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霧雨の足音 ー軟体花嫁さんとチキンな僕ー  作者: なきむらさき
逢魔が時
6/7

狩場小屋の夜

 


   ◇ ◇ ◇



 あれから、さらに二つの峠を越えて。森に泊まり、朝が来て、ゆるやかな起伏を繰り返す山道を進み、南中の木漏れ日を浴びて、小川で水浴びして、ちょっと昼寝してから、また峠を越えて。

 日の傾き掛けた頃、ヴィヒマは道から外れた木立の中に小さな丸太小屋を見つけた。

「ねぇ、シャマイム先生。あんなところに小屋がある」

「どこですか……?」

「ほら、あそこのブナの若木の向こう側」

「……おや、確かに。狩場小屋のようですね」

 短い下草を踏み分けて近寄ってみると、それは確かに狩場小屋だった。人の気配は全くないが、周囲にはごく最近に誰かが訪れた痕跡がある。小屋の裏手には井戸と、家畜に水を飲ませるための木桶もあった。

「やった! シャマイム先生、これ見て」

 入り口の戸柱に彫られた、ウサギとカラスのレリーフ。この“踊る野兎と渡り鴉”の意匠は、この狩場小屋が旅人にも開放されていることを示している。つまり、旅人なら誰でも自由に利用できるというわけだ。

「ごめんくださーい!…………って、誰もいないか」

 板戸の閉まった小窓ひとつと、古い寝具が一組と、クモの巣の張った暖炉の側に転がっている薪一本。薄暗い小屋の中に見あたるのは、これだけだ。

「空いてるみたいだけど、どうする?」

 六月の終わりとはいえ、谷間の夕暮れは早い。急げば日没までにもう一つ峠を越えられるかもしれないが、途中で日が暮れてしまった時のリスクと、越えた先で野営に適した場所を探さなければならないのを考慮すれば、答えはひとつだ。

「そうですね。今夜はここに泊まらせてもらいましょう」

 シャマイムは換気のために板戸を開け放つと、ノアを連れて井戸に向かった。

 残されたヴィヒマは荷物番がてら、荷台の縁に腰掛ける。クッキー目当てにバスケットへと手を伸ばしかけた彼は、その横に眠るラウランをじっと見つめた。

 この一日、ラウランが目を覚ますことは一度もなかった。昨日と同じ穏やかな表情のまま、死んだように眠り続ける彼女。シャマイムは全く問題ないと言っていたが、どんなにそう言い聞かせても最悪の事態の可能性が拭えず、ヴィヒマは気が気でなかった。

「(ラウラン……)」

 吸盤のひとつを小突いてみたが、何の反応もない。ふと不安に駆り立てられて身を乗り出すと、彼女の胸がゆっくりと規則正しいリズムで上下するのが確認できた。―――大丈夫、ちゃんと息はしてる。

「あ…………っ!」

 ほっとした拍子にバランスを崩した、その一瞬。血色の良い唇から微かに洩れる呼気が、ヴィヒマの頬を撫でた。

「わっ!? ご、ゴメン!」

 慌てて身を退いたヴィヒマだが、今度はうっかりラウランの足先に手をついてしまった。

 くにゅりと押しつぶす感触。弾力に富んだその足先が思いのほか冷たくて、再び不安に駆り立てられる。

 細工物のような足先をそっと掌で包み込み、温めずにはいられなかった。

「ヴィヒマさん」

「ひ……っ!?」

「気持ちはわかりますが、年頃の娘さんの足をみだりに触ってはいけません」

 突然肩に手を置かれ、ビクリとするヴィヒマ。背後に立つ者は彼の肩を掴み、真剣味を帯びた声で付け加えた。

「況してや、塩もみして酢漬けのキュウリを添えたいだなどと考えるのは、もってのほかです」

「ヤだなぁシャマイム先生、僕はタコ焼きしか――」

 振り返ろうとした、その時だ。

「だ……れの足がタコ焼きですって?」

 ヴィヒマが密かに待ち焦がれていた、麗しの声とともに。彼の指は思い切り締め上げられた。

「ぃたたたたっ!」大袈裟に身をよじって痛がりながら、ヴィヒマは笑顔を向ける。「おはよう、ラウラン。調子はどう?……っていうか、この分だと元気そうだね」

「ええ、おかげさまで。この通り、足にもしっかり力が入るようになったわっ!」

 ラウランは不敵な笑みを浮かべ、空いている足でヴィヒマの手首を掴んだ。じわじわと締め付けながら、まるで自分の足の機能を試しているかのような慎重さで吸盤を吸い付けてくる。こそばゆさに耐えていたヴィヒマがそれを超えた痛みにピクリと腕を震わせると、ラウランは吸盤を緩め、赤くなった箇所を一度だけ撫でた。

 離れていく足を引き戻しそうになった手を、気持ちごとポケットに仕舞い込んで。かわりに、ヴィヒマは昨日と同じ質問を彼女に投げ掛けた。

「参考までに聞くけどラウラン、気分はどう?」

「最悪よ!」

「……だろうね」

「わかっているわ、ひどい顔なのでしょう?」

「ううん」ヴィヒマは首を横に振り、ラウランのズボンの右足側に目を落とした。「そっちの足、なんか大変そうだったから」

「やだ、何でわかったの?」

 僅かに頬を赤らめたラウランに、シャマイムが教える。

「ヴィヒマさんは寝ている貴女を覗き込み、それはそれは熱心に観察していましたからね」

「そんなに観察してないよ、ちょっと心配だったから覗いてみただけ」

「……まぁ、ヴィヒマさんがそう言うのなら、そういうことにしておきましょう」

 背中に感じる意味深な笑みには、無視を決め込んで。ヴィヒマはラウランに聞いてみた。

「そっちだけ不自然に動かしてたから、もしかしたら傷口の具合でも悪くなったのかと思って。痛む?」

「別に、痛いわけじゃないの。そうじゃなくて……」ラウランはズボンの裾を大きく捲り、先の断ち切られた足をさすった。「この足の先が、とてもムズムズしているの」

 足が、ムズムズ。

 予想外れなその答えに、ヴィヒマは口走ってしまった。

「水虫?」

 ―――我ながら本当に、自分は愚か者だと思う。

 勿論、本気でそう思って言ったわけではない。かつて寄宿学校の同級生たちと交わしていた挨拶代わりのジョークのひとつで、「足ムズムズ」と誰かが言えば「水虫?」と聞くのが定番だったのだ。

