水辺の朝
◇ ◇ ◇
「―――ラン、起きて」
「………………?」
誰かが遠くから自分を呼んでいるような気がして、ラウランは薄目を開けた。が、瞼の重さに耐えきれず目を閉じる。
「――ウラン、起きてってば」
「………………」
今度は少し近いところから呼ばれたような気がして、彼女は声の主を確かめようと薄目を開けた。が、焦点が定まるより早く瞼が落ちてしまう。
そんなことが何度か繰り返されて。随分と遠慮がちだった呼び声の主はとうとう、彼女の肩を揺すり始めた。
「おはようラウラン。ねぇ、頼むから、頼むから起きてくれっ」
「なぁに……?」
「起こしてゴメン。ちょっと足を放してもらえないかな?」
「わたしの……足?」
寝惚け頭を奮い起こしたラウランは、自分のタコ足が棒のようなものを握り締めていることに気付いた。何なのかよく分からないが、ただの棒にしては妙な感触だ。蛇腹をつるりと撫でおろすような感じはともかく、なんだか熱いし、脈を感じるような気もする。
よく確かめてみようと足先に力を入れた瞬間。ラウランのすぐ側で悲鳴が上がった。
「い゛~~~っ!」という絶叫。そして、ヴィヒマの声。「ら、ラウラン、頼むから放して!」
――ヴィヒマ?
「な………………っ!?」
ラウランが驚いて目を見開くと、すぐ目の前にヴィヒマの顔があった。目が合うなり彼は真っ赤な顔と少し潤んだ瞳で、切羽詰まったように嘆願してくる。
「お願いだよラウラン、はやく足を――」
「ごっ、ごめんなさいっ!」
眠気の吹き飛んだラウランは訳も分からないままに慌てて足を放し、全速力で彼から離れようとした。が、すぐに彼の手が追いかけてきて彼女の毛布だけを引き戻す。
「ストップ! これ以上は僕が困るっ!」
妙に必死な様子のその言葉にラウランが手を離すと、ヴィヒマは丸くくるまるようにして全身を覆い隠し、寝転がったまま彼女に背を向けた。毛布からハミ出た後頭部の寝癖が、ぴよぴよと揺れているのが面白い。ラウランは笑いを堪えながらも、申し訳なさそうに聞いた。
「ごめんなさい、裸で寝ていたのね?」
「まさかぁ。違うよ」
「では、わたしのお父様みたいに寝ながら脱ぐ癖でもあるとか?」
「え? ラウランのお父さん、そんな癖あるの!?」
よほど衝撃的だったらしく、ガバッと跳ね起きて彼女を見つめるヴィヒマ。なるほど彼の言う通り、はだけた毛布の下は昨日と同じ服を着たままだ。
寝癖の感じが本当にチキン・ピヨピヨっぽいと思いながら、ラウランは説明した。
「成人した貴族は夜寝るときに裸が普通なの。だからお父様、お昼寝の時も城内で休憩の時も、熟睡すると服を脱ぎ始めるのよ。あと、お酒を飲み過ぎたときも。恥ずかしいから止めてと何度も言ったのに!」
「あはは。お酒を飲み過ぎたときは僕の父さんも同じだな」と苦笑して、ヴィヒマは補足する。「僕は脱がないけど。うん」
とりあえず、ヴィヒマが裸でないことは分かった。が、そうなると彼が毛布を必要とする理由は別にあるということになる。ほどなくして思い当たったラウランは、確かめようと彼の顔を覗き込んだ。
「ねぇ、もしかして寒いの?」
「ううん、平気だけど?」
そう答えたヴィヒマの顔は、相変わらず赤みがさして見える。
「あなた、熱があるんじゃない?」
ラウランがヴィヒマの額に触れようとすると、彼は彼女の手のひらに自分の掌を重ね合わせ、そっと押し返した。
「大丈夫。平熱だし何でもないから、僕のことは放っておいて先に顔を洗ってきなよ、ラウラン」
親切でそう勧めてくれているようにみえて、どこか不自然なヴィヒマの笑顔。
――どうも怪しい。
ラウランは彼の手をはねのけて身を乗り出し、少し強気に迫った。
「いいから、ちょっと診せてよ」
「見せて、だって!?」ぎょっとした顔で毛布をしっかりと掴み直すヴィヒマ。「無理、ぜったい無理ムリむりっ!」
叫びながら、壁際を少しずつ這うように後ずさる―――彼は、逃げるつもりだ!
