終わりの始まりは始まり
あるところに、美しい娘がおりました。娘は孤児でしたが、教会で優しい神父やシスターに育てられ、心根の優しい年頃の娘に育ちました。やがて美しい娘は同じ教会で育ちながらも、血のにじむ様な鍛錬を続け、逞しく国を守る騎士へと育った男にプロポーズされ、数年後、2人は結婚しました。2人が育った教会で、ささやかながらも結婚式を挙げました。やがて娘は年齢相応の、落ち着いた雰囲気のある美しい女性になりました。幸せな結婚生活でした。雪のチラつく冬の夜に、隣の街へ出掛けていた夫の死を知るまでは。
ーーあの人が死んだなんて、嘘だわ。
ラーウは、落ち着かない様子でウロウロと部屋の中を歩き回る。苛ついた時に出る、爪を噛む癖で既に綺麗な指先はボロボロで、所々血が滲んでいる。構わず、爪を噛み続ける。痛みなど、麻痺してしまったようで、ひたすら指先を歯で痛めつける。爪を噛む癖は、同じ教会で育ち、幼なじみとしてそばに居た騎士の夫に治されたはずだった。しかし、夫が居ない今、ラーウは信じ難い現実から逃げるように血が滲む指先を噛む。
苛立たちまぎれに、とうとう頭をかきむしる。長く伸びた、ウエーブのかかったプラチナブロンドの髪を掴み、膝をついてそのまま床にうずくまる。夫は、とても強い騎士だ。誇り高く、それでいて優しい人だ。とは言え、騎士として敵に情けをかけたことなどない。同じ剣を持つ者同士、情けをかけることは相手にとても失礼なことだと思うような、優しくも騎士道に生きる人。
亡骸はとても酷い様で、見ない方がいいと言われた。けれど、ラーウは夫の亡骸をこの目でしっかりと見た。素朴だけど優しく笑う顔は見る影もなくぐちゃぐちゃに潰され、逞しく鍛えられた四肢は切り落とされ、笑うと細くなる目玉をくり抜かれ、鼻と耳が削ぎ落とされ、穏やかな言葉を紡ぐ喉は潰れていた。
不思議と、夫の無残な亡骸を見ても涙は出てこなかった。葬式を終えた今も、実感など湧くはずもない。あるのは、苛立ちと焦燥感。落ち着かず部屋の中をウロウロしていたラーウは、何かに駆り立てられるように家を飛び出した。
外は雨が降っていた。服や髪の毛を濡らしていく雨に、荒れ狂った心が落ち着いていくのを感じる。放心状態で静かに雨に打たれ、涙が雫と一緒に頬を伝う。夫が死んだと告げられてから、一ヶ月経ちーーようやくラーウの心は、あの優しくてとても強い夫が死んだのだと、受け止めた。
夫は、隣街から帰る途中、何者かに襲われたらしい。賊の仕業にしてはあまりに惨い殺し方だったから、考えにくい。何より、夫の身に付けていたものは、ラーウとお揃いの薬指にはまった指輪以外、盗られていなかったと聞く。あの惨たらしい亡骸と、夫が常に腰から下げていた剣が粉々に砕かれていたことを考えると、恨みからくる殺しと考えた方が妥当だ。しかし、夫は紳士的且つ穏やかな性格。恨みを買うとはとても思えない。出世を妬む者の仕業にしては、あまりにも酷すぎる。
ラーウは考えを巡らせる。夫が死んだと告げられたあの日から、止まっていた時間が動き出すように、ラーウの心を占めたのは夫を惨殺した犯人に対する、燃え上がるような復讐心。様々な可能性を考え、何をしても、手段を問わず、必ず愛する夫の敵を討つとーーーー心に強く刻んだ。
「風邪を、引きますよ」
不意に差し出された傘に、驚いて目を見開く。横に並ぶように立っていたのは、ラーウと同じ歳ほどに見える、一人の男性。サラリとした黒髪に、黒の瞳。安心させるように微笑んでいるが、その瞳の奥に潜む静かな怒りともとれるようなものを感じ取り、思わず後ずさる。男は自分が濡れることも気にせず、後退りをしたラーウの体の上に傘を向ける。