 だが、そんなローカルルールをラウランが知るはずもなく。第一、それはレディに対してあまりに不適切なジョークだった。

「……本気で締め上げるわよ、チキン」

 睨み付けるラウランの目には、殺意めいたものさえ浮かんでいる。これ以降、ヴィヒマには“デリカシーに欠ける男”というレッテルが付き纏うようになった。(この件に関しては、ヴィヒマ本人も十二分に自覚している)

「失礼しますね、レディ・スワンパー」

 シャマイムは宥めるようにヴィヒマと入れ替わり、負傷したラウランの足を診察した。節のはっきりした長い指が、傷にこそ触れないものの、その周辺を初めは探るように、そして段々と揉みほぐすように動いていく。

 刺激が心地よかったのか、ラウランは終始おとなしくシャマイムの指に見入っていた。

「ふむ。ご安心ください、レディ・スワンパー。化膿や感染症が原因ではありません」

「よかった……」

 そう安堵を洩らしたのは本人ではなく、ヴィヒマ。一瞬、シャマイムの視線が降ってきた気がしたが、言いたいことはよくわかったのでスルーすることにした。

 シャマイムは説明を続ける。

「どうやら再生の真っ最中のようですね。このペースであれば、おそらく数日で元通りになると思われます。どうしてもその感覚が気になるようでしたら、特製のハーブティーをお持ちしましょう。幾分か和らぐ筈です」

「わたしの足、元に戻るのですか!?」

「はい、タコの足は千切れてもまた生えてくるようにできてますから。ただし、ご自分で食べてしまった場合は再生されませんので、ご留意を」

「そうなのね……」

 ラウランは自分の足を何か不思議なものでも見るような目で眺めた後、ちらりとヴィヒマの方を見た。

 目が合った瞬間、ヴィヒマは思っていたことを口にしてしまう。

「いいなぁ、ラウラン。非常食がタコ焼きで」

「あなたと一緒にしないでっ! わたしは自分の足を食べたりなど絶対にしないわ!」

「絶対にってマジ? 共食いしたくせにー」

「共食いですって!?」

「ラウランがタコ焼き食べたら、共食いだろ?」

「あれは、あなたが勧めるから!」

「まぁまぁ、落ち着いてくださいレディ・スワンパー。そう興奮されるとお身体に障ります」シャマイムは口を尖らせたラウランを宥め、次いで、ヴィヒマを注意した。「どうしたのですかヴィヒマさん、昨日からどうも貴方らしくない。あまりレディを困らせてはいけませんよ」

「…………はい。ゴメンなさいシャマイム先生、ラウラン」

 自分でも密かに気にしていたことを指摘され、ヴィヒマは素直に謝り、しょんぼりと俯いた。全く、どうかしている。助けになろうと決意したにもかかわらず、ラウランに対してはこんなにも失言を繰り返してしまうなんて。

 自分自身の言動のはずなのに――説明がつかなかった。

「どうやらレディ・スワンパーもヴィヒマさんも、気分転換が必要のようですね……」

 思案げな面もちで二人を見比べるシャマイム。程なくして彼が口の端に浮かべた小さな笑みに、勘づいたヴィヒマは逃走を図った。

「んじゃ、気分転換も兼ねて僕が水汲みに行くよっ」

「待ちなさい、ヴィヒマさん」

 素早く動いたつもりだったが、あと一歩及ばず。あっけなく襟を掴まれ、ヴィヒマは引き戻された。

「良いことを思いつきました」シャマイムはニッコリと宣告する。「私がハーブの調合をする間に、二人で協力して薪や枝を集めてきてください」

「それなら別に、僕ひとりでも――」

「レディ・スワンパーにも気分転換が必要です。私の代わりに彼女のエスコートをお願いできますか、ヴィヒマさん?」

 やんわりと頼みながらも、決して首を横には振らせないシャマイムの瞳。覗き込まれて反射的に、ヴィヒマは頷いてしまった。

「では、宜しく頼みます。少しで構いませんから、この小屋の見える範囲で。足下に気を付けて、無理をしない程度に集めてくださいね」

 シャマイムは小屋に入りかけたところで振り返り、念を押すように繰り返す。

「二人で()()集めてくださいね」

 彼の姿が完全に消えると、二人分の沈黙が残った。




「……歩ける?」

 意を決したヴィヒマは沈黙を破り、ラウランに手を差し出した。

 本当のところ今は、ラウランと二人きりにはなりたくなかった。また失言を重ねて、今度こそ本当に嫌われるのではと思うと、怖かったのだ。少し頭を冷やす時間が欲しかったのに、シャマイムがそれを許してくれなかった。

 だからヴィヒマは、重ねられた手のぬくもりにホッとして、つい思いっきり握り返してしまった。

「い……ッ! なによ、いきなり宣戦布告?」

 相当痛かったのだろう。ラウランはレディらしからぬ動きで足を蹴り出し、ヴィヒマの腕を掴みにかかる。

「僕は、そんなつもりじゃな……いぃっ!?」

 反対の手で吸盤を引き剥がそうとしたところで、ヴィヒマは気付いた。

 ―――ラウランの口が、尖っていない。

 それどころか、楽しそうだ。

「どう?……降参する?」

「ヤだねっ!」ヴィヒマは降伏を促してくる鈴のような声を正面から迎え撃つ。「……と言いたいところだけど、降参だよ」

 彼が手の力を緩めると、ラウランの口元がほころんだ。

「ねぇ、わたしも良いことを思いついたの。どっちが多く拾えるか競争してみない?」

 そう言いながら、やる気十分に荷台から飛び降りようとしたラウラン。思うところあって、ヴィヒマは素早く彼女を抱き留めた。

「ちょっと待って、ラウラン。森で素足は危ないから、靴を履いた方がいいと思うんだ」

「ありがとう。そこまで気が付かなかったわ」

「ま、その器用な足で枝をたくさん拾わせないための作戦なんだけどね」

「まぁっ!」

「ぅわっ……ととと…………っ!」

 ラウランが暴れた拍子にヴィヒマはバランスを崩し、彼女を抱えたまま後ろに二、三歩よろめいた。何とか堪えて止まれそうだと思った矢先、木の根に踵を引っかけてしまった彼は、再努力も虚しく落ち葉の上に背面ダイブしてしまう。