「何でもないって言いながら、やけに必死じゃない」逃走を察知したラウランは彼の上に跨り、再び額へと手を伸ばす。「あら? 前髪に羽毛みたいなのがついてるわよ。とってあげるから、意地なんて張らないで診せなさいよチキン」
「断るっ!」
ラウランの右手を、次いで伸びてきた左手も受け止め、抵抗するヴィヒマ。どうして彼がここまで拒むのか、ラウランにはさっぱり分からなかった。何を隠そうとしてるのかも。
「なによ、そんなにイヤなの?」
と、聞いてしまったことをラウランは後悔することになる。
「いや、本当に熱はないんだって。そうじゃなくて――」そして、彼はラウランが思いもしなかった言葉を口にした。「――気持ち悪い、から」
「気持ち……わる、い?」呆然と復唱するラウラン。「気持ち、悪い……」
―――それはつまり、わたしの足が?
出会ったときからあんなに普通に接してくれてて、本当に嬉しかったのに。まさかその彼が、そんな風に思ってたなんて。
「(分かってる)」
こんな足、自分でも気持ち悪いというのが本心だ。精一杯に強がっても化け物になりきって演じてみても、どうしても消せない不快感と自己嫌悪。本当はこんな足―――いや、化け物じみた自分の姿そのものが気持ち悪くて仕方がないのだから!
脱力感に襲われたラウランが、身をかわすように尻餅をついたその隙に。
「……ごめん、ラウラン」
ヴィヒマが素早い動きで毛布を被せてきた。そのまま彼女は、優しく押し倒される。
そして閉ざされた視界の中で、彼の足音は遠ざかっていった。彼女から逃げ出すように。
用を足し終えたヴィヒマは浮かない顔で、トボトボと小屋の裏手まで戻ってきた。手を洗い、ついでに顔も洗った彼は、雫を滴らせたまま水面を見つめる。
「(ラウラン、気付いたかな)」
彼女が寝惚けているのを利用して、誤魔化しきるつもりだった。が、迂闊にも大声を上げてしまい、彼女の意識を覚醒させてしまったのだ。あの瞬間、彼女も何かしら気付いてしまったに違いない。彼女が握り締めていたヴィヒマの足が、尋常ではないことに。
「……見せられるわけ、ないじゃないか」
かつては健康な人間のそれだったのに、今や全くの別物へと変形してしまっている両足。この気持ち悪い足を目にした彼女の反応を思うと、この上なく怖かった。
自分が彼女の姿を見たときそうであったように、彼女も柔軟に受け入れてくれそうな予感はする。たぶん、きっと、九十九パーセント以上、大丈夫。それでも―――
「……無理だよ」
どうしてだか彼女に関しては百パーセントの保証が欲しくて、ほんの僅かな負の確率に怯えきってる自分がいる。自信がなくて、見られまいと必死に隠して、逃げ出してしまった――意気地なし。
「僕は本当にチキンだな」
彼者誰時の水面から虚ろげにこちらを見つめている、得体の知れない影。嘲り笑うかのように揺らめく鏡映の彼は暗く、人とも魔とも見分けがつかない。
“化け物”
「僕は――!」
ヴィヒマが水面を叩いた、その時だった。
「……っ!?」
水音に混じって耳に飛び込んできた枯れ葉を踏む音に、彼は凍り付く。背中に感じる視線。カサリ、カサリと一歩ずつ大きくなってくる足音は、ヴィヒマの心臓を踏み潰す手前で止まった。
そして、震える背中に声が掛かる。
「おはよう、ヴィヒマさん。貴方に平安がありますように」
いつもと何ら変わらない穏やかな声。
「おはよう、シャマイム先生。今日もいい天気になりそうだね!」
ヴィヒマは陽気に答え、いつもの笑顔で振り返った。―――つもりだった。
「そうですね、今日もよく晴れそうです」と、小さく微笑んだ長身の牧師は、ヴィヒマの目線にあわせるように少しだけ身を屈める。「話してごらんなさい」全てを見透かすような、ウォーム・グレイの瞳。「顔に書いてあることを、言葉に。私でよければ、理由を聞かせてもらえませんか?」
ゆるやかに流れる耳馴染みのよい声は、ヴィヒマの鼓動を静め、緊張から解放した。
「……僕は、怖いんだ」
ヴィヒマは頭を抱えて踞り、自嘲気味に話しだす。自分の足の秘密がラウランに知られてしまった可能性があること。けれどもまだ、彼女に真実を見せるだけの勇気がないこと。彼女から逃げ出してきたこと。彼女と顔を合わせたくなくてここで時間稼ぎをしていたことを。彼は震えながら呟いた。
「誰かに嫌われることがこんなに怖いだなんて、僕は知らなかった」
「嫌われるのが、怖い?」
「可笑しいよな。今まで誰に何を言われたって、僕は僕だって。そうやって平気でいられたのに」
「そう。貴方はいつだってそうでしたね、彼女に会うまでは」
微かな笑いを含んだシャマイムの言葉に、ヴィヒマは弱りきった顔で打ち明ける。
