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引籠り  作者: すもも
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引籠り

 私が引き籠ってから何年が経っただろう。五年? 一〇年? 二〇年? いや、二〇年なんて、そんなにはならない。

いくら何でも。

 一〇年だ。高校受験に失敗してからずっとだから、ちょうど一〇年。

(充分すごいか)

 一〇年間ずっと引籠り。その間、誰とも顔を合わせていない。誰とも喋っていないし、声も出していない。

もう、私の喉は声をどうやって出すのか、忘れてしまった。

(機能していないのかもしれないな)

 独り言さえ呟かない。何も発しない。もう十年も。すごいことだ。外の清々しい空気を吸っていない。太陽に睛を細めることもない。薄いカーテン越しに光を眺めるだけだ。

 ずっと部屋の中にいる。トイレに行く時は部屋の外に誰もいないのを見計らってからだ。誰にも見つからないように、そっと部屋を抜け出し、すぐにまた自分の部屋へ戻る。誰とも会いたくない。もう母親の顔も忘れてしまった。最後に見たのは高校受験に失敗した私を見つめる、泣きそうな顔だ。苦しく歪んだ顔。いまにも泣きそうな、何か叫び出しそうな、でも何も(こぼ)れない。涙も声も。哀しみに歪んだ顔。私はその顔を見て、部屋に閉じ籠った。以来、母親とは顔を合わせていない。

お風呂には、母親が仕事で家にいない時間帯を狙って、素早く入る。引き籠っていても一応、清潔好きだ。部屋の掃除もする。でも、窓は開けない。空気清浄機が大活躍だ。布団は干さない。布団乾燥機を使う。あれはすごい。それらのものはすべてネットで購入した。

 私の生活のすべてはパソコンと共にある。一日中、ネットを見ている。購入したものは母親が私の部屋の前まで届けてくれる。気配が消えたら、素早く扉を開け、荷物を部屋へ入れる。食事も母親が部屋の前へ置いておいてくれる。

 うっすらと明るい自分の部屋。薄いカーテンはいつでも閉まっている。ベッドと机とパソコンと。テレビもなくラジオもない。音楽は聴かず、声も出さない。静寂。何もない。空気清浄機のしゅるしゅるいう微かな音だけだ。それから、時折、階下(した)で聴こえるカタンという音。母親も息を潜めて生きている。

 最初は私を部屋から出そうとしていた母親もいつの頃からか諦め、私が引き籠るのを許してしまった。

 高校受験の失敗は私にとって耐え難いことだった。母親にとってもそうだっただろう。頑張っても成果が表れないことなんていくらでもある。努力が報われないことなんて誰にだってあることなのだろう。それでも、私には耐えられなかった。もう一歩だって動けなかった。母親が扉の向こうでどんなに宥めても、叱っても、泣いても、私は扉を開けることが出来なった。母親は私と同じように辛かっただろう。あの泣きそうな顔。見れば分かる。母親の気持ち。

 お母さんがあんなに哀しい顔をしているのは、私が哀しんでいるからだ。私の努力を知っているからだ。まるで自分のことのように。自分のこと以上に哀しんでいる。

 母親を悲しませているのは自分だ。

 居たたまれなくなり、私は部屋へ閉じ籠る。本当にそのまま引き籠るつもりなんてなかったのかもしれない。いつか出てくると私も母親も思っていたのだろう。

 でも、私は一歩も動けなかった。

 母親は自分も落ち込んでいるだろうに、奮い立って、私を慰めようとした。何度も何度も扉を叩いた。高校受験なんて大したことじゃない。そんなものに失敗したからってあなたの価値がなくなるわけじゃない、と何度も何度も云ってくれた。時には叱り、励まし、毎日毎日、扉を叩いた。

 それが、次第に弱々しくなってゆく。

 私には父親がいない。兄弟もいない。祖父母も他界していた。母親はひとりで私を育て、疲れ果てていた。祖父母の遺産のお蔭で、お金にはあまり困っていなかったようだが、精神的にはかなりまいっていたのだろう。ついに私の引籠りを許し、扉は叩かなくなった。母親は私のために外に出た。仕事をし、家にいない時間を作って、その間私が自由に部屋を出られるようにしてくれた。そのまま家の外まで出られるようになるのではないかと期待したのだろう。徐々に行動範囲が広くなって、顔を合わせてくれる日が来るのではないかと微かな希望を持ったのだ。けれど、私はトイレとお風呂以外は部屋の外には出なかった。誰もいないのを見計らって、素早く済ませ、部屋に戻ってネットの世界に入り浸る。薄明るい部屋で一日中。カーテンはいつも閉めたままだ。遮光カーテンではないので、閉めていても光は射す。夜も昼もそのまま。雨の日も晴れの日も。私の部屋は一日薄ぼんやりしている。静かでゆっくりと時間が流れる。まるで海底にいるようだ。深い深い奥底に沈んでいるようだ。カーテンの隙間から射す光は遥か海面から零れて来る陽光のようだ。くるくる、くるくると水の泡は光る。

 静か。静かだ。

 部屋の中でうずくまりネットをする姿は傍から見るとどんな風なんだろう。パソコンの光が顔を照らして、薄明るい部屋へ浮かび上がる。それは幽霊と変わらないのかもしれないな。ネットは楽しい。色々なことを調べる。色々な掲示板やルームを覗き、色々な人の意見を眺める。私は参加せず、ただ眺める。面白い。世の中には色んな人がいるんだな。くだらないことを調べる。一つのキィワードからどんどんズレて、仕舞には最初とかけ離れたとんでもないことを調べていたりする。知識は豊富になった。実際には全く経験していないけれど頭だけはでっかちになった。高校は行っていないけれど、高校生活がどんなものかは知っている。大学も行ってないし、働いてもいない。けれど、知識だけは豊富だ。社会の闇も嘘も見栄もすべて調べた。ネットにはすべて載っている。その中には嘘もあるだろう。けれど、私には関係ない。その世界が嘘だろうがフィクションだろうが、外に出ない私にはどうでもいいことだ。私はただ眺めて、嘘の世界を楽しんでいるのだ。

 私の部屋には時計がない。カレンダーも。時間がただゆるゆると流れてゆく。

 海底はとても静かで、何物にも邪魔されない。

 カタン、カタンとしていた階下の物音も今ではもうしなくなった。

「何処に行こうがあなたはあなたなんだよ」

 母親はそう云った。

 私は私。何処に行ってもそれは変わらないと。私は私でいいんだと。私を責めず、私を最後まで肯定してくれた。私の価値を認めてくれた。こんな私を。どんな私でも大切に想ってくれていた。

 例えば私が罪を犯しても、叱りながらも許してくれるのだろう。泣きながらも私を抱きしめてくれるのだろう。母親が泣くのはすべて私のことを想うからなのだ。

「きっとあなたは大丈夫」

 私を元気づける。

 そんな母親も一年前に死んでしまった。私を心配したまま。私の笑顔を見ることもなく、逝ってしまった。

 最後、母親がどんな顔をしていたのか分からない。母親の死因が何なのかも知らない。私は葬式にも出ていないし、誰とも会っていない。相変わらず部屋へ閉じ籠ったまま、静かになった階下を遠くで感じているだけだ。

 母親は自分が死ぬことを知っていたのだろう。私がひとりになっても大丈夫なようにすべて準備してくれていた。もしかしたら、自殺だったのだろうか。分からない。それとも病気で余命が分かっていたのだろうか。

 名義変更や遺産など、すべての手続きが済んでいた。弁護士という人が来て、扉越しに説明した。一式を扉の前において、彼は玄関を出てゆく。私は二階の窓からそれを確かめ、階下に降りて鍵をかける。

 ひとりだ。

 本当にひとりきり。

 部屋へ閉じ籠る。涙も出ない。あんなに私を心配し想ってくれていた母親を亡くしたというのに。私はこんなに冷徹な人間だったのだろうか。最後くらい顔を見てあげても良かったのかもしれない。病気ならお見舞いに行って、手を握ってあげても良かったのかもしれない。

(私はいつの間にかこんなに冷たい人間になり果てていたんだな)

 最早、もう人間ですらないのかもしれない。機械なのだ。血も通わない機械(ロボット)。ネットばかり見るうちに、私もその一部になってしまったのかもしれないな。

 私は薄いカーテンの引かれた部屋でひとり体育座りをして、じっと動かずにいる。母親が死んで、しばらくそうしていた。扉の前に置かれていた食事はもう待っていても来ることはない。当たり前だ。いままでずっと甘えてきた。当然のことのようにそれを甘受し続けてきた。

 生きるためにはとりあえず何か食べなくてはいけない。私は初めてそれに気づいたように、ようやく腰を上げる。冷蔵庫の中を見る。賞味期限の切れかけた野菜ジュースや牛乳がある。冷凍庫には母親が作ったカレーやシチュー、そしてハンバーグやつくねまである。私がしばらく食べていけるように準備して冷凍保存してくれていたのだ。野菜室には何もない。すぐ腐るからだろう。冷蔵庫には比較的、賞味期限の長いものだけが置いてある。ハムやベーコンに、チーズとヨーグルト。プリン、ゼリー。ヤクルトもある。

(あ、でもヤクルトは昨日で賞味期限が切れてる)

 もっと早く気づいてあげれば良かった。母親の想いにも。母親の苦労や、死んでしまうまでの間のその気持ちにも。

 母親は私がいつか立ち直ると信じていた。それを待つことなく死んでしまったけれど、それなのに私はこうやって、いまだに引き籠り続けている。

 確かに母親が死んでからの一年間はそれまでとは違っていた。色々やらなければならないことが出てくる。いかに引き籠り続けたままそれらをするか。いかに外に出ずに用事を済ますか。

それが私の課題となった。

まず心配だったのがネットで購入した荷物の受け取りだった。でも、それはすぐに解決した。宅急便の荷物は玄関扉の脇にあるボックスに入れておくようになっていた。母親がそのように手配してくれていたのだ。おかげで外に出なくて済むし、配達員とも顔を合わせなくて済む。

 すべてが用意周到だ。

それは母親の優しさなのか過ちなのか。

(もしかしたら、私が外に出ることをもう諦めていたのかな)

 一%の期待は、時折、絶望よりも残酷だ。母親はとうとう一%の期待を諦め、(ゼロ)にして、死んでいったのだ。

 私は母親にいまだに甘えているのだろう。食料品も日用品もすべてネットで購入し、ボックスに届けてもらい、引籠りを続けている。いまは何でも届く。野菜も水もトイレットペーパーも。ネットはなんて便利なんだろう。引籠りのためにあるようなものだ。

(お母さんも甘いけど、世の中も甘いんだな……)

 遺産があるから働かなくても生きていけるのもいけない。すべては私を引籠りにするために動いているようだ。そういう流れになっているのかな。いつか私はその流れから逃れられるのかな。もがいてもがいて、這い上がっていけるのかな。

 太陽が昇って沈んで、何度も何度もそれを繰り返す。カーテン越しに射す光と夜の瞬きが交互にやって来る。私は部屋の中でそれを眺め、ネットをし続ける。喉が渇けば水を飲み、お腹が空けばご飯を食べる。部屋に小型冷蔵庫を買い、その中にネットで購入した食料品を詰め込む。極力、部屋から出ずに済ます。主に部屋を出るのは、トイレとお風呂と荷物をボックスから取って来る時だ。それから、ゴミ出し。これが一番厄介だ。

 生活をしていると色々とゴミが出てくる。それまではずっと母親がまとめて、ゴミの日に出していてくれた。引き籠り、最低限の生活をしていても、やっぱりゴミは出てくる。

 ペットボトルやプリンなどのカップ、レトルトの箱や、パックのご飯の入れ物。ティッシュや、紙くず、ビニール、などなど。料理はしないので、生ゴミは出ない。ご飯も炊かないし、肉も魚も焼かない。もちろん野菜も切らない。匂いの出るものはレトルトのカレーの残りかすや、プリンやヨーグルトのカップに付いた汚れだ。匂うものはほとんどないから、ゴミを大きな袋に詰め込み、しばらくベランダに置いておいた。十袋溜まったところで、これはまずいと思い、対策を練った。

(このままではゴミ屋敷になってしまう)

 ゴミを出すには外に出なければならない。宅急便のように、家の前にボックスがあるわけではない。ゴミ出し場は知っている。家を出て何軒か歩いた先の道路の角だ。ゴミを出すための、それこそ大きなボックスがある。その中に入れる。確か月曜日と木曜日が燃えるゴミの日だ。基本、朝にしか出してはいけない。でも、ボックスには蓋があるから、夜に出しても分からないだろう。

 ゴミ袋が二十袋溜まったところでようやく私は決心し、夜中にゴミを出しに行くことにした。夜中の二時だ。私は覚悟を決めて、玄関の扉を開ける。誰もいないのを確認し、素早く外に出る。心臓がこれでもかというくらいドキドキと鳴っていたのをいまでも覚えている。思い出すだけでも動悸がするくらいだ。

 私はゴミ袋をとりあえず二つだけ持って、夜の世界に飛び出した。

(いまならみんな寝ているはず。誰もいないはず)

 私は心の中で繰り返し、ゴミ置き場へ向かって一目散に走る。速い速い。私はこんなに駆けっこが得意だっただろうか。こんなに走るのは久しぶりだ。最早、緊張でドキドキしているのか、走ってドキドキしているのか分からない。息を切らし、収集ボックスの蓋を開ける。一つだけ誰かが出したようだ。ポツンと隅に置いてある。私はその隣に二つ置き、音を立てないように素早く蓋を閉めると、一目散に逃げ帰った。

 玄関の中に入り、何度も何度も息を吸っては吐く。

(やった……!)

 かなり高揚したのか、顔が火照っている。何かすごいことを成し遂げたかのように、私は満足していた。やり切った感が半端なく、思わず私は笑みを洩らした。

(笑うなんて何年ぶりだろう)

(こんなに高揚するのも)

 何だ、この心臓の高鳴りは。

 私は激しく息をし、ようやく落ち着いてくると、キッチンで水を飲み、二階の自分の部屋へ戻っていった。

 部屋へ入ると、またいつもの空間だ。一瞬のうちに、すべてが戻ってゆく。先程の興奮がまるで夢のように、私はまた元通り、うずくまる。毛布をかぶって、パソコンを開き、外の世界について調べ始める。

 でも、微かな心臓の音が奥底で高鳴っていた。この時、私の中で何かが動き始めたのだろうか。微かな光。待ちに待った光。いいや、まだまだだ。

 私は首を横に振り、パソコンの画面を眺め続ける。

 カーテンの隙間から月灯りが洩れてくる。やがて沈んで、代わりに太陽が昇り、朝が来る。月が昇って太陽が沈んでまた夜が来て、そんな日々が単調に繰り返す。寄せては返す波のようだ。繰り返し、繰り返し。その日、私は夢を見た。何度も何度も生まれ変わっては同じように生きてゆく自分を。いつかこの呪縛から解かれる日が来るのだろうか。



 その日から私は一週間に一回、夜中にゴミを出しに行くようになった。溜まってからまとめて出そうかとも思ったのだか、一回に持てるのは二つまでだし、何度も往復するのは嫌だ。それにボックスが満杯になっても困るし、こまめに出した方がいいと判断したのだ。

 一週間に一回、夜とは云え、外の空気を吸う。それは私にとってはかなり革命的なことだった。

 ただし、絶対に誰にも会わないように気を配った。夜中の二時なので、大抵は誰もいない。街燈だけが瞬く中、世界はしんと静まり返っている。まるで海底のようだ。どこもかしこも。世界は海に沈んで、すべてが静謐だ。

 でも、時折、人の気配がすることがある。闇の中でカサコソと何かの気配が。

(気のせい?)

(それとも、幽霊?)

 いやいや、まさか。

 そんな時、私は玄関を出ず、外の様子をじっと窺う。玄関の扉は曇った玻璃(がらす)戸で、額をくっつけ、睛を見開き、外の方を見ると、水を通して何かを見るように外の世界が見える。

(人だ。人が歩いていく。こんな夜中に)

 微かに声も聞こえる。歌声のような。

 耳を澄ますと、確かに誰かが歌っている。中年の男の声だ

(ああ、酔っ払いか。飲みに行った帰りなんだな)

 私はしばらくじっと動かず、彼の気配がすっかり消えるまで待っている。

(もう夜中の三時を回ってしまった)

 これ以上待つと夜が明けてしまう。中年男の歌声も気配もすっかり消えたと判断し、私はそそくさと外に出る。

(急げ)

 夜が明けてしまう前に。

 私は夜の世界に飛び出し、ゴミ袋を抱えて走り出す。

 外の空気は冷たい。吐く息も白い。空を見上げると、月が傾いている。チカチカと瞬き、私の睛を奪う。あちらこちらに光の粒が零れ落ちている。それらは夜の闇に沈んで溶けてゆく。

(綺麗だな)

 外の世界はこんなにも綺麗だったのだ。もうすっかり忘れてしまっていた。月があんなに輝いているなんて、思ってもいなかった。私が引き籠ってからもずっと変わらず地球のそばを廻り続けていたんだ。

 チカチカ、チカチカと傾いてゆく。

 ずっと立ち止まり、月が西の空に消えてゆくまで、いつまでも眺めていたいような気もした。こうしてずっと、夜空を見上げて、そのまま宙へ昇ってゆきたい。

 風が吹く。ゴミ袋がカサコソと音を立て、私はハッとする。

(ダメだ)

 私は慌ててゴミ袋をボックスに入れ、一目散に駈けてゆく。

(まだだ。まだ早い)

 私は部屋へ戻ると深く息を吐く。ほんのりと暖かい。

(冬が来るとゴミ出しも大変だろうな)

 それでも、ゴミは溜めずにこまめに出しに行こう。夏のように臭くなったりはしないだろうが、それでも一週間に一回はゴミ出しに行こう。

 私は決意して、布団にもぐる。

(明日はネットで注文したプリンが届く。楽しみだな。それから、マンガと小説も。珈琲(コーヒー)豆も明日だったかな)

 珈琲を飲みながら本を読もう。ゆるゆると微睡むような部屋の中で一日中。

 私は微かな胸の高鳴りを抑え睡りに落ちる。



 その時その時で私は色々なものにはまる。その頃は珈琲豆を挽いて珈琲を淹れるのにはまっていた。珈琲ミルもネットで買い、珈琲サーバーやドリッパーまで全部揃えた。ミルに豆を入れ、ボタンを押すと、ガラガラと音がして刃が回り、豆を砕いてゆく。ドリッパーにペーパーフィルターをセットし、挽きたての粉を入れ、電気ポットで沸かしたお湯を注いでゆっくりと珈琲を淹れる。部屋中が珈琲の匂いで満たされ、私は満足する。

そして、本。ネットだけではなく本も読む。マンガだったり小説だったり。膝を立てて椅子に座って、珈琲を飲みながら本を読む。なんか優雅だ。引籠りとは思えない。

時間がゆっくりと流れてゆく。外界から遮断され、何も聴こえない空間。ここは海底だろうか。ここはまるで水の泡の内部のよう。くるくると廻って昇ってゆく。或いはシャボン玉だろうか。危ういシャボン玉の中。ゆらゆら揺れる空間で私は生きている。いつかシャボン玉は弾けて、消えてしまうかもしれない。この世界が毀れてしまうかもしれない。それまで私は瞼を閉じて夢を見る。ネットの世界へ行ったり、小説の中の世界へもぐりこんだり、ゆらゆらと危うい境界線で生きている。