「ゴメン、大丈夫だった?」

「わたしは平気よ、こちらこそ下敷きにしてごめんなさい」

「平気だから気にしないで」軽く微笑んだヴィヒマは、心配そうに覗き込んでくるラウランの髪に手を伸ばした。そこに付いていた枯れ葉を手に取り、彼女に見せる。「ほら。ここはギザギザした落ち葉が多いし細い小枝なんかも落ちてるから、素足で踏んだら絶対に痛いと思うんだ」

「そうね……」

 ラウランもヴィヒマの髪に手を伸ばし、枯れ葉をひとつ摘んで見せた。カサカサに乾いたヤマグリの葉だ。本当に軽く摘んでいただけだったらしく、ヴィヒマが息を吹きかけると飛んでいってしまった。

「…………っ!」

 彼の吐息が額にかかったことで、ようやく自分の体勢の危うさに気付いたのだろう。ラウランは熱いものでも触ったかのようにパッと身をかわし、地面に座り込んだ。表情は乱れた髪に隠れて見えなかったが、耳の先が赤い。

 きっと顔も赤いのだろうと心の中でクスクス笑いつつ、ヴィヒマは平静を装って立ち上がった。

「ブーツ取ってくるから待ってて」

 荷台に半身を突っ込み、荷物のどこかにある予備を探し始めるヴィヒマ。どの袋に仕舞い込んだか忘れてゴソゴソとかき回し続ける彼の背に、ラウランが心配げな声をかけてきた。

「ねぇ。もしかして足、傷めたの?」

「え?」

「あなたの足、なんだか少し不自然だわ。もしかして転んだときに、わたしのせいで……」

 ラウランの視線はヴィヒマの脚に注がれている。

「僕の足のことなら気にしないで、訳あって今は曲げられないだけだから」ヴィヒマはズボンの裾を軽く捲り、当たり障りのない程度に説明することにした。「少しでも普通に歩けるようにって、この歩行補助具を着けているんだ。シャマイム先生の力作さ!」

「歩き回っても大丈夫なの?」

「もう慣れたから平気。それより、やっと思い出したよ」

 ヴィヒマは真新しいブーツを取り出して紐を緩め、ラウランに手渡した。

「お待たせ」

「ありがとう。わたしの太い足、うまく入るといいけど……」

 彼女はズボンの左右に分かれた半々ずつの足――厳密に言えば足が一本欠けているので三本と四本なのだが――を、それぞれのブーツに入れていく。

 とりあえず、外から見た限りは問題なさそうだ。

「ブーツが大きくて助かったわ。ちょうどいい感じよ」

「よかった。あとは歩けるか、だね。立ってみる?」

「ええ……」

 ヴィヒマの肩を借りて、ラウランはゆっくりと立ち上がる。初めはよろめいてばかりで一歩を踏み出すのさえやっとだった彼女だが、すぐにコツを掴んだらしく、少しすればヴィヒマの補助なしでも充分に歩き回れるほどになった。

「ラウラン、飲み込みが早いね。さては相当お転婆だったな?」

「あら、わかる?」ふふっと微笑み、ラウランは振り返る。「器用さとバランス感覚には自信があるの。高い物見塔の縁でよく遊んでいたから、“アゼイリアの塔の鷲乙女”なんて呼ばれていたわ」

「アゼイリアの塔って?」

「そんなこと、どうだっていいじゃない。それより今は競争よ、競争!」

 答えをはぐらかすラウラン。昨日から感じていたことだが、彼女の言動にはどうも素性を隠そうとしているところがある。それも、ヴィヒマたちを警戒しているからではなく、もっと何か大きな理由から。それが何なのか、そもそも彼女は何者なのか、知りたいことは山ほどある。

 だがヴィヒマは彼女の意志を尊重し、彼女が打ち明けてくれるまで辛抱強く待つことにした。

 ―――いや、本当は彼女の意志を尊重だなんて、紳士的な理由からじゃない。全てを知った途端に彼女が去ってしまう気がして、怖かったからだ。

「ねぇ、ラウラン。薪なら落ち葉だまりの中を探すより、道沿いの方が拾いやすいかも」

「それ、いいわね! では、道で競争よ」

「景品は?」

「勝者の名誉のみ、よ!」

「いいね!」

 ヴィヒマの賛同が、そのまま競争開始の合図となる。二人は道に出て、夢中で小枝を拾い始めた。




 二人の腕の中が枝でいっぱいになる頃には、夕陽はもう峠の遙か彼方に姿を消していた。

「それにしても暗くなってきたわね……」

「山間の森だから、日暮れが早いんだ」

 ヴィヒマが顔をあげると、ラウランは小走りに彼の元へと寄ってきた。

「ねぇ。なんだか黄昏っていうより、“逢魔が時(おうまがとき)”の方が似合いそうな雰囲気だと思わない?」

「うん。認めたくないけど、そっちの方がしっくりくるよ」

 実のところ数分前から妙な胸騒ぎがしていた。遠目に「あれは誰だろう?」と言い合うだけの距離感がある“誰そ彼時(たそがれどき)”や“彼者誰時(かわたれどき)”よりも、今は“逢魔が時”のバッタリ出会す感が似つかわしい。そんな嫌な予感がするのだ。

 そしてどうやらラウランも、ヴィヒマと同じことを考えていたらしい。

「もう帰りましょうか」

「そうだね、帰ろう」

 自然、二人は寄り添うように並んで歩き出した。はっきり言って今の森に漂う不気味さは異常だ。

 少しずつ歩調を速めながら、小屋に続く獣道へと踏み出そうとした時。警戒心で研ぎ澄まされていたヴィヒマの聴覚が、僅かな接近音を捉えた。

「……静かに。何か聞こえてこない?」

「わたしを脅かすつもり?」半信半疑のラウラン。やがて彼女の耳にも届いたらしく、ラウランはヴィヒマの背中にピタリと身を寄せて息を殺した。「やだ、本当に聞こえるわ……」

 薄暗い森に木霊する、蹄の音。おそらくは道なりに駆けているのであろうその音は、かなりの速さでこちらに近づいてくる。二人が身を隠すべきか迷った少しの間に、音は四つ足の姿を現した。

「(馬?)」

 坂道を駆け下りてくる一頭の馬影。随分と大柄に見えたが、程なくして背中に荷物と人を乗せている為だと判る。相当先を急ぐ用事でもあるのか、ヴィヒマたちが身構える間もなく、彼らは人馬一体となって駆け抜けていった。

「いっちゃったね」

「ええ」

 二人は顔を見合わせて、プッと吹きだす。

「ただの“お馬が時”でよかったー」

 過ぎ去った馬影に、ほっとしたのも束の間だった。

「…………ん?」

 再び近づいてくる、蹄の音。さっきの馬が引き返して来たのだ!

