森の道
◇ ◇ ◇
「ああ、そんな……」
目覚めたラウランは全く見覚えのない空間を見渡したあと、自分が男物の――サイズ的に恐らくヴィヒマのものと思われる――服に着替えらされていることに気付き、うめき声をあげた。
「だ、誰が……わたしの服……を!?」
「安心して。神に誓って僕じゃない」
ヴィヒマは戸の前で宣誓のポーズをとり、陽気な声で続けた。
「着替えはシャマイム先生だよ。腐っても牧師だし医者だから、君の名誉を傷つける真似なんて絶対にありえない。だから、安心して」
「安心して……って、シャマイム先生も男の人じゃない!」
「そりゃ確かに男だけど……お医者様になら別に、見られても平気だろ?」
「平気なわけないでしょう!?」ラウランは頭をかかえ、再びうめいた。「わたし嫁入り前なのに……もう…………」
その今にも消え入りそうな嘆声に、ヴィヒマは思わず聞き返す。
「あれ? 結婚したんじゃなかったの?」
「あの婚礼の儀のことなら無効の筈よ、誓いを完結させなかったもの」
「そっかぁ……」
知らず零れた、小さな吐息。
「……やけに嬉しそうね」
「別に?」何故そんな風に思われてしまったのだろうかと不思議に思いつつ、ヴィヒマは釈明らしきものを口にした。「他人の不幸を喜んでるわけじゃないさ」……次いで、自分が思い当たった理由も。「きっと、僕がいま食べてた物のせいだな。うん」
ヴィヒマは一人で納得して包みをバスケットに仕舞い、布戸をポフポフポフと叩いた。
「ここ開けてもいい?」
「どうぞ」
新鮮な風がラウランの頬を撫でる。布戸を上に巻き留めながら、ヴィヒマは彼女をちらりと見て微笑んだ。
「改めまして……おはよう、ラウラン。気分はどう?」
「…………最悪よ」
「だろうね。ひどい顔だ」
アザは腫れがひいたかわりに黒さが増しており、見るからに痛々しい。両目の下には疲れの証が色濃く現れ、ふっくらとした下唇には生々しい赤を湛えた切り傷も見て取れた。
「正直にありがとう」ラウランは軽く微笑み返し、痛む左頬のアザにそっと触れた。「聖書を投げつけられた時点で覚悟はしてたのだけど、けっこう痛むものね。鏡を見るのが怖いわ」
「傷の状態は見た目ほど酷くはないってシャマイム先生が言ってたよ。少し時間かかるかもしれないけど、どれも痕は残らないだろうって」
ヴィヒマはラウランの唇の傷から目を離し、ゆっくりと目線を下げていった。が、だぼだぼ服の上からでは傷の状態を推し量れないことに気付き、素直に尋ねてみることにした。
「他に痛むところはある?」
「……全身よ」大きく伸びをしながら、ラウランは苦笑する。「傷は手当てしていただいたお陰様で平気だけど、筋肉痛がひどくて……」
「無理もないよ。君は独りで一晩中、頑張り続けてきたんだ」
「違うわ。わたしはただ嘆くばかりで何もできな――」
「あ。そうだラウラン、喉渇いてない?」
無礼を承知で、ヴィヒマは彼女の言葉を強引に遮った。今は嘆き悲しむ暇を与えたくない。
「今日は少し暑いからなー」「ちょっと前に沢で汲んでおいた水があるんだ」「ぬるくなってたらゴメン」「シャマイム先生が戻ってきたら、筋肉痛に効く薬湯がないか聞いてみるよ」……と、たたみ掛けるように話し続けた彼は最後に、水の入ったカップをラウランに差し出した。「今は僕たちを信用して、ゆっくり休むことだけを考えて」
「………………」
たっぷりと二呼吸以上おいてから。
彼のもくろみ通り、ラウランは大人しくカップを受け取った。
「……ありがとう」
彼女の顔には自然な笑みが浮かんでいる。もう大丈夫そうだ。
「それじゃ僕は車輪の点検をしてるから、何かあったら呼んでよ」
「車輪……?」