ーーこの男は、一体何なんだろう。どこかわたしと似ているような顔立ち。そして、瞳の奥に宿る怒りのような、憎しみのような静かな感情。……いいえ、きっと気のせいね。さっきまで夫の敵を討つなんて考えていたから、そう見えてしまうだけ。
今更のように、麻痺していた寒さが来て、ぶるりと体を震わせる。そう言えば、今は冬だった。冬の雨に打たれ続けるなんて、確かに風を引くためにやってるとしか見えないだろう。だから、この人は親切に傘を向けてくれたのだ。ラーウはぎこちなく微笑む。
「ありがとう、ございます。少し……頭を冷やしたくて」
「頭を冷やすには、冷たすぎると思いますよ? 私の家が近くにあります。良かったら、上がりませんか? 真っ青な顔をしていらっしゃる」
男に言われ、ふとここはどこだろうと考える。がむしゃらに走って来たから、自分が立ち尽くしていた場所さえ分からずにいた。辺りを見渡して、はっとする。ここはーー夫に、プロポーズされた花畑。冬に咲く、珍しい花だった。ラーウの瞳と同じ、美しい翡翠色の花を咲かせるのだ。一面に咲き誇る花畑はとても美しく、その場で指輪を渡された時は、あまりの感動に嬉し涙がこぼれ落ちた。
毎年、夫とこの花畑に来ては、他愛のない話をして並んで歩いていた。絡ませたあの手の温もりさえ、今はもうないのだ。喪失感と、滾る憎しみ。ラーウはそれらの感情を全て押し殺し、男に向けてゆっくりと首を横に振る。どうせ自分はびしょ濡れだからと、差し出された傘を押し返しながら。
「遠慮します。わたしには夫がいますから」
「ーーもう、死んでいるのに?」
男の、明らかに挑発と取れる言葉に、雨の音に紛れ乾いた音が響く。ラーウは、手のひらがじんじんと痛むのも構わず、目の前に男を睨みつける。唇の端に血を滲ませ、男はゆっくりと笑う。その笑みは、まるで悪魔だ。ゾクリと背筋が冷えた。それでも、構わずラーウは続ける。
「あなたはまるで悪魔だわ! 夫の死を嗤うなんて、最低よ! あの人がどれだけの無念を抱えて死んだか、知らないのに……!」
「……知っていますよ。何故だか、分かりますか?」
ラーウには、男の言っている意味がわからなかった。この男は一体何なんだ。なんの目的があって、夫の死を侮辱している? 何故? この男が夫の無念を? そんなの、知るはずもーーーー。ひとつの可能性が、頭に浮上する。その瞳に憎悪を燃やし、男に尋ねる。
「ーー私の夫、ジーネストを殺したのは、あなた?」
大正解、とでも言わんばかりに男はニッコリと微笑んだ。頭に血がのぼり、カッとなって男の胸ぐらに掴みかかる。華奢なラーウが掴みかかった程度では、ビクともしない男の身体が、憎くてたまらない。わたしは、どうして短剣を持ってこなかった……!? 愛する夫を惨殺した相手が、目の前で悠然と笑っているというのに。
今、この男をどうにかする術をわたしは持たない。なぜこの男が夫を狙ったのか、あんな惨い殺し方をしたのか、体は沸騰するほど熱く、憎しみは燃え滾っているというのに。掴みかかったラーウは、結局男の服から力なく手を離した。しかし、その瞳に宿る憎しみが消えた訳では無い。むしろ、敵を討つ相手が見つかって、こうして目の前に現れた事に喜びを覚えていた。
口角を吊り上げ、歪に笑うラーウは確かに男をその瞳に映し、憎しみをぶつける。
「あなたを、必ず殺すわ」
「ええ、待っています。捕まえたら、貴方の夫を殺した理由を教えて差し上げましょう。追いかけて下さい。ーーーー僕が、君を追いかけたように」
最後、男が何と呟いたのか、雨の音にかき消されて聞こえなかった。どうでもよかった。今はあの男を、どうやって殺そうかーーそれだけがラーウの頭を占めていた。雨の中、ふらふらと家へ戻っていくラーウの背中を見つめながら、男は笑う。その瞳には憎しみ、怒り、そして……狂喜が宿っていた。
「ようやく会えた、ラーウ。僕の、僕だけの家族」