「おぅ。やっぱり見間違えじゃなかったか」という声と共に、それは二人の前で立ち止まる。馬上から人の良さそうな中年男がひとり、心配そうにヴィヒマたちの様子を伺ってきた。「坊やたち、こんなところでどうしたんだい?」

 一見、ただの旅人のようにも見えたのだが。荷物のなかに武装を見て取ったヴィヒマは、それとなく警戒の色を強めた。この男は恐らく、戦場を渡り歩く傭兵だ。夜目もかなり利くに違いない。

「こんばんは、旦那」ヴィヒマはラウランを隠すように進み出て、陽気な声で返答した。「いやぁ、旅の途中で日が暮れてきちゃって。ほら、弟と二人で焚き火の準備をしてたところなんですよ」

「旅ってことは、迷子じゃねぇんだな」

「ええ、お気遣い無く。旦那、お急ぎのところわざわざありがとうございました」

「いやいや、迷子だったらいけねぇなと思ったまでよ」

「やだなぁ、旦那。こんな大きな迷子がいるわけないじゃないですかー」

 勘違いならすぐ立ち去るに違いないと、ヴィヒマがそう思った次の瞬間。男は全く予想外の言葉を口にした。

「なぁ、坊やたち。よかったらオジサンも一緒に泊まっていいかい?」

「えっ!?」

「ほら、こんなに暗くなっちまったんじゃ、馬も難儀するってもんだ」男は鞍を降り、ヴィヒマの肩を叩いた。「なぁ、頼むよ坊や」

「でも旦那、お急ぎじゃ―――」

 そこに、救いの神が現れる。

「おーい、そろそろ帰っておいでー」

 木立の中に響く、やさしい呼び声。シャマイムだ。

「はーい!」

 ヴィヒマが小屋の方に振り向いて返事をすると、すぐにシャマイムがやってきた。

「二人とも、遅いから心配しましたよ」

 ランタンの灯りで二人の無事を確認し、ほっとした表情を浮かべるシャマイム。その様子を見て、男も嬉しそうに彼に話しかけた。

「おや、この子たちは牧師さんの連れだったのかい。こんばんは牧師さん」

「こんばんは。貴方に平安がありますように」シャマイムは礼を返した後、にこやかな表情のまま男に尋ねた。「失礼ですが、どちら様ですか?」

「オレは通りすがりの旅の者でさぁ。いやね、こんな人気のない山道に軽装の若ぇのが見えたから、迷子か家出人かと思って馬を止めたまでで」

「そうでしたか。ご心配おかけして申し訳ない」

「いやいや、オレの早とちりで済まねぇ。迷子でなくて良かった良かった!」ガハハと笑って、男は急に声をひそめ、シャマイムを手招いた。「そこで牧師さん、ちょいとご相談があるんですけどね」

 一緒に泊めてもらえないか、という話に違いない。

「はい、何でしょう?」

 だが、手招きに応じたシャマイムは耳を疑うようなことをきかれる羽目になった。

「あのカワイイ坊やたちは、アンタの色小姓かい?」

 今の男の笑顔には、さっきまでの人の良さそうな感じは微塵も残ってはいない。まるで別人だ。

「違います」

 シャマイムは表情を崩さず即答で否定したが、男は下卑た笑みを浮かべ圧してきた。

「お上品ぶらなくてもわかってるって。聖職者も人の子だぁ。そうなんだろ~?」

「いいえ。誓って、彼らは貴方が仰るような子たちではありません」

「心配しなさんなって牧師さん。他に誰が見てるわけでもねぇし、オレも別に責めたり告げ口したりとかはしねぇよ。で、どうなんだい?」

「(うわぁ、このオッサン全然わかってねぇじゃん。シャマイム先生、かわいそー)」

 同情しながら成り行きを見守るヴィヒマ。一方で、不穏さを感じながらも今ひとつ会話の内容を理解できていないラウランは、小声で彼に尋ねた。

「色コショウって、スパイスの一種? わたしたちがコショウのように小粒な息子だと言ってるの?」

「違うよ。スパイスの胡椒じゃなくて…………」

 ヴィヒマが意味を耳打ちしたとたん、ラウランは真っ赤になって叫んだ。「無礼にも程があるわ、最低!」

「おぅ、驚いた。女の子みてぇな声だな坊や」

 言うほど驚いた様子もなく、男はニタニタと粘着質な視線でラウランに一瞥をくれる。幸いにも男はそれ以上追求しようとはせず、シャマイムに向き直って交渉を再開した。

「なっ? なっ? 牧師さんよ。一人くれぇ貸してくんねぇか?」どうやら男は完全に、二人をシャマイムの“所有物”だと決め込んでいるらしい。「この哀れな子羊にどうか、お慰みをよォ……」その姿は子羊というより、子羊の皮を脱ぎ捨てて正体を現した色魔のようだ。―――いや、流石にこれは言い過ぎか。

「私にそのつもりは全くありません。お引き取りを」「そんな意地張ってねぇで、なぁ、頼むよ牧師さん。こちとら暫くご無沙汰なんでさぁ。男の子でも構わねぇ。むしろ牧師さんの仕込みで慣れた子たちなら、下手な女より大歓迎だぁ。“お布施”は、うーんとはずむよ。なっ?」

 ―――前言撤回。誰が何と言おうと、この男は正真正銘の色魔だ!