ここでようやく、ラウランは自分が寝ていた場所がどこなのか気付いたらしい。
停車中の馬車の中。それも、小さな荷馬車の幌の中だ。彼女は木枠と荷物に囲まれた柔らかい毛布の上に寝かされていた。
「その車輪が悪くて止まっているの?」
荷台から身を乗り出し、興味深そうにヴィヒマの手元を見つめるラウラン。木漏れ日に照らされた赤銅色の髪のあちこちで、ルビーや金彩めいた輝きがはじけている。
「ううん。今のところは大丈夫そうだ」顔をあげたヴィヒマは眩しげに目を細め、道の方を指さした。「この辺りは道が悪いから、今のうちに見ておこうかと思って」
鬱蒼とまではいかないが、そこそこ繁った木立のなかをはしる、一本の凸凹道。その脇の小さな空き地に馬車は止まっていた。
「ここは……森の中、なのね?」
「うん。これからそこの低い峠を抜けて、温泉のある村に行くところなんだ」
「温泉にいくの!?」
ラウランはすぐにでも温泉に入りたそうな顔だったが、残念ながら道のりは遠い。
「三日はかかるけどね」
「三日も……」
がっくりと肩を落とす彼女を見て、なにか気を紛らわせてあげられないかと考え、ヴィヒマは思いつく。
「そうだ。ラウランは物語本は好き?」
「ええ、大好きよ?」
「ただ待ってるだけじゃ退屈だろ? よかったら貸すよ」
ヴィヒマが荷物袋の一つから分厚い本を取り出すと、ラウランは驚いた顔をした。
「あなた、字が読めるの!?」
彼女が知る使用人や小作人たちは、ごく簡単簡潔な手紙のやりとりが可能な者すら限られている。まして長編の物語本を読む者など、このところは貴族の中にさえ少なくなってきている程だ。
ただ、これはあくまでラウランが居るウェルスパディー地方での話であって。ヴィヒマの故郷カームパディー地方の牧童たちは親兄弟から読み書きを習い、放牧のために野外で暮らす時間の一部を読書で過ごすのが至極あたりまえのことだった。
「失礼だなぁ。平民にだって読める奴は多いよ。ちなみにいま僕が持っているのは“混沌歴代史略”って物語。シャマイム先生にもらったんだ」
「初めて聞く本だわ……」
「主人公レパードは傭兵剣士としては優秀でも、人間としてはとんでもなく欠点だらけの青年でね。まったく、無茶苦茶なんだよ。とにかく血の気の多いヤツで、闘いに陶酔して敵味方関係なく斬り回ったり、売られた喧嘩は全て剣闘で買う剣狂いだったり、困った性癖の持ち主だったり……」
「まぁ!」
「……で。この物語はそんな主人公が似た者同士の友を得て、彼らと一緒に様々な人々との交流や失敗などの経験を重ねて成長し、人間味を帯びてくるって冒険譚なんだ。あとは読んでのお楽しみ」
ヴィヒマが赤い表装のその本を手渡すと、ラウランは両手で大事そうに抱えて紙の香りを味わった。どうやら彼女は、本当に本好きらしい。
「ありがとう。退屈したときに読ませてもらうわね」
「今は退屈してない?」
「ええ。話し相手が目の前にいるもの。……お邪魔かしら?」
本を抱えたまま小首を傾げるラウラン。
目があった瞬間、ヴィヒマはどう答えてよいのかわからなくなってしまった。
「…………」
沈黙。
なかなか言葉が出てこない彼は、内心、この沈黙が“邪魔だ”という意味にとられないか冷や冷やしていた。そのせいか、ますます頭が回らない。
どう答えようかと彼が悩んでいると、ふと、思い出したように彼女が尋ねてきた。
「そうだわ、聞きたいことがあるのだけど……」
「なんだい?」
「わたしが着ていたドレスはどちらに?」
「ああ、それなら」ヴィヒマはペースを取り戻し、さらりと陽気に答える。「ゴメン。なんか汚れとか酷いことになってたから、勝手に処分させてもらっちゃった。大切なものだった?」
―――大切でない花嫁衣装など、あるのだろうか?