「今はどんな顔でラウランに会えばいいのかさえ、わからないんだ」
「おやおや、それは困りましたね。次の仮面が見つからないとは」
―――仮面。
この一言が、ヴィヒマの心に光をもたらした。
「ははっ。……馬鹿だなぁ、僕は。いつまでも隠し通せるわけがないのに」一足早い朝陽を感じて、ヴィヒマはゆっくりと顔を上げる。「隠すのも先延ばしにするのも止めるよ。嫌われるのが怖かったことも含めて、全部ラウランに打ち明けてみる」
どうして気付かなかったのだろう。自分が怯え隠したことで、ラウランを怖がらせてしまっているかもしれないことに。得体の知れない怖さより、正体を知ってからの怖さの方が少なくともまだマシな筈だ。明かすことで彼女の恐怖を少しでも軽くすることができるなら、自分の感じてる恐怖なんてどうでもよくなった。
―――嫌われてしまった後のことは、その時に考えよう。
「どんな顔で会えばいいのかなんて、考えて準備する必要なかったんだ」
取り繕った顔が時として言葉よりも深く相手を傷つけることを、ヴィヒマは思い出した。自分が傷ついた経験も、傷つけてしまった過ちも。そして自分は再び、過ちを犯そうとしている。
「小難しく考えなくても」シャマイムは元から細い目をさらに細めて言った。「素直に気持ちを伝えようとするその心が、少しでも正確に伝えるための手段として表情を生む。人間は本来、そのように設計されています」そして彼は、まるで幼子を諭すように囁く。「表情は作るものではなく、心が自然に生み出すものですよ」
「ありがとう、シャマイム先生!」
「さあ。そうと決まれば善は急げ、です」
「うん。いってくる!」
実のところ恐怖は完全に消えたわけではなかったが。ヴィヒマは覚悟を決めて、急ぎ足で戸口をくぐった。
「ラウラン、さっきはゴメ――」
謝りかけて彼は、小屋の中の異変に気付く。妙に静かだ。
「……ラウラン?」
どんなに目を凝らしても、彼女の姿は見あたらない。拾い上げた毛布には、温もりさえも残ってはいなかった。
「ねぇ、シャマイム先生。ラウランを見なかった?」
「いいえ。まだ中でお休みなのでは?」
もしかしたら入れ違いになったのかもしれない。そう思い小屋の裏手に戻ってみたが、やはりラウランの姿は見あたらない。
「ラウラン、どこへいったんだろう?」
首を傾げる二人。ふと、シャマイムが別のことに気付いた。
「そういえば、ノアの姿も見あたりませんが……」
「あれ? シャマイム先生が連れていったんじゃなかったの?」
「いいえ。私は一人でしたよ?」
「僕が手を洗いに行ったときにはもう、いなかったけど?」
いくらあの頃が夜明け前で薄暗かったとはいえ、大きな白い馬影を見落としたとは考えられない。
「まさかとは思いますが」シャマイムは言いづらそうに声を落とす。「ラウランさんが乗っていった可能性も」
それについて、ヴィヒマは即座に訂正した。
「ノアが放れてるのに気付いて、ラウランが追いかけてくれてる可能性の方が高いよ」そして、もう一つ。「もしかしたらノアが勝手に、ラウランについていっただけかもしれない。アイツ女の子が好きだし」
「ふむ。そうなると」シャマイムは自分がいた道とヴィヒマがいた南東の茂みを見た後、北東の方角に首をめぐらせた。「私とヴィヒマさんがいた方角とは反対側に行ったのかもしれませんね」
その方角には獣道らしきものがある。近づいたヴィヒマは真新しい葉が千切れ落ちていることに気づき、走り出した。
「ヴィヒマさん?」
「シャマイム先生は小屋で待ってて。僕が探しに行ってくる!」
どこをどう歩いてきたのかは、分からなかった。同じような景色が延々と続く朝の森。小屋を飛び出したときはまだ暗く沈んで見えた木立も、いつしか色味を帯び、野バラの香りがほんのりと漂い始めたようだ。遠くでカッコウが啼いている。
そしてラウランは今ひとり、渓流に突き出た大岩の上に座り込んでいた。
「(この川を渡るのは無理ね)」
渓流とはいえ飛び越えられるような川幅ではなく、橋も無い。下の淵に飛び込めば対岸の小さな河原まで渡れなくもないだろうが、こんな早朝に泳いでまで渡る気はしなかった。
「(これからどうしよう……)」
川面を流れてきた落ち葉をぼんやりと目で追う。穏やかな流れに身を任せ、碧の淵をたゆたう木の葉。ゆらゆら、ゆらゆらと優雅に漂っていたそれは、やがて待ち受けていた急流に乗って岩々の間を見え隠れし、ついには白い飛沫の中へと落ち込んでいったきり、見えなくなってしまった。
我が身を重ね見た気がして、身震いするラウラン。だが、そんな物思いの時間はすぐに中断を余儀なくされた。
「おい、そこで何をしておる!」
突然の叫び声。いつの間にか対岸の河原に、若い男が立っているではないか!