気が付くと陽が暮れて、辺りはぼんやりと薄暗くなってゆく。電気を点ける。薄い橙色の温かい蛍光灯だ。そして本を読む。ネットをする時は電気を点けない。パソコンの灯りだけで過ごす。そんな日々を繰り返す。夕飯の時間も分からない。規則正しく母親が置いてくれていたご飯はもうないから、お腹が空いたら食べるという感じだ。朝も昼も夜もない。お腹が空いたら食べる。空かなければ一日何も食べないこともある。珈琲だけで過ごしてしまうのだ。

ある時、鏡を見て少し痩せていることに気づき、慌てて何かを食べたりする。よく食べるのはヨーグルトとプリン。取り寄せたパンや果物などだ。ただ果物で困るのは生ゴミが出ることだ。林檎などは皮ごと食べるが、蜜柑やバナナは、皮は食べられない。葡萄も皮ごと食べる。キウイは無理。マンゴーやドラゴンフルーツなどはそもそも買わない。桃は嫌い。メロンは高い。一時、果物にはまり、その次はたんぱく質を取ることにはまった。肉や魚はあまり食べない。生ゴミが出るからだ。それ以外でたんぱく質は何だろうと考えて、卵や豆腐に辿り着いた。納豆は臭くなるからダメだ。

ゆで卵を良く食べる。簡単だし、ゴミは殻だけだし、べとべとしないのがいい。それから、豆腐を食べ、プロテインを飲めば、たんぱく質はばっちりだ。ネットで見て、たんぱく質を取らないと肌の弾力がなくなって(しわ)になると知ってから、たんぱく質を取ることを目標にしたのだ。

それからビタミンCと乳酸菌。

ビタミンCには抗酸化作用がある。老けないためには抗酸化物質が必要だ。果物にはビタミンが多い。だから、はまった。意外とキウイとかは柑橘系の果物よりビタミンCが多いらしい。

乳酸菌は取らないと腸内環境が悪くなる。腸内環境が悪いと肌に悪いし、免疫力も落ちてくる。腸は第二の脳だ。腸内環境を良くするために様々な乳酸菌について調べた。自分に合う乳酸菌じゃないと取っても意味がないらしい。私には何が合っているのか結局分からず、仕舞には飽きてきて、ただ美味しくヨーグルトを食べている。オリゴ糖とか酪酸菌とかも腸にいいらしい。

すべてネットで調べたことだ。ネットで調べてネットで注文する。代金はクレジットカード払いだから、口座から自動で引き落とされる。一ヶ月で自分がどれだけ使ったか、把握していない。と云っても、外食するわけでもないし、旅行するわけでもないし、洋服にお金をかけるわけでもないから、そんなにお金を使っているわけではないはずだ。たぶん、貯金だけで、一生、生きていける。

引籠りの一因だ。

外に出ないから洋服も必要最低限あればいいし、化粧もしないからクレンジングも必要ないし、その分お金もかからない。顔はぬるま湯で洗うだけだし、化粧水も乳液もつけない。クレンジングしないから肌が荒れないのだ。たんぱく質も取っているし、ビタミンCも取っている。何より、紫外線を浴びないのがいいのだろう。そんなに肌荒れしないし、シミもない。引き籠っているからだ。

(今年の抱負はたんぱく質と取ることだった。来年は野菜を取ることにしようかな)

 冬が来て、ひとりきりの正月を迎える。母親が死んで初めての正月だ。窓の向こうでは雪が降っている。暖房もつけずにいるので、部屋は寒くて薄暗い。頭から毛布をかぶって、椅子に膝を立てて座り、パソコンに向かっている。ネットの画面は正月バージョンだ。嫌でも季節が分かる。母親が死んで、とりあえず何かは食べて生きてこられた。たんぱく質の質は落ちたけれど、卵や豆腐で頑張った。

(次は野菜だ)

 ネットを利用して野菜だって購入できる。産地直送だ。

(ただ生ゴミが出るなあ)

 でも、果物だってゴミが出ていたし、週に一回のゴミ出しで何とかなった。

(本当は肉や魚も食べた方がいいんだよなあ。今年の抱負は半分しか達成できなかったな)

 部屋の中にいるのに吐く息が白い。鼻の頭が冷たく、手先もかじかんでいる。

(私はいったい何をしているんだろうなあ)

 時々、そう思う。

 雪がしんしんと降り、積もってゆく。

 時間が流れ、私はこの先どうなるんだろう。ずっとこうして縮こまって生きてゆくんだろうか。

(正月はゴミ収集しないんだよな)

 唯一の外に出る機会がなくなるなあ。

(それならいま外に出ればいい)

 私は薄くカーテンを開け、外を覗く。ほんのりと部屋が暖かいのか、窓玻璃(がらす)は曇っている。指で軽く拭いて、小さい隙間から外の世界を覗く。

 雪は降り続ける。あとからあとから途切れることなく。外に出て、顔を上げてそれを眺めたら、きっと素敵だろう。顔に冷たい雪が降りかかる。見ているそばから雪の欠片は続いてゆく。空の天辺から零れ落ちてくる雪はエンドレスで、仕舞には私の躰は宙に昇ってゆくだろう。

 想像の世界だ。

 その雪もいつか止み、白い太陽も顔を出す。日増しに温かくなる陽射し。昼と夜とを繰り返し、季節は春へと変わってゆく。

 私は何も変わることのないまま、外の世界だけがくるくると廻る。



 母親が死んでから一年間、私はこんなふうに暮らしていた。

 いまは初夏だ。昼の時間が次第に長くなってゆく。夜明けも早い。

 ゴミ出しにも慣れた。ただし夜の二時という時間だけは守っているけれど。

夏になると夜に外を出歩いている人がたまにいる。それがいなくなるまでいつまでも待っていると夜が明けてしまう恐れがある。人の気配がなくなったと分かってからもしばらくは、私は動けない。

(これからどんどん日が長くなる。やばいなあ)

 去年は何とか大丈夫だった。誰にも会わずに済んだ。すぐに秋になって冬が来たし、冬は寒いから比較的人は外に出ない。夜明けも遅いし、人に会う確率はかなり低い。

(これから夏がやって来る)

(夏はゴミが臭くなるから溜めておけない)

 やっぱり週に一回は行かないと。

 プランターを買い、土を入れ、プチトマトを育てている。それから、ブロッコリースプラウトを小さな容器で水に浸して育てている。少しずつ野菜も食べるようにしている。野菜ジュースやサプリだけでは駄目だと思ったからだ。ジャガイモや玉葱などネットで注文し、電子レンジでチンしてドレッシングをかけて食べている。料理と云えるものではない。けれど、野菜は野菜だ。プチトマトとブロッコリースプラウトもドレッシングをかけて食べる。

(今年の抱負は野菜を取ることだから)

 ばっちりだ。けれど、生ゴミが出る。

 暖かくなってくると外に出るのは気持ちがいい。

(夜だけど)

 星がチカチカと瞬いていて、私はそれを見上げてゴミ出しをする。

(不思議な光景だ)

 澄んだ夜空と星屑と月灯り。そして、私。大きなゴミ袋。夜中の二時。誰もいない。風はまだ少し冷たい。

 静まり返った世界にひとりきり。部屋の中の孤独とはまた違う。

(何か自由な感じ)

(いけないことをしているような)

 解放的な気分。

 これから何かが起こるような期待と不安。

 私はそそくさと歩いてゆく。

(夏が来るってこんなにドキドキしているのは初めてかもしれない)

(週に二回、ゴミ出しをするのもいいかもしれない)

 私はそこまで考えてハッとする。

(いやいやいや)

 私は首を横に振る。

(どうした? 私)

 引籠りのくせに。

 生ゴミは庭に埋めてしまえば、臭くならない。そうすればゴミ出しの回数を減らせる。

(でも、庭って外だよな)

 シャベルを買って庭に埋めるなら、やっぱり夜だ。二時とまではいかなくても十二時は過ぎてないとダメだろう。人目に付いたら嫌だ。

 月は綺麗だ。夜空に懸かる月は様々な形をしている。今日は檸檬の形だ。幻想的で引籠りな自分を忘れそうになる。

(地球は廻っているんだなあ)

 そんなことを思い、ゴミを出す。

 惑星が巡る様子を想像する。様々な惑星が規則正しく、くるくると廻ってゆく。ぶつからないように、絶妙な間隔とスピードで廻ってゆく。宇宙は広大で透き徹っている。惑星や衛星はその中に浮かんで、ゆっくりと巡り、睛の前を通り過ぎてゆく。くるくる、くるくる。

(この動きは何かと似ている)

 何だろう。くるくる巡ってゆく様子。遺伝子? 記憶? 原子? 粒子? そうだ。ミクロの世界だ。

(原子と惑星の運行は同じなのかも)

 惑星と衛星はきっと原子とか粒子とかと同じなのだ。惑星が巡って記憶が続いてゆくんだ。遺伝子に乗ってすべての記憶や想いが繋がれてゆくんだ。

(私がこうやって夜空を見上げて想っていることも)

 すべては大きな何かのために。

 私は立ち止まり、夜空を見上げている。月が音を立て、少しずつ傾いてゆく。

 世界が廻ってゆく。

(帰らなくちゃ)

 私は玻璃戸を開け、中に入る。しんと静まり返った家。月の傾く音も星の瞬きも聴こえず、時計の音も聴こえない。階下の時計は電池が切れ、私の部屋にはそもそも時計がない。私が時間を知るのはパソコンのデジタル表示だけだ。見るとパッと数字が並んでいるだけで、時間が流れている感覚がない。月の音も星の音も聴こえないから、惑星が廻っている感覚がない。

(時計を買おう。やっぱりアナログじゃないと)

 睡って起きると、もう朝だ。いつもは睡りが浅く夢ばかり見るのに、今日は熟睡していたようだ。何も夢を見なかった。ただ真っ暗で、記憶が途切れてから時間が経った感じがしない。気が付くと朝だった。

 生ゴミを庭に埋めることを考えていた。

 月を見ながら土を掘って、生ゴミを埋める。その光景を想像すると、ちょっとドキドキする。

(ゴミは昨日出してしまったから、まだ溜まらないな)

(今日は何が収穫できるだろう)

 実はプチトマトの他に茄子と胡瓜とサニーレタスも植えている。でも、プランターだからうまく育たないかもしれない。特にサニーレタスは。

(庭に畑を作ろうかな)

(まずは生ゴミを埋める穴掘りに慣れてからだな)

 歯を磨いて顔を洗い、ベランダに寄ってプチトマトの様子を見る。つやつやと赤い実がひとつ出来ている。それを捥ぎって口に放り込む。

(あんまり甘くない)

 自分の部屋に籠って簡単に朝食を済ます。冷蔵庫からヨーグルトを取り、蜂蜜をかけて食べる。なるべく洗い物が出ないように紙のスプーンで食べる。それから、レーズンパン。賞味期限が過ぎている。捨てるのはもったいない。

(一日くらいなら大丈夫)

 それから、チーズと野菜ジュース。これでばっちりだろう。

 最後に珈琲を飲む。紙コップではなく陶器のマグカップを使う。珈琲を淹れるとドリッパーなど洗い物は出てしまう。生ゴミも。

(でもいい匂い)

 今日は何をしよう。

 本でも読もうか。

 相変わらずカーテンは開けない。

 とりあえずもう少し陽が昇るまでネットをする。本を読むには少し暗い気がするから。陽が高く昇れば部屋も明るくなり、カーテン越しでも大丈夫だろう。

 意地でもカーテンは開けない。カーテンの生地は薄い水色で、陽が差し込むとゆらゆらと部屋が薄水色に明るくなる。それはまるで陽が差し込んだ海底のようで、私は夢見心地でそこに浸るのだ。暗い海底が少しずつ明るくなる様は、チラリと希望の光を錯覚して、少しだけ慰められる。

 ネットのニュースを見て世の中のことをざっと探る。芸能ニュースなどもとりあえず見る。様々なニュースが刻々と更新されてゆく。ニュースを見てコメントすることも出来る。世界中の人々がしたコメントを読んで、様々な考えの人がいることを知った。攻撃的な人や悲観的な人、いい加減な人、たくさんいる。優しい人、心の広い人、しっかりした考えを持った人、自分というものをちゃんと持っている人。

(世の中にはこんなにたくさんの人がいて、色々考えているんだな)

(私も何かコメントしてみようか)

 いや、やめよう。

 匿名だからかなりひどいことをコメントしている人もいる。私はそれと闘うことは出来ないな。自分の意見を批判されたら傷ついてしまうかも。

(もっと強くなったらコメントしよう)

 木星の衛星に生命体がいるというニュースを見た。

(木星かあ。遠いなあ)

 天体望遠鏡でも買って、眺めて見ようかな。

(夜、ベランダに出て、夜風に当たって)

 野菜を採る時も、洗濯物を干す時も、あまりちゃんとベランダに出ないで済ませている。玻璃戸を開けて、さっと手を伸ばすだけだ。

(天体望遠鏡で星を見るなら、ベランダにちゃんと出ないと)

 ベランダとは云え、外は外だ。ゴミ出しと庭いじりとベランダと。少しずつ外へ出るのが増えてくるな。

(でも、天体望遠鏡で木星って見えるのかな)

 せっかく買っても見えなかったら意味がない。

(何かで土星は見えるって読んだな。土星が見えるなら、木星だって見えるよな)

 ちゃんとした天体望遠鏡を買わないとダメだろうけど。高いのかな。

 洗濯物が溜まっているのを思い出し、一階の洗面所へ行く。母親が死んでから、三日に一度、洗濯機を回している。最初は手間取り、心配で、洗濯機が回っているのを、立ってじっと見つめていた。

(こんなに長い間、自分の部屋を離れているなんて)

 私はドキドキし、止まった洗濯機から洗濯物を取り出し、抱えて慌てて二階へ逃げ帰った。ベランダにあるハンガーや洗濯鋏(はさ)みの付いた物干しに手を伸ばして、一生懸命干し、部屋へ戻って息を吐いた。

(こんなことを毎日するなんて)

 替えの下着をたくさん買えば、溜まってから洗濯できると気づき、早速ネットで購入した。一週間に一度の洗濯にしようかと思ったが、さすがにそれは溜まり過ぎた。いまでは三日に一回洗濯することで落ち着いている。

 三日分の下着とパジャマと部屋着をガラガラと回す。バスタオルとフェイスタオルも思い出して慌てて追加する。いまではすっかり慣れたものだ。洗濯機が全部してくれる。立って眺めている必要はないのだ。

 部屋へ戻ってネットをし、時間を見計らって階下に降りる。洗濯機は止まっていて、私は慣れた手つきで洗濯物を籠に詰め込み二階へ上がってゆく。ベランダに顔は出さず、手だけを出して、素早く洗濯物を干す。皺はほとんど伸ばさない。どうせ外に出ないのだから、しわしわの服でも問題ない。それに、しわになりにくい素材の物が多い。

(今度はお洒落にも挑戦してみようかな)

 パジャマも部屋着もボーダー柄が多い。紺と白のボーダーだったり、ベージュと茶色のだったりする。柔らかい生地のものばかりで、パンツはすべて総ゴムだ。着ていて楽な物ばかりを選んでしまう。部屋着はデニム生地のパンツが多い。もちろん柔らかい素材のだ。上はカットソーで、春夏は薄手、秋冬は厚手のボーダーだ。その上にパーカーを羽織ったりする。パーカーは一つしかなく薄いグレーのシンプルな物だ。

(そろそろ新しいパーカーを買おうかな)

 カットソーもよれよれになってきた。もっと明るい色のボーダーにしようかな。白と水色とか、紺とラベンダーとか。いや、グレーとラベンダー? それともピンク?

(紺と水色にしよう)

 早速ネットで検索だ。

 お金はあまりかけたくないので安いものを探す。これから夏だから薄い生地で充分だ。三枚セットでかなり安い。様々な色のボーダー柄がある。

(紺と水色のボーダーと、グレーと白のボーダーと、あとは無難に黒と白かな)

(いや、この薄いピンクと紺にしようかな)

 夏だしな。

 三枚のカットソーとインディゴブルーのデニムパンツと、チャコールグレーのパーカーを頼み、パソコンを閉じる。

 何だかお腹が空いたのでお昼ご飯を食べることにする。冷蔵庫からゆで卵と魚肉ソーセージを取り出す。味しおとマヨネーズで食べる。魚肉ソーセージにはケチャップもかける。それから、バナナとスコーンを食べる。

(スコーンは自分で作れるかもしれない)

 ネットで見たのだ。バナナとホットケーキミックスだけで作れるスコーンを。ヨーグルトとホットケーキミックスだけでも作れるらしい。

(すごい)

 今度ホットケーキミックスを買って、階下のキッチンで作ってみよう。

 お昼ご飯を終え、本を読み始める。

 今日は随分と晴れている。外の清々しい空気を吸ってみたいような気もする。

(夜だけじゃなく)

 ベランダからちょっと顔を出してみようか。

(いや、ダメだ。人がいたら困る)

 本を読むのに集中できない。

(よし、分かった。そんなに外に出てみたいのなら、今日の夜、庭に生ゴミを埋めることにしよう)

 あまり溜まっていないが、バナナの皮がある。それと、今日の夜ご飯にキウイを食べるから、その皮を。それと、南瓜だ。南瓜の種と綿を埋めよう。まずは少量から。小さな穴を素早く掘って、埋める。一〇分とかからない。

 ドキドキしながら夜を迎える。

 南瓜と玉葱のホットサラダと、ちくわとチーズと、パックのごはん。デザートにキウイを二個食べて終了。そして、最近中毒になっているソーダ水を飲みながら時間が経つのを待つ。

 時計はまだ買っていない。仕方ないのでパソコンのデジタル表示を見る。まだ七時三〇分。シャワーはもう浴びた。十二時まですることがない。

(十二時までは外に出るわけにはいかない)

 なるべく人に会う確率を減らす。

 まださっきから三分も経っていない。

(一分って長いんだな)

 確かに一分も息を止めていたら苦しい。三分も止めていたら死んでしまうかも。

 時間があり余る。

(時計をネットで物色しようか)

 今日注文すれば一週間以内には届くだろう。そうしたら私も時間を生きる人間の仲間入りだ。カチカチと廻ってゆく針を眺めながら、時間が流れるということを感じられるだろう。

 置き時計にしようか、掛け時計にしようか考える。くるくるとスクロールしてゆく。金色の卵の形をした置き時計がある。目覚まし時計にもなるようだ。

(でも、目覚ましをセットするなんてことあるかな)

 ないな。

 何時に起きなければ、なんて生活をしているようなら、そもそも引籠りではないのだ。

 やけに豪華な掛け時計もある。十二時、一時と、一時間ごとに鳩やら人形やら何かが出てきて音が鳴るようだ。

(さすがにこれはいらないな)