 堪えかねたシャマイムの顔から、ついに笑みが消えた。

「お引き取りください」

 けれども。

 鋭いアイシクル・グレイの瞳に射抜かれてなお、男は全く引き下がるそぶりをみせなかった。

「そうかい、牧師さんがその気なら――」

 言葉の端に殺意を匂わせ、懐の短刀をちらつかせる男。一触即発の緊張感に、その場にいた誰もが息を止める。

 最初に動いたのは男でもシャマイムでも、ヴィヒマでもラウランでもなく、一人の美女だった。

「いつまで待たせるおつもりですの、シャマイム様?」

 蒼白いベールの下に妖艶な笑みを浮かべた、異国風の女。雪のように白く透明感のある柔肌と、薄衣から溢れ出しそうなほどに豊かな乳房が目を惹く。それと、鮮血でも塗りつけたかのような紅い唇も。

 いつからそこに潜んでいたのかは分からないが、彼女は暗い木陰からしゃなりしゃなりと歩み出て、シャマイムの顔を仰ぎ見た。

「あら。そんなに怖い顔をなさらないで。せっかくの美貌が台無しですわよ?」女は何かを期待する顔でシャマイムを見上げていたが、彼はいつまで待っても彼女に目もくれず、余所を見つめたままだ。「ご機嫌斜めさんですのね、シャマイム様」

 彼女に何を言われても威圧的な態度を崩さず、向かう男から片時も目を離そうとしないシャマイム。対して男は、艶っぽい訪問客の流し目に気付くなり、態度を一気に軟化させた。

「おぅ。こりゃまたドえらい別嬪さんだぁ。へへっ。牧師さんのお知り合いですかい?」

 ニヤつく男の指の“卑猥な表現”を見て、シャマイムは眉間に皺を寄せる。その嫌悪感も露わな表情に状況を悟った女は、シャマイムにしなだれて話を持ちかけた。

「ねぇ……その人は私に任せて貰えないかしら。このところ貴方様が御褒美を下さらないから私、とても餓えてるの」女は何かの感情に曇った朽葉色の瞳でシャマイムを見つめ、舌なめずりした。「……勿論、貴方様が下さるのが一番なのだけど」

「………………」

 シャマイムと女との間で、視線だけの会話が交わされる。数瞬後、シャマイムが静かに告げた。

「……いいでしょう、好きにしなさい」

「ありがとう、シャマイム様」女は感謝のキスを投げて微笑んだあと、再び男に流し目を送り、誘い掛けた。「ねぇ、色男さん。泥臭いボウヤたちの代わりに、私を貴方の馬に乗せてくださらない?」

 釘付けとなった男が、ゴクリと生唾を飲む。

「いいとも、いいとも。お前さんなら喜んでオレの上に乗せてやるよ!」

 男は近づいてきた彼女の腰に手を回し、もう片方で荒々しく胸を掴んだ。誰が見ていようがお構いなしの性格なのだろう、今の彼の興奮の度合いは見た目にハッキリと顕れている。

 目の前の堕落した光景に、シャマイムはうんざりした様子で小さく溜息をつき、顔を背けた。

 なおも続く男の痴態。

「あらあら、待てない子ね。先に馬に乗せてくれなきゃダメじゃない」

「オレの上じゃイヤかい?」

「ここではボウヤたちの教育上よくないもの。峠向こうの小屋まで私がご案内いたしますわ。そこで邪魔者ぬきの二人っきりで、心ゆくまで、ね?」そして女は、耳元で囁く。「ここではお見せできない秘技もご披露いたしますわ」

「へへっ。そういうことなら、じらされるのも悪くねぇな」

「急いでね。私、はやく満たされたいの……」

 男の興味はもはや完全に、女ひとりに向けられている。背後の会話を聞き流しながら、シャマイムは保護すべき二人の元へと歩み寄った。

「さて、善良な子羊は夕食の支度をする時間です」立ち尽くしているヴィヒマとラウランの肩を軽く叩き、回れ右を促す。「この場は彼女に任せて、私たちは帰りましょう」

「あのお姉さん、大丈夫かな?」

「彼女のことでしたらご心配なく。その道の達人ですから」

 そう覗き込まれてヴィヒマは安心した。目の前にあるのは、よく知る穏やかな顔。いつものシャマイムの、いつもの笑顔だ。

 そんなシャマイムの広い背中に、ふたつの声がかかる。

「またね、シャマイム様。この貸し、忘れちゃイヤよ?」

「へへっ、牧師さんもなかなかやるじゃねぇか。ありがとよ兄弟!」

 懲りない男の声にシャマイムの眉間が狭まったが、それも、すぐ側で子供っぽい争いが始まるまでのことだった。

「こうなったら、どちらが速く歩けるか小屋まで競走よ!」

「望むところだっ!」

 突発的に早足で歩き出した、ラウランとヴィヒマ。何事もなかったかのように元気なのはいいが、暗がりの中で転ばないか心配だ。

「おやおや。二人とも、足下には気を付けてくださいねー」

 背後の蹄の音が遠ざかっていくのを感じて、シャマイムも小屋へと歩き出す。つと、彼は立ち止まり、馬が去った方角に呟いた。

「良い夜を…………」


 刹那に浮かべた絶対零度の微笑を見た者は、誰もいなかった。

 


   ◇ ◇ ◇



 まったく、とんでもない逢魔が時だった。

「よりによって色魔に遇うなんてなー」苦笑したヴィヒマは不満げに、ボソリと付け足す。「……っていうか、坊や坊や連呼して。僕は四月に成人したってのに」

 故郷では長子として大人同然の扱いも多かっただけに、堂々と酒場に出入りできる十八になっての“坊や”呼ばわりは納得がいかない。

 にもかかわらず、隣から予想外の追撃までくらってしまう。

「え? あなた、わたしと同い年だったの!?」

「ラウラン、僕のこと何歳だと思ってた?」

「十五歳くらいかな、と……」

「えーっ!」

 つい抗議の声を上げてしまったものの、ヴィヒマは内心でちらりと余所事を考えた。ラウランは同い年。少しのことではあるが、今は彼女について知ることができて何だか嬉しい。―――嬉しい?

「(年がわかっただけなのに、何で僕は嬉しがってるんだ?)」

 程なくして彼はこの感情をパーソナルな部分を知ったことで生まれた親近感だと結論付け、会話に戻ろうとした。が、シャマイムとラウランの話しに閉口を余儀なくされる。

「ヴィヒマさんは年齢のわりに、子供っぽいところがありますからねぇ。まぁ、今は見た目も少々……ですし」

「そう、どことなく言動がコドモっぽいのよ。一緒にいるシャマイム先生がとても背が高くて素敵な大人の男性だから、余計に目立つの。わたしが間違えても当然だわ」

「こうして一緒に旅をしていると、随分と年の離れた弟ができた気分になりますよ」

「その気持ち、とてもよく分かるわ。話せば話すほど可愛い弟という感じがしてくるもの。出会ったばかりとは思えないというか、ひとりでは放っておけなくなるというか、おこさま系ピヨピヨ?」

「ああ。それでレディ・スワンパーは、ヴィヒマさんのことをチキンと?」

 意外にもラウランは小さく首を振った。

「第一印象は全く違ったのよ。それなのに、何なのかしら。何故か“チキン”という言葉が浮かんでしまって……。あ、でも、意気地なしという意味でのチキンではないのよ。本当に可愛いイメージのピヨピヨなの。ヒヨコとニワトリの中間っていうか…………そう、若鶏のチキン・ピヨピヨ!」