「(誰……!?)」
不意をつかれて声を失ったラウランは、ほどなくして彼が呼び掛けている対象が自分であることに気付く。その非常に身なりのよい男はラウランを見つめながら、再度、大声で呼び掛けてきた。
「聞こえんのか、少年。そこで何をしておる!」
高圧的な男の声。と、彼の後方の木立から複数の声が近づいてきた。
「如何なさいました、ラファエロ様!」
「ご無事ですかっ?」
「弓を持て!」
「よい。皆は下がって待て、唯の子供だ」ラファエロと呼ばれた若い男は後方に制止の合図を送ったあと、幾分か声をやわらげて言った。「怯える必要はないぞ、少年。そこで何をしているのかと聞いておるだけだ」
「薬草摘みに疲れたので休んでいました」
女だと悟られないよう、できるだけ低めの声で答えるラウラン。勿論、薬草摘み云々の話は嘘だ。
「こんな早朝からかね?」
「朝露の頃が最適な薬草なので」
「そうか、それは御苦労であったな」
貴族然とした態度と名前。そして、武装した者たちを従え、自らも腰に剣を帯びる者。遠目にも宝飾が施されていると分かる華美な服装と帯剣は、ラファエロがそれなりに高位の騎士であることを物語っている。
―――騎士。
追っ手のことを思い出して強張るラウランに、彼は顎で命令してきた。
「立って両手を横に広げたまえ」
緊張に続く緊張。ラウランが大人しく従うと、ラファエロは頭の先から靴の先そして再び頭までをじっくりと眺め、さらに命令してくる。
「その場でゆっくりと後ろを向きたまえ。ゆっくりと、だ」
「(身体検査のつもり?)」
ラウランが恐る恐る背を向けたところで、彼は奇妙なことを命令しはじめた。
「その場で飛び跳ねたまえ。連続十回、始め!」
「(所持品の検査?)」
足下に注意しながら、跳躍運動を十回。
「よし。そのまま羽ばたきたまえ」
「(こ、こうかしら?)」
横に広げた手をバタバタと上下に振ってみせる。
「それでは、髪を上に思いっきり引っ張りたまえ」
「(いったい何なの!?)」
不審がられないよう、命令に従い続けるラウラン。二度、三度と髪を引っ張ってみせるよう言われ、五度目でようやく向き直って楽にする許可が下りた。
「ふむ、見事な赤毛だな」そう呟いたラファエロは、唐突な質問を投げかけてくる。「お前は、あちらの集落の者かね?」
「え……?」
ラウランは答えに詰まった。話をあわせて肯定するのは簡単だが、彼が差す方向に集落が実在するか否かは定かではない。案内しろと言われたら困るし、実在しない場所をわざと尋ねた“引っ掛け”である可能性もある以上、迂闊な肯定は命取りに思えた。
「(どうしよう、迷子のフリでもしようかしら?)」
だが幸いなことに、彼はラウランの沈黙の意味を勝手に取り違えてくれたようだ。
「安心したまえ。荘園の脱走者狩りは私の管轄ではないし、見知らぬ戦争難民の君を咎めるつもりもない」ラファエロは大袈裟な身振りで敵意が無いことを示し、にこやかな顔で明かす。「私は青年を一人、捜しているだけなのだよ」
「(青年? わたしの追っ手ではないの……?)」
それでも、どことなく見覚えのある顔に警戒を強めたラウランだったが。
「ここらで大変珍しい黒髪黒瞳の旅人を見なかったかね?」ラファエロが探しているのは、ラウランとは異なる人物のようだ。ホッと胸を撫で下ろしたラウランに気付いてか気付かずか、彼は水際まで歩み出て、詳細を告げた。「年の頃は十五から十八前後。カームパディーの出で、名は――」