 音なんてならなくていい。カチカチと針の音さえ微かに聴こえれば、あとは廻る秒針と、気づくか気づかない程度に動く長い針と短い針を眺めていられれば、それでいい。

(金色の卵も捨てがたいけど小さすぎる。大きな掛け時計にして眺めるようにしよう)

 比較的シンプルな物を選ぶ。茶色い樹の枠に盤は薄い水色だ。数字は紺色。針は透き徹ったブルー。円い形の普通の掛け時計。

 カチッとクリックし、注文する。

 デジタル表示を見ると、九時一〇分になっている。時計だけを随分と眺めていたようだ。あとはニュースと料理のサイトを見て時間を潰す。コブサラダのドレッシングの作り方とパプリカの栄養素を調べて、ネットを閉じる。

(そろそろいいだろう。)

 夜も更けてきた。

 階下に降り、ピンクの小さなバケツに入れておいたバナナの皮などの生ゴミとシャベルを持って、庭に続く玻璃戸へ向かう。カーテンを細く開け、玻璃(がらす)越しに外の様子を窺う。庭の向こうにある細い道路には誰もいない。もう真夜中だ。この住宅街に住む人以外は誰も通らないだろう。仮に人が通っても庭と道路の境には柵があり、樹が植えられている。緑の葉や枝に遮られて、丸見えになることはない。

 それでも、十二時まで待った。

 カラカラと戸を開ける。夜の空気が入って来る。涼しい。星の瞬く音がする。サンダルを履いてそっと庭に出る。

 生ゴミとシャベルを持ったまま、夜空を見上げる。

月が昨日より少し円い。

 カサカサとサンダルが音を立てる。息を潜め、ゆっくりとしゃがむ。すぐ近くの庭の土を掘る。庭はまだらに芝生が生えていて、小さい何かの花が零れるようにあちこちに咲いている。境界線には樹々が並んでいて、緑の葉が風に揺られてざわざわと動いた。芝生のない茶色い(ところ)に小さく穴を掘り、バナナの皮とキウイの皮を入れる。南瓜の種も入れる。

(こんなところに南瓜が出てきたらどうしよう)

 もう少し建物から離れた場処(ばしょ)を掘れば良かったかな。もし南瓜が生えてきた時のために。

(そう簡単に育ったりしないか)

 風が吹く。顔を上げ、もう一度、夜空を見上げる。

 月が音を立てて傾いてゆく。月の灯りがキラキラと舞い降りて、私の顔に降りかかる。空気は冷たく気持ちがいい。ひやりと肌に吸い付き、息を吸うたび、喉を通って躰を巡ってゆく。喉や気道や肺などがあることを認識する。

(空気が美味しいってこういうことを云うのかな)

 違うかな。山とか高原とか森林の中とかそういう場処の空気かな。

(アルプスの山とか)

 真夏でも窓を開けず、エアコンの中で過ごしていたから、外の空気と云うものがこんな味がするんだと今更ながら感動する。ゴミ出しの時には主に走っていたからか余裕がなく、息を切らすばかりで何も感じなかった。心臓の鼓動だけを意識して、肺や胃や喉や舌の感覚を意識することがなかった。

 慌ててゴミを出す必要もなく、こうしてじっと夜空を見上げていると、不思議な気持ちになってくる。土を穴に入れる手を止め、チカチカ瞬く星を見つめる。くるくると夜空が廻る。星座が巡る。時間が流れ、惑星が通り過ぎてゆく。私の真上で世界は廻り、私はひとり佇んでいる。

 小さな惑星にたったひとりでいるような気がした。小さな惑星もくるくる廻り、絶妙な間隔で様々な惑星とすれ違ってゆく。私はただその様子を眺め、立ち尽くしているのだ。

 くるくる、くるくる廻る。

(広大だなあ……)

 私が物思いに耽っていると、不意に近くでカサリと音がした。

 私はびくっとし、シャベルを落として立ち上がった。

 睛が合った。

「あ……」

 声が出たのか出なかったのか。思わず声を洩らしたつもりでいたが音にはなっていなかったかもしれない。

 睛が合った。

 家の前の道路に誰かがいる。庭の樹々の隙間からこちらを見ている。いつの間にか人が通り過ぎようとしていたのだ。気づかず私は夜空を見上げていた。その人は庭にいる私に気づき、ふとこちらを見た感じだ。

「やあ、気持ちいい夜だね」

 その人は何故か私に話しかけてきた。

 そのまま通り過ぎてゆけばいいものを。

 私が無言でいるとその人は庭の葉をひょいとかき分け、人の家の庭先を覗き込んだ。

「何をしているの」

 若い男だ。少年? いや、もう少し上。高校生くらい? どっちにしろ私よりかなり若い。

「バナナの皮を……」

 意外とスムーズに声が出る。十年ぶりに出した割には。私は驚き、彼を見る。

「何?」

 彼は屈託なく笑う。

「あなたこそ、酔っ払い? 人の家の庭を覗いて何をしているの」

 すごい。すらすら喋れる。

「ふらふら散歩をしていたんだよ。月が綺麗だから」

「じゃあ、早く行って」

「ごめん、ごめん。ふと見たら、人がいたから思わず立ち止まってしまった。人の家を覗く趣味はないんだよ」

「まさかここが散歩コースなの?」

「ううん。たまたま入った。綺麗な住宅地だから。海に沈んだ街みたい」

「うん、実を云うとそうなんだよ」

「沈んだの?」

「そう」

「面白いね」

「面白くないよ」

「ははは」

「家、この近くなの?」

「うん。歩いて五分くらい」

「じゃあ、早く帰ったら」

「うん」

「未成年がお酒を飲んじゃダメなんだよ」

「飲んでないよ」

「そうは見えないけど」

「ははは。素でこうなの」

「お母さんが心配するから帰った方がいいよ」

「ははは」

 彼は笑って、ふらふらと手を振り、去ってゆく。

 私は急いでバナナの皮に土を盛り、家の中へ戻った。玻璃戸の鍵をしっかり掛け、息をつき、土の付いた手でカーテンをぎゅっと閉める。

 思いもかけないことが起こってしまった。

(心臓がバクバクいっている)

 口がカラカラで、きょろきょろと睛が泳ぐ。

(何だったんだ、いまのは)

 何だったんだって、別に、そんな大したことじゃない。

 高校生が酒を飲んで夜道をふらふら遠回りして帰って行っただけだ。庭にいた私と睛が合い、ちょっと夜の挨拶をしただけだ。

(油断した。やっぱり十二時はダメだな)

 歩いて五分と云ったら、近所なんだろう。

(見たことない顔だけど)

 まあ、当たり前か。私が引籠りをした頃には彼はまだ小学生になったばかりだったろう。引き籠る前に会っていたとしても、もう分からない。

(しかし、さっきの私は何だったんだ)

 そう、それだ。何より驚いたのは。

(普通に喋っていたな)

(意外と大丈夫なのかも)

 まず声が出ることに驚いた。十年間も声を出していなかったのに、私の喉はちゃんと機能していたのだ。カサカサに乾いていてもおかしくなかったのに。

(寝言でも云っていたかな)

 久しぶりに人と喋ってしまった。

 改めて驚き、しばらく放心して立ち尽くす。

 ぐるぐるとさっきの会話を思い起こしては、あーッと叫び出しそうになる。

(いやいやいや)

 私は激しく頭を横に振る。

(あり得ない、あり得ない)

 引籠りが人と会話をするなんて。何で黙っていなかったんだ。くるりと背を向け、家の中へすぐ戻れば良かったんだ。

(いけない、いけない。気を引き締めないと)

 今度から庭に生ゴミを埋めるのは夜中の二時になってからにしよう。

 私はいくらか落ち着き、気を取り直して汚れた手を洗い、ついでに顔も洗って睡りにつく。

 夢にはもちろん彼が出てきた。名前も知らない高校生の登場は引籠りの生活の中ではかなり印象に残る出来事だ。当然のように夢に見るだろう。暗かったせいか顔がよく分からなかったらしく、最初はおぼろげな様子で出てきた。夢が進むうちに次第に彼の顔がはっきりしてきて、切れ長で涼しげな睛をした爽やかな青年になった。おそらく私の好みの顔なのだろう。実際の彼がこんな顔をしているかは分からない。

 夢の中の彼は笑いながら泣いていた。屈託ない笑顔の裏で、静かに涙を流していた。

(どうしたの)

(どうもしないよ)

(泣いているじゃない)

(泣いていないよ)

(嘘だよ。顔は笑っていても、心の中では泣いているでしょう)

(まさか)

 彼と私はくるくると空を飛ぶ。彼の涙は風に飛んで消えてゆく。

 空が碧い。碧い。こんな空を見るのは久しぶりだ。空気が冷たい。何か小さい水滴がぱらぱらと顔に当たる。

(雨?)

(空は晴れてるよ)

(じゃあ、これはきみの涙だね)

(違うよ。泣いているのはあなたでしょう)

(私……?)

 気が付くと涙が頬を転がり、風に飛んで流れてゆく。

 ああ、泣いていたのは私か。

 彼は私だ。少なくとも夢の中の彼は。

笑いながら泣いている。つらいことを押し隠し、強がって、或いは人に心配をかけまいと本心を隠して、陰でこっそり泣いている。

本当の彼がそうなのかは分からない。彼のことは何も知らない。

(そして、私もそんなんじゃない)

 ベッドの上に起き上がり、夢を思い起こしてそう思う。

 私は無理して笑ってなんかいないし、泣いてもいない。母親には心配をかけっぱなしだったし、誰にも知られず陰で泣くなんて、そんな殊勝な人間じゃない。つらいよ、苦しいよとアピールして、人に心配してもらって、ちやほやされて満足しているような、卑怯な人間だ。だから、こんな引籠りになったのだ。親のお金でのうのうと暮らしている。罪悪感も消えてしまった。泣きも笑いもしない、機械のような人間だ。

 私はそもそも努力するのが嫌いな人間だ。嫌なことからはすぐ逃げる。逃げ足はかなり速い。嫌なことからは睛を逸らし、蓋をして、見て見ぬふりをして生きている。ずるずると惰性のまま、その日暮らしをしている。

 確かに十年前のあの時は苦しかったのだろう。引き籠るのも許される状況だったのだろう。でも、立ち直るべきだった。すぐには無理なら、時間をかけてでもいいから必ず立ち直るべきだったのだ。

 ずるずると引き籠ってしまった。そして、いまに至る。

 そもそも努力するのが嫌いな私が何故、受験勉強を頑張ったのだろう。記憶を手繰り寄せて見る。

(ああ、思い出した)

 思い出すまいと感情に蓋をしてきたことだ。機械になりかけて、すっかり忘れていたことだ。

(でも、記憶ってちゃんと残ってるんだな)

 忘れたと思っていても奥底にちゃんとあり、何かの拍子にゆらゆらと昇って来るんだ。

(庭いじりをしていたら、今夜も彼に会うかな)

 そんなに毎日飲み歩いたりしないか。

(そもそも、もう生ゴミもない)

 いや、でもまだバナナがある。朝と昼にでも食べればゴミが出る。

(それよりも、昨日埋めた生ゴミは土に還ったかしら)

 まだだろう。一日も経っていない。そもそもどれくらいで土に還るものなんだろう。一週間? それとも三日くらい。もっとかかるかな。確かめてみようかな。

 例えば人間も土に埋めたとしたら、どれくらいで土に還ってゆくんだろう。

(私が死んだらどうなるんだろう)

 人知れず部屋の中で腐ってゆくのか。誰にも気づかれず、白骨化するまで。

(出来ることなら土に還りたい)

 それか、海。宇宙葬でもいい。

(遺言でも書こうか)

 でも、誰に。誰宛に。

(………)

 きっと私はこのまま誰にも気づかれず、孤独に死んでゆくのだろう。

 急に気が重くなり、私はのろのろとベッドから出て顔を洗う。

(とりあえず珈琲を飲んで、バナナを食べよう)

 静まり返った家を重い躰を引きずって歩いてゆく。深い深い海の底。思うように躰が進まない。泳ぎ疲れた後のようだ。なかなか睛が醒めない悪夢を見ているようだ。

 急に死のことを考えたり、昔を思い出したり。

(人と関わるからこうなるんだ)

 やっぱり今日は夜中の二時になったら生ゴミを埋めよう。自分の死体を埋めるつもりで。

「フフフッ」

 いま声を出して笑ったか?

 私は驚き、首をぶるぶると横に振る。

(いけない、いけない)

 彼に毒されてる。気を引き締めないと。

(引き締めて引き籠りか)

 ハハハ、と声を出して笑いそうになる。私は慌てて手で口を押え、辺りをきょろきょろと見回す。

(珈琲を飲んで早く睛を醒まそう)

 海流のようにゆったりと流れる時間の中で私は微睡(まどろ)み、珈琲を飲む。湯気で睛が曇る。

(睛のレンズって眼鏡と一緒なんだな)

 ぼんやりと霞む睛でインターネットをし、ぐるぐると文字を追う。人工衛星について調べた。地球をぐるぐる廻る機械。どんな気持ちで廻ってるんだろう。ぐるぐる、ぐるぐる。

(これを開発した人ってすごいな)

 私も廻ってみたい。いつか人間も運んでくれないかな。ロケットに乗って宇宙へ行ってみたい。宇宙から地球を眺めたら、きっと人生観が変わるだろうな。

(変わったら、私は何をするんだろう)

 シンギュラリティについて調べる。技術的特異点。人工知能が人間を追い越し、それによって起こる現象。

(私の知能なんてとっくに追い抜かれてるよな)

 計算にしろ、記憶力にしろ。

 遠い遠い未来のことを考える。例えば何万年も先のこと。いったい地球はどうなっているんだろう。人類はまだ存在しているのかな。

(きっと、いないだろう)

 人類のいなくなった地球は自然の中でゆったりと廻るのだ。空は碧く、緑も生い茂り、海も()()を繰り返すだろう。寄せては返す波。時間も何もない、静かな悠久の営み。

 いずれ地球は人工知能が発達して機械だらけになるだろう。でも、いつしかそれも滅んですべてが草に覆われ、人類の残した何もかもが風化し、塵となって消えてゆくのだ。機械もデータも情報も遺伝子も、何もかもが消えて地球を巡る粒子の一部になってゆく。粒子のひとつひとつはそれぞれ空になったり、樹々になったり、花になったり、海に還ったりするんだ。

(私の一部も何かにはなるのかな)

 ただ風になって飛んでゆくのもいいな。風に吹かれてくるくると地球の周りを廻るのだ。

(人工衛星みたい)

 死んで焼かれて消えても、私を構成しているものは残るはず。小さい小さい欠片。どんどん小さくなる。原子、粒子。それが何になるかは分からない。塵となって飛んでいって、ばらばらに広がってゆく。或いは宇宙を超えて行くものもあるだろう。宇宙の塵になって、彗星に乗って、遥か遥か遠い宇宙の彼方へ。

 瞼を閉じる。

 閉じればそこには宇宙が広がる。

(不思議だな)

 時間って何だろう。何万年も未来なんて本当にあるのかな。

(十年後だって分からないのに)

 技術がどれだけ発達しているか予測してみる。シンギュラリティが来たら、爆発的に発達する。

(私の脳なんかでは想像もつかない)

 人間も機械の一部になっているかも。そうなったら、永遠に生きられるのかな。

(でも、永遠って何だろう)

 何かが永遠に続くなんて、そんな恐ろしいことがあるだろうか。

 時間が永遠に流れる。途方もない。地球だっていつかはなくなる。それじゃあ、宇宙も?宇宙もいずれなくなるんだろうか。

 人類も。人類もいずれ滅びる。それは絶対だ。誰もいない地球が廻っているのを簡単に想像することが出来る。

(たとえ人類が地球を機械だらけにしたとしても、それはほんの一瞬のことなんだ)

 永い永い時間の流れに比べたら。

 機械で覆われた地球もあっという間に緑に取って代わられ、人類も消え去り、塵は宇宙を泳いで飛んでゆく。そして、それが他の惑星に降り立ち、再び生命が生まれ、同じことを繰り返す。地球は消え、新しい惑星が生まれ、それはシャボン玉のように現れては弾けて消えてゆく。繰り返し、繰り返し。

 私は睛を開け、深く息を吐く。

(ふう……壮大なことを考えてしまったな)

 私の瞼の裏で幾つもの宇宙が生まれては消えてゆき、一瞬の中で悠久の時間が流れた。

(疲れたな)

 パソコンの時計を見る。一〇時五○分。まだ午前中だ。

 階下の方でガタンと音がする。

(宅急便だ)

 私はいそいそと階段を降りる。

(時計がもう来たのかな)

 いや、まだだろう。

(ボーダーの服かな)

 いや、それもまだだろう。

 あと何か頼んでいたかな。

 宅急便のトラックが消え去るのを待ち、素早く玄関の扉を開け、ボックスから荷物を取る。

(あ、食料か)

 部屋へ戻って段ボール箱を開けると、中から蜂蜜とシリアルときな粉と牛乳が出てきた。それから、シナモンだ。

(そうだ、そうだ。これを待っていたんだ)

 シナモンはとても躰にいいらしい。毛細血管を修復してくれるのだ。血管が若返るとすべてにいい。なんせ血管が躰の隅々まで栄養を運んでくれるのだから。

(珈琲に入れたり、ココアに入れたり)

 どんどん健康になっていくな。これは長生きしちゃうかも。

 出来るだけ長生きして、若返りの薬とか人間の機械化とか、そういうのに間に合って、永遠に生きてみたい。

(引籠りのまま?)

 いやいや、本当に? 永遠に生きるなんてそんな怖いことないでしょう?

(でも、人類の行く末とか宇宙の終焉とか見届けたいんだよなあ)

 歴史とか宇宙の流れを外側から見ていたい。こうして部屋に籠ってネットで世の中を見るように。

 薄い薄いカーテンが揺れる中、私は縮こまってパソコンを眺めている。水色の影がさわさわと部屋を流れてゆく。

(何でカーテンが揺れているんだろう)

 隙間風? それとも、空気清浄機の風かな。いつもこんなに揺れていたかな。

 私は窓辺に近寄っていく。カーテンをひょいと開けてみる。

(あ、窓が細く開いてる)

 私は驚き、慌てて閉める。鍵も掛け、カーテンもきっちりと閉める。

(何で開いているの? 窓なんかここ何年も開けていなかったのに)

(いつから開いていたの? ずっと? 十年間ずっと?)

 いや、そんなはずはない。開いていたとしても、ここ最近のはずだ。もし冬から開いていたらもっと寒かったはずだし、この前だって雨が降ったし、風も吹いたし、開いていて気づかないはずがない。

(私、無意識のうちに開けていた? それとも、まさか泥棒?)