「はっはっは。ある意味において、今の彼ほどチキン・ピヨピヨの呼び名が似合う人間はいませんよ、レディ・スワンパー」

「僕が、ピヨピヨ、だって?」

 ―――まさかこの年で、ピヨピヨ呼ばわりされるとは。

「……いいんだ、別に。馬に気付いた時点で隠れようとしなかった僕が悪いんだから」

 隠しきれないショックを抱えて、ついでに頭も抱えるヴィヒマ。ピヨピヨと言われたことに傷ついたのか、それとも弟のように見られていたことに落ち込んだのかは、自分でもよく分からなかった。

「それよりも、よ。わたしまで坊や呼ばわりされたのには、納得いかないのだけどっ」

「そのム……あ、いや、その格好じゃ仕方がないよラウラン。僕の服だし暗かったし、おさがりを着てる弟っぽく見えたのかも?」

「そうかしら?」ラウランは立ち上がって、ヴィヒマたちの前でくるくると回ってみせる。「弟みたいな感じ、する?」

 ちろちろと揺らめく焚き火が、陰影に富んだ乙女の姿を描き出す。不覚にもヴィヒマは見惚れるあまり、生返事をしてしまった。

「うん。とっても――」


 ―――綺麗だ。


 声にならない讃辞。容姿だけじゃない、内面の美しさや生命力に溢れた魂の輝きそのものを、彼はそこに見いだしていた。

 しかし今は、喉の奥から絞り出してでも讃辞を声にすべきだったようだ。

「とっても弟という感じがするのね」ヴィヒマの言葉をただの同感と受け止めたラウランは、気落ちした様子で上着の裾を弄った。「ほら、物語でたまに見かけるでしょう。乙女が男物の服を着ると、かえって女らしさが引き立つという描写」そして、溜息をひとつ。「残念だけど、今のわたしでは男の子にしか見えないわよね、髪も短いし」

 とはいえ、「少年と見間違えるだなんて見る目がない」くらいのことは言って欲しかったというのが、乙女心の本音だ。

 そしてヴィヒマは、その乙女心に対して超鈍感な男だった。

「うん、男の子みたいだ」

「本気?」

 思わず聞き返してしまったラウラン。だが、彼女の微妙な表情に気付くことなくヴィヒマは大きく頷く。

「本気。今の君は女の子には見えないよ」

「そう…………」

 ワナワナと震えながら頬を膨らませていく彼女に、ヴィヒマは笑顔で付け加えた。

「そもそも、女の子のじゃないし」ラウランの服に目を走らせた後、嬉しそうに立ち上がる。「そうだ、いっそこの方が好都合だよラウラン。これならあの騎士や兵士たちに気付かれずに済むかも!」

「何ですって?」もう少しでヴィヒマに掴みかかりそうになっていたラウランは、騎士と聞いて身を強張らせた。「騎士や兵士?」

 ヴィヒマとシャマイムは、彼女を見つける前の夕方に目撃した騎士たちと、その晩にやってきた兵士たちのことを話した。

「もっとも、兵士たちは“金髪碧眼”の逃亡犯を探していると言ってはいましたが……」

 そこが疑問だった。ラウランの瞳は青に見えなくもないが、髪はお世辞にも金色とは言えない。赤銅の艶を湛えた見事な赤毛だ。

「あなたたちは、その兵士たちが探していた逃亡犯がわたしだと思っているのね?」

 俯いたラウランの横顔を見つめながら、ヴィヒマは遠慮がちに答える。

「うん。外見的特徴は違うけど、状況からして君を捜していたんじゃないかって」

「そう、なのね……」

 一呼吸おき、ラウランは静かにヴィヒマの目を見て言った。

「たぶん、わたしで間違いないわ。海に落ちた時にベールと一緒に無くしてしまったみたい」

 ラウランは自分の赤毛を弄びながら、回想するように少しずつ理由を明かしていく。

「実はわたし、ずっと金髪のカツラを着けて育ったの。女は金髪碧眼色白肌でなければ価値が劣るから、ですって。わたしの瞳は青と呼べなくもないけれど、見ての通り、母の金髪までは受け継がなかったわ。だから、跡継ぎとなる男に生まれなかったのなら、せめて少しでも価値ある容姿の女に仕立て上げろと、父が命じたそうよ」

 ―――子供の頃には、反発したり恨んだりしたこともあったけど。失って初めて気付いた、確信できたことがある。

 じっと聞き入っている二人に、ラウランはさらりと明るく言った。

「勘違いしないでね。父がそうしたのは、わたしの将来を思ってのことよ。そういう愛情の表現もあるの……」

 ―――駄目。今はもう、話せそうにない。

 彼女が亡き父を思うのは、これが限界だった。泣き崩れる弱い姿だけは誰にも見られたくないのだ。今までだって誰にも見せなかった。だから、これからも絶対に見せない!

 平気なフリの堤防が決壊してしまわないうちに、彼女は目を固く閉じ、笑顔のマスクを被りなおした。

「でも、よく連れて歩く気になったわね。こんなにも気持ち悪い姿になってしまったうえ、お尋ね者にまでなっているみたいだし。わたしのこと、怖いとか通報しようとか思わなかったの?」

 ヴィヒマは素直に答えた。

「僕は言ったはずだよ、ラウラン。君が生きていてくれてよかったって」照れ隠しに後頭部を掻きながら、胸中を明かす。「正直、そのタコ足を見たときは驚いたけどね。でも、初めて見たときからずっと、君と一緒にいきたいって僕は思ってるんだ」

 彼女に手を差し伸べているのは、ヴィヒマだけではない。

「同じく。私も貴女という人間に大変興味を持ちまして、勝手に連れてきてしまった次第です」シャマイムもまた、ラウランに微笑みかける。「はい、お待たせしました」手渡したのは、温かいスープの入った木製カップ。「こんな時間ですし、お茶よりもこの方が良いかと思いまして。パンと干し肉もありますから、軽く炙って夕食にしましょう」