それは、あまりに信じがたい響き。
「――ヴィヒマ。類い希なる弓の名手で、我がフォーチュンリバーの最重要指名手配者だ!」
「最重要指名手配ですって!?」思わず叫んで、しまったと慌てて口を押さえるラウラン。けれども聞かずにはいられない。「彼は……その、ヴィなんとかは、一体何をしたのですか?」
「いい質問だ」ラファエロは気障ったらしく髪をかき上げ、右手を天に差し伸べて言った。「彼は私から大切なものを奪っていったのだよ。とてもとても大切な国宝級のものを、ね」
その自己陶酔めいた仕草はともかく、力強く輝く瞳と熱のこもった声からはとても冗談を言っているようには思えない。
だが、だからといってあのヴィヒマが“盗みを働いて指名手配されるような悪人”だとも思えなかった。むしろ彼には、善良な子羊的――というか本音を言うと雛鳥的――なイメージを持っている。あの少々デリカシーに欠けるお人好しのチキン・ピヨピヨが悪人だなんて、ラウランにはどうしても思えないのだ。指名手配には、きっと何か裏があるに違いない。
「それで、どうなのだ少年?」胸元に掛かるシャンパンゴールドの巻き毛を弄びながら、ラファエロは鷹のように睨め付けてくる。「ここらで見かけなかったかね?」
「いいえ。そんな凶悪そうな人は見てません」
嘘を言ったつもりはない。ラウランの感覚的に、ヴィヒマと分かれたのは“ここら”よりずっと遠くであって。当然、ここらで見かけたかと聞かれたら、答えはノーだ。
自信を持って答えたラウランには、疑わしき箇所など微塵もなかった。
「そうか、残念だ」ラファエロは見た目にハッキリと分かるほど肩を落とし、踵を返す。その時、偶然に吹き上げてきた風に乗って、彼の呟きがラウランの耳に届いた。「此方の方角で間違いない筈だが……あの女め、私を謀りおったか?」
そこへ駆け込んできた「伝令!」の声。ラファエロの前に兵士が一人、傅いて何かを報告している。
「……マは残念…ら村では目げ…………が、川むこうに別…街道の方が……は一本道で…………ら回れ…………」
ラウランは耳を澄ませて様子を探ったが、小声の会話は渓流の水音に邪魔されて断片的にしか聞き取れない。ただ、報告を聞き終えたと思しきラファエロの反応から、ある程度は推測できた。
「クックック、必ずや我が手中に……。待っていろ、バハベルテッドロード君!」
先程の気落ちした様子から一転しての高笑い。そして、すっかり明るくなった朝の渓谷にラファエロの号令は響き渡った。
「皆の者、急いで出立だ! 半数は道を戻って昨日の橋を渡り、街道を北上せよ。残りは私と共に来い。挟み撃ちだ!」
「(やっぱり。こちら側の道で挟み撃ちにするつもりだわ!)」
昨夜聞いた話によれば、ヴィヒマたちが進む峠道は目的の村まで一本道だ。ラファエロが今から挟み撃ちしようとしている対象が、ヴィヒマでなくバハなんとかという人物だったとしても。このままではヴィヒマも挟み撃ちにされてしまう!
考えている間に、木立の奥のラファエロの一団は慌ただしく動き、二手に分かれ始めた。
「(大変、急いでヴィヒマに知らせなきゃ!)」
もう戻らないつもりでいたが、ラウランは迷わなかった。ヴィヒマに事情を聞きに、何よりも危険が迫っていることを知らせに戻らなければ!