 いや、泥棒がこの部屋へ入ったら、たとえ寝ていても気づくだろう。

(昨日の夜)

 そうか、昨日の夜か。寝る前に外を確認したかも。その時に窓を開けたのかも。

(久しぶりに人間と喋って、かなり動揺していたから)

 無意識のうちに。

(怖い怖い)

 気を付けないと。

 再び私は丸まってパソコンに向かう。

 時間を忘れる。自分を忘れる。自分の罪も無情さも、何もかも忘れて、ただひたすら文字を追う。母親の顔も苦しみも愛も何も見てみふりをして、何もかも知らないふりをして、誤魔化して、生きていく。

(私は卑怯だ)

 そう思ったら死んでしまうから、狂ってしまうから、考えたくないことには蓋をして、耳を塞いで、閉じ籠る。

 私はダメな人間だと自分で自分に酔いしれることさえ出来なくなってしまった。感情をすべて奥底へ押し込め、上っ面の思考だけで動いている。

 自分はダメな人間だ。

 だから、何だ。

 引籠りなんて情けない。恥ずかしくないのか。

 そもそも恥ずかしいなんて感情があるくらいなら、こんなことしていない。

 情けない。

 情けない。

 情けない。

 くるくる、くるくる、指を動かす。

 何も聴こえない。自分の声も、天使と悪魔の喧嘩も、何処か遠い処を過ってゆく。

 お腹が鳴る。

(ああ、もうお昼か)

 デジタル表示を見ると、もうすでに正午を過ぎている。

 またバナナを食べる。生ゴミを出すためだ。ヨーグルトにきな粉と蜂蜜をかけて食べる。それからジャガイモを電子レンジでチンしてマヨネーズをかけて食べる。食後には珈琲を飲む。シナモンを入れて。

(何だか食欲がないな)

 これだけ食べておいて云うのも何だけど。

(今日の夜はもう食べなくてもいいかな。お昼が遅かったから)

 時間が経つのが遅い。夜中の二時までまだまだある。こんなに時間を気にする生活はもう随分久しぶりだ。

(早く時計が来ないかな)

 そうだ、お昼寝をしよう。そうすればあっという間に時間が過ぎる。寝て目醒めたら、きっともう夜中の二時だ。

(ねむ)るって一体、何だろう)

 睡っている間は記憶がないとか、気づいたら朝だとか、一体、どういうことだろう。それはまるで死んでいることと同じなんじゃないのかな。気づいたら生まれ変わって、何度も何度も生きているように、睡っては生まれ変わり、死んでは生まれ変わり、何度も何度も繰り返しているんじゃないのかな。

 シャボン玉がぽこぽこ生まれては消えてゆくように、何度も何度も生まれ変わっては生きているんだ。

(私は前世も引籠りだったのかな)

 ああ、何だか今日は哀しい。

 蓋が取れかかっている。

 淡々、淡々と生きてゆく。機械(ロボット)のように。或いは遠い昔の微生物のように。

 それが夢だ。



 気づくともう夜中の三時で、私はびっくりして跳ね起きた。パソコンの画面だけが照らす部屋の中で、バタバタと動き回る。

(どうしよう)

 生ゴミを埋める計画が。

(今日はやめて明日にしようか)

 いまは初夏だ。間もなく夜が明けてしまう。

(いや、でも今日埋めたい)

 何故だか私はそういう思いに囚われ、バナナの皮とジャガイモの皮を集めて、庭に出てゆくとこにした。

 カラカラと玻璃(がらす)戸を開ける。すうっと冷たい空気が流れ込んでくる。

 サンダルがひやりと冷たい。

 外に出る。空を仰ぐ。まだ夜は明けない。

月が円い。

(満月だ)

 西の空に傾いている。

 東の空を見ると、ほんのりと明るいような、薄い紫色になっているような。

(いや、気のせいだ。まだ夜は明けない)

 星がチカチカと瞬く。

 急いで埋めないと。

 ザクザクと庭を掘る。昨日の場処から少し離れた処だ。

 風が吹く。時折、空を見上げる。

(星が綺麗だ)

 透き徹った夜空。深くて暗くて透明で、そのままじっと見つめていると、遥か宇宙まで見えてしまいそうだ。透けて透けて、何処までも見えてしまいそうだ。

(そら)に昇っていきそうになる。

(………)

 生ゴミを埋めて立ち上がる。

 ザアッと樹々が音を立てて、流れてゆく。

 私の髪が舞い上がる。ぱらぱらと額の上に降りかかる。

(前髪が伸びたな)

 睛にかかる髪の毛の隙間から宇宙を覗く。深い深い色が次第に溶けるように薄くなってゆく。まずは東の空だ。濃紺から紫に、それから碧、藍色へと溶けてゆく。

 何という光景だろう。見る見るうちに色が流れてゆく。まるで水のようだ。水が流れるように、水を溶かしたように、夜空が変化してゆく。

(東の空はもう薄い紫だ)

 濃いピンクと云ってもいい。西の空はまだかろうじて紺色。それも次第に溶けてゆく。東の空のピンクがゆっくりと薄くなり白くなり、水色になる。ぼんやりとオレンジ色の輝きを増してゆく。

(やばい)

 夜が明ける。

 星がぽつんぽつんと消えてゆく。

(ああ……なんて綺麗なんだろう)

 私は動くことが出来ず、立ち尽くす。

(今日はあの高校生、来なかったな)

 頭の片隅でそんなことを考えながら、ぼんやりと空の流れを見つめている。

(もういい加減、家に入らなくちゃ)

 早朝散歩する人とかが来てしまう。

 空は次第に明けてゆく。水色と紺色をゆるゆる混ぜたような空。月も随分傾き、紺色の空に引っかかっている。

 星が消えてゆく。気づくか気づかないかのゆっくりとした瞬きで、いつの間にか空の色に溶けてしまっている。それが、ひとつひとつ、気づいた時には跡形もなくなっている。

(空の向こうには確かにあるのに)

 無数の星が。広がる宇宙が。

(何て不思議なんだろう)

 いま、空は白い水色だ。それは次第に濃くなり、晴天になるだろう。

 遠くでバイクの音がする。新聞配達だ。

 私はハッとして、手や躰に付いた土を払い、家の中に戻った。

(………)

 しんとする家。ひやりと冷たい空気。

 私はひたひたとその中を歩いてゆく。

(朝になるまで外にいるなんて)

 清々しい空気を吸うのは一体何年ぶりだろう。

 十年。

 十年だ。

 引き籠って十年。

 私は黙々と手を洗い、生ゴミを入れていたバケツを洗う。

 今日は何をしよう。朝ご飯は何を食べよう。

 一所懸命、別のことを考える。

 引籠りのこと、将来のこと、過去のこと、何も考えたくない。

(とりあえず、朝ご飯だ)

 私はついでに顔も洗い、歯も磨くと、のろのろと二階に上がった。

(そうだ。髪が伸びたから、切ろうかな)

 朝ご飯を食べ終わったら。

(それとも、もう一度寝ようか)

 いや、(ねむ)くない。

 今日は髪を切って、それから、本を読もう。別の世界へ行きたい。空想の世界へ。

(何か面白い小説はないかなあ)

 髪を切り終えたら、ネットで何か探してみよう。今日はとりあえず、昔読んでいた本を読んで過ごそう。

 朝は蜂蜜パンとヨーグルトを食べる。バナナはもうない。

(生ゴミは出ないな)

 今日は諦めよう。髪の毛は生ゴミではないよな。

(でも、今晩はゴミ出しに行くんだ)

 髪の毛はもちろん自分で切る。当たり前だ。美容室など行けるわけもない。

 年頃の女が自分で髪を切るのもどうかと思うが、これが、なかなか上手いのだ。

(自分で云うのもなんだけど)

 私はかなり器用だ。透き鋏みで、ザクザクと切ってゆく。手で確かめ、時折、鏡で確かめ、後ろも横も、もちろん前髪も、躊躇なく切ってゆく。五分もかからず、いい感じのショートヘアになる。ショートと云ってもそんなに短くはない。肩にかからない程度で、前髪は睛にかからない程度だ。

(あまり短いと恥ずかしいからな)

 誰に会うわけでもないが。

 でも、一応、自分好みのいい感じのヘアスタイルにする。

(引籠りとは云え、清潔好きなのだ)

 髪を切り終え、部屋に戻り、いつものように椅子に座って丸くなる。パソコンをつけようかと思ったけれどその気にもなれず、本を読もうと思ったけれど、やはりその気にもなれず、ただぼーっとして座り続けた。

 私の中で何か変化が起きているようだ。ぐるぐる、ぐるぐると動き出す。

 過去のことを思い出す。他愛もない記憶や、思い出したくもないこと、封印してきた想いなど、海底から浮かんでくるかのようにゆらゆらと現れる。

 思えば私は楽しい小学校生活を送っていたものだ。友達もいたし、冗談を云ったり、笑ったり、好きな男の子の話をしたり、普通に楽しく過ごしていた。誰も私が将来引き籠るなんて思ってもいなかっただろう。いじめられたこともないし、運動だって勉強だって人並みに出来た。何でも器用にこなす方だし、性格も明るかった。自分で云うのも何だが、素直で、人に嫌われるタイプでもなかった。

 ずっとそんなふうに生きていくんだと思っていた。頑張れば、どんなことでも叶うと信じていた。

 私は高校受験に失敗した。すべてを否定されたかのようだった。

 深い深い底へ沈んでゆく。暗い暗い海の底だ。光も刺さない。希望も夢も救いもない。何もない。ただゆったりと闇がまとわりつき、私は身動きできず、ただそこに横たわる。私は卵だ。暗い海底に転がる卵。殻に閉じ籠ってじっとしている。それとも、貝殻か。私は貝殻。

(海底だしな)

波の音を記憶した、哀しい貝殻。

耳を塞ぎ、閉じ籠る。でも、誰かが貝殻を拾ってそっと耳を傾けてくれるのを待っている。

閉じ込めた波の音が聴こえる。

出来るだけ楽をして生きていきたいと思っていた私が何故受験勉強を頑張ったのか。それは簡単でありきたりで不純な動機だ。好きな人と同じ高校に行きたかったからだ。

(言葉にしてしまうと、随分とつまらないことに聞こえるな)

 そんなことで引籠りになったのかとみんな驚くだろう。

(いやいや、違うよ。そんな単純なことじゃない)

 その時の私の心情は。もっと複雑でこんがらがって、哀しみと苦しみと情けなさとでぐちゃぐちゃだった。

 確かに好きな人と同じ高校に行けないのは哀しいし残念だ。でも、それよりも頑張った自分が報われないのがつらかった。頑張ったのに叶わないのが苦しかった。高校に落ちたと知ったその瞬間は彼のことは忘れていた。自分のことしか考えていなかった。恐らくそれは本当の恋ではなかったのかもしれない。ただ頑張った自分が惨めで哀しかった。母親の期待に応えられなかった苦しさもあった。哀しみを隠して慰めてくれる母親の顔を見るのがつらかった。

(ただ好きな人と同じ高校に行きたいだけでどうしてあんなに頑張ったんだろう)

 きっとそれはただのきっかけで、私は頑張る理由が欲しかっただけなのかもしれない。理由を見つけてただあの高校へ行きたかったのだ。

 頑張れば叶うと思っていた。不安だらけだったけど、自分は本番に強いと思っていたし、絶対受かると信じていた。震えながらも、絶対大丈夫だと自分に云い聞かせていた。神様にも祈った。自分も頑張った。毎日、毎日。

 頑張っても報われない、なんてことは、この世の中に絶対にないと信じていた。

 でも、落ちた。

 自分の番号がない。

 睛の前が真っ暗になった。本当に真っ暗だった。

(こんなことって本当にあるんだな)

 頭の何処(どこ)かでそう思っている自分がいた。

 ざわめきが遠くで聴こえた。汐騒に似ている。歓声やどよめき。何処か遠くで聴こえた。自分にはまるで関係のない、何処か遠いところ。

 耳を塞ぎたい。

 でも、躰が動かない。

 私の耳は記憶する。そのざわめきを。波の音を記憶する貝殻のように。

 彼の笑い声も聴こえる。

(ああ……受かったんだな)

 私の心に醜い塊が生まれる。黒くて汚い感情だ。嫉妬。哀しみ。それは何だろう。言葉に出来ない。黒い黒い感情。

 好きな人の幸福を素直に喜べない。

 何てひどいんだ、私は。

 それまで、私は、自分はそれなりに性格が良い方だと思っていた。

でも、違ったんだ。

 私は。

 人の幸せを喜べない小さな人間なんだ。

 私は殻に閉じ籠る。耳を塞いで、その場を立ち去る。一目散に。誰とも顔を合わさないように。

(ああ……思い出してしまった)

 涙が流れている。

(泣くなんて何年ぶり)

 まだ涙なんてあったんだ。

 私はぼんやりと椅子に座り続ける。

 醜い感情を閉じ込め、何も見ないふりをしてただ生きてきた。感情をなくし、機械になったふりをして、誤魔化し、誤魔化し。

(ああ……)

 感情を捨てて、或いは深い底に押し込めて、うまく引き籠っていたのに。

(彼のせいだ)

 昔、好きだった彼のことではない。あの名前も知らない高校生のことだ。彼と喋ったせいで色々思い出してしまった。深い奥底に封印したはずの感情が浮かんできてしまった。

(やっぱり外になんか出るもんじゃないな)

 でも、きっと私はやめないだろう。

 夜空の美しさを知ってしまったから。

 私はこれからも夜な夜なゴミ出しをするだろう。生ゴミをせっせと溜めては庭に埋めるだろう。

(私はもしかしたら、もうすでに狂っているのかもしれないな)

 十年も引籠り続けていて精神が普通なわけがない。感情を殺したと云っても、このあり様だ。消えたようでいて感情はしっかりと海底に埋まっていたのだ。

 くるくると光って廻る水の粒。海面の光に向かって昇ってゆく。私は体育座りをして、その様子を海底からじっと見上げている。キラキラ、キラキラ。まるで宇宙のようだ。ゆらゆら、ゆらゆらとずっとこうしていられたら。暗い底に沈んで、じっと動かずいられたら。海面から光が射す。眺めているだけだった私はいつしか泳いで、その元へゆくのだろう。



 睡眠不足だったのか、うたた寝をしてしまい、起きるともう夜だった。結局、本も読まず、ネットもせず、ぼんやりと体育座りをして終わってしまった。

(今日の夜はゴミ出しだ。)

 私はのろのろと躰を起こし、ゴミを集め始める。大して溜まってはいない。そこで、ふと気づく。

(そう云えばこの前ゴミを出してから一週間経ってない)

 いつから私は週に二回もゴミを出すようになったんだ?

(あれ?)

 確かに明日はゴミの日だ。だから、今晩こっそりゴミを出しても構わない。けれど、昨日、一昨日、その前かな? ゴミを出したばかりだ。燃えるゴミの日は月曜日と木曜日だから、大抵日曜日の夜にゴミを出しに行く。日曜日の夜と云うか、日曜日と月曜日にかけての夜だ。

(そう。日曜日に出した)

 なのに、何でまた今日も行く?

 週に二回行ってもいいかなとは思っていたけれど、実際にはまだ行ってないはずだ。

 どうするか。

(ゴミもせっかく集めてしまったし)

 今回は行くことにしようか。これから、ずっと週二回にするかどうかは分からないけれど。

 夜ご飯を食べ損ねたので、お腹が空いている。食料を入れた籠の中を漁り、カロリーだけがやけに高いチョコレートバーを取り出す。ナッツやドライフルーツがみっしり詰まったお菓子だ。そのチョコを牛乳で流し込み、お腹を満たすと、パソコンをつけ時間を確かめる。

(間もなく午前二時だ)

 私は小さなゴミ袋を片手に持って、玄関へ行く。

 玻璃(がらす)戸に顔をくっつけ、いつものように外の様子を窺う。人の気配がないことを確認して玄関を開け、そっと外に出る。

 煉瓦の敷かれた短い小道を通り、庭を横目で見ながら、アスファルトの道路へ出る。

(庭に雑草が増えてきたな)

 このままいったらジャングルになるかも。

(冬になったら枯れるけど)

 芝生はまだらで見た目はイマイチだ。きちんと手入れをした方がいいだろうか。雑草を取って、新しい芝を植えて。

花も適当に咲いている。花びらもぽろぽろ零れ、庭に散らばっている。

(花びらは綺麗だからいいけど)

 雑草は良くないな。

 庭の手入れについては今度考えよう。

 歩きながら、空を見上げる。

 月が昨日より微かに欠けている。天辺より少し西に傾き、カチカチと音を立てて落ちてゆく。

 何故かゆっくり歩いている。いつもはそそくさと早歩きをするか、走るのに。

 ふわふわ、ふわふわ。

 宙に浮いていきそうだ。

 このまま夜空へ、そのまま宇宙へ。

 ゴミ置き場は近いので、どんなにゆっくり歩いてもすぐに着く。私は現実に還って、ボックスの蓋を開け、ゴミ袋を入れる。今日は他に入っていない。

(本当は夜に出しちゃいけないんだよね)

 見つかったら捕まるかな。警察に。逮捕かな。牢屋に入れられるかも。

(まあ、入れられてもいまと変わらないだろうけど)

 いや、変わるか。刑務所にはたくさん人がいる。独りきりではいられないかもしれない。

(それは困るな)

 捕まらないようにしないと。

 まあ、夜にゴミを出したからって牢屋には入れられないだろうけど。

「ふふ……」

 あれ? いま、声を出して笑ったか?

 誰かに見られているような気がする。

 空を見上げる。

 月が傾いてゆく。

「綺麗だね」

 振り返ると、彼がいた。思わず溜め息をつく。

「いま声を出して笑っていたでしょう」

「僕が?」

「うん。聴こえたもの」

「僕じゃないよ。あなたでしょ」

 やっぱり私か。

「どうしてここにいるの」

「散歩」

「どうしてこんな夜中に」

「夜な夜な出歩いてしまう病気なんだ」

「夢遊病?」

「違うよ。ちゃんと起きてる」

「今日も酔ってるの」

「だから酔ってないって。いまもこの前も」

「高校生がこんな夜中に出歩いていて、いいの?」

「いいんだよ」

「不良なの?」

「いまどき不良なんていないよ」

「そうなの?」

「お姉さんこそこんな夜中に何してるの」

「お姉さん?」

「僕より年上でしょ?」

「うん」

「大学生?」

「教えない」

「ふうん。まあ、いいや。もしかしてゴミ出し?」

「見てたんでしょ」

「ううん。ゴミ置き場の前にぼんやり立ってるところを見つけただけ」

「夜中にゴミ出ししてるのを警察に見つかったら逮捕されるのかなって」

「そんなこと考えて立ってたの?」

「うん」

「面白いね」

「面白くないよ」

「大丈夫だよ。そんなことで捕まらないから」

「分かってるよ」

「はははっ」

 夜空に彼の笑い声が響いてゆく。私は思わずシーっと顔を顰める。

「みんな寝てるよ」

「起きたらどうするの」

「熟睡してるよ」

「睡りの浅い人だっているでしょう」

「こんなふうにひそひそしてると、逢引してるみたいだね」

 彼は屈託なく云う。

「逢引……そんな言葉を使ってる人、初めて見た」

 そもそも人と会ってないけど。

 彼は可笑しそうにクスクス笑う。

「あなたは何だか変わってるね」

「夢遊病の高校生に云われたくない」

「だから起きてるって」

「お母さんが心配してるから、早く帰ったら」

「ねえ、今度、何処かに遊びに行かない?」

 ナンパか?

