姫君は、惑う
誰だ、黄昏れを“逢魔が時”なんて気障な呼び方した奴は。
まったく、その通りじゃないか!
―――ヴィヒマ・バハベルテッドロードの手記より
彼女は悪い夢の直中にあった。
たった半日で後ろ盾を全て失い、仇の手に戦利品のごとく引き渡され、自由と引き換えに姿は変わり果てた。
人生を略奪される恐怖と、友好的だった人々から怒りや怖れや蔑みの目で射抜かれる痛み。信じられない高さを落ちていく恐怖と、海面に叩きつけられる痛み。暗い水の深みに沈んでいく恐怖と、得体の知れない何かに身を削られる痛み、痛み、痛み……。
だが、この“ありふれない半日”に体験した恐怖も痛みも、今の彼女にとっては些細なことだった。唯一の肉親である父の死を知った悲痛に比べれば。
父や家臣の口癖通り、息子に生まれていればどれだけ良かったことかと彼女は思った。仇を討ち、皆の期待通りに父の意志と小さな砦とを継いで、一族が愛してきた小さな領土と領民を守りながら、ありふれた平穏な日々を過ごせただろうに、と。
いや、それどころか騎士として父を護り通せたかもしれない!
深淵なる重苦しい闇の底を、彼女は手探りで彷徨った。地形の起伏や障害物にも構うことなく、ただひたすら這うように歩き続ける。
海の水と涙に境界線はなく、泣けども泣けども、涙に溺れることはなかった。
やがて行き着いた岩壁の窪みに身を預け、天を仰ぐ。ここから上へと抜け出せば、この悪夢も終わるだろうか?――否。悪夢から逃れた先は、新たな悪夢の始まりかもしれない。そう思うと、足がすくんだ。
「………………?」
突然、覚めない悪夢のなかに誰かの右手が伸びてくる。やさしく手招きながらも強引な手……。
―――そして彼女は、光あふれる世界へと引き上げられた。