑う。
「ラーウ、僕だけのラーウ。可愛いね、殺したいぐらい憎いなぁ。汚れたラーウの体、僕が今から綺麗にしてあげる」
ラーウにかけられていた布団を剥ぎ取ると、感覚のなくなった足先に口付けを落とす。足首、足の甲、ふくらはぎから太もも、際どい部分は避けて服をたくしあげる。腹をそっと撫でる手つきに、自然と体が震える。口付けは、足の先から頭の先まで、優しく落とされていく。抵抗することなど、考えられなかった。
あれほど憎しみを抱いていた相手。私に向けられた憎悪と愛情は異常で、それが恐ろしくて逃げ出したいのに、体は言うことを聞いてくれない。優しい口付けは、まるで幼い頃の、何も変わらない兄を彷彿とさせ切なくなる。
「……やめっ、いや!」
先ほどは避けていた際どい部分に顔が近づいたことに抵抗する声を出すけれど、動かない足はそれを阻むことなどできなかった。恐怖と嫌悪から、再び泣き出すラーウを見て満足そうにウルガは行為を続ける。涙を流し、いっそ死んでやろうと舌を噛んだけれどすぐに気づかれ、タオルを噛まされた。死ぬことさえも許されない状態で、ラーウは途切れ途切れの意識の中、何日経ったのかも分からないほど血の繋がった双子の兄、ウルガに抱かれ続けた。
囁かれる言葉は、とろけるほど甘いものもあれば、背筋が冷えるような恐ろしい言葉もあった。中でもラーウを一番苦しめたのは、ウルガがジーネストをどうやって殺していったか、こと細かく愛を囁くように語ったこと。心と体の相反する反応を楽しむように、笑う姿を見て悪魔以外の何者にも見えなかった。
「ここが、ラーウと僕の居場所だよ。ようやく2人で暮らせるね、幸せだなぁ。ああ、ラーウは歩けないね、僕が全部お世話するから、安心して? そうだ、ラーウの大好きな翡翠色の花が咲く時だけ、一年に一度外に出してあげる。特別だよ」
いつの間にか手に持っていた足枷を、感覚のなくなった足首に付けた。鎖の先は、壁に繋がっている。どう足掻いても、足の動かない私が逃げられるはずなど、ないというのに。私を映す、ギラついたその瞳が語っていた。ーーもう、逃がさない。
カチャリ、足枷の鍵をかける音が、やけに耳にこびりついて離れなかった。
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小さな村に、ひと組の夫婦がおりました。妻は足が悪く、歩けませんでした。夫はそんな妻を、献身的に支えました。しかし、夫の姿を見た者はいても、妻の姿を見た者はほとんどおりません。妻は家にこもりっきりなのです。年に一度だけ、危うい美しさを持った女性を横抱きにして、幸せそうに女性の額に口付けを落とす男の姿を見て、村人は「ああ、あの人が妻か」と認識する程度。抱き上げられた女性の両足はだらりと力なく垂れ下がり、歩けない足だとすぐに分かります。夫は、妻の瞳と同じ、翡翠色の花畑にやって来るのです。夫婦は小さな赤い屋根の家で、つつましく暮らしました。年老いて、互いが死を迎える時まで、ずっと、ずっと暮らし続けました。
これにておしまいです。
お付き合い頂き、ありがとうございました。