 まさかね。

「無理」

「夜じゃなくてお昼にだよ?」

「無理」

「何で?」

「私は夜しか外に出られない病気なの」

 月を見る。少しずつ傾いてゆく。

 風が吹く。

星が瞬く。

 彼は、そうか、と呟いた。

「あなたも病気なんだね」

「うん」

「夜な夜な出歩いてしまう病気と、夜しか外に出られない病気。僕ら変わってるね」

「僕、ら?」

「まさか、自分は変わってないとでも思ってるの?」

 彼は心底驚いたようにそう訊く。

 私は思わず笑った。

「まさか。分かってるよ」

「笑った」

「え?」

「そういうふうに笑うと、可愛いね」

「そういうふうにって、どういうふうに?」

「さっきは何だか怪しげにひとりで笑ってたでしょ。いまのは何だかいい感じ」

「意味分かんない」

「また明日もここに来る?」

「来ないよ。ゴミの日じゃないし」

「ふうん。そうか」

「じゃあ、私は行くよ」

「うん」

「きみも早く帰ったら? お母さんが心配してるよ」

「ははは。いつもそう云うね。でも、大丈夫なんだよ。お母さんが心配してる、なんてこと、僕の家にあるわけないから」

「どうして?」

「いないから。母さん、家を出て行っちゃったんだ」

「………」

「黙り込まなくていいよ。別に大したことじゃない。よくあることだよ」

「男を作って出て行ったの?」

「うわあ、予想以上にはっきり云うね」

「よくあるって云うから」

「男を作って出て行くって、そんなによくあるの。うちの場合はそんなんじゃなくて、ただ出て行ったんだ」

「どうして?」

「さあ……きっと、僕のことが嫌いになったんじゃないのかな」

「自分の子供を嫌いになるって、そんなによくあることなの?」

「ないかな」

「分かんない」

「でも、片親しかいないなんて、よくあることでしょ。だから、気にしないで」

「別に気にしてないけど」

「そう? やっぱり、あなたは変わってるね。女の子にこの話をすると、みんな同情するよ」

「それを狙って云ったの?」

「ははは。そうだよ」

 彼は笑って、ひらひらと手を振って歩いてゆく。

「じゃあ、またね」

 振り返って、そう云って、去ってゆく。

 私は彼が角を曲がってゆくのを見届けた後、自分も家に戻ってゆく。

 笑っていたけれど、きっとあれは本当の話で、彼は家にひとりきりなんだろう。父親はいるのかもしれないが、母親がいないという現実が、彼には哀しく、つらいことなのだ。だから、夜中にふらふらと出歩いたりしているんだ。

(マザコンかな)

 いやいや、そうじゃない。

 そうじゃない。

 いや、そうかもしれないが、それは悪いことじゃない。

(お母さんに会いたいのかな)

 私は星を眺め、ゆっくりと歩いてゆく。頭の後ろで月が沈んでゆく。

 風が吹く。すうっと頬の上を転がってゆく。それが少し冷たい。

 のろのろと家に戻り、毛布に包まって丸くなる。さすがに暑い。窓は開けられない。エアコンをつけようか。そろそろタオルケットを出そうかな。

(明日でいいや)

 毛布を剥いで、大の字で寝ようか。

 いや、ダメだ。丸まって寝たい。今日は特に。

 少し汗をかきながら、私は毛布に包まり、丸まって睡る。

(タオルケットを出すなら、毛布は洗濯しなくちゃ)

 乾燥機はないから、晴れた日に乾かさないと。ベランダに出なくちゃいけないな。

 うつらうつらとそんなことを考えながら、深い深い睡りに落ちる。

 夢を見るかもしれない。また彼の。街燈の下にいたので、今日ははっきりと顔が見えた。前に夢で見た顔とは少し違っていたけれど、整った顔立ちの、(さみ)し気な睛をした青年だった。青年と云うか、少年と青年の間と云うか。まだ若々しい、男子高校生だ。

 中学校の時に好きだった人と少し似ている。あの時の彼より、もうちょっと可愛い顔をしているかな。

 くすくすと笑いながら、私は睡る。

 何が可笑しいのか。何が哀しいのか。

 私は丸まり、暗闇の底へ沈んでゆく。



 夢を見るかと思っていたのに、何も見なかった。昼寝をしてしまったわりには、夜もしっかり熟睡したようだ。

(真っ暗だった)

 もしかしたら、暗闇にいる夢を見ていたのかもしれないな。

(今日は何をしよう)

 ゴミを集めようかな。

 明日はプラゴミの日だ。資源ゴミの日。プラスチックもペットボトルも普通のゴミに混ぜでしまうので、いつもは出さないけれど。今度から分別してみようか。

(何だか外に出る算段ばかりつけているな)

 いやいや、でも、今晩は行かないよ。行かないと云ってしまったし。

(そうだ。今日の夜は生ゴミを確認しよう)

 土に還ったかどうかを。或いは土に還ってゆく過程を。

 私はベッドから降り、フッとカーテンの向こうに睛をやった。

 何だか音がする。

(ああ、やっぱり)

 カーテンを薄く開けて外を見ると、雨が降っていた。細かい雨だ。見えるか見えないかくらいの雨粒。聴こえるか聴こえないかくらいの雨音。

(久しぶりの雨だ)

 今日は何処へも行けないな。

(まあ、最初から何処かへ行く予定も何もないけど)

 何、云ってんだ。引籠りが。

 私はくすくすと笑い、洗顔と着替えを済ませる。

(雨だと毛布は洗えないな。次、晴れた時にしよう)

 でも、まだ寒くなる日があるかもしれないし、毛布をしまうのは真夏になってからにしようかな。

(真夏に毛布を洗ったり干したり、暑苦しいな)

 ぶつぶつと考え事をしながら朝食を済ませ、パソコンを開く。

 思っていたより時間が経っていた。もうお昼近い。雨が降って曇っているから太陽の位置が分からなかったが、もう随分と昇っていたようだ。

 階下でカタンと音がする。家の中と云うより外だろう。おそらく宅急便のボックスだ。

(何か来たな)

 私はいそいそと階下に降り、外の様子を窺ってから玄関扉を開ける。素早くボックスから箱を取り出し、急いで二階へ駈け上がる。

(時計だ)

 これでパソコンを開かなくても時間が分かる。

 送られてきた時計は思っていたのと少し違った。やっぱり画像と実物では違うだろう。

 でも、実物の方がいい感じだ。盤の水色が流れる水のようで本当に綺麗だ。濃い茶色の樹の枠に水色の玻璃(がらす)がはまっていて、盤そのものはもう少し濃い水色だ。数字はローマ数字で色は紺。針は銀色だ。

(針の色がネットで見たのと違うかな)

 でも、銀色の方がずっといい。

 私は満足して時計を掲げて見る。針がキラリと光る。

(何を反射して光った?)

 カーテンを閉めているし、雨だから、部屋は真昼とは思えないほど薄暗い。水色のカーテンがゆらゆら揺れて、盤の上に影を落としているようだ。その中で光る針が不思議で、私は角度を変えたり、上へ掲げたりして眺めて見る。銀色の砂がさらさらと落ちてゆくようだ。

(綺麗)

 私は満足して、あらかじめ決めておいた箇所に釘を打って、壁に時計を掛けてみる。そして、気づく。

(針が動いていない)

 それはそうだ。まだ電池を入れていない。

 私は壁から時計を外して、裏面を見て、付いてきた電池を入れ込む。途端に針は動き出す。時間が流れてゆく。

(私の躰にも何か電池を入れたら、時間が流れ出すのかな)

 私はぼんやりと思い、時計の針が廻ってゆくのを眺める。パソコンの時間と合わせ、再び壁に掛ける。

 静かな部屋に、カチカチと時計の音が思った以上によく響く。

 時間が流れてゆくのを音で聴いている感じがする。睛の前を川が流れてゆく景色さえ見える。時間が音になり、水になり、さらさら、くるくると流れてゆく。

 雨の音も重なって、まるで水の中にいるようだ。揺れる水色の影と流れる時間。流れていった時間はもう戻らない。遥か彼方へ消えてゆく。

 瞼を閉じていたのか、開いていたのか、私は水の中でゆらゆら揺れていた。気づくと、時間はかなり経っていて、お腹が鳴って、やっと現実へ戻った。

(何か食べなくちゃ)

 もうお昼を過ぎている。朝ご飯も食べていないのに。

 ようやく、重い腰を上げ、何か食べる準備をする。何だか面倒くさくて、野菜だとかたんぱく質だとか、考える気にならない。

(パウンドケーキでいいか)

 レーズンとアップルの入ったパウンドケーキがあるのを思い出し、それを食べる。賞味期限もそろそろだった。

(ちょうどいい)

 乳酸菌飲料でケーキを流し込み、二○分ほど経ってから歯を磨く。歯磨きは食後すぐにはしない方がいいらしい。食べた直後は歯の表面が脆くなってとかいないとか、詳しい理由は忘れたけど。

 ついでにもう一度顔を洗い、さっぱりしたところで、玄関のチャイムが鳴った。

 私はびっくりする。二階の部屋で聞いている時はこんなに響いてこないから。

(何だ、誰だ? 新聞か何かの勧誘か)

 もちろん出ない。居留守を使う。たとえ、どんなに重要な用件がある人が立っているとしても。

 私は無視して二階に上がろうとし、そのついでに玄関の玻璃(がらす)戸越しに映っているその人物の(かげ)を見た。

(あれ?)

 何故だか知らないが、分かってしまった。それが誰なのか。

 彼だ。

 昨日の夜の高校生。いや、もう今日だったか。

(何でここにいるの?)

 私の家は知っているだろうが、だから、何で人の家のピンポンを押す? 庭を覗くだけでは飽き足らず。

 私は近づいていき、玻璃越しに云った。

「こんなところで何してるの?」

「やあ。誘いに来たよ」

 声で私と分かったのか、彼は玻璃越しにそう答える。

「何を云っているの? 無理って云ったでしょう」

「だって、今日は雨だよ」

「だから、何」

「雨だったら夜みたいでしょう」

 いやいや、いや、雨でもちゃんと昼だから。

 私は心の中でつっ込みながら、どうしようかと思案する。

「とにかく帰って」

「どうして」

「夜しか外に出られないって云ったでしょう。たとえ雨でも」

「でもさあ……雨だったら少しはマシなんじゃない。徐々に外に出るには」

「……別に慣らさなくてもいいの」

「どうして?」

「このままでいいから」

「そうなの? 意外だなあ」

「何が?」

「病気、治したいのかと思って」

「何で」

「だって、病気だって云った時の顔がとても哀しそうだった」

「………」

「お母さんに心配かけたくないんだろうなって」

「どうして?」

「だって、僕にいつもお母さんのこと云っていたでしょう」

「何か云ったっけ」

「お母さんが心配してるから早く帰りなって。きっと、自分もそう云う思いがあるから云うんだろうなって」

 私は何も云えない。

 とぼけた顔して、ズバズバと云ってくるこの彼の口をどうやって塞いでしまおうか。

 そう思っているうちに手が勝手に動き、鍵をガチャンと外していた。カラカラと戸を開け、睛の前に立っている彼を見る。

 水色の傘を差した彼の頬に水の影がゆらゆらと揺れている。

(ああ、彼は海底を泳いで来たんだな)

 何故かそんなことを思い、だから、私のことも分かるんだと納得する。

「……お母さんはもう私のことを心配なんてしていない。……もう二度と心配することなんてない」

「そうなの? どうして?」

「死んでしまったから」

 私のその答えを聞くと、彼はゆっくりと笑った。声を出さずに、泣いているように微笑んだ。それはまるでピエロのようだった。

 ピエロって本当にいるんだなと私は思った。こんなふうに笑うんだと初めて知った。

 哀しみを押し隠したような笑顔。

 何処かで見たことがある。

(ああ、夢で見たんだ)

「泣かないで」

 彼が云う。

「泣いていない。泣いているのはきみの方でしょう」

「僕は平気だよ」

「強がらなくてもいいんだよ」

「……僕のことが分かるの?」

「さあ……何となく」

「何となく」

「会いたいんでしょう。お母さんに」

 彼はしばらく黙り込み、

「そうなのかな」

と呟いた。

 彼の睛は揺れていて、それは雨のせいなのか光のせいなのか判断がつかなかった。

 水色の傘の影がゆらゆらと映っているのかもしれなかった。

 雨の音がさらさらと耳に響く。私の耳は貝殻だ。雨音を閉じ込め、記憶する。彼の声と涙の音と一緒に。

「それじゃあ、さあ」

 彼は私を見て、云う。

「僕に付き合ってよ」

「付き合う?」

「うん」

「何処へ?」

「母さんを探す旅へ」

「はっ?」

「うわ、面白い顔」

「冗談でしょう?」

「ううん。冗談じゃない。探しに行くから、あなたも付き合ってよ」

「どうして私が」

「責任取ってよ」

「責任って何でよ」

「淋しいって気づかせたから」

「淋しいんだ」

「ううん、全然」

 私と彼はしばらく視線を合わせ、どちらからも逸らそうとしなかった。

「無理だよ」

 やがて、私は云う。

「夜しか外に出られない病気だから?」

「そう」

「夜な夜な出歩いてしまう病気と、夜しか外に出られない病気、この旅で治るかもしれない」

 彼は確信に満ちた顔でそう云う。

「私の病気は筋金入りだから治らないよ」

「僕の病気も筋金入りだよ」

「いつから病気なの」

「中二」

「全然、短い」

「……短いかな。でも、長いよ」

 そうかもしれない。十年も五年も変わらないのかもしれない。苦しみ、もがく人間にとって、時間なんて全く意味など成さないのだ。

 五年も十年も変わらない。

「だって、海底に沈めば、五分も経たずに死んでしまうんだから」

 私が思わず呟いた声に、彼は反応して、笑った。

「そうだね」

 彼は微笑む。意味が分かったのだろうか。

「雨、止まないね」

 彼はクルクルと傘を回して、空を見上げる。

 世界は水色だ。あとからあとから零れてくる雨粒と、揺れる水色。私たちは海に沈んでいるんだ。もう何年も何年も。

 そこから抜け出すにはどうすればいいのだろう。もがいても、もがいても、届かない光。泳いでも、泳いでも、辿り着かない水面(みなも)。必死で泳いで、上へ上へ向かっているつもりが、いつの間にか下へ下へと向かって行っているのかもしれない。気づかないうちにさらに下へ下へと。上下左右も分からない海底で、くるくる廻り続けているのかもしれない。

 息など、もう続くはずもない。

 助かるには最初の一分が肝心で、もう私はとっくに死んでいるのだ。

「それじゃ、明日、迎えに来るから」

 彼はさらりと云う。

 本気なのか冗談なのか。

「無理だよ」

「無理でも行くんだよ」

 彼はまるで自分に云い聞かすかのように云う。

「今日の夜はゴミ出しする?」

「しないって云ったじゃない」

「明日は資源ゴミの日でしょ」

「詳しいね」

「ゴミ出しは僕の担当だから」

「そうなの?」

「うん」

何処(どこ)に出すの? 違う場処だよね」

「うん。彼処(あそこ)じゃないよ」

「そうだよね。見かけたことないし」

「僕はちゃんと朝にゴミを出すよ」

「朝、強いんだ。夜な夜な出歩いているのに」

「睡れないんだ」

「ずっと起きているの?」

「うん」

「そう云えば学校は? 授業中、睡くなっちゃうんじゃない?」

「ならないよ」

「いまも学校の時間でしょ」

「うん」

「サボってるの?」

「うん」

 彼はしれっとそう云い、傘をクルクルと廻す。

「明日はちゃんと学校に行きなよ」

 私は溜め息をついて云う。

「明日は創立記念日だから」

 分かり切った嘘を。

「じゃあ、明日ね」

 彼はそう云い、くるりと向きを変え、立ち去ってゆく。

(無理だって、云っているのに)

 彼は家の敷地を出たところで振り返り、笑って手を振り、道路を歩いてゆく。彼の姿が視界から消えたところで、玄関の扉を閉め、ガチャンと鍵を掛ける。

「さて、どうしたものか」

 あれ、独り言。また声を出したか。

(ゆるんでいるなあ……)

 まあ、声を出さないと決めている訳ではないけど。彼ともう散々喋っているし。今更。

 ガタガタと崩れてゆく。引籠りの生活が。閉じ籠った殻もぽろぽろと零れてゆく。

 それはきっと良いことなのだろう。誰かが(こわ)してくれる。それを、ずっと待っていたんじゃないか?