 伝わってくる温もりにラウランは、ここに居てもいいのだと悟った。



   ◆ ◆ ◆



 夕食から小一時間後、シャマイムは二人の寝顔を微笑ましく眺めていた。

「(ヴィヒマさんもラウランさんも、ぐっすり眠ってますね。可愛らしい)」

 毛布を掛けてやりながら思い起こすのは、夕食のひととき。

 ラウランは唯一の肉親であった父の死で身寄りが無くなったことを明かし、シャマイムたちに同行させてもらえないかと願い出た。勿論、二人は彼女を歓迎。ことにヴィヒマの喜びようといったら、大はしゃぎする子供そのものだった。

 これからシャマイムの用事でフォーベアーズ地方に立ち寄った後、ヴィヒマの故郷カームパディーに戻って長旅の再支度をし、今度は隣国バタムパインの向こうにある聖都グリズリーヘアーを目指す予定なのだと教えると、ラウランも目を輝かせてはしゃぎだした。

 そしてシャマイムが難解な聖職者の戒律と道徳について半分まで話し終えた頃、彼の思惑通り二人は眠りについたのだ。

「(実に良い寝顔です)」

 シャマイムが食後のハーブティーに一服盛っていただなどとは、夢にも思っていないだろう。尤も、シャマイムが使った睡眠薬よりも、小難しい話が効いてしまった感は否めないが。

「(ヴィヒマさんは肉体的疲労、ラウランさんは精神的疲労が溜まってましたからね)」

 二人にはまだ話していないが、明日からは少々危険を伴う旅となりそうだ。だから今夜は半強制的にでもゆっくり休んでもらおうという、シャマイムなりの気遣いだった。

「………………ふむ」

 馴染みの気配を感じたシャマイムは、そっと外に出て小屋の裏手に回る。そこには、彼の予想通りの人影があった。

「ただいま、シャマイム様」

 井戸の縁に腰掛けた妖艶な女。逢魔が時の、あの女だ。シャマイムが軽く手を挙げて返礼すると、彼女は餌を平らげたばかりの雌猫のような上機嫌さで歩み寄ってきた。

「先程はご馳走サマ。残さず食べてきたわ」と、舌なめずりをひとつ。女はシャマイムの足下に跪き、彼の腰に手を伸ばす。「でもやっぱり私としては、至高のデザートが欲しいの」

「そんなに…………欲しい、ですか?」

 シャマイムは極上の笑みを浮かべ、ついと女の顎を指で持ち上げる。

「はい……」

 目を閉じ、うっとりとした面持ちで唇を開く女。それを見たシャマイムは僧衣の袖から青く硬い果実をひとつ取り出し、彼女の口に押し込んだ。「これでも食べてなさい」

 程なくして、口を閉じた女が奇声を発する。

「にギャッ!?」女は噛み砕かれた青梅のような果実を吐き出し、涙目で見上げた。「シャマイム様、怒ってるの?」

「当たり前です。誰のせいでこの私が女遊びしてるみたいな目で見られたと思っているのですか?」恐ろしいほど美しい笑顔のまま、シャマイムは愚痴をこぼす。「ただでさえ、どこぞの変態長のような少年愛好家とも間違われて機嫌が悪いというのに」

「だけど私、ちゃんと―――」


 その時だ。


「あははははっ! マっジで~ぇ?」女の反論を遮るように、突如として響き渡る陽気な笑い声。「や~ん。そんなオモシロいことがあったんなら、もっと早く来ればよかった~ぁ!」

 振り向くと、夜闇の中から驢馬に乗った少年が現れた。悪戯っぽそうな金の瞳を輝かせた、七歳くらいの男の子だ。

 少年は驢馬の背を降りてシャマイムに駆け寄り、元気いっぱいに挨拶した。

「こんばんわんわん、ショタコン疑惑の牧師さんっ☆」

「黙れ」

「ひっどーい! せっかくヒトが様子見にきてあげたのに~ぃ」

 冷たいシャマイムの態度にブーブー言いながらも、少年は大して気にしている様子もなく、座り込んだままだった涙目の女にも挨拶する。

「こんばんは。キミも災難だね~ぇ。ドンマイちゃんっ☆」ついでにコソッと忠告も。「ボクが言うのもなんだケド、何事も程々に、ね?」

 よしよしと、女の頭を撫でる少年。その小さな背中にシャマイムは問い掛けた。

「もっと早く決められなかったのですか?」

 いきなり切り出された話。だが、少年は躊躇うことなく答える。

「だってぇ。あっちに美味しいモノ、こっちに旨いモノがあるんだも~ん♪」

「まさか、寄り道のしすぎで忘れてたなんてことはありませんよね?」

「ち、ちがうよぉ。ちょっと時間がかかったダケ☆」

「全く、貴方は。時間稼ぎのつもりかどうかは知りませんが、いったい何ヶ月待たされるのかと――」

「ごっめ~ん。耳が急にギョーザ耳になっちゃって、きっこえな~い」

「…………………」

 よく見ると少年は器用にも耳を裏返しに閉じ、完全に耳穴を塞いでしまっている。小さな“餃子”を前に、シャマイムは小言を続ける気力も無くしてしまった。

「と・に・か・く。ご希望通り、サンプル選出は完了~☆」耳を解放した少年はシャマイムを見上げて指を一本突き出し、にぱっと笑う。「ボクらは三つの災厄をもって試す。とりあえず、一つ目は文句なしの合格だよね?」

 勝ち誇ったような眩しい視線に晒され、シャマイムは渋々、首を縦に振った。

「……認めましょう。極めて理不尽な状況下にあっても、生命を放棄しなかったのですから」

「いかなる姿になれど人の理性を失わず、自らが“生かされている”存在であることを忘れず、生命いのちそのものを尊び愛でる♪」

 少年は愛おしげに周囲の木々と草花と地面とを見渡し、最後に小さな笑みを浮かべて小屋を見た。まるで、眠る二人を見透かしているかのような瞳。シャマイムは彼の視線の先を同じように見つめ、余裕の表情で呟いた。

「ふっ。テストはこれからが本番ですよ」

「んっふふ~♪」返事代わりの短い鼻歌の後。つと、少年の目がシャマイムの瞳を射抜く。「ところでさぁ。さっきは何であんなコト許可したの?」

 彼が何を非難しているのか、シャマイムにはよく分かっていた。彼が何故“あんなコト”を非難するのかも。

 ただ、彼が言う“あんなコト”は、シャマイムにとって確信犯であり、正義だった。

「当然のことをしたまでです」

「まぁ、キミにとってはそうなんだろうケド~ぉ」

 しょうがないヤツと言わんばかりに苦笑する少年。その僅かな怒りと哀しみとが織り混ざった眼光を見下ろしながら、シャマイムは思う。彼は相変わらず―――

「甘過ぎる」今こうしている間にも腐敗は進んでいるのだ。失敗作というべき愚かな生物どもによって。「一枚の虫食い葉のために、いつまでも木が苦しむ必要はありません。他の善良な葉をも脅かすそんな腐れ葉、さっさと摘んで灰にしてしまえばいい」