しかし、ここで大きな問題が。
「(どの方向に戻ればいいのかしら?)」
―――来た道が、全く分からない。
「(確か、斜面を下って……。ああ神様。わたしたちをお創りになった神、ネフェ様とケヴァ様。どうかこちらでありますように!)」
乏しい記憶を辿りながら、神の加護を祈って足早に歩き出したラウラン。落ち葉や刺葛に幾度となく足を取られながらも、必死に先を急ぐ。
そして斜面を三分の一ほど登ったあたりで、樫の古木の向こうから歩いてきた大きな白い影と鉢合わせた。
「(馬?)」
どこか見覚えのある雰囲気の白馬。馬具を身につけているので、野生馬でないことは確かだ。そういえばシャマイムが連れていた、あの蒼白い雄馬に似ている気がする。
「ノア? あなたノアなの?」
ラウランが話しかけると、白馬は嬉しそうに鼻面をすり寄せてきた。
「ノアなのね!」抱きついて大喜びした後で、違和感に戸惑う。周囲には他に誰の姿も見当たらず、気配すらもない。「あなたのご主人様はどこ?」
するとノアは徐に倒木の脇へと彼女を導き、しきりに押し上げようとしてきた。これを踏み台にして背中に乗れと、そう言っているようだ。
「案内してくれるの?」
ラウランはノアに手伝われながら騎乗し、手綱をしっかりと握り締めた。
「お願い、ノア。あなたのご主人様たちのところへ、ヴィヒマのところへ連れていって!」
腐葉土の上に描かれていたラインは次第に曖昧さを増していき、今や獣道は完全に落ち葉の絨毯と同化していた。それでもヴィヒマは迷うことなく、一本の線を辿り続けている。同じような景色ばかりが続く木立の中で、けれど決して全く同じ景色など無い自然の中で。彼は僅かばかりの痕跡を見いだしては、先を急ぐ。
―――追い求める光は、未だ見えない。
「ラウラン……」
歩きやすそうな地形を行けば、自然と彼女の足取りが見えてくる。様子からして、かなりのハイペースだ。
きっとラウランはこの美しい朝の森を楽しむ余裕もなく、ただただ先を急いでいたに違いない。何かを追いかけてか、あるいは――化け物から逃れるために。
「こんなに慌てて行くなんて……」
足を滑らせた痕跡をまた見つけ、ヴィヒマは立ち止まった。これで幾つ目かはよく覚えていない。彼女の怪我が心配で一刻も早く追いつきたいと思う気持ちと、追いかけて引きとめる資格なんて自分には無いと思う気持ちとがせめぎ合い、彼の足を地面に縛り付ける。
だからヴィヒマは駆けてくる白い輝きを目にしたとき、あまりのタイミングの良さに、自分が都合のよい夢を見ているのではないかと疑った。
「ラウ……ラン?」
「ああ、よかった。無事だったのね!」
「それはこっちの台詞だよ、ラウラン!」
無意識に差し伸べた右手。それを少しも躊躇わず握り返してきた温もりに、ヴィヒマは安らぎを覚え――少しだけ、ほんの少しだけ泣きそうになった。
見つめ合うヴィヒマとラウラン。
程なくして、居心地悪そうなノアの足踏みで我に返った二人は、同時に頭を下げた。
「気持ち悪い思いさせてゴメン!」
「気持ち悪がらせて、ごめんなさい!」
―――ごめんなさい?
「何でラウランが謝るんだ?」
ヴィヒマが驚いて顔を上げると、ラウランは困った笑顔で目を背け、ぼそぼそと告白した。
「え? だって、あなたがわたしのことを、その……気持ち悪いって、言ってたから」
「そんなこと、僕が!?」そう言って、ヴィヒマはすぐに思い当たる。「誤解だよ。あれは、そういう意味で言ったんじゃないんだ」ヴィヒマは苦しげな笑みを浮かべて俯き、真相を告げた。「ラウランが僕のことを、その……気持ち悪いって思ったんじゃないかと思って」
どんな言葉が返ってくるのだろうと思いながら、彼はギュッと目を瞑る。覚悟しきれぬうちに降ってきたのは、意外な一言だった。
「なんでわたしが、あなたを気持ち悪いって思わなくちゃならないのよ!?」
―――えっ?