「ハハハ」

 明日を想像する。彼と一緒に外に出てゆくことを。電車に乗って、彼のお母さんを探しに行く。彼女が何処に住んでいるのかは分からない。遠いのだろうか。もしかして、歩いて行ける距離? だから、彼は気軽に誘ってきたのかも。

 でも、彼の覚悟を決めたような顔。

(きっと、ひとりじゃ怖いんだ)

 だから、私を。

 でも、私がいたからと云って、何だと云うんだ。私はうまく生きられない。彼より歳は上だけれど、全然、うまく出来ない。何も。何も。

 きっと、ふたりで溺れてしまう。

 深い深い海底で、もがいてもがいて、それでも水面には辿り着けず、ふたりでただくるくると廻り続けるのだ。

 ああ、それでも、ひとりよりはいいのだろうか。ひとりでもがいて泳いで、諦めて蹲ってしまうより、ふたりでくるくると、少しずつでも光の射すもとへと近づいてゆけたら、それでいいのだろうか。

 雨の音がする。流れる水の音だ。するすると消えてゆく。消えては、消えては、現れる。時折、カタンと何かの音がする。

 瞼を閉じる。ここは海底。温かく、冷たい。どん底に慣れてしまうと、それが当たり前になり、いつしか居心地も良くなり、動けなくなってしまう。砂は静かだ。私は貝殻のようにただコロンと転がっている。水の音を記憶して、何度も何度も再生する。くるくると昇ってゆく水の泡。光りながらくるくると。

(ああ、時間は流れているんだな)

 砂が揺れ動く。何かがいる。ちらちらと砂の粒も光る。

 暗い暗い海底で何故、水も砂も光るんだろう。何を反射しているんだろう。真っ暗だと思っていたこの場処の何処かに光のもとがあり、それに反応しているんだろうか。気づかないだけで、海の上では太陽が昇り沈んでゆく。それを知っているんだろうか。

 彼がゆっくりと砂を掻き回す。砂粒が海水の中に広がり、星屑のようにキラキラと光る。私はそれを見る。水の泡と砂の粒が流れてゆくのを、ぼんやりと見つめる。

 彼の手を取り、海面へ向かう。彼も泳ぐのが下手だ。

 それでも泳いでいくんだ。

 覚悟を決めた顔。

 まだあどけなさの残る彼の。

 私も覚悟を決めなければ。



 夜になり、雨が上がったので、庭の土を掘り起こしてみた。

外はひやりと冷たく、空はまだ少し雲が多い。流れてゆく雲の間から光が届く。

 月は少しずつ欠けてゆく。

 バナナの皮は、土に還ったような、そうでもないような、何だか結構まだ原形を留めていた。雨のせいか土が湿っていて、色々な物がぐちゃぐちゃ混ざっていたけれど、土に還ったという感じは全然しない。

(なあんだ……)

 少しがっかりして空を見上げる。

(土に還るには時間が掛かるんだなあ)

 私はぽつんとそこに立ち尽くす。

 冷たい風が吹いてゆく。

 欠けた月が消えたり現れたり。

(お母さんは土に還ったのだろうか)

 手にシャベルを握り、空を見つめたままそんなことを思う。

 もちろん、私が庭に埋めた訳ではない。母親のお墓はきっと実家の祖父母と同じ場処だ。祖父母の墓参りには何度か行ったことがある。

 土葬のわけはなく、きっと火葬だろうから、土に還るというより、空に昇ってゆく感じだろうか。灰になって、塵になって、空気に溶けてゆく。躰を構成していた小さな粒が散らばり、そこかしこに漂っているのだろう。もしかしたら、いま吹いた風の中にも母親の一部があったのかもしれない。

 そして、こんな私を見て何と思うだろう。

 夜とは云え、庭の中とは云え、外に出ているから、少しは安心したかな。

「フフフ……」

 全然、安心できないか。

 私はもそもそと家に入る。

 色々な感情が沸き上がる。

 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

 私は謝り続ける。

 誰に? 誰にだろう。

「ハハハ」

 私は笑う。

 涙が零れる。

 彼のせいだ。彼が海底を掻き回した。

 彼は淋しいと気づかせた責任を取ってと云った。私も彼を掻き回した。

(そうだ。責任を取ろう)

 彼と一緒に行こう。彼のお母さんを探して会わせてあげるのだ。

 私は明日の準備をする。午後に届いた新しい服。薄いピンクと紺のボーダーのカットソー。インディゴブルーのデニム。それから、チャコールグレーのパーカー。

(これを着て行こう)

 私は決意表明して、ベッドの脇にそれらを置く。

 昔、使っていた財布を準備する。財布なんてもうずっと使っていないから、何だか変な感じ。ネットでしか買い物をしないから、現金を使う機会など全くなかったし、そもそも外に出てお店に行かなければ、使いようもない。中学生の頃に使っていた安物の財布をじっと眺める。紺と赤のチェック柄で、ファスナーの付いた二つ折りの財布だ。子供っぽくて古臭い。中を開けてみると、千円札が三枚と小銭が少し入っていた。

(これで足りるかな)

 一応、キャッシュカードも入れておく。全財産が入った通帳のカードだ。それで一生暮らしていかなければならない。贅沢しなければ大丈夫。引籠りの一因でもある。

(さあ、寝るか)

 早起きしなければならないだろうから。目覚まし時計をかけておく? いや、そもそも目覚まし時計なんて持ってない。子供の頃に使っていたものがあったかもしれない。いや、でも大丈夫。きっと自然に睛が醒める。

 とにかく睡ろう。明日のために。

 明日というか、もう今日か。十二時はとっくに過ぎている。

 睛を瞑る。夢を見る。電車に乗って、遠くへ行く夢だ。行先は分からない。睛の前には彼がいる。名前も知らない高校生。彼が笑う。その顔が少しずつ変わってゆく。私もいつの間にか中学生に戻っている。彼も中学生だ。学生服を着ている。

 私がかつて好きだった人。

「○○さんは、高校どこを受けるの?」

 彼が訊いてくる。

 私が答えると、彼はほわっと笑った。

「僕と一緒だ」

 その笑顔を見て私は思い出す。

 彼は優しい人だった。少しぽやんとしてて、真面目で、頭がすごく良かった。彼と同じ高校に行きたくて私は頑張ったのだ。

「一緒に行けるといいねえ」

 現実に彼がそう云ったことがあったのかどうかは覚えていない。ただの夢なのか、ただの願望なのか。でも、そんなことを云いそうな人だった。同じクラスで、そんなに喋ったことがあるわけではない。彼はどちらかと云うと大人しい感じで、女子とわいわい騒いだりするタイプではなかった。私もそんなに積極的なわけではなかったから、密かに見つめている感じだった。

(ああ……色々と思い出す)

 これは夢なのか、記憶なのか、妄想なのか、ごちゃ混ぜだ。

 彼と一緒に電車に乗ったことなど一度もない。

「これから何処へ行くんだろうねえ」

 彼は窓の外を見て、のんびりと云う。さらさらの前髪が風に揺れている。

(ああ、これは夢だな……)

 夢なら醒めなければいいのに。

「○○さんの将来の夢は何?」

 私が答えに困っていると、彼はにっこりと笑った。

「僕の夢はねえ……土星に行くことなんだ」

 いやいや、実際の彼がこんなことを云ったわけではない。きっとおそらく、これは私の夢なのだ。卒業文集に書いてあった彼の夢は、政治家だった。すごく意外に思ったからよく覚えている。意外に思わなくても覚えていたかもしれないけれど。

「土星に行って、輪っかの上を滑りたい」

 間違いなく私の夢だな。これは。

「何を笑っているの」

「笑ってないよ」

 あ、声が出た。

「○○さんはいつも笑っているよねえ」

 そうか。昔はいつも笑っていたのか。

「僕の夢が変だから笑っているの」

「ううん。私も土星に行きたいって思うよ」

「やっぱり」

「やっぱり?」

「僕と○○さんって気が合うと思ってたんだよねえ」

 私は顔が赤くなるのを感じた。

 これは夢だ。決して叶うことのない、儚く哀しい夢だ。

 私たちは同じ高校に行くことはない。

「△△くんは、いま、どうしているんだろう……?」

「え? 何?」

「うん。未来のことだよ」

「未来?」

「△△くんは高校合格するけど、私は落ちるんだ」

 言葉にするとすごく哀しい。

「そんなこと云ってると、現実になっちゃうよ」

「現実なんだよ」

「未来が分かるの」

「うん。私は未来から来たんだよ」

 彼はふふっと笑う。

「やっぱり○○さんは面白いねえ」

 カタンコトン……と電車は走ってゆく。

 現在の彼はきっと夢を叶えて政治家になっているかもしれない。そうでなくても、何処かに勤めて、立派な社会人になっているだろう。彼は頭が良くて努力家だった。叶えられないことなんて、きっとない。

「どうして泣いているの」

 気が付くと頬の上を大粒の涙が転がっていた。

「高校合格……おめでとう」

 私は涙と共にぽつりと呟いた。

 彼は笑って、私の頭をぽんぽんと撫でてくれた。

 彼は優しい。現実の彼も本当にこういうことをしそうだ。屈託なく、笑う……

 夢が醒めてゆくのが分かる。現実に還る。

 現実は何も変わらない。想像しているだけでは何も変わらない。

 するすると水の中を抜け、ゆっくりと睛を醒ます。

 まるで生まれ落ちてくるようだ。

 苦しい。苦しい。

 私はもがき続ける。



「………」

 夢を見ていた。

 よく覚えていない。涙の跡がある。記憶にはないけれど、微かな残像がふわふわ揺れている。

 哀しい夢を見ていたようだ。それだけは何となく分かる。

 今日は名もなき高校生と外へ出る日だ。彼のお母さんを探しに行く。雨も降っておらず、出掛けるには絶好の日和なのだが、果たして私は大丈夫なのだろうか。

 長い長い引籠り。

 私は今日やっとそこから抜け出せるんだろうか。

(あれ?)

 夢の欠片をほわっと思い出したような気がした。

 中学生の頃好きだった彼の笑顔が脳裏を過ぎってゆく。

 幾つもの記憶がポコポコと現れては消えてゆく。シャボン玉のようだ。虹色に輝いて揺らめいてはパチンと弾けて消えてゆく。海底から昇ってゆく水の泡のようにくるくると廻って海面に消えてゆく。

(もしかしたら宇宙もこんな感じなのかもしれない)

 幾つもの宇宙がシャボン玉のようにポコポコと現れては消えてゆく。ぶつかって重なり合ったり、弾けて消えたり、次から次とまた生まれて、幾つも幾つも宇宙が出来上がるのだ。私はその一つの宇宙に住んでいて、そして、それは弾ける間のほんの一瞬のことなのだ。

 広大な宇宙を想うと、自分は何てちっぽけなんだろうと思う。でも、不思議とそれは嫌な感覚ではない。宇宙が果てしなければ果てしないほど、自分の心も同じように広がってゆけるような気がするのだ。自分がどれだけちっぽけでも何かの一部ではあるのだと思うと不思議になる。

(何個も何個も宇宙があって続いてゆくのなら、一つの宇宙だって、ちっぽけなものなのかもしれない)

細胞が生まれては死んでゆくように、宇宙の一生もそんな感じなのかもしれない。一つの宇宙も広大な何かの一部でしかないんだ。

その一つの宇宙には幾つもの銀河があり、星系があり、恒星があり、そして、数え切れないほどの惑星が存在するんだ。その中の人間は本当に針の点のようで、それすらもないほどの儚い存在で、みんな一生懸命に生きている。

その人間の中にも幾つもの細胞があって、微生物やら細菌やらが住んでいて、原子やら粒子やら、どんどん小さくなってゆく。

(不思議だなあ)

 何処までも続いてゆく世界。

 果たして終わりがあるんだろうか。

 私はぼんやりと考える。

(何個も何個も宇宙があるとすると、何処かには私が幸せになれる世界もあるのかな)

 何処に行っても同じか。

 私はぼんやりと待つ。

 身支度を整え、時計をじっと見る。カチカチと針が廻ってゆく。瞬きもせず見つめていると、時間の速さが時折、微妙に違うように思えた。速くなったり遅くなったり、或いは止まっていたり。

(そんなわけないか)

 時計はもう一〇時を過ぎている。

 ただ眺めているだけでもう何時間も。

 彼は何時に来るんだろう。もうそろそろかな。午後ってことはないだろう。

 カチカチ、カチカチ……時間は廻る。何時間も何時間も、私はこうしている。いつまででも。いつまででも。睛を開けているのに、閉じているような気になってくる。視界がぼやけ、見えているのに何も見ていないような、機械にでもなってしまったような感じがする。時計の音が自分の心臓の音に重なり、カチカチと歯車の一部になる。

 瞬きが出来ない。視界が固まり、時計の針から睛が離せない。焦点も合わず、見えているのに、いま何時なのか脳が理解できない。金縛りにあったように、私は動かず、時計を見上げている。秒針は何周廻ったことだろう。私の躰がカチカチと機械になりかけ、もうそろそろ完全に機械化してしまいそうになった頃、ようやく呪縛が解け、私の視界がゆっくりと定まった。時計がはっきり見え、いま何時なのか分かった。

 もう正午をとっくに過ぎている。

(遅いな……)

 私は立ち上がり、伸びをする。

 とりあえず、腹ごしらえをする。かなり歩くことになるかもしれないから、体力はつけておかないと。

 乾いたパンをもさもさと食べながら、また時計を見る。時間が気になって仕方がない。

(また機械になる)

 私はドリンクヨーグルトでパンを流し込み、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。

「来ない……」

 声になったのか、ならなかったのか。その呟きは時計の大きな音に掻き消される。

(………)

 結局、彼は来なかった。

 お母さんの処へ行くのだから、午前中には出発するのだろうと思っていたのだが、どうやら違うらしい。もしかしたらと思い、昨日と同じ時間まで待ってみたけど、やっぱり来ない。

 夜しか外に出られない私を気遣って、夕方頃から行くのかな。

 それとも、彼のお母さんは近い処に住んでいて、出発が遅くても大丈夫だとか。

 色々と云い訳を探してみる。

「………」

 彼はお母さんの居場所を知っているのだろうか。探すと云うくらいだから、知らないのか。それなら、やっぱり朝早くとかに出発するんじゃないか。

 もう午後の三時を過ぎている。

(今日はもう来ないんだな……)

 私は不意にそれが分かった。その勘はきっと当たっている。

 彼は来ない。

(気が変わったんだろうか)

 分からない。

 分かるのは、彼は来ないということ。私が意外と楽しみにしていたということ。

 外に出るきっかけを待っていたんだな。

 それなら、ひとりで外に出てみればいいんじゃないか。すっかりその気になっているんだから。

 まだ外は明るい。行くならいまだ。もう少ししたら仕事帰りの人たちで街や駅は賑わってしまう。いまならまだ人もまばらだろう。

 そう考えているだけで、結局、腰は上がらないのだろうと思っていた。じっと座って、(うずくま)っているのだろうと思っていた。

 それなのに、何を思ったのか、何も考えていないのか、いつの間にか私は外に飛び出ていた。

 鍵までしっかり掛けている。

「………」

 私は一目散に歩き出す。

 何処へ行く?

 駅だ。

 とりあえず。

 彼の代わりにお母さんを探してあげるのか? いやいや、居場所を知らない。

 勢いにのってとりあえず歩く。ずんずん歩く。

 外は明るい。明るい。太陽が光っている。空は碧く、澄み切っている。昨日の雨が残っているのか、やけに瑞々しい。すごい速さで歩く。すれ違う人が少し驚いて私を見る。そんなにおかしいか? でも、歩調を緩められない。

 何でまた私はこんなことを。

 後悔する。家に戻りたい。もう少し彼を待ってみれば良かった。どうせ、来ないだろうけど。待って、待って、ずっと家で蹲っていれば良かった。

 住宅街を抜け、駅の方へ歩いてゆく。まだ下校時間でも退勤時間でもないからか、人はそんなにいない。子連れの主婦や老夫婦がのんびり散歩している。時折、私のようにせかせか歩いている若者もいる。暇な大学生がアルバイトにでも行くのか、友人や恋人の元へでも向かうのか。

(私はどんなふうに見られているのだろう)

 駅に近づくにつれ、人も増えてくる。若者が多い。大学生はやっぱり暇なのだ。サラリーマン風の人もちらほらいる。すごいスピードで自転車で過ぎ去ってゆく人、それから小学生が何人か。お金持ちそうな専業主婦の団体。

 私の勢いは次第にダウンしてゆく。人にぶつかり、怖いお兄さんに悪態をつかれ、ついに立ち止まる。通りの隅っこで、息をつき、空を見上げる。

 雲がゆっくりと流れてゆく。空がさっきよりも水色で、建物と建物の間で四角く切り取られている。

 ざわざわと賑わう駅前通り。私はこんな処まで来てしまった。十年前より随分と小綺麗になっている。都会的になって、お洒落なお店もたくさんできている。

 不意に自分の格好が恥ずかしくなる。新しい服とは云え、家で着るような普段着だ。バックも何も持たず、子供っぽい財布がポケットに入っているだけ。手ぶらで呆然と立ち尽くす私を、不審そうに何人かの人が眺めてゆく。それでも、殆どの人は私には無関心だ。

 私は流れてゆく雲をじっと見る。

(帰ろうか……)

 行く当てなど何処にもない。何故、ここに来てしまったのか。何かが変わるとでも思ったのか。

 久しぶりの碧空は新鮮で、白い雲も街の騒めきも、街並みも、まるで夢のようだ。吹き抜けてゆくビル風が私の髪を揺らす。ぱらぱらと何かの花びらが舞い上がってゆく。陽だまりの中で陽炎のように街並みが揺れている。幻のようだ。私は立ったまま夢を見ているのかな。ざわめきが汐騒のように耳に届く。何処か遠くで聴こえるようだ。いくつも並んだ窓硝子(ガラス)がつるりと光る。

 私はじっと動かず、それらを見る。私の瞳にも同じものが映っているのだろう。

 どれくらいそうしていたのか。何時間も経ったようでもあるし、数秒しか経っていないようでもある。

 不意に私は視線を宙から戻して、焦点を世界に合わせる。

 ざわめきが、ぼやけた視界が、次第に現実のものとなってゆく。

 人、人、人。色々な人たちが交叉してゆく。人が通りを流れてゆく様は血管を流れる赤血球の群れのようだ。私はひとり立ち止まり、血管の中の瘤になっている。

(まあ、赤血球なんて見たことないけど)

 私はゆっくりと歩き出す。時折、人とぶつかり、舌打ちをされる。すみません、と声が出ない。流れてゆく人々は機械のようで、私はうまくそれに組み込まれない。仕方なく流れから外れ、隅に沿って歩いてゆく。駅から離れ、人通りが少なくなってくると少し落ち着き、周りの様子を窺う余裕が出てくる。

(みんなせわしそうに何処へ行くんだろう)

 金曜日だから飲み会とか色々あるのかな。

 眩暈(めまい)がしそうな流れの中で一際ゆっくりと流れている処がある。私はそれに気づき、先程から其処をじっと見つめている。その穏やかな流れの中には人がいる。正確に云うと、その人の周りだけがゆっくりと時間が流れているんだ。

 何だろう。睛が離せない。

 彼は他の人たちと同じように急いで歩いている風なのに、何故か私の睛には時間が止まっているように見える。オーラか何かが違うんだろうか。

(私はいままで人にオーラなんて見えたことないけど)

 彼の横顔。輪郭。見覚えがある。前髪が長くて睛の部分がよく見えない。彼の顔をよく見ようと、思わずそちらの方に歩いてゆく。

「あ……」

 声が掠れた。

 僅かなその声を聞き逃さなかったのか、彼はふわっと振り向いた。

 彼は一瞬、止まって、それから、驚いたように私を見る。

「もしかして」

 彼の声。

 ああ、思い出す。音って、こんなにも記憶を呼び戻すんだ。

 あまり変わらない。けれど、少し大人びた声。昔と同じ屈託ない笑顔。

 記憶がぶわっと躰じゅうを駈け廻る。遺伝子が血液に乗って流れてゆくようだ。

「もしかして、美咲さん?」

 私は少し震え、コクリと頷く。

 彼は嬉しそうに笑う。まるで少年のようだ。そのまま大人になったような感じ。全然、変わらない。いや、背も伸びて、少し格好良くなった。少し? いや、かなり。

「すごい久しぶり」

「あ……あ」

 声が出ない。十年間も声を出していないからだ。

名もなき高校生とはすんなり喋れたのに。いや、あれは夢だったのかな。幻を見て、誰か人と喋ったような気になっていただけだったのかな。だから、彼は今日、来なかったのだ。その方がしっくりくる。