「う~ん。ボクが甘過ぎるのかなぁ」

「ええ。甘党の貴方は心身共に、どこを食べても完熟の甘さかと」

「わぁお! 完熟ってボク、凄くない?」

「凄く無い」

 きっぱりと言い放ったシャマイムによってもたらされた沈黙の時。今宵の森はあまりに静かすぎて、刹那、見下ろす視線と見上げる視線との衝突音がしたような錯覚を引き起こす。

 どこかの水面で生まれた風が二人の間を通り過ぎていった後、少年は宙に手を伸ばして話し始めた。

「でもね。その虫食い葉が全部、腐ってるとは限らないデショ?」伸ばした手の指にしがみついてきた、一匹の昆虫。「欠点はあっても正しい在り方に導けば、再生もするし美味しいお茶にだってなると思うんだ」チョコレート色の細い指を、若草色の浮塵子ウンカが上っていく。「確かにボクは甘党だケド、無糖の烏龍茶も好きデスヨ?」

 最高級の烏龍茶の味と芳香は、この小さな小さな浮塵子の一咬みが無ければ生まれないのだ。

「ま、そーゆーことでっ☆」シャマイムの反論を許さず、身を翻す少年。「そうそう。この先は戦場も近いし、なんか超~ヤバヤバ地帯と化しそうな雰囲気ぷんぷんしてるカラ。どっかの“牧師さん”の手を煩わせないように、可愛い子を呼んできてあげるよ」

「それはどうも。華なら歓迎しますよ」

「んじゃ、一眠りしてから呼びに行ってくるね。おやすみ~ぃ☆」

「お休み」

 少年が驢馬に乗って去ると、辺りは一気に暖かさを失い、夜の冷気が蔓延りだす。いつの間にか女は姿を消し、シャマイムの愛馬ノアだけが白い息を吐いていた。

「明日から騒がしくなりますよ、ノア。次の村まで頑張ったら御褒美をあげましょう」

 シャマイムが鬣を撫でると、ノアは嬉しそうに尾を揺らした。



   ◇ ◇ ◇



 ラウランが目覚めたとき、シャマイムの姿は見あたらなかった。ヴィヒマだけが小屋の隅で静かに眠っている。彼の傍らの壁には見慣れない木製の器具が一対、立て掛けてあった。

「(シャマイム先生は、おトイレかしら)」

 しばらく待ってみたが帰ってくる気配はない。退屈したラウランは、ヴィヒマから借りた本――混沌歴代史略ケイオス・クロニクルズ――を読むことにした。

 赤い革表紙を開いて最初に目に飛び込んできたのは、質素な紙に草の汁か何かで殴り書きされた“SELCINORHC SOAHC”という文字列だった。一見、子どもの落書きのように思えたそれは、よく見れば先頭のSの前にピリオド記号があり、右にいくほど筆跡が濃くなっている。どうやらこの横書きの文字列は通常の筆記法とは逆の、右から左へと殴り書きされたもので、その書かれた順の通りに読めばよいようだ。

 改めて読み直してみるとそれは、単なるこの本の表題だった。

「(まさか本文まで逆さ書きじゃないでしょうね?)」

 そっと頁をめくるラウラン。幸いなことに次頁からは、普段どおりの表記方で読みやすい文章が連なっていた。黒インクで綴られた、おそらくは全編にわたって手書きの本。流行りの印刷本にはない温かさに、ラウランは思わずうっとりと頁を撫でる。

 だが、その頁の内容は温かくも生暖かくもなく、背筋が凍るようなものだった。

「(いきなり強烈なエピソードね……)」

 第一章は、主人公レパードの部族が受け継ぐ凄惨な呪いの話で始まっている。血を引く赤子は必ず男の子であり、臨月になると自らの身体から生じた剣で母体を切り裂き産まれてくるというのだ。

 生まれながらの剣士である彼の部族は、戦乱の世にあって十二部族中最強の剣闘傭兵集団として恐れられ、レパードもまた例外ではなかった。母の愛を知らず、物心ついた頃から祖父の手で剣士として厳しく鍛えられ、祖父亡き後は父親に戦場を連れ回されて育った彼。至極当たり前のごとく機械的に敵を処理していく生活が続く中で、父親と剣が彼の関心事の全てであり、誇りであり、心の拠り所だった。

 やがてその父親の戦死により、まだ少年だったレパードの心は一気に崩壊する。

 それまでの彼の参戦理由は正義の為でも報酬の為でも、まして平和の為でもなく、“父親に褒めてもらいたい”その一心だった。喪失感に苛まれる彼の中で、次第に“戦う”行為そのものが唯一の快楽と化していく。保護者のない捨て駒から、一人前の戦力へ――。十歳にも満たない少年が殺人兵器のように扱われ、その少年自身も歪んだ心で死闘を愉しんでいく様が、筆者の感情を一切挿むことなく議事録のように淡々と記されていた。

 一族全員の感情から愛が欠落している、このことこそが呪いだったのである。

「ああ、神様……。酷すぎて夢に出てきそうよ」

 こんな本を女の子に勧めるだなんて。ラウランはヴィヒマの神経を疑い、思わず彼の方を見た。

 そして、ふと気付く。

 この青年は、なんて儚そうに見えるのだろう。あれほどまでに自信と生命力に溢れ、悩み事なんかとは全く無縁そうに思えた彼が――今は雛鳥のように小さく丸まって眠っているなんて。

「そういえばわたし、あなたのことまだ殆ど知らないわ」

 知っているのは名前と年齢、出身地と好きな食べ物、それと脚が悪いらしいということくらい。いつの間にかずっと昔から一緒に旅をしてきた気分になっていたが、出会ってまだ二日程度だ。不思議な彼。

「あなたは何者なの?」

 丸まって眠ってるくせに、意外と穏やかな寝顔。長い睫毛。初めて目があったときの、あの海の中で見た太陽のように強く輝く瞳は瞼の向こうに隠れたままで―――そのせいで夜が続いてるのではと、そんなことを思ってしまう。

「ヴィヒマ…………」

 彼の寝顔を観察しているうちに、ラウランは眠り込んでしまった。

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