「いいのよ」愉快げに笑いながらラウランは告げた。「ありがとう、清々したわ!」晴れやかな笑顔。「素敵なお針子さんたちには本当に申し訳ないのだけれど。あの男のドレスを着るくらいなら、このボロ服の方が百倍マシよ」
「あはは……」申し訳なさそうに頭を掻くヴィヒマ。一応、自分の手持ちの中で唯一シミもパッチも全く無い一張羅を選んだつもりだったのだが。
彼の気持ちを余所に、ラウランの激白は続く。
「実はね……。わたし、結婚するつもりなんて毛頭なかったの」怒っているときの癖なのだろうか。ラウランの唇が尖っている。「騙されて呼び出されたのよ、頭きちゃう!」
そして彼女は、こう断言した。
「あんな古狸と結婚するくらいなら、迷わずそこらのニワトリを選ぶわ!」
「……ニワトリを?」
「ええ、ニワトリを」ラウランは目を輝かせ、大きく頷いた。「わたし、鶏肉料理が大好物なの。特に鶏のモモ焼き。あれは最高だわ!」
ただの例えだろうとは思うが、希望する結婚相手として好きな食べ物の名前を挙げるのは如何なものかと、ヴィヒマは少しドキドキしながら聞いていた。ことに、その例えがニワトリとあっては。
「奇遇だね。僕も鶏肉は好きなんだ」話しながら、もしかしたらラウランはお腹が空いているのかもしれないと思い、先程バスケットに仕舞った包みを取り出した。「最近はこれも大好きだけど……食べてみる?」
包みを開くと同時に、香ばしいスパイスと少しのフルーティーさを感じさせるソースの香りがひろがる。それと、ほんのちょっぴり磯の香りも。
そこには彼にとってすっかり馴染みとなった、一口サイズの球体たちが並んでいた。
「いい匂い……」初めて見るのか、ラウランは不思議そうに球体たちを見つめている。「これ、なぁに?」
「いま港町で流行りの“タコ焼き”っていう食べ物なんだ。最近よその大陸から伝わってきたんだって」
「タコ……焼き…………?」
「小麦粉の生地に、紅く染めた酢漬けショウガとプリップリのタコの足が入ってるんだ。外は香ばしくて、中はホンワカな感じ。上にかかってるのは野菜と果物と香辛料で作ったソースに、鰹節と青のりだよ。本当は出来たてが一番なんだけど、冷めたら冷めたでまた美味しいんだ。この味と食感が病みつきになっちゃって!」
ついつい熱く語ってしまったヴィヒマだが、大切なことを忘れているようだ。
「え、えーと……」当然の如くラウランは戸惑いの色を浮かべ、後退りはじめた。「まさか……まさかまさかまさか…………あなた、わたしの足をっ!?」
「……え?」そこでようやく、ヴィヒマは自分の失言に気付く。「ご、ゴメン! 誤解だよラウラン、これは今朝一番に漁師さんが獲ってきたヤツで―――」
慌てる彼を無視して、ラウランは恐る恐る自分の足を確かめた。一、二、三……。ちゃんと足は七本揃っている。八本目の足先がなくなっているのは昨日からのことだ。
「(昨日……)」
ラウランは足を失った時のことを思い出して表情を崩し掛けた。が、それはまたもやヴィヒマによって強制中断させられることとなる。
「それにしても君の足って、見事なまでに旨そうなタコ足だよなー」完全に見入っている眼差し。ヴィヒマはズボンの裾から出ている彼女のタコ足に顔を近づけ、呟いた。「ほら、この吸盤とか特に」
「な…………っ!?」彼の吐息を感じて、ラウランは足を引っ込める。「冗談でしょう?」
「僕が半分マジだったらどうする?」
「カニバリズム反対っ!!」
“カニバリズム”―――つまり、人食い。
その言葉にヴィヒマは、にやりとして言い返した。
「あれぇ? 確かラウラン、自分はデビルフィッシュなんとかっていう化け物だって名乗ってなかったっけ。僕の記憶違いかな?」
「蛸乙女。いくら足がタコだからといっても、上は人間の女の子なのよ。食べるなんてとんでもないわ!」
「でも一応は本物のタコ足なんだから、足だけならカニバリズムにはならないと思うんだけど?」
「んもうっ!」ラウランは顔を赤らめ、そっぽを向いた。「とにかく、ふざけるのはやめてよねチキン!」
また、彼女の口が尖っている。
その横顔に少しの罪悪感を覚え、ヴィヒマは心の中でゴメンと謝った。
「……で、どうする?」ヴィヒマは球体のひとつに新しいピックを刺し、再度ラウランに差し出す。「タコ焼き、食べてみる?」
それとほぼ同時に、ぐぅぅ……という音が鳴り響いた。――ヴィヒマの腹の音、ではない。
「…………いただくわ」
「ん♪」
ヴィヒマが見守る中、ラウランはそろそろと手を伸ばし、タコ焼きをひとつ取った。とてもいい匂いがするものの、味は全く想像もつかない未知の球体。彼女は少しの間それを見つめていたが、ヴィヒマの視線に気付くと、意を決したように頬張った。