「美咲さん? もしかして、僕が分からない?」

 私は慌てて首を横に振った。

「……佐伯くん」

「そう。当たり」

 彼はフフフと笑う。

「中学校卒業以来だねえ」

「……うん」

「美咲さん、同窓会に一回も来ないし」

「ごめん」

「いや、謝らなくてもいいんだけど。忙しかったの?」

「……うん」

「そうかあ」

 私は自分のことを何か訊かれる前に慌てて会話を探した。

「佐伯くんは……いま何をしてるの」

 彼はスーツ姿とかではなく、ジャージのようなものを着ている。だから、余計に幼く見えるのだ。

「仕事?」

「うん」

「高校の教師だよ」

 ああ、なるほど。

「そうなんだ……教科は何」

「生物」

「え」

 私が思わず声をあげると、彼はきょとんとして私を見た。

「どうしたの」

「卒業文集に政治家になるって書いてあったから、政治とか経済とか社会系の教科かと思った」

「ふふっ、よく覚えてるね」

 私は顔が赤くなる。

「卒業文集に書いた政治家っていうのは冗談なんだあ。僕ね、本当は宇宙関係の仕事に就きたかったんだ」

「へえ……」

 私は思わず感嘆の声を出す。

「興味ある?」

 彼は睛を光らせ、私に訊く。

「う…うん、少し」

「やっぱり? 僕もねえ、宇宙が好きで、いつか宇宙に行きたいと思っていたんだ」

「うん」

「土星のリングを廻ってみたくて」

「え」

 私は思わず笑ってしまった。

「変?」

「ううん。私も同じこと思ったことがあるよ」

「やっぱり?」

「うん」

「土星の輪っかをリングの上から眺めたいんだよねえ」

「でも、どうして生物なの?」

「本当は物理を選択したかったんだけど、壊滅的に物理の成績が悪くて」

「ああ……」

「だから、諦めて生物にしたの。宇宙の生物のことを調べるのもいいかと思って」

「そうかあ……」

「うん。でも、結局、高校の教師になったんだけど、楽しいよ」

「頑張ってるんだね」

 私が云うと、彼はふふふと笑った。それから、腕時計を見て、あっ、という顔をした。

「行かなきゃ。部活の生徒たちに風船たくさん買ってきてって頼まれてたんだ」

「風船……」

「美咲さんはこれから何処かへ行くの?」

「……お母さんを探しに」

「お母さん、迷子になっちゃったの?」

「ううん。去年、亡くなって……」

「そうか……」

 彼はしばらく黙り込む。

「じゃあ、お墓参りに行くんだね」

 彼は少し淋し気に微笑んで、私の頭をぽんぽんと撫でた。私はびっくりする。

「ああ、ごめん。生徒たちにするようにしちゃった」

「……こんなこと生徒たちにしたら、好きになられちゃうんじゃない?」

 私が云うと、彼は笑った。

「じゃあ、またね」

 彼は手を振り、去ってゆく。

 私は触られた頭を手で押さえ、しばらくそこに佇んだ。

 じゃあ、お墓参りに行くんだね。

 彼の言葉と手の感触が頭に残る。

 もっと色々話したいことはあった。

 風船は何に使うの? とか。

 高校合格おめでとう。とか。今更だけど。

 私はぼんやりと駅の方を見つめる。彼の姿はもう何処にもない。風船を買いに行ったのだ。それとも、夢だったのか。都合よく彼が現れるわけがない。誰も彼もすべて幻。

「はは……」

 お母さんを探しに行く。

それは、私の場合はお墓参りになるのだろう。お墓の場処は知っている。

 じゃあ、お墓参りに行くんだね。

 彼は云った。

 行くことが出来ない理由など何もないかのように。それは、そうだ。行けない理由など本来なら何もない。子が親の墓参りに行く。当然のことだ。それをずっとせずにいた。

「行かなきゃ……」

 何故?

 彼の期待を裏切りたくないからそう思うのか。

 期待?

 彼は私に何も期待なんてしていないだろう。そもそも期待するようなことでもない。

引籠りだと知られたくない。彼にだけは。多分、そうなのだろう。けれど、もう二度と会うことはないであろう彼を、何故、気にすることがあるのだろう。

違う。そうじゃない。

彼は変わらず、真っすぐ生きていた。擦れることも曲がることもなく、少年の頃のまま。それが、とても眩しく羨ましかった。夢を諦め、哀しい思いもしたのだろうに、それでも、笑って生きていた。

私は何をしていた? 彼に嫉妬して、蹲っていただけだ。意味もなく、ただ、惰性のままにだらだらと。

私が引籠りだなんて、彼は夢にも思っていないだろう。それとも、知っていただろうか。知っていて、それでも、屈託なく、笑ってくれたのだろうか。

私は彼が好きだった。

穏やかで、柔らかそうでいて、芯の強い彼を。私は知っている。どんなに辛いことがあっても、決してめげない彼を。負けることを恐れず、無謀なことにでも果敢に挑戦してゆく彼を。だから、私は、彼が好きだったし、彼に会わず顔がなかったのだ。それで、いままで引き籠ってしまった。

彼に云ってしまいたい。私の十年間を。無駄で駄目な時間を費やしてきたことを。きっと、彼は笑って頭を撫でてくれるだろう。彼は知っている。この世にはどうにもならない哀しみがあることを。自分の力ではどうにも出来ない感情や張り裂けそうな苦しみがあることを。彼は知っていて、乗り越えてゆくんだ。

彼は頭が良かったけれど、すべてがうまく出来る人ではなかった。不器用だったし、運動も苦手なようだった。お喋りが得意でもないし、どちらかと云うと目立たないタイプだ。そのことで、辛い思いをしたこともあったようだ。けれども、彼はいつでも笑っていて、みんなに優しかった。普通、自分に余裕がある時しか人は他人に優しくできない。切羽詰まった時に本性が現れるものだ。彼は、自分が辛い時でも人に優しくできた。それは、すごいことだと思う。

私は彼の合格を喜ぶことが出来なかった。心の狭い人間だ。もし立場が逆だったとしたらどうだったか。間違いなく彼は私の合格を喜んでくれただろう。たとえ自分が不合格でも。涙は見せず、笑って、祝ってくれただろう。

彼はひとりで泣くのだ。

そのことを私は知っていた。私だけが気づいていた。

誰にも見られないようにひとりで泣く。だから、私は彼を好きになったのだ。

私とは違う。

私は自分が哀しいとすぐ顔に出して、慰めてとアピールする。辛いことを隠そうとせず、決して我慢などせず、悲劇のヒロインのように振る舞うのだ。そのくせ、変にプライドが高く、負けず嫌いで、頑張っても出来ないことが嫌で、もうやめたと云ってすぐ諦める。負けてしまう悔しさに耐えられないから、最初から戦わない。初めから頑張らなければ何も哀しむことはない。頑張っても報われないのが何よりも耐え難く、だから、私はそれまで何も挑戦しようとしなかった。

でも、私は彼を知った。

倒れても倒れても何度も立ち上がり、果敢に挑戦してゆく彼を見て、私も心を動かされた。彼を見ていると、頑張るのも悪くないと思うようになったのだ

(そして、戦い敗れて、引き籠っている訳だが)

 彼と会わなければ、私は頑張ることなどなく、ただ何となく生きて、だらだらと、それなりに過ごしていたのだろう。こうして引き籠ることもなかったのかもしれない。

 それじゃあ、彼が悪いのか?

 私は思い切り首を横に振る。

(私の莫迦(ばか)

 そんなわけない。

 そんなわけがない。

 涙が零れる。

 私は彼が好きだ。

 どうしてだろう。

 私は立ち尽くし、泣きじゃくる。涙が止まらない。

 彼が好きだ。

(何とかしなければ)

 このままでは引籠りの原因が彼になってしまう。私が悪いのに。彼のせいにして、私はまた逃げてしまう。

 私は卑怯だから。

 いや、ダメだ。自分を責めては。それを云い訳にして引籠り続けるわけにはいかない。

 私は走り出した。すれ違う人が驚いたように私を見る。そんなにすごい形相で走っていたかな。

 私は風のように走り、家へ戻った。

(何とかしなければ)

 そればかりを考え、部屋へ入り、毛布に包まった。

 ああ。

 またここに戻っている。

 あのまま電車に乗れば良かったか? いや、焦っては駄目だ。何も出来ず、打ちのめされて、ただすごすごと戻って来るだけになる恐れがある。

 大丈夫。まだ、今日は。これからどうするか、じっくり考えよう。とりあえず、そうだ、いまは休もう。計画を立てる。(ねむ)る。睡ろう。混乱する。

 睡りたい。睡って夢を見たい。中学生の頃に戻って、彼の姿を見ていたい。ひとりでこっそり泣く彼を慰めてあげたい。

 どうして、あの時、声を掛けなかったのだろう。

 中学生のある時、初夏だったと思う、何があったのか、彼は屋上へ続く誰もいない階段の隅で、ひとり静かに泣いていた。

 誰かにからかわれたのかな。違う、彼は大人しいけれど、そんなことをされるタイプではない。先生に怒られたとか。それも、ない。そんなことで彼は泣かないだろうし、まず怒られたりすることもないだろう。まさか、失恋? いや、それもないだろう……違うと思いたい。彼に誰か好きな人がいるなんて考えたくない。部活のことかな。それともテストの点数が悪かったとか。

 私はぐるぐる考えて、階段を昇って行こうかどうしよか、散々迷っていた。

 放課後の校舎は静かで、落ちてゆく太陽の光がぼんやりと辺りを照らしていた。

「誰かいるの?」

 階段の上から声がして、私はビクッとして、顔を上げた。

 チラチラ瞬く夕陽の中を彼は降りてくる。影になって彼の表情がよく見えない。

(綺麗だな……)

 こんな時に私は思う。淡い光が彼の髪の毛をキラキラと光らせ、影になった彼の左の頬と白く照らされた右の頬が対照的で、芸術的とさえ云えた。私は睛を細めて降りてくる彼を見ていた。天使のようだ。私はそんなことを思い、睛を逸らすことが出来なかった。

 降りてきた彼はもう泣いてはいなかった。

 気のせいだっただろうか。

 いや、違う。微かに涙の跡がある。

「何をしていたの? 屋上にいたの?」

 私は訊いた。

「うん、空を見ていたんだ」

 彼は嘘をついた。

 階段の隅にいるのを見ていなければ、彼が泣いていたなど微塵も疑わなかっただろう。

 ああ、この人はこっそり泣くんだな。

 辛さや哀しみを人に見せたりしないんだ。ひとりで戦って、ひとりで乗り越えていくんだ。

 私は彼を尊敬する。優しくて脆くて、でも、とても強い。

「夕陽が綺麗だった?」

「うん」

 彼は微笑み、悩みを胸に押し込んだ。

 私は何も訊かず、何も訊けず、知らないふりをした。

 頭をぽんぽんと撫でてあげれば良かった。彼がそうしてくれたように。でも、もう遅い。彼は私などいなくても自分で立ち直れる。それが、哀しい。

 思い出は美しく、現実とは違う映像が流れ出す。

 私は優しく彼の想いを聞き、言葉に出来ない彼の苦しみを受け止める。そして、そっと彼の頭を撫でる。彼の気持ちが少しでも慰められるように。柔らかい髪の毛。私はいつまでも撫でてあげる。彼ははらはらと涙を零す。誰にも見せなかった涙を私だけが知る。ありがとう、と彼は微笑む。声にならない。夕陽を背景に彼の笑顔はとても綺麗だ。

 ああ、これは夢か。

 私は夢の中へ落ちてゆくんだな。

 私が彼に救われたように、私が彼を救う。なんて素敵な夢だろう。

 夢は続く。

 現実ではあり得なかった願望を乗せて。

 きっと死ぬ時はこういう夢をたくさん見るんだろう。現実の世界では叶わなかった夢を幾つも幾つも脳が捏造してくれる。記憶が改竄され、あたかもそれが本当の出来事のように、思い出されるのだ。なんて幸せなんだろう。死ぬ時はきっと何もかも叶い、すべてが自由になるのだ。

 私はうとうとと微睡み、死と夢の世界へ沈んでゆく。

 それはかつて経験したことのない幸福だった。



 睛醒めると、妙に躰が軽かった。すべての重荷を降ろしたような、視界が急にクリアになったような、そんな感覚。頭がすっきりして、はっきりと物事を考えられる。生まれ変わったようだ。

(いや、まさかね)

 陽は随分と昇ったようで、部屋はかなり明るい。水色のカーテンを透かして光が射し込み、淡い碧の世界を作り出している。ゆらゆらと碧と光の斑点が揺れ、綺麗だ。

 私はベッドから立ち上がり、思い切ってカーテンを開けた。

(眩しい……)

 世界はこんなにも眩しかったんだな。

 いま、はっきりと睛を開けて、見る。

 庭の樹々が揺れている。緑が光を受けてキラキラ光っている。何かの花が咲いていて、色とりどりの花びらが零れ落ち、風に舞って、空へ消えてゆく。芝生は処々に点々とあり、草は伸び放題だ。

(うーん、綺麗とは云えないな)

 もっと手入れしないと。

 でも、揺れる緑の騒めきは、私の心を和ませた。私は睛を細めて外の世界を見る。夜とは違う。昨日とは違う。掛かっていたベールが剥がれて、すべてが新鮮に見える。

「そうだ。お墓参りに行こう」

 私は顔を上げて、声を出す。

 何だろうか。この気持ちは。

 悪い夢から醒めたような、深い深い海底からやっと這い上がって外の光を眺めているような……

「悪い夢……」

 すべて夢だったのだろうか。昨日、彼に会ったことも、外を出て歩いたことも。それとも、引き籠っていたことすべてが夢だったのか。名もなき高校生に会ったことも、彼の笑顔も哀しみも。

 海底で微睡んでいた私はようやく海面に顔を出す。太陽の光は眩しく、私の頬に突き刺さる。泳いで泳いで必死で辿り着き、もがいて苦しんで息を吐き出し、やっと抜け出せた暗闇は過ぎ去ってしまうとまるで夢のようだ。躰はだるく、疲れ切っているが、その痛みは心地よくすらある。爽快感とか達成感とか未来とか希望とかあらゆる感情が溢れ出し、これから何だってやっていけそうな気になる。

 中学生の頃に戻ったようだ。頑張ればどんなことでも叶うと信じていたあの頃に。

「佐伯くんのおかげかな」

 では、やはり夢ではなかったのだ。昨日、偶然、彼に会えたことも、彼が変わらず素晴らしかったことも、私がいまだに好きかもしれないってことも。

「ふふ……」

 いやいや、それはない。もう私も歳を取ったし、片想いなんてそんなに乙女じゃないし、いや、でも、それとも、あの頃からずっと時間が止まっていたのかな。

 ずっとずっと好きだったのかな。

「それが引籠りの原因かな」

 いや、彼のせいではないけれど。

 ひとり言が多いな。彼と喋って、一度、声を出したから、栓が外れたようにすらすらと流れるのかな。

「………」

 それじゃあ、名もなき高校生と話をしたのは夢だったのかな。

 あれこそが夢だったのかな。それとも、幻か。

 現に彼は来なかった。だいたいにおいて、見知らぬ人と母親を探す旅に出るとかあり得ない。

彼は、私が外に出るきっかけを作ってくれた天使なのかも。哀れな私のために神様が遣わしてくれたのだ。

「………」

いや、違うか。私の想像の産物という方があり得る。私の脳が作り出した幻影。私の好みの顔だったし、佐伯くんをもっと可愛くしたような天使顔だった。

「どっちにしろ、天使か」

 今日はとても天気がいい。空が碧い。空気も澄んでいる。毛布を洗濯し終えたら、お墓参りに行こう。土曜日だから人も多いかもしれない。

 それでも、行くんだ。

 眩しい光が顔を射す。

「シミが出来ちゃうな」

 そうだ。

 化粧水を買おう。安くてもいい。それから、ファンデーションとリップクリームも。

「お金……」

 銀行でお金をおろさないと。それから、花と線香を買って……

「あとは何だ? 何が必要だ?」

 私はバタバタと動き出す。

 とりあえず、毛布を洗う。その間に食事と着替えと準備を済ませ、ベランダに出て毛布を干す。

 こんな風に普通にベランダに出るなんて、何年ぶりだろうか。こそこそせず、びくびくせず、思い切り太陽に顔を向ける。まだファンデーションを塗っていないから、あまり陽を浴びるわけにはいかない。シミが出来てしまう。

 私はテキパキと毛布を干し、雨が降らないことを祈って、ベランダの戸を閉める。

「いざ」

 私は覚悟を決めて、玄関へ向かう。

 あまりきちんとした格好は出来ていない。普段着と呼べるものしかなかったけれど、その中から昔、着ていたものを引っ張り出した。まだ余裕で着られそうだったから着てみたが、大丈夫だろうか。白のワンピースに紺色のカーディガンを羽織る。バックも中学生の頃使っていた、紺色のショルダーバックだ。

「子供っぽいかな」

 この白いワンピースはショーウィンドウに飾られていて、どうしても欲しくて、母親に買ってもらったものだ。思い出す。まだ普通だった頃の私と優しい母親。

 思えば、母はいつも微笑んでいたけれど、何処か淋し気な感じがしていた。父親のことは聞いたことがなかった。自分の両親もなくし、母は孤独だったのだろう。たったひとりの血を分けた私を可愛がってくれた。だからと云って甘やかしていたわけではない。優しかったけれど、躾は厳しかった。すべて私のためだ。でも、私はこんなふうになってしまった。母の育て方が悪かったとは思わない。引籠りになってしまったのはすべて私の弱さだ。もしかしたら、その弱さは母親譲りなのかもしれない。けれど、母はいつも一生懸命で、誰からも責められるところなどない。なのに、私のせいで、きっと肩身の狭い思いをしたりもしたのだろう。

 白いワンピース。経済的理由からか躾のためか、あまり何でも買ってもらったりしたことがなかった。けれど、私が硝子越しにあまりにもじっと見つめていたからか、母親は微笑んで、お店に連れていってそのワンピースを買ってくれたのだ。

白くフワフワの生地でシンプルなデザイン。お気に入り過ぎて、もったいなくて、あまり着ていなかった。

「もっと着れば良かった……」

 いつもデニムとかジャージとかで過ごしていたから、久しぶりのスカートはすーすーして、少し恥ずかしい。

 でも、中学生の頃より似合っているような気がする。

 私は覚悟を決めて、玄関の扉を開ける。

 母親の笑みを思い出す。

「いざ」



 カタン、コトンと電車が揺れる。

 私は微睡み、夢を見る。

 高校生になって元気に過ごしている夢だ。高校に合格し、友達と楽しく学校生活を送っている。

 これは誰の夢? 私の夢? それとも、母親の夢だろうか。

 ああ……夢を叶えてあげられなくてごめんね。お母さん。

 元気いっぱい過ごしている私を見せたかった。たとえ高校に合格しなくても、悩んだり泣いたり、そんな日々が続いても、いつか立ち直って、明るく生きてゆくなら、それで良かったのだ。高校など何処でも良かった。第一志望校でなくても、楽しく友達と笑いあえるなら、それで良かった。

 ごめんね、お母さん。もっともっと早くそのことに気づいて、とにかく外に出ていれば良かったのだ。

 夢は続いてゆく。

 ここが何処の高校なのかは分からない。ただ私は笑って過ごしている。笑っているから合格したのかと思ったけれど、たとえ、第二志望校でも、いつかこうして笑える日々が来ていたのかもしれない。

 友達とじゃれる。好きな人を見てドキドキする。

(青春だなあ……)

 私は何処か遠くからそれを眺めている。

 私は死んだのかな。高い処にふわふわ浮かんで、自分自身の高校生活を眺めている。これは死ぬ前に見ている夢なのかな。夢と願望がこうして叶えられているのかな。

 私はくすくすと笑う。

 高校生活は他愛なく、時には退屈だったり、憂鬱だったり、けれど、ちょっとしたことで笑顔になったり幸せを感じて、何て贅沢な時間なんだろう。

(いいなあ……)