「ラウラン、僕の足を触って何とも思わなかったの?」
我が耳を疑い、尋ね返したヴィヒマ。見ればラウランは真っ赤な顔で、わなわなと震えているではないか。
その様は恐怖とは程遠く、むしろ怒っているかのよう。――実際、見ている間に噴火した。
「変なこと言わないでよ。わたし、あなたの足なんか触ってないわよ!?」と、身を乗り出して怒りはじめた彼女。「嫁入り前のレディーが、そんな“はしたない”ことするわけないじゃない。失礼ねっ!」今にも噛み付かんばかりの勢いだ。「いいこと? はっきり言っておくけど、わたし、スネ毛が大っ嫌――…っきゃぁ!」
「おっと……ぉ!」
落馬しそうになったラウランを抱き留め、ヴィヒマは安堵の息を漏らした。次いで、疑問も。
「ねぇ、ラウラン。僕から逃げ出したんじゃなかったの?」
「ええ、そうよ」腕の中の彼女は、僅かに身動いだ。「これ以上あなたに迷惑かけないうちに逃げようと思ったの」
―――なんだ、そうだったのか。
全ては自分の思い違い。ヴィヒマは笑い出しそうなのを必死に堪えながら、ラウランをそっと地面に立たせ、瞳を覗き込んだ。
「じゃあ、何で戻ってきたんだい?」
「あなたが危ないからよ!」ラウランはヴィヒマの服を掴み、青ざめた顔で告げる。「ラファエロという騎士があなたを捜して、すぐ側まで来ているの!」
まさか彼女の口から、其の名を聞く羽目になろうとは。
「ラファエロ、だって?」無駄と感じつつも一応、確認してみる。「今、ラファエロって言った? 彼が僕を捜してすぐ側まで来てるって?」
こくり。
予想通りラウランは首を縦に振り、ヴィヒマは現実を受け入れた。
―――最悪だ。
「大丈夫だったかい、ラウラン? アイツに何かされなかった?」
「いいえ、なにも? 川のあちら側とこちら側とで離れてたし、渡れるような場所でもなかったから……」そこまで言って、ラウランは思い出したことを身振り手振りで説明する。「あ。そういえば、おかしなことをさせられたわ。こんな感じに飛び跳ねろ、羽ばたけ、髪を引っ張ってみせろって」
「他には?」
「それだけよ。命令に従ったら思いっきりガッカリされちゃったし、ワケわかんない」
「よかった、それ以上のことはされなかったみたいで。アイツ根は悪い奴じゃないと思うんだけど、ちょっとばかしヘンタイさん入ってるからなぁ」
様子からして騎士ラファエロはヴィヒマを捜すのに夢中で、ラウランの素性どころか女の子であることにすら気付かなかったに違いない。尤も彼の性格上、例の崖から投げ落とされた花嫁の捜索にまで頭が回っているかは微妙だが。
「そうよ、こうしてる場合じゃないわ。早く逃げなきゃ!」ラウランは再び青ざめた顔でヴィヒマの服を掴んだ。「ラファエロは、こちらの道に回って挟み撃ちする気よ!」
「シャマイム先生のところに戻ろう。乗って!」
ラウランをノアの背に押し上げたヴィヒマは自分も後ろに乗り、彼女を抱きすくめるように手綱を取った。
「とばすよ、しっかり掴まってて!」
ヴィヒマの足の合図と共に、ノアが力強く大地を蹴る。二人を乗せた白馬は玉風のように、木立の間を駆け抜けていった。
「ふむ。困ったことになりましたね」
事情を聞いたシャマイムは、思案気な面持ちで地図を広げた。
「現在地はこの辺り」くるりと描いた小さな円を出発点に、蛇行しながら北上していく彼の指先。「見ての通り、私たちがいる峠道は目的地の温泉郷まで一本道です」おまけに。「次の峠を越えると、あとは崖と岩壁の山道になります。ここで挟まれたら逃げ場がありません」
「僕たちの道が一つなら、アイツ側のも確定だね。この先の温泉郷から回り込むのと、きのう見かけた橋を渡ってくるのの、二つ」
ポチポチと小石を置くヴィヒマ。その隣で、ラウランは不安げに呟いた。
「あと、どのくらいで来るかしら……」
「う~ん」ヴィヒマは地図と睨めっこしながら、計算を始める。「向こうの道は昨日の橋と離れてるっぽいから、橋からこの小屋までより時間がかかりそう? でも、起伏の度合いは同じそうだし……後ろからの追っ手は昼前くらいにここへ到着、かな?」
「ラファエロは?」
「私の見積もりでは、ここから温泉郷までは橋からこの小屋までよりも五割増し。そこから単純に二倍して、昼下がりには彼が到着する計算です」
「昼かぁ……」
「ただ、これはあくまで私たちの荷馬車を基準にしたもの。軍馬の彼らは、もっと早い筈です」
相手は武装も経験も豊富な一団。ラファエロ不在の後方隊と遭遇したとしても、正面突破する自信はない。