もぐもぐと口を動かし続けるラウラン。彼女の口には少し大きかったらしく、上唇の端にソースと青のりが付いている。艶の増した唇をヴィヒマが眺めていると、ラウランはそこをペロリと舐めて感嘆を洩らした。
「おいしい……!」
「だろぉ?」喜びに満ちあふれた彼女の表情に、ヴィヒマも嬉しくなって笑みをこぼす。「よかったら全部たべて」
「え?……いいの?」
「遠慮なく」
「ありがとう! わたし、お腹がペコペコだったの」
古くから、笑いと美味しいものは憂いを払うと云われている。たとえそれが一時的な効果であっても――根本的問題は何一つ変わらなかったとしても――心に栄養と休息を与える時間は大切だと、少なくともヴィヒマはそう思っている。特に、抱えるものが非日常的で複雑怪奇な難問や哀しみのときには。
「わたしの顔、何か付いてる?」
「ん?」
「さきほどからずっとわたしの顔を見てるから、どうしたのかと思って」
「いやぁ……本当に嬉しそうに食べてるなーって、思ってさ」
「こんなに美味しいのだもの、当然よ!」
今朝と違って、今のラウランの笑顔には悩みの欠片も見あたらない。
―――束の間の安息だけど。
この笑顔が見られるなら、僕は喜んでラウランの助けになろう。ヴィヒマはそう決意した……。
「おやおや、賑やかな声がしてると思ったら……」
規則正しい蹄の音と共に近づいてきた、その声。
「おかえり、シャマイム先生!」
ヴィヒマが振り返って手を挙げると、馬上のシャマイムも手を挙げて応えた。
「ただいま。お待たせしました」
シャマイムはノアから降り、ラウランにも声を掛ける。
「こんにちは、レディ・スワンパー。今日も貴女に平安がありますように。……ご気分は如何ですか?」
「こんにちは、シャマイム先生。お陰様でこの通り」ラウランは花のように微笑み、丁寧なお辞儀で感謝を表した。「治療していただきありがとうございます」
「医者として当然のことをしたまでです。なんとか貴女を助けてくれと、ヴィヒマさんに泣き付かれましてねぇ」
「ちょ……っ!?」いきなりの発言に、ヴィヒマは慌てて訂正を求める。「シャマイム先生、牧師のくせに嘘つくなよー!!」
「はいはい、照れない照れない」
その真偽は有耶無耶にしたままで。シャマイムはヴィヒマを押さえ込み、ラウランとの会話を続けた。
「何はともあれ、貴女の回復が予想以上に早くて安心しました。幸い、骨折などの重傷は見受けられませんでしたが、足のこともありますので、念のため大事を取り今日明日は安静を強くお奨めします」
「ありがとうございます」再びお辞儀をして、ふと思い出したかのようにラウランは口を開く。「あの……ですが、わたし……」
「診療報酬についてでしたら、ご心配なく。失礼ながら勝手に貴女を治療の練習台にさせていただいたため、こちらが謝らなければならないところです」
「そんな……謝るなんて仰らないでください、シャマイム先生!」ラウランは、頭を下げようとしたシャマイムを慌てて制止した。「わたしこそ、これほどお世話になっているのに何も……!」
「……では、お互い様ということで帳消しにしましょう」
「えっ?」
「帳消し、です」
シャマイムは微笑み、素早く会話を切り上げた。
「さて、と。そろそろ先を急がなければなりませんので、お話はまた後ほど。しばらくまた揺れの酷い道が続きますが、どうぞご辛抱ください、レディ・スワンパー」
優雅な一礼後、彼はヴィヒマの方に向き直る。
「標を立てるときには誰もいませんでしたが、今もいないとは限りません。急ぎましょうヴィヒマさん」
「おっけー。すぐ準備するよ」
ヴィヒマが馬具を手に取ると、シャマイムの愛馬ノアは黙って定位置についた。まるで“さっさと荷台につないでくれ”とでも言わんばかりだ。協力的な彼のお陰で、二人が手分けして留め終わるのにそう時間は掛からなかった。
「ノア。帰ってきたばかりで悪いけど、もうひと頑張りヨロシクな!」
「頼りにしてますよ、ノア」
鬣を撫でながらの呼び掛けに、ノアは相変わらずの澄まし顔で一往復だけ尻尾を揺らし、合図を求めるように主の方へと首をめぐらせる。シャマイムが手綱を手に頷くと、ノアは峠道の方へと歩き始めた。出発だ。
「シャマイム先生、ここの坂は急な感じだった?」
「ええ。そこのカーブの先あたりから中腹までは、少し」
「じゃあ、僕が補助にまわるよ。どうせ後ろから来る人もいないだろうし」
「少しの間だけですよ。あまり無茶はしないでくださいね、ヴィヒマさん」
「はーい!」
許可を得たヴィヒマは意気揚々、荷馬車の後ろに回り込んだ。
「乗り心地はどう? 体は痛くない?」とラウランに尋ねてすぐ、自分の軽率さを呪う。「……っと、あんなところにタコ焼き型の雲発見!」
どう考えても明らかに不自然な余所見だが、今の彼女を直視する訳にはいかない。
―――そういえば、暑くないように開けっ放しにしたのは僕じゃないか!