 私は鳥だ。鳥になって、空を渡ってゆく。水色に光った街並み。制服を着た私は坂道を駈けてゆく。鳥になった私は翼をゆったりと広げ、私を眺める。

 息を切らす。それでも、走る。彼を追いかける。振り返って彼が笑う。私も笑う。彼は彼だ。

(ああ、やっぱり高校合格したかったなあ……)

 どんなに隠してもそれは変えられない事実なんだ。どんなに誤魔化しても、心の奥底に潜む願いはなくならない。

 こうして奥底から浮かんできて、夢を見る。

 合格して彼と同じ高校へ行く。もしかしたら同じクラスになれたかもしれない。こんなふうに一緒に登下校できたかもしれない。

(でも、それは叶わなかった……)

 私の夢。お母さんの夢。

 叶わずシャボン玉のように消えてゆく。

 ごめんね。

 叶わないものは叶わないと諦めて、それでも前を行く。そんな強い人間になりたかった。お母さん、ごめん。もし私がそんな風なら、あなたを哀しませることもなかったのに。死ぬまできっと私を心配していただろう。私の笑顔を取り戻したかっただろう。それとも、死ぬ前に夢で叶っただろうか。その中で私は笑っていただろうが。

 これは誰の夢だろう。

 高校生の私が笑って過ごしている。

 母親が死ぬ前に見た夢なのか、私が死ぬ前に見ている夢なのか。

 キラキラ、キラキラと光の中をゆく。未来は広がり、夢は何でも叶う。

(頑張りさえすれば、夢は叶うんだ)

 いまからでも。

 遅くはない。まだ私は二十五歳だ。

 鳥になって高校生の私を見る。怖いものなど何もないかのように前へ進んでゆく。たとえ高校に落ちても大学に落ちても、そばに彼がいなくても、道はずっと続いている。

 高校生の私は後ろを振り返らない。キラキラ光る道を真っ直ぐ歩いてゆく。私は鳥になり、後を追う。

 あなたが幸せでありますように。

 これは誰の願いだろう。

 ただひたすらにそれだけを願う。

(ああ……)

 お母さんだ。

 涙が零れる。

 瞼を開けたら、私は生まれ変わろう。光の道を突き進もう。闇を抜けるんだ。

 一歩ずつ一歩ずつ。

 真っ直ぐに進む彼女のように。



 睛を醒ます。

 朝だ。今日は日曜日。

 気分がいい。

「今日は何をしよう」

 声に出して呟いてみる。思った以上に大きい声だ。でも、誰も聞いていない。

 朝ご飯の準備をするため階段を降りる。昨日の夜、米を研いで、タイマーをセットしておいた。

キッチンを覗く。ご飯が炊けている。ほかほかだ。米は昨日の帰りに、スーパーで買った。コシヒカリ二キロ。

「美味しそう」

 私はおにぎりを握る。米は二合炊いた。おにぎりが六個出来た。

「多いな」

 おにぎりを持って、何処か公園でも行こうか。

 いやいや、無理だ。いきなりそれは。

 とりあえず、朝ご飯に三個食べる。インスタントの味噌汁も飲む。久しぶりの和食だ。

「和食というほどのものでもないけど」

 何とっても米を炊くのが久しぶりだ。と云うか、自分で炊くのは初めてかもしれない。いつもパックのご飯とかパンとか簡単な物ばかり。

「今度は玄米をネットで注文しよう」

 精米機を買って、食べる分だけ精米して、炊いて、おにぎりを握って食べるのだ。味噌汁も飲もう。インスタントではなく。味噌を買って、野菜を育てて、具にして、出汁もとってちゃんとした味噌汁を作るのだ。漬物も漬けよう。

「ぬか漬けとか」

 精米すれば糠が出る。それで作れないかな。

「作り方が分からない」

 そうだ、今日はネットでぬか漬けの作り方を調べよう。精米機と玄米も買おう。

 生まれ変わった気分だ。急に和食。鮭でも焼こうか。

 オーブンに魚焼きグリル。炊飯ジャー。キッチンには何でも揃っている。

 いままで部屋にばかり籠って何も活用してこなかった。キッチンにはこんな大きな冷蔵庫もあるのに。

 炊飯ジャーはちゃんと動いた。オーブンやグリルも動くかな。

「魚も買わなくちゃ」

 ネットでは無理だろう。

 昨日、衝動的に米を買ったように、スーパーに行って魚を買おう。

 キッチンには何やら、パンを焼く機械もあるようだ。私がパン好きだから、母親が買って自家製パンを作ってくれたのだ。気づかなかった。

「あの時のレーズンパンは自家製だったんだな」

 私も作ってみよう。そして、上手に出来たら、仏壇に供えよう。

 和室には仏壇がある。母親の。今日はご飯を供えた。その為に、米を炊いた。いままでずっとしてこなかった。お水も。

 涙が零れた。

 この仏壇は一体誰が作ってくれたのか。母には両親も兄弟もいない。きっと遠い親戚か誰かだろう。葬式を出してくれたのも、何もかにも私の知らない誰かがやってくれた。私は部屋で蹲り、階下で聴こえる音に耳を澄ませていただけだ。

 母親が死んだことは分かった。耳を塞ぎながらも、家の中の尋常じゃない様子はすぐに察した。それでも、部屋を出なかった。人の気配がするなら尚更だ。

 みんな私がいることを知っていたのか、知らなかったのか、事情を知っていてそっとしておいたのか、放っておいたのか。

 誰も扉を叩かない。誰も声を掛けない。

(ああ……お母さんは本当に死んでしまったんだな)

 幾日も幾日も過ぎて、仏壇はずっとそのままだった。コップの水はすでに蒸発し、供えられたご飯は干乾びていた。私は泣きながら、それらを片付け、新しい水とご飯を供えた。

 そっと手を合わせる。

 睛を瞑る。

 流れる涙が熱い。

 お墓もそんな状態だった。とても天気の良い日で、空は碧く、澄み切っていた。陽に照らされた墓石はまるで遺跡のように見えた。光を浴びて、何百年も昔から、ずっとそうしているように見えた。キラキラと、光の粒が舞う。何かの花びらと、緑が舞う。

 それは綺麗だとさえ思えた。碧い空と緑と光の中で静かに佇む墓石は、寂れて、苔むして、空虚だった。途轍もない時間の流れを感じた。

(一年……)

 本当に? 本当はもっと経っているんじゃないの。何千年も何万年もずっとそうして。

 私は立ち尽くす。空を見上げる。空の向こうの宇宙を想う。すごく広大だ。時間も空間も。

(私はいまどうしてここにいるんだろう)

 私は佇む。遺跡を前にして、光の中をキラキラと。私は花を添える。墓石に水をかける。誰もいない。静かな空間が流れる。光の粒の音さえ聞こえそうなほど。

 母は睡る。永遠に。

 永遠って何だろう。時間って何だろう。

 私は手を合わせ、睛を瞑る。

 昨日と今日の区別がつかない。時間は連続して流れてゆく。何年も何年も。過ぎてしまえば、すべて混ざり合ってしまう。砂時計の砂のようだ。さらさら、さらさらと。

 瞼を開ける。睛がチカチカする。

 私は仏壇の前にいる。写真の中で母親が微笑んでいる。

 私も笑う。ぎこちなく。

 苔むした墓石。柔らかい絨毯のような緑色のふわふわした植物。キラキラと光って睛が眩しい。

 風が吹く。髪が揺れる。緑が揺れる。花びらが舞う。空は碧い。

「お母さん、ごめんね……」

 母は微笑む。

 薄暗い和室。私は障子を開け、光を入れる。

 昨日と同じ、碧い空。

 繋がってる。

 私は部屋へ戻り、パソコンをつける。ネットで様々なショップを巡り、一番安くていい商品を探す。とりあえず精米機と玄米。何処のメーカーがいいとか、何処の産地がいいとか、徹底的に調べ回っているうちに、あっという間に時間が過ぎる。

「あらら……」

 結局、今日も引き籠っている。

 でも、今日はカーテンを開けている。玻璃(がらす)の向こうに碧い空が見える。

「進歩かな」

 魚を買いに行こうかな。

 ぐずぐずしているうちに時計の針が廻ってゆく。

 本を読み、ネットをし、ベッドの上でうたた寝する。

 いつもと変わらない。

「気分的には全然違うのに」

 することは意外と変わらないものなんだな。

 私はひっくり返って、窓の外の空を見る。

 雲が流れてゆく。碧い碧い。空。光。

昨日の光景を思い出す。キラキラ舞う光の粒。ちらちら反射する緑と澄み切った碧。白い雲と花びら。時間の流れが色となって瞬いているようだった。

 悠久の時間(とき)。自然と歴史と宇宙と遺伝子と。色々な物が鎖となって繋がってゆく。果てしない。

 瞼を閉じるとそこには宇宙がある。光の渦が幾つも生まれては消えてゆき、私はいつしか睡りに落ちる。

 目醒めると、すべてが弾けて消えて、私はしばらく記憶を失い、ぼんやりとそこに佇む。

「ああ、うたた寝していたのか」

 パソコンはつきっ放し。スクリーンセイバーが働いて、宇宙の様子を映し出している。星の粒がくるくる舞う画像だ。

 時計を見ると、もう六時近い。

「夕方だよね?」

 窓を開けて外を見る。空はまだ明るいが、沈みかけた太陽が見える。もうあと一時間もすれば暗くなってゆくだろう。

 次第に暗くなってゆく様子をじっと眺めていようか。太陽が沈んで、空が水色から紺色に変わる様を飽くことなく見つめていようか。それとも空は紅くなるのかな。水色がピンクになって、紅くなって、それから紫になって、だんだん濃くなってゆくのかな。一番星はいつ光るんだろう。もう光っているのかな。

 私は一番星を探す。

「一番星って金星だよね?」

 あれ? 火星かな。

「いやいや、金星でしょう」

 宵の明星って云うでしょう。

 金星だよね?

 私は空を見上げる。

 風が吹く。涼しい。空は次第に暗くなってゆく。東の空はまだ水色なのに、西の空は濃いピンクだ。それがだんだん紫になり、紺色になり、すべての空が夜空に変わってゆく。いつの間にか星も増えて、チカチカと瞬く。

「薄い墨のような空だな」

 まだ太陽は沈んだばかりで、空はほのかに明るい。それでも星屑は健気に瞬き、消えそうに浮かんでいる。

 気が付くと、月もある。半分より少し大きい。細い檸檬型の月。いつの間に空の真ん中で光っている。

「びっくりしたなあ」

 でも、ここからではよく見えないな。今日は夜ゴミ出しするから、その時によく見よう。

「やっぱり、ゴミ出しは夜だよね」

 いつもと変わらない。

 ジャガイモの皮を剥いて、茹でて、ブロッコリーも茹でて、ゆで卵とプチトマトと一緒にマヨネーズで和える。今日の夜ご飯だ。お米を炊いて、またおにぎりを作り、インスタントの味噌汁を淹れる。窓から夜空を見ながら、それらを食べる。窓を開け、風を受けながら、少し成長したような気になって、思わず笑みが零れる。

 おにぎりを三個も平らげてしまった。朝三個、昼三個。夜三個。

「いくらなんでも食べ過ぎだよな」

 明日は二個にしよう。お昼はパンを焼いて、バターと蜂蜜で食べよう。

「買い物に行かなきゃね」

 ネットで注文したものはまだ届かない。

 明日は、いよいよ外に出よう。普通の人みたいにスーパーに行って、小麦粉と卵と砂糖と味噌と魚と、その他諸々を買いに行こう。

「そうだ、もち麦」

 腸にいいとネットで見た。米に混ぜて炊くのだ。おにぎり三個も食べ過ぎるから、せめてもち麦で食物繊維を取ろう。

 海苔と梅干と味しおと。納豆とキムチと豆乳も買おう。

 風が次第に寒く感じられるようになってくる。今日は気温が低いのか。

「夜風はまだ冷たいな」

 私は窓を閉め、夜空を諦める。

 お風呂に入り、二階へ戻る前に一階のリビングに寄る。テレビのスイッチを入れる。人の話し声や笑い声がワッと流れてくる。私はびっくりしてリモコンを取り落とす。

 随分久しぶりだ。

 テレビの音。こんなに大きかったっけ。

「ボリュームはどこで下げるんだ?」

 私はまるで原始人のようにオロオロと機械をいじくった。

「ああ、これだ、これだ」

 ちゃんと書いてある。

「ハハハ」

 私はまじまじとテレビを見る。見知らぬ芸能人ばかりだ。中には見覚えのある人もいる。随分老けたように見える。私が見た頃は可愛らしい女の子だった。いまは何だかふてぶてしい感じだ。

「私も老けたのか……」

 チャンネルをくるくると変え、一通り見た後、電源を切って、二階へ上がる。

 タオルで髪を拭きながら、ネットを見て、本を読んで、コーラを飲む。

「炭酸、きっついな」

 私は軽く息を出しながら、久しぶりのコーラをじっと見る。泡がくるくると廻って昇ってゆく。暗黒の宇宙を彷徨(さまよ)う惑星のようだ。或いは海底の水の粒。くるくる昇っては消えてゆく。

「うーん、コーラ中毒になりそうだな」

 昨日、米と一緒に何気に買ったコーラだが、躰に悪そうで、癖になりそうだ。

 冷たい飲み物を飲んだせいか、少し寒くなってきた。

 私は上着を羽織り、ゴミ出しの準備をする。生ゴミは埋めるとして、ペットボトルは資源ゴミだから、その他のゴミだ。

 あまり集まらない。ゴミ袋にだいぶ余裕がある。次のゴミの日とまとめてでもいいかもしれない。

「でも、せっかくだから、出しに行こう」

 私はサンダルを履き、ふらふらと外に出る。思ったより寒くない。風は止み、穏やかだ。樹々が微かに音を立てるくらい。

 月が綺麗だ。細い檸檬型。西に傾いてきている。星もチカチカ、チカチカ。

 首が痛くなるほど、夜空を見上げ、よろよろと歩いてゆく。

 星の瞬く音と月が傾く音を聴きながら、ゴミ置き場へ向かう。

 ああ。

 彼がいる。月灯りの下で、ぼんやり立っている。

「やあ」

 名もなき高校生は屈託なく挨拶する。

「幻じゃなかったんだ」

「どういう意味?」

「きみは幻で、私の脳が生み出した何かかと思っていたよ」

「どうして」

「いまにも消えそうだから」

 彼は笑う。

「墓参りに行ったよ」

「へえ、どうだった?」

「涙が止まらなかった」

 彼はじっと黙って、私を見る。

「そうか……いいね」

「何が」

 彼の表情はどこか淋しげだ。

「病気、治ったんだね」

「うん、どうかな」

「まだ引き籠っているの」

 くすくすと笑う。

「そんな簡単にはいかないよ」

「うん、そうだね」

 彼は俯き、小石を蹴る。ゴミ置き場のボックスにカンと当たる。

「元気ないね」

「そう? あなたは何だか元気そうだね」

「普通だよ」

「月が綺麗だね」

「うん」

 私はのそのそとゴミ袋を引きずり、ボックスの蓋を開けて中に落とす。意外に大きい音が出て、私はビクッとして辺りを見回す。

「警察に捕まるよ」

「こんなことで?」

「こんなことで」

「そんなわけないじゃない」

 私はフッと笑う。

 彼は真顔でじっと私を見る。

 月が少しずつ傾いてゆく。海に沈んだような住宅街は静かで、夜空の音さえも聴こえそうだ。

 私は思っていたことを口に出す。

「来なかったね」

 彼は黙って頷いて、しばらく動かない。闇はずっと深い。

「行こうと思っていたんだけど、急に怖くなって」

「そうなんだ」

「そんな簡単にはいかないんだよ」

「うん、分かるよ」

 彼は下を見つめたまま、動かず、それ以来口も開かない。

 泣いているんだろうか。

顔がよく見えない。彼はスニーカーの爪先でアスファルトの上を擦った。

「怖いんだ」

 やがて彼はぽつりと云う。

「うん」

「怖くて動けなかった」

「うん」

「母さんが……」

「うん」

「母さんが新しい家族と楽しそうにしている姿を見て、僕は耐えられるのかな」

 胸が痛い。

「お母さんは新しい家族といるの……?」

 彼は動かない。口を少し開いたまま、じっと闇を見つめる。

「……たぶん」

 私は深く息を吐く。

「そうなんだ」

「新しい旦那さんと、子供と……」

「どうして知ってるの」

「見たから」

「お母さんの居場所を知ってるの?」

「ううん……ショッピングモールで……母さんのお腹は大きかった」

 彼は無表情のまま。

「新しい子供。きっと僕よりいい子なんだろうな」

「きみだっていい子だよ」

「僕は全然いい子じゃないよ。その新しい家族を見たら、僕は何をしでかすか分からない」

「大丈夫だよ。きっときみはその兄弟に優しく微笑みかけるよ」

「ううん。無理だよ。僕は何度も会いに行こうとした。新しい家族をめちゃめちゃにしに……」

 彼の顔は月に照らされ、とても綺麗だ。肌は白く陶器のようで、睛は漆黒で宇宙よりも深い。

「大丈夫だよ。きみは優しい」

「何でそんなきっぱりと云うの。僕のことが分かるの」

「ううん。何となくだよ」

 私がそう云うと、彼は一瞬キョトンとして、それから笑った。

「何となく」

「うん」

「それって、何だか凄く信頼できる言葉だ」

「そうでしょう。私の勘は当たるんだよ」

「根拠のない自信」

「でも、それって大事でしょう」

「そうなのかも」

 彼は笑っている。

 無理しているんだろう。本当は心の中では泣いているんだろう。でも、彼はこうして笑っている。

「きみは本当にいい子だね」

「子供扱いだね」

「子供でしょう」

「うん。そうなのかも。母さんが他人と幸せになるのが許せないんだ。本当、子供だよね」

「まるで駄々っ子だね」

「はっきり云うね」

「でも、それでいいんだよ。子供は我儘で」

 彼の手が震えている。私はその手をぎゅっと握った。

 触れる。

 幻じゃない。

「お母さんにももっと我儘になって良かったんだよ」

「うん」

「会いに行って、何でもぶちまけてきなさい。思ってること全部」

「そうする」

「でも、暴れちゃダメだよ」

「暴れない」

 彼の手は温かい。私は握る手に力を込める。

「幻じゃなかったんだ」

「だから、違うよ?」

 彼は笑顔で涙を流す。ぽろぽろとそれは白い肌の上を転がって、月灯りでチラリと光った。

「綺麗だね」

「何が」

「涙が」

「泣いてないよ」

 彼は片方の手で涙を拭う。

「慰めてあげようか」

「どうやって」

「うーん。家に来て珈琲でも飲む?」

「へえ」

 彼は意外な顔をして笑う。今度は本当の笑みだ。

「うん。じゃあ、慰めてもらう」

 私と彼は手を繋ぎ、そっと私の家の中へ入った。



私が引籠りから無事脱出できたかどうかは、想像にお任せする。




                          おわり


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