だからといって、回避策として道なき森の中を荷馬車で進むというのは不可能な話で。道沿いで身を隠してやり過ごすのも、見つかった場合のリスクが高すぎる。
「せめて馬車が通れる脇道があればいいのに、参ったなぁ。なんでアイツ、こうもヤなタイミングで正確に追っかけてこられるんだよ、もーっ!」
「まったく、ヴィヒマさんに対してのあれはストーカー根性としか言いようがありませんね」
「だよなー、あそこまできたら完全にストーカーだって」
ラファエロの美麗かつ執念深そうな顔を思い出して、溜息を吐くヴィヒマ。そんな彼の腕の鳥肌を眺めながら、ふと、シャマイムが何かを思いついたように言った。
「……この際、ヴィヒマさんには消えてもらいましょうか」
「はぃ!?」
「えっ?」
「ああ、ラウランさんも一緒に消えていただいた方が、都合良さそうですねぇ」
「な……っ!?」
「わたし?」
驚愕の眼差しで硬直する二人に、得体の知れない笑みが向けられる。
「元々、あの村に用事があるのは私だけ。私一人なら誰にも邪魔されず、堂々と通行できます」シャマイムは荷物の中からスクロールを取り出し、木製の軸の持ち手を回し始めた。「騎士の彼が、聖職者の私に乱暴を働くことはないでしょう。疑わしき箇所がなければ放っておく筈です」
シュ……ッ。
小さな摩擦音と共に、軸の中から細長い銀色の物体が零れ出る。
「ですから、お二人には仲良く消えてもらいます」
微笑むシャマイムが手にしていたのは、一本のナイフだった。何ら装飾のない、機能美だけを追求したような細身のフォルム。恐ろしく切れ味の良さそうな刃が、一瞬、木洩れ日を受けて煌めいた。
「シャマイム……先……生?」
「ふふっ。どうしたのですかヴィヒマさん、そんな怯えるような顔をして?」長い指でナイフを弄びながら、シャマイムがヴィヒマに近づく。「貴方で切れ味を試しましょうか?」
「や、やだなぁシャマイム先生。こんなときに冗談やめてよー」
ヴィヒマが引きつった笑みで答えると、シャマイムは「そうだった」という表情を浮かべ、白紙のスクロールを広げた。
「失礼。今は時間が無いのでしたね」必要分の紙を手際よく切り取り、ペーパーナイフを元通りに片付けたシャマイム。「冗談はさておき、本題です。今から地図を描きますから、ヴィヒマさんとラウランさんは彼らに見つからないうちに、その場所に隠れてください」
「どこかいい場所が?」
「でも、道は一本なんでしょう? 一体どこへ……?」
改めて地図を覗き込んでも、枝道など一本も見当たらない。シャマイムも、先程の紙の上に慌ただしくペンを走らせながら言い切った。
「その場所への道は、ありません」
よく見れば、彼が描いているものも地図らしくはない。三日月、盾、カエル、ウサギ、蓮の花、麦の穂、丸い渦巻きに、四角い渦巻き……等々。幾つかごとに四角で囲ってあるが、どれも図形や絵と思われるものばかりではないか。
用紙の左端には“湖の東岸”の文字と、長い縦線も書いてあった。
「道がないのに、どうやって……」
不安げに地図へと目を落としたラウランに、シャマイムは穏やかな声で答える。
「大丈夫、ヴィヒマさんが迷わず連れていってくれますよ」
「僕!?」
ラウランも驚いた顔をしたが、ヴィヒマ本人も吃驚してシャマイムを見た。この辺の地理に詳しいとか周辺を何度か訪れたことがあるのならまだしも、ヴィヒマはこの道を通るのさえ初めてだ。
「まさかとは思うけど」と、ヴィヒマは少しの躊躇いのあと、ボソリと言った。「シャマイム先生が僕に魔法をかけてくれる、とか?」
「えっ? ではもしかして、いま先生が描かれているのは魔法陣!?」
「いやぁ、御伽話のように魔法が使えたら便利ですけどねぇ」二人の顔をチラリと見て、クスクスと笑うシャマイム。「残念ながら、この世界には魔法なんて存在しません。ここだけの話、聖都の高位聖職者の間にだけ伝わると言われている秘術の大半は作り話、残る少しにはタネと仕掛けがあるのですよ」
「だよな、やっぱり。本の読み過ぎかぁ」
「シャマイム先生は少しミステリアスな雰囲気あるから、もしかしたらもしかするかもと思ったのだけど……残念だわ」
「あはは。ラウランもそう思ってたんだ」
ヴィヒマは、旅の牧師先生シャマイムと出会った日のことを思い出した。白い月が浮かぶ青空の下、白馬に乗って青草の海を駆け上ってくる姿が、妙に神々しかったのを覚えている。が、あのときの詳細を語るには時間がない。
「ヴィヒマさん、私が地図を描いている間に出発の準備を。描き上がったら急いで峠を登りましょう。詳しくは道中に説明します」