ノアを助けるために馬車の荷台を押しながら、ヴィヒマは雲ひとつない青空を見上げ続けた。火照った顔に当たる涼風が心地よい。
一方で。戸口に足を投げ出してすっかりリラックスモードに入っていたラウランは、突然視界に入ってきた彼に、慌てて姿勢を正す羽目になっていた。まさか誰かがこちらに回ってくるとなど、思ってもいなかったのだ。
「だ、大丈夫よ」ラウランは出火寸前の頬を押さえ、上目がちに答える。「快適とは言えないけれど、これはこれで楽しいわ」――はっきり言って今は、穴があったら逃げ込んで蓋をしたい気分だった。
「そ、それならよかった」
「………………」
「………………」
気まずい空気。蹄と車輪の音に混じって、シャマイムの忍び笑いが聞こえる。
「(まいったなぁ……)」
ヴィヒマは新鮮な空気を求めて、青空を思いっきり吸い込んだ。それから素早く真下を向き、あとはひたすら荷台を押すことだけに集中する。背中に汗が滲む頃には、先程の気まずさなど忘れ去っていた。
「……マさん。…………ヴィヒマさん?」
「え? は、はいっ!」
ふいに名前を呼ばれ、ヴィヒマは背筋を伸ばして立ち止まる。いつの間にか峠道は下りに向いており、荷馬車も停まっていた。下を向きっぱなしだった首は、ガチガチだ。
「痛、いたた……」
やっとの思いで顔を上げて荷馬車の前方を覗くと、シャマイムが心配そうにこちらを振り返っていた。
「ヴィヒマさん、大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫。……ゴメン、ちょっと考え事をしてたものだから……あはは」
どうやら下り坂にさしかかって暫く経つらしい。シャマイムの向こう側に見える麓まで、さほど時間は掛からなさそうに思えた。
「急に停めて申し訳ない。思ったより速度が出てしまったので……。レディ・スワンパーはご無事ですか?」
「ラウラン?」
声を掛けてみたが、返事はない。
それもその筈、そっと荷台の中を覗いてみると、彼女は眠っていた。少し丸くなって、あどけない顔で――熟睡だ。
「シャマイム先生、ラウランは眠ってるよ」
「おや。お休みでしたか」ヴィヒマの控えめな声にあわせて、シャマイムも小声で話す。「あと少しで規制区域も終わりですから、抜けて最初の川辺で休憩にしましょう」
その提案にヴィヒマが無言で頷くと、シャマイムは無言で頷き返し、次いで荷台の後方を指さした。意を察したヴィヒマが確認のために自分と荷台とを交互に指さすと、シャマイムは再び頷き、“どうぞ”と勧める仕草を見せる。どうやら、そろそろ歩くのを止めて荷台に座るようにということで、間違いなさそうだ。
「(ありがとう、シャマイム先生!)」
ヴィヒマは静かに口の動きだけで感謝を伝え、荷台の縁に腰掛けた。程なくして、蹄の音と共に車輪が動き出す。
荷馬車は揺れを最小限に抑えるかのように、峠道をゆっくりゆっくり下っていった。